安らぎの必要性
私が小学生のとき、こんな夢を見た。
夢の中で私は老婆になっていた。
腰が曲がって肌がよぼよぼで目もはっきり見えない、身体中に倦怠感が襲い疲労感が抜けない、要は老人そのものになっていた。
空は雲一つない快晴で、おそらく春であろうと推測できた。
太陽がぽかぽかしていて暖かかった。夢の中だというのにそのまま眠ってしまいそうな陽気だった。
私は右手に杖を突いて歩いていた。ゆっくりと静かに歩いている。
傍らには看護師さんがいて、私の左腕を掴んで補助するように寄り添っている。
周り一面には花が咲き乱れていて、多分お花畑だった。すぐそばには小川がせせらいでいる。流れる水は澄んでいて綺麗だった。
「…………」
看護師さんが何かを私に言った。
「…………」
私は何かを言って応じた。
するとどうだろう、辺り一面が光り輝き、旋風が舞い、花びらが舞い踊り、私に降りそそぎ――
そして目が覚めた。
これで終わりだ。何の変哲もない、夢としてはありふれた内容だろう。
だけど、私は救われた気がした。
幸福を感じたのだ。
救われた気分になるのは、一つは私の家庭環境もあるけれど、それを除いても見られて幸せだと感じたのは理由がある。
小学生の頃は分からなかったけど、今なら分かる。辛いことや悲しいこと、怒りたいことや投げ出したいことを経験してきた、今の大学生だから、この夢に希望すら抱いているのが分かる。
はっきり言ってしまおう。
あの夢は私の未来を予知した写し鏡のようなものだと。
もちろん私に予知夢なんて能力はない。
これはただの妄想だ。
思い込みだ。
だけど、そう思わなければとてもじゃないけど生きていかれなかった。死んでしまいそうだった。あんな辛くて苦しい日々を送ることなって到底できなかった。
あの夢の通りに老婆まで生きられるって信じられなかったら私は自殺しただろう。
今でこそ明るいKYな性格である私だけど昔は暗くて人の顔色を読んでいた臆病な性格だったのだ。
頼るものがなければ、縋るものがなければ生きていけなかった。
小学生のときに見た夢だけれど、今でも思い出す。
というより忘れられないに近いけれど。
しかし悪夢とは違って呪縛されるのではなく、むしろ優しく包んでくれるものだ。
悪夢ではなく吉夢。
中学生になっても高校生になっても大学生になっても私を導いてくれた。
家族よりも友達よりも何よりも。
信じられる唯一の夢。
信じきれる無二の夢。
今の私を形成したものと断じてもいいだろう。
だけど――
「あやめちゃん。私はその夢を捨て去る勇気を持ったほうが賢明だと思うよ。何かに縋りたい気持ちは分からなくないけれど」
私が心から信頼している主治医の言葉だ。
「アメリカの大統領であるフランクリン・ルーズベルトの妻エレノア・ルーズベルトは言いました。『未来は美しい夢を信じる人のためにある』と。あやめちゃん、あなたのその夢は未来を信じているから肯定しているのではなくむしろ逆に過去を忘れ去りたいからこそ今でも覚えているんではないのかな? あるいは辛い現実をなくしたいからかも」
流石、私の主治医だ。ぐうの音も出ない。
否定したいけど、否定できない。
「寝る方の夢は現実逃避の究極的な手段だよね。だから夢の中でスーパーマンになれたりセーラームーンになれたりする。もちろん悪いことじゃあないけど、現実の問題は解決できないよね」
だって、現実にはスーパーマンもセーラームーンがいないんだから。
そう続ける先生は笑ってたっけ? それとも泣いてたっけ?
今では覚えていない。
夢と違ってすぐに忘れてしまったから。




