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根岸  作者: なしごれん
最終章 根岸のドラゴン
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第二十五話 (最終回 後編)

ハナモモの、薄ピンク色の蕾が、まだ小さく枝先に見え始めた三月の二十七日。

三月の末とは思えない寒波が、山の上にあるここ根岸に、強く吹いていた。

思えば三人でここ根岸に訪れたあの日から、ちょうど一年が経ったのかと、携帯の時刻表示を眺めながら、春にしてはやや冷たい夜風に身を晒して、私はひとり芝生広場の入り口で、彼女を待っていた。


『君に話さなきゃいけないことがある。三月二十七日の午後八時に、根岸森林公園の入り口で待ってるから』


根岸で老爺に会ったあの日に送ったメールは、未だ返信が来ず、既読はついているものの、彼女がここに来てくれる確証はなかった。


私はつかさとの会話履歴を画面に映した。


『根岸のドラゴンを見に行こう』 


一年前、唐突に放たれたこのメッセージが、何故だか今の私の不安定な気持ちを和らげた。老爺と会ったあの日から、私は彼女の事で頭がいっぱいだった。もし、彼女が来てくれなかったらどうしよう。そんな不安が日々のちょっとした瞬間に訪れては、私をしばし苦しめた。しかし、もう今は、そんな事どうでもいいのだ。たとえ彼女が来なくても、私は何度も訪れたこの根岸の地に、自分の願いを、将来を、賭けてみよう、そう思ったのだ。


そんなことを考えていると、予定の八時は遠に過ぎ、時計の針は九の数字を指そうとしていた。私はもう少し我慢してみるかと、両手をズボンに突っ込んで、古びた時計版を眺めていた。すると背後から、人の向かってくる気配がした。


小さな足音は、徐々に大きくなって行き、街灯に照らされて人影が、一人の少女を現した。


私が後ろへ振り返ると、そこにはひとりの女性が立っていた。


「水木さん」


そこには美野沢花澄(みのさわかすみ)がいた。

厚手の黒いガウンを羽織り、首元に巻かれた真っ赤なマフラーは、彼女の魅力とも言える栗色の瞳を、より際立たせていた。


「すみません。遅れてしまいました」


そう言って、彼女は小さな背をさらに縮こませ、丁寧にお辞儀した。

私は彼女を見つめた。半年ぶりに会う彼女の姿は、全く変わっていなかった。むしろその白くきめ細やかな肌は、蛍光色に照らされて、周りの暗さから、普段の何倍も魅力的に彼女の容姿を現していた。


「本当はもっと早く着く予定だったのですが、予備校の祝賀会が長引いてしまって……待ちましたか?」


「ああ、待ったよ」

私は無邪気に笑った。

心待ちにしていた彼女が、今私の目の前にいる。そう思っただけで、心臓の鼓動は急激に高鳴っていた。私は平静を保とうと、視線を彼女の足下に注がせて、口を開いた。


「ずっと待ってたから、身体が冷え切っちゃったよ。それに、ここで話すのもなんだから、ちょっと公園を散歩してみない?」


「いいですよ」


私と彼女は階段を下って、芝生広場の石畳を並んで歩いた。

夜の芝生広場は街灯が少なく、木々に囲まれた広大な芝生には、私と彼女以外誰もいなかった。そんな公園を歩いていると、何度も来たことのある場所なのに、まるで暗闇の森の中を彷徨っているかのような気分になった。

しばらく歩いて、私は隣にいる美野沢花澄に声をかけた。



「受験、どうだった?」


「受かりましたよ」


「本当に? すごいじゃん」


「第二志望ですけどね」


「…………あぁ」


「でもわたし、後悔して無いです。だってそれが、今のわたしの実力って事ですから。それに第二志望に受かることだって凄いことなんですよ。だからこの一年間必死に勉強してきた事に、後悔はないです」


