第八話
五月も下旬に入り私の生活もだんだんと落ち着いてきたのだが、毎日続く曇り空とじめじめとした重い空気は私の勉強へのモチベーションを低下させた。
新学期にも慣れ、仲良く下校する中学生の声を窓越しで聞きながら私は瞼を閉じた。
今日の晩御飯は何を食べようか、
あの漫画の続きはどうなるんだろう、
彼女はなぜ「春月夜」を読んでいたのか。
次々と頭に浮かんで来る無意味な情報に嫌気がさした私はシャワーでも浴びようとタオルを取り立ち上がる。
時計の針は十六時二十五分を指していた。
今からゆっくりシャワーを浴びて散歩をしよう。
そしてコンビニでカレーと新刊の漫画を買って今日は家でゆっくり過ごそう、と自分が浪人生であることを忘れて頭の中で計画を立てていると通知音が鳴る。
誰からだろう、私は携帯を開いた。
『今日会えない?どうせ暇だろ』
それAからのメッセージだった。
珍しいな、彼と会ったのは根岸に行ったあの日が最後だったはず。
彼のことだからまた何かおかしなことを言い出すのだろうな、とAの自信満々な横顔を思い浮かべながら、特にやりたいこともなかった私はすぐにAのメッセージに返信をした。
彼はバイトがあるから夜中にいつもの場所で待っていろとだけ言葉を残し、
その後私が返信したメッセージに既読が付くことはなかった。
私は窓を開け五月の穏やかな風に吹かれながら、ふとあの日の根岸の情景を思い浮かべた。
ドラゴンこそいなかったが、迫力のある蔦だらけの観覧席と人の営みが感じられない半壊の米軍住宅を、夜中の公園にしか漂うことない暖かく私の好奇心をくすぐるあの風を、私はもう一度感じてみたい
男子学生の騒がしい声がする公園の方を眺めながらそんなことを考えていた。
午後十一時。私はいつもの待ち合わせ場所でAを待っていた。
彼のことだからきっとBも来るだろう。
そんなふうに予想して私はコンビニの入り口で彼を待つ。
待ち合わせ時刻から五分過ぎた頃、闇の中から音がする。その音はどんどんと力を増し、私に近づいてくる。
闇の中から眩しい光を放つ真っ白な車が現れた。
車は私の目の前に止まりクラクションの音が鳴る。
私はびっくりしてその場に立ちすくんだ。
運転席からタバコを手に持ったAが出てくる。
「後ろ乗れよ」
Aは後部座席を指差し、そう言った。
サングラスをかけているので表情はわからなかったが、その声色から彼が上機嫌だということがわかった。
私は彼に言われた通りにフロントドアを開けて後部座席に入った。
車内はアメリカのお菓子のような甘い香りとタバコの匂いが混ざった不思議な匂いを放って私を戸惑わせた。
助手席には私の予想通りBが座っていた。Bはガムを噛みながら携帯ゲームに夢中の様だ。
しばらくしてAが戻ってくる。
彼は乱暴にドアを閉めるとエンジンをつけ、何も言わずに車を走らせた
「おい待てって。俺は何も聞かされてないからな」
私は爆音で流行りのミュージックを流すAに、声を張り上げて私はそう言った。
「あれ言ってなかったけ? 俺、先月免許取ったんだ。だからお前らとどこか行こうかなって思ってね。それに、来週高校の友達と山梨に行くことになってるんだ。その時に万が一事故でも起こしたらやばいだろ?そうならないためにも今から練習しとこうと思ったんだ」
彼はスピードと音量ををガンガン上げながら、当然のようにそう言った。
「そんなに遊んで課題は大丈夫なのか。大学の方はちゃんと行ってるんだろうな」
「俺、もう学校に行かないことにしたんだ。今月中に届け出は出すつもりでいる」
Aははっきりと、いつもと同じ軽い口調で私にそう言った。
突然のAの告白に私は戸惑い、混乱した。
「おいおい辞めるって…まだ入学して一ヶ月しか経っていないじゃないか。一体何があったんだよ」
