表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/8

第1話 プロローグ1――極東の鳥籠

一台の黒塗りのセダンが、ホテルの車寄せに止まった。


「着いたぞ、真鍋。……虚数の戦場だ」


後部座席に座る男が、低く呟いた。

わずかに白髪の混じるオールバックに、細身の体躯。その表情からはいっさいの感情が読み取れない。

辻村というこの男は、常に冷めた目で世界を見ていた。

 

車のドアが開く。


車内の冷え切った空気は、一瞬で押し流された。

代わりに、湿り気を帯びた熱気と潮の匂い――珠江デルタ特有の空気が流れ込んでくる。 

  

先に降りた真鍋は、スーツの襟を正す。

陸士時代から変わらない短く刈り込んだ髪と、無駄のない均衡の取れた立ち姿は、一見すればモデル、あるいは洗練されたビジネスマンのようだった。


辻村も車を降りる。

肩口に付いた一本の糸を、指先で摘み取る。動きに無駄はない。

軽くスーツを払うと、そのまま歩き出した。


目の前には、上層部が円筒形に張り出した巨大なホテルがそびえている。外壁に設置された赤と黄色のネオン管が発光し、湿気を含んだ夜の空気を直接照らし出していた。


二人は並んでエントランスへ向かう。

真鍋が右足の違和感を隠して歩幅を調整すると、辻村は視線だけを周囲に這わせながら、自然と隣の歩調に合わせた。

回転扉を抜けて、冷え切ったホテルのロビーに足を踏み入れる。

湿った熱気は冷房に断ち切られ、代わりに白檀の甘い香りが満ちてきた。

 

真鍋の古傷は、雨季の低気圧よりも、こうした人工の冷気に敏感だった。


――1972年十月、マカオ。


ポルトガル領。

大陸の影と香港の喧噪の狭間で、「極東の巨大兵站基地」から流れ込む莫大な逃避資金が、渦を巻く街。


「風水だよ。虎の口だ」


辻村が天井を一瞥する。

ポケットに手を入れたまま、視線だけで人の流れと音の揺らぎを測っていた。

ハ特(ハルビン特務機関)で叩き込まれ、ラングレーで上書きされた観察の習性。

空気を探る癖は、もう身体の一部だった。

 

「入ったら出られない鳥籠、か。兵站将校としては感心しない導線だな」


真鍋の声は低く、短い。

腹の底から響くその音は、戦場でも会議でも揺らがなかった。


「出る時は身包み剥がされた後さ。……もっとも、今の我々の故郷も同じだったな」


辻村は笑わない。


「ウォール街は、列島ジャパンという巨大な鳥籠から、いかに上手く利益だけを持ち出すか――それしか考えていないからな」


二人はメインフロアへ足を踏み入れる。


大小シックボーに沸く広東語の怒号。

甘い香水と汗の匂い。

チップが弾く乾いた音。


喧騒の中心を、二人は速度を変えずに横切った。


「ワシントンは悲鳴を上げているよ」


辻村の声は、雑踏に溶ける音量だった。

だが、真鍋の耳にははっきり届く。


「今朝のテレックスだ。法務委員会が、また揺れている」


辻村は歩調を変えずに言った。


「日系の弁護士連中がうるさくてな。修正十四条だの適正手続だの、日本地域住民の権利保護を盾にしてきている」


「建前だろ。本音は資産保全だ」


真鍋は鼻で短く笑った。一瞬、辻村の冷ややかな視線がルーレットのテーブルへ落ちる。


「投資家も多国籍企業も、『準州』なんて曖昧な法的地位に、これ以上カネを置きたがらないからな」

 

辻村はそこで言葉を切り、歩調を緩めることなく続けた。

「そして連中お得意の、連邦税法501条C項――いわゆる『501C』だ。ワシントンにある『極東政策研究所(FEPI)』や『環太平洋親善開発財団(PRDF)』を知っているな?」


真鍋がわずかに眉をひそめる。


「インフラ整備及び環境保全、あるいは社会福祉や文化交流を謳ってる、非営利の免税団体だろ……FEPIの理事長はたしか、元国務次官補だったか」


「アレを使って莫大な資産が非課税のまま列島から吸い上げられている。それがロビー活動に化けるっていつものやつだ」

 

「……要するに、面倒な話だ」


すれ違いざま、バニーガールが運ぶトレイに載った乳褐色のカクテルを、辻村は視線だけで追う。甘いココナッツの香りが鼻先をかすめた。


「州昇格……またその話か」


真鍋の低い声が届く。


「八分割案はどうなった?」


辻村は前を向いたまま答えた。


「保守派が発狂する。それに民主党も一枚岩じゃない。八つも新しい州が一気に増えてみろ。下院も上院も、あらゆるバランスが崩壊する」


辻村は短く息を吐く。


「……だが、もう限界だ」


ほんの一瞬、辻村の口角が下がる。


「海底ケーブルが太平洋の時差を殺してから、もう何年も経つ。カネの巡りが速すぎる」

 

「落とし所は探してるのか」


真鍋が尋ねた。


「探してるさ。だが、法的な防波堤が要る。ないと、誰も手を離せんしな」


一拍置いて、辻村が続けた。


「結局、誰も望んでいないのに、誰も止められない」


「誰かが机の上で鉛筆を転がす」


真鍋はディーラーへ一瞥を投げる。


「それで国が割れるわけか」


「そういうことだ」


辻村は小さく頷いた。


「俺たちは、その転がる先に――ハンカチ置く」


ベルベットロープの向こうで、黒服の男が二人に向かって恭しく頭を下げる。

VIPエリアへ通じる重い両開きの扉が開いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