「じゃあ、そこの大学に進学するのか?」


「………………」

彼女はその質問には答えなかったが、やがて


「……………水木さん」

と言った。


「ん?」


「話したいことがあるから、わたしを呼び出したんですよね?」


「ああ、そうだよ」


「それなら、水木さんが話す前に、わたしからもひとつ、言っておきたいことがあります」


そう言って、彼女は私より一歩前に進むと、くるりと私の方へ身体を向けた。


「わたし一ヶ月後に、アメリカに行きます」


彼女は私の顔をじっと見つめ、ハッキリとそう言った。


「アメリカ?」


「はい、そうです」


「何のためにそんなとこへ行くんだよ」


私のその質問に、一瞬彼女は口籠もって戸惑いを見せたが、やがていつものように口を開いた。


「以前、水木さんとここへ来た時に、うやむやのまま帰ってしまって、言いそびれてしまったのですが、私はロキタンスキー症候群と言う病気を患っています」


彼女は私を見つめ、はっきりとそう言った。ああ、知ってるとも。と、私は思ったが、口には出さなかった。


「私の病気は先天性で、生まれつき身体に子宮がないんです。一般的に、ロキタンスキーの患者さんはぞう膣手術を行って、身体に疑似的な膣、空洞を作ります。しかしその手術では、身体を女性にすることはできても、子供を作るという機能を携えることはできないんです」


「ある日、わたしは先生から、アメリカで子宮移植の研究が進められていることを知りました。州によっては未だ禁止されている場所もあるのですが、アメリカ政府は大方それを認めているようで、来年から本格的に手術を行っていくと発表したそうです。そして先生はわたしに、アメリカで手術を受けてみないかと、そう言ったんです」


「わたしはその先生の言葉を聞いてとても驚きました。あれほど不可能と言われてきた私の病気の治療法が、確立されつつある。もしその手術が成功すれば、大きく取り上げられますし、近い将来、日本でも合法化されると思うんです。そうなれば、今まで子供を作ることができなかった、何千、何万という女性にも、子供を作る機会が与えられるかもしれないんです」


彼女は力強くそう語っていた。


「けれど、先生の話を聞いているうちに、そう簡単に事が進む話ではないことがわかりました。わたしの行う子宮移植の手術は被験者が少なく、最新の技術を使うもので、外国人で試したことが一度もない、全てが未知数の手術なんです。それに、手術を受けた患者さんの中には、未だ予後不良の方も一定数いますし、手術が成功したとしても、もし赤ちゃんが産まれて来なかったらどうしよう、産まれてきたとしても、わたしのように身体に欠陥ができてしまったらどうしよう。そんな不安な日々が頭をよぎりました」



「そんな時、わたしは水木さんに出会いました」


「予備校で、ひとりぼっちで苦しんでいるわたしに、水木さんは力になると、そう言ってくれましたよね。今まで誰にも病気のことなど打ち明けず、ひとりで戦ってきたわたしにとって、その言葉はまさに救いでした。同い年の男の子が、わたしの病気を理解してくれている。それだけでわたしは、何倍も救われましたし、日々の治療の励みにもなりました。そして何よりも、自分の力になってくれる人がいるということが、こんなにも嬉しいことだなんて、思わなかったです」



「だから今日、こうして水木さんとお話しできて、本当に良かったと思っています。来月、わたしはアメリカに行って、移植手術を受けてきます。成功するかどうかはわかりませんが、わたしの身体が、少しでも先の医療に貢献できるのなら、わたしはそれで構いません。もう二度と、日本に戻ってこれないような身体になったとしても、わたしは自分の夢を、医学の道を、諦めません」


彼女は穏やかな口調でそう話していたが、身体は小刻みに震え、目線は下に落ちていた。


医学の道へ進みたい。そう私に言った半年前の彼女の姿が、私の目に映った。


「俺は……」


私はそう口にして、目の前に立っている、美野沢花澄の瞳を覗いた。


「俺は作家になりたいんだ」


「君と会わなかったこの半年間。俺の周りで、色々な出来事が起こったんだ。楽しいことも、悲しことも、驚いたことも。その都度俺は、その出来事に真摯に向き合って、感じて、自分には何ができるのかって考えた。そしたら自然と、俺は創作の道に進みたいって、そう思うようになったんだ」


