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根岸  作者: なしごれん
第二章 彼女との出会い
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第七話

「春月夜」はスイスの小説家ピエルトの有名作だ。


1945年に発表された「春月夜」はそれまでの宮廷貴族が中心の物語とは異なり、田舎で共に生まれた十代の男女が日々の生活に奮闘しなが生きていくという大衆をメインに描いた物語である。


当時のヨーロッパではベストセラーになり、数々の賞を受賞したのだが、日本ではあまり流行らず、今日では隠れた名作として認識されている。


高校二年生の夏、私は近所にある顔見知りの本屋が閉店することになったので久しぶりにそこへ訪れ、閉店セールで値引きされた本棚の中からこの特徴的な表紙の「春月夜」を見つけたのである。


店主は懐かしそうにピエルトについて語ってくれたのだが、私は猫と月が描かれたその本の表紙があまりにも綺麗で私の好みに合っていたため、内容などそっちのけで購入を決めた。

その本はそのまま自室の飾りにしていたのだが、次第に中身が気になって読んでみることにした。

それまで学校の教科書くらいしかまともな小説を読んだことのなかった私は、初めはゆっくりと見慣れない漢字や言い回しを調べながらダラダラと読み進めた。



二人の普段の生活や、ヨーロッパの自然豊かな街並みの風景を忠実に再現することのできるその語彙力は、私にはとても新鮮に感じられた。

そして、最終章に入り何事もなく最後の行を読み終えた私は、本を完走したと言う達成感以外に何も感じることができなかった。


しかし、どうも引っかかる。決してつまらない訳ではないのだが、言葉で言い表すことができない。

私の身体の中にその不完全な気持ちだけがいつまでも残り続けた。

私はもう一度その本を読み返す。

何もおかしくはない、至って普通の文章だ。

結局、私はその不信感を取り除くことはできなかった。


一週間経ってもその違和感は私の頭に残り続け、授業を受けるにしても、食事をするにしてもやはり脳内にその気掛かりが顔を出し私を悩ませた。


なぜこんなことで悩まなければならないのか


練習に支障をきたすと思った私は思い切ってピエルトの別の作品「牧草の上で」を読んでみることにした。


「牧草の上で」は農家に生まれた主人公が義理の妹に恋をし結婚を約束するのだが、最後は妹が自殺してしまうというピエルトの代表作であり、彼の作品の中では唯一のバッドエンドだ。


「春月夜」の後に出されたそれは日本でも出版され、今でこそ名前は聞かないが私の祖母はその本をよく読んでいたと、読後の私にそう話してくれた。

二作目ともなると私も読むスピードも速くなり、古い言い回しの解釈や漢字もわかるようになってきた。


ピエルト特有のヨーロッパの雄大な風景の描写や、決して豊かとは言えない農民の生活を描く「牧草の上で」はヒットしたのも頷ける程わかりやすく男女の心情を描いているため、私は最後まで飽きることなく二日で完走することができた。


最終章の最後の文字を読み終えた私は「春月夜」では感じることのなかった感動と喪失感を味わった。

それは単に妹のセレナが自殺した悲しみから生じた感動ではない。物語の結末がバッドエンドであるにも関わらず、その結末が私には最も美しく芸術的に感じられたからである。この感覚は「春月夜」とは明確に異なる。


ではなぜ「春月夜」があんなにも違和感があるものに私に感じられたのだろうか。「牧草の上で」を読み終えた私は「春月夜」のストーリーの断片を思い返し、この二つの作品の共通点を探した。


二つとも若い男女を描いた点は同じなのだが、やはり結末が主な違いだと考えた。二人の会話が続いたあと、曖昧なまま物語は終わる。

やはりその結末に私は不信感を覚えるのだった。


再会を果たした少女と禁断の恋に落ち自らの命を絶ってしまった少女。


私は再度「春月夜」を読んでみることにした。

今回で三周目のそれは明らかに「牧草の上で」よりも単調なストーリーだと感じた。お互いの何も代わり映えのない生活の描写が延々と続き、ヒロインの父の仕事の関係で引っ越しを余儀なくされるその物語に、特別不自然な点など見当たらなかった。


しかし、最終章で二人が再開したその場面。二人が言葉を交わしたその時に、私はやはり違和感を覚えるのだった。


「私はトマトが嫌いなの。でもそれって、あなたもでしょ」


ヒロインは最後にそう言って物語を終える。

私はその言葉を何度も繰り返し頭の中で唱え、一晩中「春月夜」を読み直した。


夜が明けて、白いカーテンのレースが黄金に輝き始めた頃に、私はようやく気がついた。

それは私が恋愛に対して抱いている一種の自己中心的なイメージが違和感の原因だということだ。

この歳にもなって恋愛経験のない私は漫画やアニメの創作物に熱中し、そのキャラクターに自己を投影した。

そして、それに感情移入することで自分の恋愛感覚を一般化しようとした。いやむしろ、それが恋愛そのものなのだと断定していたのだ。


私はジャンルを問わず様々な創作物を吸収し、そこに出てくる現実には存在しない女性の理想を繋ぎ合わせ彼女のように想像し、自分に都合の良いような妄想を恋愛だと認識していたのだ。


ようするに私は「春月夜」の内容をまったく理解していなかったのである。


私が今まで触れてきたどの作品ともそれは異なり、「春月夜」は男女間の諍いや家庭環境、将来についてのわずかな描写、男性とは異なる女性の観点から発せられる性についてなど。創作だと忘れてしまうくらい生々しく現実を描いていたのだ。


幼い頃から築き上げてきた友情が恋愛に変わっていくその心情を読み解き解釈することは、経験の乏しい私の想像力では限界を超え、私の中での恋愛とは異なる別のジャンルとして確立していたのである。


そのため、会ったばかりの義理の妹に一目惚れし、命を絶って物語を終える「牧草の上で」のやや創作色の強いストーリーと私でも解釈できるようなお手本のようなラブロマンスに、私は違和感を感じることなく読むことができたのだ。


それに比べ、平凡な日常生活の一場面に隠された二人の恋愛を描いた「春月夜」は今まで感じることのなかった新しい感情を私にもたらし、それまで興味も湧かなかった現実のそれに、関心を示すきっかけを与えてくれたのだ。



だからこそ、私は彼女がなぜ「春月夜」を読んでいるのか気になったのである。何十年も前に絶版して書店では並ぶことのないその本を、どうして読もうと思ったのだろうか。


昼間なのに人の出入りが感じられないコンビニの、綺麗に陳列された品物を眺めながら私は彼女の顔を思い出す。

聡明そうな大きな目に、肩までかかった黒い髪。背は低く、中学生くらいに感じられたその顔を、バイト中何度も思い出し、その度に大きな満月と真っ黒な猫が描かれた「春月夜」をまた読んでみようと心からそう思うのだった。

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