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「おいしい」


 思わずアベルは顔をほころばせる。


「そう? それは、よかった」


 二口、三口と葡萄酒を飲みすすめるアベルを、リオネルは穏やかな表情で見守っていた。

 ふとアベルはあることに思い至って、葡萄酒とリオネルを見比べる。


「まさか、リオネル様が作ってくださったのですか?」


 アベルの問いには答えず、リオネルはほほえんで自分の木杯に口をつけた。

 ……明確な答えは返ってこなかったが、おそらくそうなのだろう。

 この絶妙な風味を出せるリオネルは、料理の腕も一流なのかもしれないと、アベルは思った。むろん、彼が調理場に立つことなど一生ないだろうが。


 すぐ隣に腰を下ろしたリオネルを、そっと見やる。

 朱色の火に照らされた端正な横顔が秘める想いを、アベルは知る由もなかった。





『おまえが、毒味など――』


 自分で作ったのかどうかと問われて、リオネルの耳によみがえったのは、ベルトランの苦い声。

 アベルの葡萄酒を用意したとき、リオネルはベルトランが止めるまもなく、それを自ら毒味した。

 ベルトランが激怒したのも、無理からぬことだ。


 向こう見ずかもしれない。

 家を継ぐ者としての、自覚が足りないかもしれない。

 だが、それでも万が一毒が入っていれば、抵抗力のないアベルが飲むよりも、体力と、いくらか耐性がある自分のほうが、助かる可能性は高いだろう。


 大切なものを守ることができるなら、差しだせるかぎりのものを、リオネルは喜んで差しだすつもりだ――神にでも、悪魔にでも。



「おいしいね」


 リオネルにとっては甘すぎるほどだったが、アベルといっしょに飲むものなら、なんだっておいしかった。


「マドレーヌとセザールは、きみとの別れを哀しんでいたね」


 久しぶりにアベルと話す機会に恵まれたので、リオネルはラロシュ邸の前庭での別れを思い出しながら語りかける。


「あれは違うのですよ、リオネル様」


 アベルの水色の瞳に、淡い笑みがにじんだ。


「なにが違うんだ?」

「お二人にとって最も哀しかったのは、わたしとの別れではなかったのです」


 不思議そうな顔のリオネルに、アベルはいたずらっぽく笑う。


「わたしと挨拶を交わすまえに、すでにお二人は泣いていらっしゃいましたから」

「それは、もうすぐきみに別れを言わなければならなかったからではないのか?」


 アベルは首を横に振った。


「セザール様が涙ながらに教えてくださいました。レオン殿下と離れたくないのだと」


 言葉を失ってリオネルはアベルを見つめた。

 たしかに、アベルの直前に二人が別れの言葉を交わしていた相手は、レオンである。


「そうなのか?」


 葡萄酒の杯を唇に当てたまま、アベルは逆に問い返した。


「なぜお疑いになるのですか?」

「いや――」


 リオネルは慌てて否定する。


「きみの言葉を疑ってなどいない。ただ、二人がレオンになついているようには見えなかったから。二人とも、最初から最後までアベルのことばかり話していた」

「それは多分……なんというのでしょう、あの地方では珍しい金色の髪や瞳の色などを、気に入ってくださったのだと思います」


 さすがのアベルも、二人が自分に憧れを抱いていたことには気がついていたようだ。

 だがそれさえも、リオネルにとっては意外だった。子供たちからあれほど明白な好意を向けられても、アベルの鈍感さでは気がつかぬものと信じていたからだ。


「レオン殿下は二人のそばに最も長くいらした方です。子供と遊び慣れていらっしゃるわけでも、扱いが……こう言ってはなんですが、特に上手でいらっしゃるというわけではありませんが――」


 声をひそめたアベルと、それを聞いていたリオネルは、顔を見合わせて密かに笑う。


「――でもあの方の優しさを、お二人は充分に感じていらしたのだと思います。ずっとそばにいたからこそ気がつかなかった、殿下の不器用な態度に隠された優しさと、その存在の大切さに、別れ際ようやく気がつかれたのでしょう」

