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根岸  作者: なしごれん
最終章 根岸のドラゴン
24/25

第二十四話 (最終回前編)

目を開けると、私は人混みの中にいた。


周りを見渡すと、着物姿の若い女性や、黒のスーツの英国紳士、袴の男などが、忙しなく動いていた。砂埃が舞う私の周囲では、ありとあらゆる人種の人々が見受けられ、その場所では、人間の匂いとは思えない、独特な香りが蔓延っていた。

ここはどこだ?私は明らかに現代のものとは思えない、シルクハットを被ったイギリス人らしき男が、何かを求めて歩き去っていくのを目で追いながら、どこかもわからない雑踏に立ちすくんで、身動きが取れず悶えていた。すると遠くの方で、大きなファンファーレの音がした。私がそれに驚いて、音の鳴る方へ顔を向けると、その周りで、激しいどよめきが起こった。

祭りでもやっているのだろうか?私はなんとか人ごみをかき分けて、その声が幾度となく交差している、広場らしきところへと足を進め、そこで立ち止まると、目を見開いた。


大きな地響きと共に、青空の下、広々とした草原に、筋肉隆々の幾頭もの馬が、ひしめき合って走っていた。


競馬場だ。私は心の中で叫んだ。勢いよく風を切りながら、ひずめをかき回している馬々が、私の目に飛び込んでくる。そして、十九年間生きてきた中で、一度も目にしたことのない、その馬の白熱した走り姿と、夥しい(おびただ)数の聴衆から発せられる轟音に、私は興奮して息を呑んだ。ゲートから放たれた馬々は、閃光のように草原を駆けて行き、私の目の前を一瞬で通り過ぎて行った。私は食い入るようにしてそれを眺めた。激しい心音と共に、高まりが徐々に大きくなっていくのを感じながら、私はただその光景を忘れまいと、必死になって楽しんでいた。しかしその私の感情は、次第に興奮から、言い知れぬ恐怖へと変わっていった。


スタートした十数頭の馬々が、二周目の上り坂に差し掛かろうとした時、外から回ってきた一頭が、コーナーを曲がりきれずに、倒れたのだ。


「あぁ」

私は心の中で呟いた。黒い巨体が反転して、砂埃を上げていた。


「なにをやっとるんじゃぁ ボケが」


後ろから聞こえたその声と、馬のけたたましい唸り声が、私の耳に響いた。


真っ白な砂渦と共に、赤黒い液体が、ゆっくりと芝生に染まっていくのが、私の目に映った。

その瞬間、私の体内に稲妻のような衝撃が駆け巡った。私は下を向こうと首に力を入れた、しかし、その光景から目を離すことができず、鼻の奥にある痛覚が、ツーンと頭に響いてくる、嫌な感覚だけが残った。しばらくして、周りを見渡してみると、大勢の人々が、倒れた馬など見向きもせず、血眼になって吠えていた。

私は倒れた馬を見つめた。底にあった恐怖心が、喉から上へと込み上げて、溢れ出してくる様な、激しい悪寒に襲われていた。身体は発汗して、小さく手足を震えさせながら、私は下を向いて黙ってそれに耐えた。

その恐ろしさの原点が、馬なのか、それとも私の目の前で、これでもかと怒号を浴びせ続けている聴衆なのかは、わからなかったが、その燃えたぎる両者の迫力に圧倒され、私は苦しさに耐えきれなくなり、人混みの渦から二、三歩後退りをした。

時間を置いて何度か深呼吸し、私はもう一度、草原に目を置いてみた。馬の順位を知らせるアナウンスが、私の頭上から流れて、その都度歓声と落胆の入り混じった轟音が、周囲を包んだ。幸いにも騎手に意識はあるようだが、馬は横たわったまま、一度も動くことはなかった。次第に関係者らしき人々が、ぞろぞろと芝生に来出して、馬の周りを囲みはじめたその時、


