第2話 プロローグ2――圧倒的な需要
途端に、空気の密度が変わった。
足元には、紅と金の糸で模様を織り込んだ厚い絨毯。
壁面は金箔をあしらった木彫りの装飾で覆われ、天井からはクリスタルのシャンデリアが下がっている。
音は抑えられていた。
チップが触れ合う乾いた音と、ディーラーの無機質な声だけが、間を置いて響く。
フロアには、緑の羅紗を張ったバカラ台が五台、間隔を空けて据えられている。
片隅でジャズが流れているが、耳を傾ける者はいない。
先導する黒服が立ち止まり、無言のまま恭しく片手を差し出した。
視線の先、奥のテーブルに三つ空席が並んでいる。
辻村は頷きもせず、歩調を変えずにその台へと向かった。
「プレイヤー」
先客の地味な背広の男が、押し出すように数千ドル分のチップを枠内に置く。
その様子を横目に、辻村が真鍋へ目で合図した。
真鍋は、ゆっくりと椅子を引く。
右足の痛みが、ふと遠のいた気がした。
懐から小切手帳と万年筆を取り出すと、テーブルの端で素早く金額を書き込み、乱雑に破り取って傍らの黒服へ差し出す。
辻村もまた、内ポケットからあらかじめ用意していた小切手を黙って手渡した。
ほどなくして二人の前には、それぞれチップの山が積まれた。
「それで、今日はどっちの候補と心中するんだ」
真鍋は低い声で冷やかした。
「……他人事だからな」
辻村はポケットからタバコを取り出しながら、無表情に続ける。
「青か、赤か。……ただの二択だが、これがなかなか奥深い」
真鍋は短く鼻で笑った。
「タイ(引き分け)は、確率的にハウスが儲かるだけの茶番だろ」
ディーラーは無感情に、右側に並んで座った二人を見据え、新しいシューへ手を伸ばした。
テーブルは九人がゆったりと座れる大きさで、先客が四人、すでに囲んでいる。
緩やかなカーブの奥――ディーラーの真正面には、白っぽい麻の背広の上着を大きくはだけ、派手な開襟シャツを覗かせた日本人らしい男が陣取っていた。首元に脂汗を滲ませ、火をつけたばかりのタバコを揉み消している。
その右隣、先程チップを置いた地味な背広の男は、罫線表を黙って睨み続けていた。
左側には、広東語訛りの英語を話す、琥珀色のサングラスをかけた小柄な華人の老人。さらにその左に、派手なアロハシャツの華人の男が座っていた。
真鍋が、近づいてきたウェイターに短く告げる。
「オールドパー。ロックで」
「タンカレー。ライムを搾ってくれ」
辻村は、メニューに目も落とさずに言った。
開襟シャツの男が、プレイヤーにチップを積み上げながら、忌々しそうに――だが、どこか嬉しげに言う。
「履帯の消耗が早すぎるわ。ジャングルの泥は鉄をぎょうさん食いよるからな。おかげで神戸の工場はフル稼働や。……おい、カードはこっちや」
「相模も、似たようなもんだね。補給廠が手一杯。そろそろパンクしそうだよ」
地味な背広の男は、罫線から目を離さずに応えた。
琥珀色のサングラスの老人が、細い指でバンカー側のカードをゆっくりと絞り上げる。
「大陸もごちゃごちゃ内輪揉めで忙しいから、鉄パイプとトラックの需要が天井知らずだ。香港経由で入れた工作機械が、翌月にはスクラップになって戻ってくるぞ。……ほれ、ナチュラル・エイト」
老人がカードを放り投げると、開襟シャツの男は悔しそうにテーブルを叩いた。
「あかん、またバンカーか。……まあええわ。昨日の出荷分で取り返せるで」
ディーラーが無言でチップを回収していく。
プラスチック同士が「カチャカチャ」と擦れ合う。男のグラスについた水滴が、コースターに小さな染みを作った。
辻村は、咥えたままのタバコを少し揺らしながら、視線だけで真鍋に合図を送る。
(神戸に製鉄所を持つ軍需専門商社の社長とロジスティクス屋、華僑系の国際武器ブローカー……といったところか)
「社長、次はどっちかね?」
地味な背広の男が、慣れた手つきでチップを整えながら言った。
社長と呼ばれた開襟シャツの男は、おしぼりで首筋の脂汗を拭う。
「バンカーや。そろそろ伸びる頃やろ。……それにしても、最近は輸送船の確保が難しいわ。準州籍の船は、保険料が上がってかなわん」
「なら、マカオの船籍を貸そうか?」
派手なアロハシャツの男が、不敵に笑いながら口を挟んだ。
「ここの地下で書類はすぐ作れる。中身が何であれ、ポルトガル国旗ならバシー海峡も台湾海峡もフリーパスだ」