「そうか……」


 話を聞き終わったリオネルは、柔らかい笑みを浮かべていた。


「そうだったのか。なんだか心が温まる話だった。アベルは、いいことを言うね」

「え? い、いえ、とんでもありません」


 リオネルに褒められると、突如としてさかしげに語ったことが恥ずかしく思えてきて、大きく首を横に振った。


「そうではないかと思ったことを、述べただけです……本当かどうか、わかりませんよ」

「きっと、アベルの言うとおりだよ」


 いつもより声が近くに聞えた気がしてふと横を向くと、リオネルの紫色の瞳がまっすぐにアベルに向けられていた。


 鼓動が高鳴る。

 空腹で飲んだ葡萄酒のせいだろうか。

 このような目で見つめられたら、きっとこの世の中のほとんどの女性は、彼の優しさを、恋愛感情と勘違いするだろう。

 ――彼が自分に、好意を抱いているかもしれない、と。


 アベルがそう感じたのは、当然のことである。なぜなら、リオネルが彼女に向けている感情は、純粋な恋愛感情以外のなにものでもないのだから。そして、彼がこのような目で見つめる相手は、ただひとりアベルだけなのだ。


 ここで、リオネルが自分に惚れているということにアベルが気づけば、彼が秘めてきた想いやそれに伴う悩みも、新たな局面を迎えたかもしれない。


 けれど、恋愛における度を越えた鈍感さゆえに、そのことにまったく気がつけぬアベルは、自分自身と、リオネルの双方に対して、むしろわずかな腹立たしさを覚えていた。世の女性に思い違いをさせてしまいそうな行動をとるリオネルに、腹が立ったのだ。

 けれど、なぜ自分自身に対しても苛立つのか、それはよくわからなかった。


「どうして怒っているんだ?」


 アベルの表情を読んだリオネルが、不思議そうに尋ねてくる。


 ――なぜ怒っているのか?

 答えられるわけがない。

 それでもなにか言わねばならないので、適当な理由をこじつけるしかない。

 今度は表情を読まれぬようアベルは顔を背けた。


「他人が口にする根拠のない話を鵜呑みにするのは、ときに危険なこともあります」


 突然、説教じみたことを言いだした少女に、リオネルはつかのまぽかんとしたが、すぐにいつもどおりの面持ちに戻ってうなずく。


「わかった。心にとめておくよ」


 やけに真面目な返答だったので、逆にアベルは驚き、振り返ってリオネルの顔をまじまじと見てしまう。

 主人に対して偉そうな口を利いてしまったという自覚はあったが、自分が抱いた怒りは間違っていないと信じていたので、謝ろうとは思わなかった。


「心にとめておくから、またきみの話を聞かせてほしい」


 再びまっすぐな瞳に見つめられて、アベルは内心で密かに溜息をつく。

 ひとりで苛立っているのが馬鹿らしくなるくらい、素直で優しい眼差しだからだ。

 この人にはかなわないと、アベルは思った。


 自然とこぼれる笑みを添えて、アベルは返答する。


「わたしの話でよければ、いつでも」


 あどけない少女の笑みを、リオネルは胸が締めつけられる思いで見つめた。


「ありがとう、アベル」


 根拠のない話でもいい。

 いっそ、嘘でもいいのだ。

 アベルがつむぐ物語なら、どんなものでも聞いていたい。

 アベルがつむぐものならば――。


 ……ふと、リオネルの脳裏によぎるものがあった。

 ローブルグに伝わる歌。


 彼女がヴィートと二人きりで会ったときのことを、陰で見守っていたベルトランから報告を受け、リオネルはすべて知っていた。

 アベルが彼と踊ったということに、焦げつくような感情を覚えたが、それも自分が交わしたヴィートとの約束である。


 約束――それは、二人きりになることを許可するということ、そしてその時間だけはアベルの身を完全にヴィートに委ねるということだった。むろん、彼女を傷つけないことを条件として。