動かなくなった一頭の馬が、儚くも散っていった森本司という男のように、私の目には映っていたのだ。


私はその馬をまじまじと眺めた。何と立派な体だろう。遠くからでも分かるその馬の漲る(みなぎ)迫力と、一瞬の出来事で終わってしまった命に、私は自然と生き物の儚さを感じていた。この精の溢れる巨大な肉体を持ってしても、一度の接触で命を落としてしまうこともある。競馬という運命に左右される催しで、儚く散ってしまうこの生命(いのち)は、果たして許されるべき行為なのだろうか。怒号と歓声が飛び交う観覧席で、私はひとりそんなことを考え佇んでいた。人生で馬の姿など、まるで見たこともなかったのに、何故だか今、目の前で荒く鼻息を鳴らし、これでもかと地面を蹴飛ばして、前が見えないくらい土埃を上げている、種々様々な馬たちが、何のために生まれ、生きているのか、私にはわからなくなった。

もうこんなもの見たくない。私は血眼になって叫び続ける数多の聴衆と、その異様な雰囲気に、貧血のような苦しさに襲われ、早くこの場所から去りたいと思った。しかし、何度身体に力を入れてみても、心の中でつぶやいてみても、私の幻影が覚めることはなく、私はなるべく人集りの少なそうな場所へと、足を進めた。

一体いつになったら、この辺鄙な幻影から抜け出せるのだろうか。もしこの幻影を見せているのが、ここ根岸の地そのものだとするならば、私はなぜこんなにも恐ろしい思いをしなければならないのだろうか。私は耳を塞いで人混みを抜け出した。こんな所にいると、気が狂ってしまう、そう思った。


少し離れた大きな空き地にある、石造りのオブジェに腰を下ろして、外国人らしき子供をぼんやりと目で追っていた。

楽しそうに空き地を駆け回るその姿を眺め、私はふと、老爺の言っていた米軍基地の話を思い出した。昔は警備が緩くて、観覧席の奥にある米軍基地に、簡単に出入りすることができたのだと、懐かしそうにそう語る老爺の声が、遠くから聞こえたような気がした。

私は何気なく、遠くに見えるスタンドの方に目を移し、未だ盛り(さか)立っている聴衆たちを見やっていたが、途中でそれを止めた。

なんと、そこには彼女が座っていたのだ。七階建ての観覧席の、一番上の席に、誰とも話すことなくひっそりと、彼女は競馬場を眺めていたのだ。

私は勢いよく席を立った。気分は未だ悪いのに、何故だか身体は動いていた。

私は彼女を見つめた。その姿を見て、私は何故こんなわけのわからない幻影を見せられて、苦しい思いをしているのか。いつの時代かもわからないこの根岸の地に、どうして彼女がいるのか、等という疑問が、即座に頭の内からスーッと消えて無くなっていく、奇妙な感覚に陥っていた。


草ひとつない、砂利の撒かれた空き地から見える、七階スタンドに座り、目線を広大な競馬場に注がせている彼女の姿は、美しいという平易な言葉だけでは表現できない、大胆で、清らかな彼女を現していた。例えるなら、透明なガラス瓶に生けられた一輪のリンドウが、弱風でヒラヒラと舞いながら、ゆっくりと地面に落ちて行くのと似た儚さを、私に与えたのだ。スタンドの奥で、寂しそうに一頭の馬を見つめる彼女の横顔は、どこか、今にも消えていってしまいそうな、そんな郷愁を放っていたのだ。

私はその絵画のようでいて、短編でもある、美麗な出立ちを眺め、『彼女』という、ひとりの女性と、私の過去を、関係を、思い返してみたくなった。



去年の四月。私は駅のホームで彼女に出会った。

暖かな日差しと、まだ冷たい春風がホームを包んで、バイトに遅刻しそうな私に降り注ぐ。前を眺めると、閑散としたホームの先頭に、彼女が立っていた。

紺の冬服を清高に着こなして、視線は一冊の本に注がれていた。

『春月夜』 それは以前から私が読んでいたロマンス小説だ。遥か昔、スイスの小説家が書いたその本を、日本では遠に絶版され、書店に並ぶことのないその本を、なぜ彼女が持っているのだろうか。そんな疑問を抱いたまま、私はホームになだれ込む電車の窓ガラスを、ただ眺めていた。