「だから俺は本を書く。書いて、書いて、そして君に読んでほしいんだ。まだ途中までしか書いていないけど、題名はもう決まっている、『根岸のドラゴン』この一年の俺の周りで起こった出来事を書いた話なんだ。俺は君みたいに頭が良くないから、語彙も文法もめちゃくちゃで、読むに堪えないかもしれないけど、俺はそれでも構わない。周りから笑われたっていい、これが俺の夢なんだ。そして、今回だけじゃなくて、次も、その次も、この先もずっと、俺が書いた本を君に読んでほしいんだ」


私は力を込めて全て言い切ると、彼女から目を逸らさずに、返答を待った。

彼女は私が語っている間、じっと視線を下に落とし、何か考えているようだったが、やがて


「水木さんのその言葉に、私は素直に『はい』ということができません」


彼女は静かにそう言った。

「どうして…」


「正直、わたしはまだ迷っているんです。本当にアメリカに行くべきなのか…この手術は、いい意味でも悪い意味でも、私の人生を大きく左右するものだと思うんです。もちろん、成功すれば万々歳なのですが、考えれば考えるほど、失敗したらどうしよう。そんな恐怖が押し寄せてきて、うまく決断できずにただ時間だけが過ぎていくんです。もし仮に、手術が失敗してしまえば、水木さんと会うことも、話すことも、できなくってしまうかもしれないんですよ」


彼女は弱々しくそう言った。思えばそれは、彼女が私に初めて見せた弱音だった。

私は彼女に何を言ってあげれば良いのかわからなかった。ただひとつ、思うことがあるとするならば、今目の前で小さく佇んでいる美野沢花澄の姿が、あの時、私が見た幻影の中に現れた、いつまでも一頭の馬を見つめる彼女の姿に、そっくりだったのだ。


「大丈夫。絶対に成功するよ」


私は自然とその言葉が溢れた。


「大丈夫、絶対に大丈夫だから。俺は予備校でずっと君を見て来た。君はいつだって努力して、困難を乗り越えて来たじゃないか、さっき俺に感謝しているって言ってたけど、それは違う。全部君の努力の結果なんだよ。だから、子宮移植の手術がどれだけ難しいかなんて俺にはよくわからないけど、その手術が成功するってことだけはわかるよ」


「水木さん」


「手術は……手術は努力でなんとかなるほど、簡単なものではないんですよ」


「わたしは先生から、様々な患者さんの話を聞いてきました、成功すると思われていた手術が、患者さんの身体に、何かの不具合が生じて、全てが終わってしまった。そんな事が、当たり前に起こる世界なんです。それなのに、水木さんはなぜそんな簡単に、成功できると言えるんですか」