 そのため、硬く両目を閉じて、ベルトランの報告を聞き忍ぶしかなかったのだ。

 くだらない約束をしたな、とベルトランは言った。

 だが、しかたがなかった。ヴィートに機会を提供することで、アベルに選択をしてもらいたかったのだ。


 もしアベルが、ヴィートに対してわずかでも恋心を秘めているなら、そしてヴィートと共にラロシュ邸に残りたいという気持ちが少しでもあるなら、彼女に、自分自身の未来について選択する機会を与えてやりたかった。

 彼女が幸せになる機会を、奪いたくなかった。

 選択の余地をアベルから奪い、彼女を自分のもとに縛りつけたとしても、けっしてリオネルに真の意味での幸福は訪れない。

 なぜなら、アベルの幸福こそが、リオネルの幸福だからだ。

 彼女が幸せでなくて、どうして自分だけが幸せを感じていられるだろう。


 後悔させたくなかったのだ。

 そして、後悔したくなかった。

 アベルを愛しているからこそ。


 結局、アベルはヴィートに別れを告げて、今までどおりリオネルと行動を共にしている。

 この結末にリオネルがどれほど安堵したか、言葉に言い尽せぬほどである。


 けれど、話をすべて聞き終わったとき、心が穏やかだったわけではない。


『おまえがあの場に、いなくてよかった』


 ベルトランはそうつぶやいたが、リオネル自身も同感だった。

 ヴィートの腕に抱かれて踊るアベルの姿を見て、平静でいられたわけがない。

 交わした約束のことなど瞬時に忘れ去り、アベルの幸せを願う気持ちさえ見失い、ヴィートの腕からアベルを奪って自らの腕に引き寄せていたかもしれない。


 ちなみに、アベルのことを妹のような存在として大切に思うベルトランは、「ヴィートを殴ってやろうかと思った」と、あとでリオネルにぼやいていた。


 さらにもう一点、今回の報告のなかで、リオネルには気にかかることがあった。


『あれは、ローブルグに伝わる歌だ』


 踊りの最中に、アベルが口ずさんだ歌のことである。

 ベルトランはその歌を聞いたことがあるという。


『たしか、「ひなげしの――」なんとかという題名だ。わかるか?』


 リオネルは首を横に振った。


『おれは、子供のころ聞いたことがある。五月祭のときに、ローブルグから流れてきた踊り子が、町の広場で歌っていた』

『…………』


 ローブルグ。

 シャルム王国にとっては、歴史的な敵国である。

 金髪と、青い目は、ローブルグ人に多い。


 これまでの話と、アベルの容姿を思い浮かべて、リオネルとベルトランが似たような仮説を立てたことは、互いに口にせずともわかった。


『詮索しないことが約束だったな』


 思考を断ち切ろうとするベルトランのひと言に、リオネルは無言で瞼を伏せる。


 二年前アベルと交わした約束に、彼は今でもきつく縛られていた。

 彼女の過去を詮索しないこと。

 アベルを男として扱うこと。

 そのためにリオネルは愛する女性ひとに愛を伝えることができず、また、アベルが苦しんでいる過去に、手を伸ばすことができないのだ。


 できることは、アベルの心の声にただ耳を押し当て、理解しようともがくことだけだった。


 自分には帰る場所がないと、かつて彼女は言った。


 ――あなたのこともだれのことも、信じられない。

 ――苦しくて、苦しくてしかたがない……。


 泣きながらアベルは自分に訴えた。

 そんな彼女のためになにができるのか、また過去は分からずとも、その深い苦しみからアベルを救ってやることはできないのか。リオネルは考えるのだった。




 出口の見えない問いをひとまず頭の隅に寄せて、リオネルは葡萄酒を口に含んだ。