激しい熱波が私を襲った七月の下旬。

予備校の前で、私は彼女と再会した。

もう二度と会うことはないだろうと思っていた彼女に、再開できたことが嬉しくて、私はまともに目を見て話すことができなかった。

帰り際に、私が連絡先を交換しようと言い出して、彼女がそれを受け入れてくれた時、心臓がひっくり返るんじゃないかと思った。


そして予備校の最終日。私は授業を抜け出して、彼女を追っていた。

パニック障害という病気の存在を打ち明けられてから、私はより一層、彼女に対して燃えたぎる何かを感じていた。授業中、後ろから聞こえてくる陰口が増える度に、私の胸は張り裂けそうになるくらい痛んだ。私は彼女を見つめた。泣き出しそうな表情で、必死に笑顔を作っているその女性に、私は強く言ったのだ。


”俺は君の力になりたいんだ “


九月の下旬。この根岸の地で、私は彼女の本当の病気を知った。

いつものように風が強く吹いていた午後の根岸は、私と彼女以外は誰もいない、異様な空気が場を支配していた。私は彼女を見つめた。今まで見たこともなかった彼女の歪んだ表情は、あの時の私に、何か酷いことをしてしまったという感覚を与えて、消えていった。

『ロキタンスキー症候群は、子供を作ることができない』そのネットの文言だけが、いつまでも私の頭から離れることはなかった。



そして今、

あの日から半年が経った今、


私は、根岸競馬場で、いつまでも一頭の馬を眺めている彼女の幻影を見せられていた。

彼女は苦しそうだった。草原の真ん中に横たわる黒い巨体に目を注がせて、逸らさなかった。口は硬く閉ざされ、魔性の瞳には薄ら涙が見えた。

その凛とした面立ちの彼女を、壊れそうな綺麗な表情を、精巧なガラス瓶に生けられた一輪の花を、

私は目に焼き付けていた。




気がつくと、私は石畳の上に立っていた。

「どうしましたか?随分と、顔色が悪いようですが」

老爺は驚いた顔をして、私を見つめていた。


その声で私は我に返ると、目を何度か瞬かせ、ここが現在の根岸だとわかると、頭上にいつまでも広がっている、青々とした空を眺め深く息を吐いた。


「すみません。久しぶりに長い時間立っていたので、少し貧血を起こしてしまいました」

私は未だ奇妙な気持ち悪さに襲われて、嘔吐したい気分をグッと堪え、老爺を見つめた。


「そこで休んだらどうですか?今のあなた、何か怖い夢でもみたような、そんな表情をしていらっしゃいますよ」


老爺は心配そうに私の顔を眺め、ベンチに座るよう促した。


私は老爺に礼を言って、また木製のベンチに深く腰を下ろすと、何度か深呼吸をし、目を瞑った。しかし、また何か奇妙なものが見えてきそうな気がして、黙って視線を下に注がせ、苦しさを耐えた。

今見た幻影の、孤独と狂気が孕んだあの競馬場は、今私の座っている、ここ根岸であることに、間違いはないのだが、それならばなぜ、私の眼にいつまでも、彼女の今にも消えそうな凛とした姿が映って、頭から離れないのだろうか。根岸の過去の姿を見れた興奮よりも、私の頭の中には、いつまでも苦しい表情をして馬を見つめる彼女の姿が映っていた。私は両手で強く額を掴んだ。



しばらく呼吸を整えていると、気分も大分落ち着いてきて、私は目の前で観覧席を見上げている老爺に、今見た出来事を話してみたくなった。


「僕はたった今この場所で、根岸の歴史を見たんです」

私は視線を下に注いだまま、そう言った。


「歴史……ですか?」

老爺は私の方へ振り返ると、興味深そうにそう言った。


「はい。まだここが、競馬場として使われていた時の姿を、僕は今見たんです。砂埃が激しく舞い、大歓声の渦の中、沢山の競走馬がひしめき合って走っているところを、僕はたった今、この場所で見たんです」