私は彼が何かの宗教にでも引っかかったのではないか、と最悪の状況をを頭に思い浮かべそう言った。
「うーん。
なんかつまらないんだよね…俺の想像してた大学生活ってこう、もっと楽しくて輝いてる青春をイメージしてたんだけど、うちの大学は男ばっかりでめちゃくちゃ暗いし、女子も東京の大学生と比べると花がなくて地味なやつばっかり。毎日の授業は意味不明で退屈だし、学校も家から遠いし…そう考えると俺が大学に行く意味ってあんまりないような、そんな気がするんだ」
Aは声色を変えずに淡々とそう言う。
Aが推薦で入学したその学校はお世辞にも頭が良いとは言えず、理系専門の大学であることから生徒の大半が男だった。
県央に位置するその大学の周りは畑と山で囲まれており、遊ぶ場所などほとんどないのだ。それに比べ、SNSの投稿を見ていると都内の大学に進学した同級生は流行の最先端に暮らし、活気に満ち溢れたキャンパスライフを送っている。
彼が落胆するのも無理はない。
そんな彼に私は同情したが、慰めの言葉をかける気にはなれなかった。
「そんなこと言ったってそこに行きたいと思って受験したんだろ?自業自得じゃないか。それに大学は勉強する場所だからね。それにもし大学を辞めるのなら、親には何て説明するんだよ」
私は音楽のリズムに乗せて体を揺らしながら運転する、すまし顔のAを睨みそう言った。
「母さんにはもう言ったよ。好きにしろってさ。でも入学金だけは返すつもり。今から一年間バイトしてお金を貯める。そして起業して社長になるんだ。やっぱり持つ夢は大きくなきゃね」
「そんなに簡単に行くわけがないだろ。退学届はまだ出してないんだし今からでも遅くないんだから学校に戻れって」
「いや、俺はもう決めたんだ、周りと同じことしていてもダメだ。挑戦しなきゃ何も始まらない。そうだろう?」
「いくら何でも決断が早すぎるよ。それに起業なんて大学に通いながらだってできるじゃないか、考え直せって」
私は早口で先程よりも強い口調でそう言った。
Aはそれっきり何も話さなかった。
私は多少言い過ぎたと感じて気まずくなり、黙って腕を組んだまま後ろへ流れる穏やかな横浜の夜景を窓越しに眺めていた。
時の流れは速い。しかし、必ずしも決断が早いことが良いことだとは限らないじゃないか。
大学生活は四年もある。その四年間でしかできないことが沢山あるはずだ。
そんな私とAの会話を黙って聞いていたBが重い口を開いた。
「俺は毎日仕事に行ってるよ、まだ研修中だけどね。でも周りは年上ばかりで同期もいないから、五時まで働いて家に帰るだけの毎日でとっても退屈だよ。それでもこうやって休日はみんなと集まって遊べるから、それを考えると仕事も苦じゃないね」
いつもと変わらない明るい口調でそう話すBの、キラキラと光る瞳に映った横浜の夜景はとても美しかった。
「Aがそこまで言うのなら、やってみたらいいんじゃない?今時口だけのやつは山ほどいるけど、実行するやつは少ないからね。チャンスはあると思うよ」
私は優しい口調でゆっくりとそう言った。
私は窓の外の夜景を眺めていたので、彼の顔は見えなかったが心なしか車のスピードが上がった様な、そんな気がした。
私は窓を開け、車から顔を乗り出してを外の空気を吸う。
深夜の横浜の涼風は、ガソリンと共にぐんぐんと強くなる。
その強風を顔面で受け止め、爽快な気持ちになった私はシートにもたれかかりゆっくりと目を閉じた。窓から入る都会の香りがだんだんと海風に変わっていく。
その時、私は誰かに抱きしめられたいと強く思った。
なぜそんなことを感じたのか、理由はわからないが、
夜の横浜の孤独感とガソリンの激しい鼓動が相まって、私をそんな不思議な気持ちにさせたのだった。