 隣に座るアベルがこちらにちらと視線を向けたのを感じて、ふと知りたくなる。


 ひなげしの――なんという歌だろう。


 過去を詮索するためではない。彼女が唇に乗せた歌を、知りたかった。


「アベルは、好きな楽曲があるのか?」


 やや唐突な質問に、アベルは不思議そうにリオネルを見返したが、すぐになにかを考えるような面持ちに変わる。

 そして、その面持ちのまま答えた。


「たくさんありますよ」


 ひとつだけに絞ることができなかったのだ。


「そうか、たくさんあるのか」


 求めていた答えではなかったが、リオネルはこれ以上追及しなかったし、不満にも思わなかった。

 たくさんあるならば、これから共に過ごすなかで、時間をかけてひとつひとつ知っていけばいい。そのなかに、ひなげしのなんとやらなる歌も入っているだろうから。


「あ。あの歌が好きです」


 急に思い出したように虚空を見上げてから、アベルはリオネルに笑顔を向けた。


「どれ?」

「『舞い散る雪は、花。群青色の空から、色とりどりの……』という――、なんという歌でしたでしょうか」


 リオネルは微笑んだ。


「『虹色の街』だ。おれも好きだよ」


 シャルムに伝わる冬の歌である。恋歌であるが、素朴な歌詞なので、冬になるとよく幼子に子守唄として聞かせたりもする。


「リオネル様も?」

「よく母が歌ってくれた」


 リオネルの返答を聞いたアベルの顔に、花がほころぶような笑みが広がっていく。なぜだか無性に嬉しかった。

 離れた場所で生まれ育ち、身分も、立場も何もかも違うのに、同じ歌を好きだということが、心の近さを感じさせる。


 岩の地面に視線を映し、葡萄酒の杯を持っていないほうの手で軽く拍子をとりながら、ささやくような小声でアベルは「虹色の街」を口ずさみはじめた。

 だれかに聞かせるためではない。自分のために歌うのだ。

 だから、自分の耳に届くだけの声でよかった。


 けれど、その声は隣にいたリオネルには聞こえていた。

 ふとゆるむ彼の表情は、アベルの歌を耳にして、長旅と重責による心身の疲れが、たしかに癒やされる瞬間をあらわしていた。


 アベルの歌声にあわせて、リオネルもそっと歌いだす。二人の視線がからみあって、互いにはにかみながらも、あたたかい笑みがこぼれた。


 近くに控えていたベルトランが、「虹の街」を歌いはじめた二人に苦笑する。

 声をそろえて歌う姿はまるで幼い兄妹のようだが、仲がよくてほほえましい。

 ヴィートと踊ったときにアベルが口ずさんだのは、哀しい歌だった。だが、リオネルと共にいるときは、こんなにも明るさと希望に満ちた歌をうたうのだ。

 たまたまかもしれない。だが、それがなにかを象徴しているようにも、ベルトランには思えた。そうであってほしいと、願った。


 二人の声に、ベルトランもまた自分の歌声を混ぜる。

 ベルトランも、耳に慣れ親しんだ歌だった。


「なんだ? 合唱会か?」


 外で自らに仕える騎士たちと共にいたディルクが、このときようやく洞窟に現れる。彼のそばにはレオン、そしてマチアス。


 親友の視線を受けて、リオネルはいたずらっぽく笑い、アベルはやや恥ずかしそうに顔をうつむける。だが、歌うことはやめない。


「おれたちも歌おうぜ、レオン」

「もう春だぞ? 冬の歌などあわないだろう」


 もっともな意見だが、そのようなことは完全に無視して、ディルクは共に歌いはじめた。


 主人らの合唱に、食事の準備をしていた者や、休憩していた騎士たちが、驚き顔を上げる。そして自然と、ひとり、またひとりと顔をほころばせ、主人らと同じ曲を口ずさみはじめた。