彼女は私の目を睨んでそう言った。


「俺は根岸のドラゴンを見たんだ」


「ドラゴン?」


「そうだよ、根岸のドラゴンだよ。前に一回話したろ?願いを叶えるドラゴンが、ここ根岸にいるって」


「ドラゴンなんて……そんなのいるわけないじゃないですか」


「いるんだよ」


私は大きく叫んだ。



「根岸に……根岸に、本当にドラゴンがいるんだよ」


私はそう言うと、彼女の腕を無理やり掴んだ。彼女は一瞬驚いた顔をしたが、なにも抵抗しなかった。

私は彼女の方へは振り返らず、腕を握ったまま、ドーナツ広場へ進んだ。

何ヶ月ぶりに触った彼女の小さな腕は、冷たくて柔らかかった。





私は彼女の腕を掴んだまま、芝生広場から、ドーナツ広場へと向かった。

暗闇で彼女の顔は見えなかったが、恐らく俯いて、悲しい表情をしているのだろうと、彼女の細く透明な腕首を掴みながら、私は観覧席を目指し歩いた。


「ここだよ」


そう言って、私は観覧席の前で立ち止まると、七階建てのそれを見上げた。

旧根岸競馬場の一等馬見所は、何度来てもその威圧感は健在で、夜中の廃墟は私に、普段とは違った恐ろしさを与えた。


「ここって…………廃墟ですよね」

不思議そうにそれを見つめる彼女の声が、後ろから聞こえた。


「ああ、そうだ。昔ここが競馬場だった頃に使われた観覧席だ」


私はそう言うと、立ち入り禁止の看板を横目見て、柵に手をかけた。

三メートルほどの鉄柵は、観覧席を囲んで、上部には有刺鉄線が張ってあった。

私は彼女を掴んだ手とは逆の手を伸ばし、柵の上部を掴んだ。

皮膚にめり込んだ金属が、神経を伝って私に痛みを感じさせる、私は彼女の手を握ったまま、腕に力を入れると


「今から上へ持ち上げるから、両手で俺の腕を掴んでくれ」


と彼女に言った。


「まさか、ここに入るんですか?」


「ああ」



「嫌ですよこんな場所。暗くて危ないし、帰ってこれるかわからないじゃないですか」



「無茶なことだってわかってる、だけど俺を信じてほしいんだ」


彼女は少しの間、戸惑って目を伏せていたが、やがて私の腕を強く握った。


「そのかわり、絶対に私の顔を見ないでくださいね」


私は彼女を持ち上げると、ゆっくりと柵の下へと降ろした。







朽ちた扉を開け、内部へ入ると、そこは瓦礫の山だった。

私は彼女の手を握ったまま、英語で表記された案内板を見、階段のある方へと足を進めた。

旧根岸競馬場の観覧席の内部は、まるで百年前から歴史が止まっているかのようだった。現代では見ることのない洋風な内装と、至る所に書かれている落書きは、割れた窓から溢れた月夜に照らされて、より美しく私の目に映った。


「怖いです」

彼女は俯いて、小さくそう呟いた。


私は彼女の手をしっかりと握ると、暗闇の階段を駆け上がった。

真っ暗な廃墟に、私と彼女が階段を駆け上がる足音だけがこだまして、まるで他にも人がいるかのような、そんな不思議な気持ちにさせた。

私は下を向いたまま、夢中で階段を上がった。途中、私と彼女の歩調がずれ、手が離れそうになったが、その度に、彼女の指が絡みついてきて、私の手を湿らせた。


どのくらい時間が経っただろう、ついに私たちは、観覧席の最上階へと辿り着いた。


私は目の前にある、鉄製の錆びた扉に手をかけると、ゆっくりとそれを開けた。


外に出ると、そこは石造りのスタンドだった。水々しい自然の匂い、草木などの時代の香りが、勢いよく私たちに押し寄せて、汗ばんだ私たちの身体を冷やした。


ここは、観覧席のスタンドか。


そう思って、私は目の前の景色を見渡した。


そこには、廃れた米軍住宅が、一面に広がっていた。


観覧席の最上部から見下ろす米軍住宅の景色は、映画のセットのようなその街並みは、フェンス越しで見るよりも美しく、アメリカンスタイルの住居はまだ僅かに残っていた。


私は電気のついていない、静かなアメリカの街並みを眺め、一年前に語っていた、つかさの言葉を思い出した。



”残念だけど、ここは何したって入れりゃしないよ、日本じゃないんだからね“



つかさ、聴こえているか。俺は今、自分の夢を叶えたぞ。一年前の今日、俺は米軍基地に入りたいと、そう言ったな。その夢を、俺は今日叶えることができたんだ。あの時、君が俺を根岸に誘っていなかったら、二度と見ることはなかったその景色を、今、俺は見てるぞ。


そんなことを考えながら、私はその風景に圧倒され、言葉も出ずに見入っていると、彼女が


「水木さん」


と言った。


「あれ、見てください」


私が、彼女の指差す方へ目を向けると……



そこに、


桃色のドラゴンが……




「 桜だ 」


私はそう叫んでいた。米軍基地の奥に見える、芝生広場に植えられた何百本もの桜が、ひとつの塊になって、私の前に現れたのだ。


桜は光っていた。これでもかと輝く月夜に照らされて、時折吹く弱風に揺れながら、羽ばたいているようだった。




その桜の大群を眺めながら、私はこれからのこと全てが、上手く行くと思った。彼女の手術も、私の夢も……


その時、激しい強風が巻き起こった。


「ああ」


私のその声と共に、前方から花びらの渦が宙を舞い、私と彼女の頭上に降り注ぐ。


その一瞬、私は彼女の顔をのぞいてしまった。


彼女はこれでもかと笑顔を振りまいて、風に舞う桜の花びらを目で追っていた。




おわり

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