安らぎの必要性 その2
「佐々木って昔からよく分からないヤツだと思ってたけど、実際問題、本当に訳が分からないよな」
「はあ? それってどういう意味?」
「私も佐々木センパイのことよく分からないですよ。変な人脈が多すぎです」
知り合いに精神科医がいると告げてから、友達と後輩に変な目で見られているけど、今日も私は元気です。
まあそんなことはどうでもいい。
朝起きて一番に先生に電話して(朝の八時にかけた。少し迷惑だったかな?)事情を説明すると「午前十時からならOK」と返事をもらったので急いで春花ちゃんにご飯を食べさせて、ついでに香奈と京子にもご飯を食べさせた。
トーストとハムエッグとサラダ。
実に健康的だ。
昨夜みたいなことが起こらないように春花ちゃんに気を配っていたけど、そんな心配は要らないと言わんばかりにぱくぱく食べてくれた。
昨日は寝ぼけていたようで今朝はちゃんとトーストをふうふうしながら食べていた。
もしかすると、触れてはいけないトラウマに触れてしまったのかな?
とりあえず先生に報告しておかなければならないな。
そんなわけで今朝は何のトラブルもなく終えられた。まあ特筆することと言ったらハムエッグに何をかけるかどうか香奈と京子が言い争っていたことかな。
ちなみに香奈は醤油、京子はソースだ。
まったく、マヨネーズが至高かつ究極であることは自明であるのに、何をくだらないことで争ってるのか理解できないよ。
まあそんなこんなで準備できたので八時五十分くらいに出発。
歩いて駅まで向かい電車に乗る。
休日とはいえそれなりに混んでいたので座れなかった。春花ちゃんには我慢してもらおう。
「その先生って信用できるのか?」
電車に乗るやいなや訊ねてきた京子に私は「信用できるよ」と答えた。
「私がまともになれたのはその先生のおかげでもあるんだから、信用できるでしょ?」
「信用できねえよ。佐々木、お前自分がまともだって思っているのか?」
思ってなんかないけど、そう言ってしまうと話がこんがらがるのでとりあえずは「ひどいなあ京子は」ととぼけてみる。
「知り合ったのは中学二年の頃だから、そこからまともになったって分かるでしょ?」
「ああ。馬鹿みたいに明るくなったのは知ってるが……まさかそんな先生が居たなんて初耳だぞ」
「私も聞いたことないです」
香奈が不審げにこっちを見てくるので私はどう答えたらいいか悩んだ。
ここは正直に言うか。
「うーん、だって精神科医の主治医が居るなんて気軽に話せないじゃん」
「それはそうですけど……」
「なんだか裏切られた気がするな」
「裏切るって、人聞き悪いなあ」
苦笑いすると京子は「いや、言い方が悪かった」と訂正する。
「その主治医の先生ほどあたし達を信用できていないってことだろう? それがなんだか悔しくてな」
ああ、そんな見方もあるのか。
「信用してるって。二人とも。まあ言わない理由は二つあって、一つはさっき言った気軽に話せないってことだよ」
「それは分かります。むしろ嬉々として話したらどう反応していいのか分かりませんし」
「でしょ? そう考えたら信用とか信頼とか関係ないでしょ」
「もう一つは何だ?」
すかさず訊いてくる京子に私は腕を組み考えるフリをして、そこからにっこり笑って言った。
「二人とも、私の専用ルートに入ってないからかな」
「はあ?」
「またですか」
京子は呆れる顔をして、香奈は反応しづらい顔をした。
「……るーとってなんですか?」
おっと、思わぬ伏兵だ。
今までおとなしくしていた春花ちゃんが私たちの会話に入ってきた。
「えっとね、ルートって言うのは――」
「黙れ佐々木」
説明しようとしたけど京子に止められてしまった。ちゃんと小学生にも分かる説明をしようとしたのに。
「センパイの頭の中は18禁だらけだから駄目です」
「もう二十歳だからいいでしょ」
「そういう問題じゃあないです。ていうか今電車の中でしょうが」
そうだった。辺りを見渡すと結構目立っている。大学生と高校生の三人と一緒に小学生が混じっているのは少し奇異に写るのかもしれない。
「春花ちゃん、ルートっていうのは気にしなくていいんだ。佐々木の妄言にいちいち関わっていたら疲れて疲労骨折するから」