 洞窟内から響いてくる合唱に、木陰や岩陰で雨をしのいでいた騎士たちが自然と加わり、それは数百人の男たちと、ひとりの少女の大合唱となった。


 まだ肌寒い春の日。

 山賊討伐を無事に終えて、自らの家に帰還する者たち。

 彼らの心は、ひとつだった。


 しかたなくレオンも歌いだす。

 だがすぐに、ディルクの渋面に睨まれることとなった。


「どうしたのだ?」

「レオン、おまえの歌は調子っぱずれで、聞き苦しい」


 仮にもこの国の王子に対し、容赦のない指摘をしたディルクに、レオンは渋面を返した。


「しかたないだろう、おれは歌が苦手だ」

「いっしょに歌おうと言ったのは撤回する。おまえは、歌わなくていい」


 そう言ったディルクの腕を、マチアスが無言でつねった。


「いてっ」


 幼いころから、悪さやいたずらをしたときに、監督係であったマチアスから与えられていた懲罰である。この日は久しぶりの登場だった。

 なぜ罰を受けたのかわかってはいるので、ディルクは従者を睨んだだけで、口に出してはなにも言わなかった。


 気がつけば雨は小降りになり、やがて歌が終わるころには、わずかな晴れ間がのぞきはじめている。

 止まない雨を、その雲間から差しこんだ一条の光が照らした。

 照らされた雨は輝き、宝石の欠片が降り注いでいるようだった。


「虹が出ましたよ。アベル殿、見えますか?」


 歌い終わったアベルに、マチアスが声をかける。


「虹ですか?」


 瞳を輝かせてアベルは立ち上がり、洞窟のなかから空を見上げた。


「ちょうど、『虹』の歌を歌っていたからでしょうか」


 アベルに向けられた従者の言葉を、つねられた仕返しとばかりにディルクが茶化す。


「おまえがそんな台詞を言えるとは、知らなかったよ、マチアス。今の今まで、おれの前では隠してきたのか?」

「貴方にはそぐわないでしょうが、アベル殿には似合うと思いましたので」


 平然と返されて、ディルクは片眉を上げる。その脇で、レオンが笑っていた。


「たしかに、ディルクが『虹が出た』なんて喜んで言っていたら、気持ちが悪くて胸焼けがしそうだ」


 今しがた歌をけなされたばかりのレオンの反撃は、マチアスの返答に増して手厳しかった。


「そこまで言うか」


 ややふてくされたディルクに、リオネルが気の毒そうに声をかける。


「そんなことはないよ、ディルク。小さいころ、虹を見つけて喜んでいたときのおまえは、とても純粋で素直だった」

「リオネル、それはまったく慰めになっていないぞ」


 そうかな、と首を傾げるリオネルの脇で、レオンだけではなく、ベルトランとマチアスでさえも笑いを噛み殺していた。

 そのとき。


「ディルク様は、虹のお似合いになる、素敵な方だと私は思います」


 意を決して小さな声を発したのは、アベルである。

 自分の元婚約者が、虹が出たと喜んでいたら気持ち悪いなどとは、けっして思わなかったからである。


 だが発言したは良いものの、皆の視線をいっせいに受けて、彼女の白い頬は瞬時に緋色に染まった。


「いえ、あの……」


 それ以上なにも言えずにうつむくアベルに、ディルクは人懐こい笑みを向ける。


「ありがとう。アベルに言ってもらえるのが、一番心身に染みるよ」


 どこからか冷気も感じるけど、と付け足したつぶやきは、ディルクの喉の奥で消えた。

 親友の視線がひどく冷ややかな気がするのは、ただの思い過ごしであろうか。怖くて、リオネルの顔を見ることができない。


「虹、きれいだな」


 ベルトランのひと言に、皆が顔を空へ向けた。ディルクにとっては、願ってもない助けだった。


 周辺の空が次第に明るくなっていく。

 それでも降りやまない雨は、広がっていく春の日差しにきらめき、雪のようにも、花のようにも見える。

 まだ黒雲が覆う遠い空のもと、連なる丘にかかった一本の虹は、まさに絶望にかかった希望の橋のようだった。



 先ほどまで皆で口ずさんでいた歌を、アベルは、今度は自分の心のなかだけで再び歌った。

 完璧に記憶している歌詞のひとつひとつを、無意識のうちに頭のなかで転がす。