「そらええ話やな。……だが、積荷が『肥料』名目じゃ、税関がうるさいんちゃうか?」
「『農機具』にしておけ。分解すれば、ただの鉄パイプだ」
軽く、笑いが広がった。
ウェイターが恭しく、重量感のあるクリスタルグラスを二つ置く。
真鍋の前には、琥珀色の液体に浮かぶ手割りの氷。
辻村の前には、ライムが沈む透き通ったジン。
辻村はオイルライターで火をつけ、紫煙を吐き出した。
「なかなか、景気の良さそうな台だな」
そう言うと、辻村は持っていたチップを躊躇なく「プレイヤー」へ押し出す。
「逆張りか?」
真鍋が低い声で尋ねる。
グラスを傾けると、氷が「カラッ」と音を立てた。芳醇なピートの香りが立ち上る。
「いや、とりあえずバランスを取ってみる。……世界と同じでな」
ディーラーが、機械的な手つきでカードを配り始めた。
「プレイヤー、スタンディング・シックス。バンカー、ファイブ。プレイヤー・ウィン」
抑揚のない宣告とともに、チップが右から左へと移動する。
これで三ゲーム連続、勝者が入れ替わっている。典型的な「テレコ(横ばい)」の波だ。
「……チッ。また切れたか」
社長が、バンカーに張っていたチップを没収され、忌々しそうにおしぼりで額の汗を拭った。
「今日はどうも噛み合わんわ。こっちが張ると半目が来よる」
「……で、25区の情勢はどうなんだ?」
真鍋は、チップを指先で片手でシャッフルしながら辻村に尋ねた。
手元には、減りも増えもしない山が、ただ時間だけを消費して積まれている。
「地方は岩盤だ。鉄とコンクリートでガッチリ固めてある。そっちは心配してない」
辻村は、上着の袖口から覗くカフスに触れながら無表情に答える。
「問題は、都市部だ。正直、組織票が五割弱しか固まっていないところもある。しかも最近雑音を流されてな……いつもの感情論だよ」
「例の三和会のパー券の話か?……選挙中だけ持てば良いんだ。空気作りは得意だろ」
「短期戦は別だ。それにコストもかかる……事実かどうかは重要じゃなんいだ。無党派層は、一過性の印象で動く事があるからな……まぁ、マイナーどころの文屋に掴ませてはみるがな……かなり厳しい事に変わりはない」
「プレイヤー、ナチュラル・エイト。バンカー、セブン。プレイヤー・ウィン」
またプレイヤーだ。二連勝。
社長は「……ツラか?」と呟き、プレイヤーの枠にチップを置こうとして、手を止める。
「いや、さっきもここで切られた。……ケンや」
社長がチップを引っ込めるのを見て、辻村は口角だけで笑った。
「……実弾は足りているのか?」
真鍋が低い声で確認する。
「だいぶばら撒いたからな……正規のルートからは限界がある。だからこそ、ここで濾過するんだよ」
辻村は、カジノフロア全体をゆっくりと見渡した。
「ここの淀んだ水も、ポンプを通せば綺麗な飲み水になるからな。……彼らの渇いた喉を潤すには、水源は多い方がいいだろ」
「衛生兵の領分だな」
「プレイヤー、スタンディング・シックス。バンカー、ファイブ。プレイヤー・ウィン」
ディーラーの声が響く。
これでプレイヤーの三連勝。場の空気が、じわりと熱を帯び始めた。
「クソッ! 乗っとけばよかった!」
社長がテーブルを叩く。
「次は伸びるか? いや、また戻るはずや……」
迷った末、社長は少額のチップを、自信なさげにバンカーへ置いた。流れに逆らう「逆張り」だ。
紫煙とアルコール、そして長時間にわたる緊張が、VIPルームの空気を重く淀ませている。
勝負は一進一退。誰も致命傷を負わず、誰も大勝ちしていない。
シューの底が、見え始めてきた。
「プレイヤー、スタンディング・セブン。バンカー、スタンディング・シックス。プレイヤー・ウィン」
「……またプレイヤーか。これで4ツラ(連勝)やな」
社長が充血した目で罫線表を睨みつけ、チップを鷲掴みにして、プレイヤーへと打ち付ける。
「ツラを追うで。流れには逆らえん」
同調するように、地味な背広の男、サングラスの老人、そしてアロハシャツの男も、プレイヤーの枠にチップを積み上げる。
場は完全に、プレイヤーへの「流れ」に支配されていた。
その時だ。
辻村は、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けると、手元のチップをすべて掻き集めた。
無造作に、しかし迷いのない手つきで、それを「バンカー」へと押し出す。
オール・イン。
テーブルの空気が凍りついた。