そこまで口にして、私は老爺に、死んでいった森本司と、今見た幻影の中に現れた、一頭の馬について語った。


「その倒れた馬を見て僕は思ったんです。馬も人も、こんなにあっけなく死んでいってしまうのなら、一体何のために生まれ、生きているのだろうか、って」


私はまだ身体の奥底に残っている恐怖が、ぶり返してきそうな気がして、口調を抑えてそう言った。

老爺は私を見つめ、やがて


「想いを伝えるためでしょうか?」


と言った。

「想いを伝えると言っても、その種類は様々です。わたしが今こうしてあなたと話していることもそうですし、その他にも、友達とする他愛も無い会話や、意見の食い違いで言い合いになるのもそうです。その普段生きている中で行われる、何気ないコミュニケーションの全てが、当たり前ですが自分ひとりでは成すことができないものなんですよ。しかし、わたしたち人間は、時に自分はひとりぼっちで、誰からも理解されていないんじゃないかと、そう悲観的になってしまう時だってありますよね。けれどわたしはそんな時こそ、素直に想いを伝えなければいけないと思うんです。そうすることで、後の人々へ、より良い未来に、託していけるじゃないですか。もちろんそれは、人間ではなく馬も同じです。どんな過酷な運命にあったとしても、彼らの生きてきた意味は、想いは、必ずあるんです」


そう言って、老爺は再び観覧席に目を移した。

「この一等馬見所は、ここ根岸森林公園で、唯一残っている時代の遺産です。昭和の初めに建てられ、その役目を終える戦後まで、幾頭もの馬を見せてきた、日本近代競馬場の礎です。まだ競馬法が施行される前、軍用に輸入された馬々は、今よりも劣悪な環境の中、道具同然のように扱われてきました。わたしはそんな数奇な時代に生まれた馬々を、不幸だなんて思いません。彼らの大半は、足が速くなるように改良され、命を縮めるようなレースに出て、人間の金儲けの道具になって一生を終えていきます。しかし、人間でなくとも、言葉が喋れなくても、彼らの発した想いはしっかり私たち人間に届いているんです」


「ここから少し離れた道路脇に、馬頭観音という石碑があります。それは競馬場時代、不慮の事故で亡くなってしまった馬や、そこから軍用馬になって散っていってしまった馬たちが祀られている場所なんです。彼らは決して良い環境で生活ができたわけではないです。けれど彼らがいなかったら、今の日本競馬は成り立っていなかった。彼ら一頭いっとうの本気の想いがなければ、この観覧席は建てられていなかった。そういう意味では、想いはちゃんとわたしたちに伝わっているんです」



「だから必死に生きなければならないんです。生きて想いを伝えなければいけないんです。自分のためではなくとも、未来のために」


老爺は力強くそう言うと、にこやかな表情で私を見つめた。

その皺だらけの顔に覗かせた二つの球体は、私が幻影の中で見た、一頭の馬とよく似た生命力を放っていた。私はその穏やかでいて、生気溢れる視線を放っている老爺を意識したまま、ゆっくりと目を閉じた。


”一体何のために生まれ、生きているのだろうか“


”想いを伝えるため ”


“必死に生きなければならないんです“


”未来のために “


老爺の言葉が、何度も頭に流れては、消えていった。

私は思った。想いを伝えるとは、一体どういうことなのだろうか。老爺の言っていた想いとは、より良い未来へと託すためにあるもので、儚く散っていった馬や人にも、その想いは必ずあるとするのなら、つかさが残していった想いとは、何だったのだろうか。そしてもしその想いというものが、私にもあるとするのなら、私は自分の想いを、誰に伝えればいいのだろうか。私は過去の自分に問いただした。


”だから何回も言ってるだろ?根岸のドラゴンを見に行くんだよ “


”馬鹿野郎、俺たちはまだ子供だ “


”水木ってさぁ、男女の友情って成立すると思う? “


”君ならできるさ、じゃなきゃこんなお願いしないよ “


”俺がAを殺したんだ “


”根岸のドラゴンを見に行こう“


”濁りのないあなたの感性を、どうかこれからも忘れないでくださいね “


”俺、好きな人ができたんだ “



ああ



もう、こんなことを考えるのはやめよう。


遠回りして、焦って、回りくどい言い方をして

私は何をしているんだ。

自分の想いなんて、あの時から一度だって変わっていないじゃないか。

あの日、

あの時、

あの場所で、

私はひとり電車を待っていたんだ。


あの日、私はバイトの初日だった。時間ギリギリで駅に着き、急いで電車に乗ろうとしたところ、目の前で老婦人が倒れて、私の頭は真っ白になったんだ。この一瞬を逃せば、私はバイトに遅刻してしまう、そう思っていた。しかし身体は自然と動いていた。私は急いで婦人に駆け寄ると、必死に助けを求め叫んでいた。周りは冷たく私を突き放すかのように足速に立ち去って、冷ややかな視線が痛かった。それでも、私は一人で叫び続けた。この倒れている婦人を何とかしなければならない。私はそのことで頭がいっぱいだった。やがて係員がやって来て、即座に対応をし始めて、その時ようやく気が付いた。私は何もできでいない。ただホームの真ん中で必死に叫び続けている、頭のおかしい奴なんだ。そう思っているうちに、身体の奥がだんだんとむず痒くなってきて、私は誰とも目線を合わせることなく、逃げるようにして、ホームの奥へと進んだんだ。

