02 前世の記憶
澄んだ青空を背景に、ぱたぱたと風にたなびく衣裳は水面下で揺蕩う錦鯉のように美しい。揺らめく度に柔らかな洗剤の香りが周囲に広まる中、綺宵はうずくまり顔を覆った。
(……また、やってしまった)
指の隙間からは後悔が吐息となってこぼれ落ちる。
(無理だ。綺宵くんには悪いが、やはり僕には演じることはできない)
馬鹿にされるかも知れないが綺宵には前世の記憶がある。
それは二十年以上前に実在した、この国の皇太子——蒼詠の記憶だ。今代彩王の異母兄弟に当たる彼は身体が弱いため、ほとんど政から遠ざかっており、二十一歳の年に権力争いに巻き込まれて、その命を散らした。
そして、なんの因果か長い年月を経て、綺宵という少年に転生してしまった。
(どう頑張ってもぼろがでてしまう……)
幼くして去勢を施された綺宵は十六歳を迎えても声は高く澄んでおり、女性と見紛う美しい顔の持ち主だった。淑やかな仕草が似合いそうな容姿をしているのに、一人称は〝俺〟で、荒々しい気質の持ち主だったようだ。
高熱を出したのがきっかけで蒼詠としての記憶が蘇った綺宵は、前までの粗野で浅学が嘘のように成りを秘めて、物腰は柔らかく、読み書きができなかったのにできるようになった。そのことから周囲は事あるごとに心配の目を向けてきた。
(思えば、熱を出したのも木に登って落ちた衝撃からだというし……。どう頑張っても僕には真似できない)
もう二週間も前になるだろうか。誰がいち早く木のてっぺんまで登れるかと宦官仲間と勝負をした綺宵は、負けたのを悔しがった拍子に枝から足を滑らせて、頭から落ちてしまったらしい。
(きっと、綺宵くんはあの時、死んでしまったのだろう)
あの高さから落ちて命があることに周囲は驚いていた。
そして、心配の目を向けつつも綺宵の性格が変わったのは、あの高さから落ちた衝撃だとみんな納得した。
実際の高さは分からないが、周囲がそう言うほどの高さなら綺宵は死んで、その空になった肉体に蒼詠の魂が入り込んだとして不自然ではない。
(やんちゃな子供のふりをするのって難しいな)
綺宵が悩んでいると背後から足音が聞こえた。
「綺宵、少しいいですか?」
振り返ると芳玉と、その背後には中年にさしかかった男——後宮にいることからおそらく宦官——が立っていた。
「はい。干すのは全部終わりました。次はなにをすればいいのでしょうか」
ちらり、と空になった盥と干してある衣裳を見て、芳玉は顎をひく。
「さすがです。前のあなたとは見違えるように早くなりましたね」
「え、あはは。まあ、はい」
綺宵は頬を掻く。こういう時、どう反応を返したらいいのか分からない。
「次の仕事は夜警です」
えっ、と綺宵は声を出した。夜警は宦官の中でも体躯に優れた者が務める仕事である。間違っても綺宵のようなひょろい者は選ばれない。
なぜ、と伺う目を向けると芳玉は背後にいる男に一瞥を投げた。
「こちらの方は少監を務めている林子昂どのです。ご挨拶なさい」
少監とは宦官の最高職である内侍監の補佐を務める者を指す。雑宦として尚服に携わる綺宵にとって、直接会話することもできない上司である。
「大変な無礼を働きました。どうかお許しくださいませ」
綺宵は急いで両手を組み、膝をつき、深く頭を下げた。こういう場では目上の者が許可しない限り、頭をあげる行為も、言葉を重ねてる行為もいけない。静かに林少監の許可を待った。
「顔をあげなさい」
少ししてから林少監から許可が降りた。綺宵は面を持ち上げた。膝は床につき、手はまだ拱手の形のままにする。それを見た林少監は軽く目を見開いた。
「ほう、雑宦でも基礎がしっかりしている者がいるとはな」
「綺宵は真面目で、読み書きもできます。林少監が求める人材といえましょう」
「……身体は棒のように貧相だが、なにぶん人手が足りないからな」
林少監は深く息をつく。
「本来ならは雑宦になど頼まぬのだが。流行り病に倒れるとはなんとも情けない」
数日前から後宮では季節外れの風邪が蔓延していた。栄養のある食べ物を食し、清潔な宮で生活する妃嬪と比べて、質素な食べ物しか与えられず、また数人で一つの房での雑魚寝が基本な宮女や宦官は病に罹りやすい。
そのため、夜警を行える者の人数が足りず、綺宵のような戦力にもならないひょろがりでもいないよりはマシらしい。
「綺宵、これは光栄あるお仕事です。なんといえども、あなたが今宵、守るべきお方は寧徳妃さまですから」
その名前に綺宵は内心で眉を顰める。現在、徳妃に据えられている寧玲琳はたおやかな見た目からは想像ができないほど、気性が荒く癇癪持ちで有名だ。ほんの些細なことでさえ、一度へそを曲げれば死んでもおかしくはないような体罰を平気で与える。そんな人の夜警を務めるだなんて、本心で言えば真っ平ごめんである。
(でも、宦官が断ると罰を受けるんだよな)
誰からもちやほやされる皇太子時代と比べて、今は後ろ盾もない下級宦官。進むも地獄退くも地獄とはまさにこのことである。
悩んだ末に綺宵はその命令に大人しく従うことにした。優秀な結果は残せなくていい。というより、残したくはない。権力争いに巻き込まれない今の立ち位置を維持するために、当たり障りのない結果を残すほうが利点が大きいと判断した。
「身に余る光栄に存じます。林少監さまの御心に添えますよう、微力ながら尽力いたします」
教本のような言葉遣いで、これまた教本のように頭を下げる綺宵を、林少監は奇妙な生き物を見る目で見つめた。