 山賊討伐を命じる手紙について知った瞬間から、今日こんにちまでのことを、ゆっくり、ゆっくりと思い出しながら。


 リオネルの父公爵の口から討伐について聞いたときの、驚きと不安。

 大勢のシャサーヌの民に見送られた、出立の朝。

 ベルリオーズを発ってからの宿営の日々。

 リオネルとの、心のすれ違い。

 ラロシュ侯爵とその家族、ブリアン子爵、セドリック、シャレット男爵、そしとウスターシュなど、多くの貴族との出会い。

 囮になった夜。

 ヴィートとの出会いと別れ。

 ブラーガとの戦い。

 負傷した兵士たちの、痛ましい姿。

 祝勝会の華やかな夜。


 そして、今――。

 大切な人たちと共に、虹を見上げている。



 心にある苦しみは、消えない。単なる時間の経過は、けっして痛みを癒しはしない。

 失った多くのもの。

 諦めた多くのもの。

 ――けれど。

 代わりに得た多くのものがある。


 それを再び失うことが恐ろしくて、失うことの恐怖にいつだってアベルは怯えている。いつか悪魔が来て、再びすべてを奪い去っていく日がくることに、怯えている。いっそ自らの手で、すべてを絶ち切りたくなるほどに。

 恐怖に苛まれながら、けれどいつかその恐怖に押しつぶされるまで――その日までは、命をかけて大切なものを守り続けたい。


 そのために、今を生きようと思う。

 きっと「永遠」なんてない。

 けれどこの瞬間だけは幸せだと感じられる。

 きっと、それだけがすべてで、それだけが真実だから。


 ――だから。


 ――神様。


 どうか。

 どうかもう少し。


 もう少しだけ、リオネル様のそばで生きていくことを、許してくださいませんか?





























 舞い散る雪は花

 群青色の空から

 色とりどりの花


 雪は 降り積もり

 降り積もり

 きみがいるこの街が 虹色に包まれる


 迎えにいくよ

 この手には なにもないけれど

 きみを迎えにいくよ



 舞い散る雪は宝石

 哀しみ背負った空から

 色とりどりの宝石


 雪は 降り積もり

 降り積もり

 きみがいるこの街を 輝きで包む


 迎えにいくよ

 この手では なにもつかめないけれど

 きみを迎えにいくよ


 枯れた木も 凍った池も

 遠い 遠い きみの家も

 すべてが虹色に輝いている


 迎えにいくよ


 だから 待っていて

 ふたりならきっと

 ――きみとならきっと

 なにかを見つけられる 気がするから


 今すぐきみを

 迎えにいくよ



(『虹色の街』)









〈第二部終わり〉







第二部、完結いたしました。

様々なご意見や思いを抱かれたかと思いますが、作者が自分のためだけに書いたお話が、少しでも読者様の御心に触れることがあったなら、とても幸いです。



いつもお読みくださっている読者様、ここまでお付き合いくださり心から感謝申し上げます。

拍手や評価やあたたかいメッセージに励まされ、ここまで投稿を続けることができました。


この1年あまり、メッセージをくださるか読者様から、本当にあたたかく、優しいお言葉をたくさんいただきました。

体調のこともご心配いただき、このように拙い作品を評価してくださり、楽しみにしていると言ってくださり、とても励まされました。

何度も投稿を断念しようと思い、そのたびに、けれどたったひとりでもこの作品を待っていてくださる方がいるなら…と、投稿を続ける原動力になりました。

言葉にならないくらいの感謝の気持ちです。


ずっと読んでくださっているにもかかわらず、作者の力不足ゆえに、みなさまにとってご満足いただける展開にはできていなかったかと思います。どうかご容赦ください。



いずれ第三部も投稿していきたいと思いますので、そのときには再びお付き合いいただけたらなにより幸いです。



たくさんの感謝を込めて。

m(_ _)m yuuHi

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