私は恥ずかしかった。あそこで私が叫んでいなくても、係員はすぐに駆けつけていただろうし、何より私はバイトに遅刻してしまった。こんな事になるくらいなら、私も周りと同じように、見て見ぬふりをすれば良かったのではないか、そう思って、何気なく反対ホームに目を向けてみると、ひとりの少女が立っていた。

彼女は本を読んでいた。紺のブレザーを身に纏い、背中まで伸びた長い黒髪は、春の日差しで光っていた。私はぼんやりとそれを眺めた。この時間に、学生が駅にいるのは珍しいな、そのくらいの事しか頭に浮かんでいなかった。

しかし、何気なく私が目線を上へ持っていくと、私の目に、『春月夜』の文字が飛び込んで来たのだ。

以前私が、古本屋で偶然見つけたその奇妙な本を、なぜこの少女が持っているのか。私は不思議な気持ちになりながら、少女の顔を見ようと、顔を上げたその時、

ホームに電車がなだれ込んで来て、少女の姿が車体で隠れるあの一瞬、私が顔を上げたあの刹那。


彼女が私にほほえんだのだ。




「 俺は 美野沢 花澄 が好きだ 」


私は広大な芝生の真ん中でそう叫んでいた。

そうだ、俺は彼女が好きなんだ。好きで、好きでたまらないんだ。あの日、駅のホームで見かけたあの時から、私は彼女のことがずっと気になって、仕方がなかったんだ。そして、予備校の前で彼女と再会し、連絡先を交換した時から、私の心はもう受験どころではなかったのだ。彼女に会いに行くために、日々予備校に通っては、いつか私に振り向いてはくれないかと、心待ちにしていたんだ。あの透き通るような肌も、輝かしい栗色の瞳も、細く長い黒髪も、その全てが愛おしかった。彼女が私に話しかける度に、私の心臓は破裂しそうになるくらい痛んで、体温は上がり、身体の至る所に血が巡ってくるのを常に感じたのだ。

だから彼女が待ち合わせ場所に居なかった時、私は本気で落ち込んだのだ。もう二度と、彼女と会えないのではないかと思って落胆し。部屋に引きこもり、生きる気力を失って、絶望して、全てを諦めていた。もう彼女のことなど忘れようと、そう思っているのに、目を瞑れば、自然と彼女の笑った姿が浮かんで来て、眠ることさえできず苦しかった。


しかし、今は違うのだ。私はこの根岸の地で過去の幻影を見せられて、生命の儚さを、想いを伝えることの大切さを知ったのだ。根岸競馬場で走った馬も、ドラゴンを見た老爺の妻も、儚く散っていった森本つかさも、全ての想いは今の私に繋がっているのだと、教えてくれたのだ。


どこまでも続く草原に向かって、私は叫び続けた。額からは汗が流れ、息はだんだんと苦しくなり、言葉を徐々に詰まらせながら、私は必死になって叫び続けた。その度に、彼女の顔が頭に流れては、静かに消えていった


競馬場で人の夢を背負って生きる馬に比べれば、私の想いなどちっぽけなもので、さほど重要ではないと思われるかもしれないが、それでも私は、彼女に想いを伝えたいのだ。


生きて想いを伝えたいのだ。


私はそう最後まで口にすると、ゆっくりと目を開けた。

涙でぼやけた眼は、目の前に立つ老爺を写し、私はポケットにある冷えきった携帯を強く握りしめた。


「何か見えましたか?」

老爺は優しく私に尋ねた。

「はい」


「ほぉ。次はどんな景色が?」

老爺は興味深そうに、私の目を覗いた。


「夢ですよ」


「ユメ?」


「はい。夢です」

私は微笑みながらそう答えた。


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