妄言だとか疲労骨折だとか難しい言葉並べて小学生が理解できたのか甚だ疑問だけれどそれでも「はい、わかりました」と頷く春花ちゃんだった。
この素直さ、悪く言ってしまえば分からないことを分からないままにしておく悪癖は先生に報告しておかなければ。
それは多分、理不尽をそのまま受け入れるってことだから。
「それで話を戻すが、その主治医ってどんな人なんだ?」
「うーんとね、優しい人だよ。厳しいことも言うけど基本的には優しい人。頭も良いし、それでいて偉そうじゃないし」
「医者なんだから頭良いに決まってるだろ」
「まあそうなんだけどさ。いわゆる『勉強はできるけど馬鹿』な人じゃないんだよ」
これは長い治療の期間の最初のほうに気づいたことだった。いや、気づいたというよりも気づかされたと言い直すべきか。
京子は髪を梳きながら「ふうん」と納得した。
「優しい人っていうのは本当みたいですね。休日の朝に電話して二つ返事で了承してくれたんですから」
春花ちゃんの肩辺りを優しく握りながら、香奈はリラックスしたように言った。昨日と比べて心に余裕ができたようだ。
春花ちゃんも身体を預けていて、二人の間に信頼感が生まれたみたいだ。
「めったに人を褒めないセンパイがそこまで言うんでしたら安心できますし」
「二人ともさあ、私をなんだと思っているのかな?」
「人格破綻者」
「変人です」
「……即答しないでよ」
まったく、こんなまともな性格な私に対して酷いこと言うなあ。傷ついちゃうよ。
「そういえば診察代とか薬代ってどうなってるんですか? というより保険証ありませんし、割高になるんじゃあないですか?」
香奈の疑問に私が答える前に京子が「足りなかったらあたしが払う」と気風の良いことを言い出した。
「どうせあぶく銭だし、善行に使った方がいいだろう」
「あぶく銭……ですか?」
「ああ、葉山には言ってなかったけど、あたし結構お金持ってるんだ」
「そうなんですか」
なんだか京子が払う流れになったけど、それに割り込むように「そこはあまり気にしなくていいよ」と言った。
「電車の中だからあまり詳しく言えないけどお金の問題はクリアしているから平気だよ」
ていうか朝電話した段階で解決しているので問題なかったのだ。
「そうか。まあ足りなかったら言ってくれ」
お金におおらかなのか、あぶく銭だから使い切りたいのか分からないけど(両方だろうな)これ以上負担になっても困るし、そこは頼らないようにしたい。
お金の貸し借りは慎重に。人間関係の基本だ。
「とりあえず行ってみないと分かりませんけど、信用していいんですよね」
何度も訊いてくるということは信用していないのと同義だけれど、まあ会ったこともない人を信用するって難しいよね。
石橋を叩くような慎重さも必要かも。
「うん、信用していいよ。安心して」
「お前が言うと信用できないよ」
うん、話がループしてるなあ。
それから目的の駅に着くまで問答があったけれど、最後には受け入れてくれたようで、一安心した。
最寄りの駅から七駅。
所要時間は二十八分ほど。
上り電車ということもあって都心に近づいているけど、私たちが住んでいる地域は元々が田舎なのでそこまで栄えていない。静かな環境だ。
「ようやく着いたな……ここからは歩きで行くのか? それともバスか?」
「歩きだよん。そんなにかからないよ。三十分くらいかな」
私の返事に香奈は「結構歩きますね」と気楽そうに言った。
「ちょっとしたハイキングですね」
「山に登らないけどな。駄弁ってるのもあれだし、さっさと行くか」
というわけで出発。
私、京子、香奈と春花ちゃんの順番で先生の元へ向かう。
「いや、ドラクエじゃあないだから並んで歩かなくてもいいだろ」
「道知ってるのは私だけなんだからしょうがないじゃん」
「そうですけど、横一列でもいいんじゃないですか?」
「自転車とかどうするのさ」
私の一言に二人は「まあそうだけどさあ」みたいな顔をした。
そんなこんなでフォーメーションは変えずにゆっくり歩いた。
まあ女子が三人集まったら姦しいという漢字があるとおり静かにできなかったけど。
大学のちょっと変わった講師の話だとか、高校時代の懐かしい話、今年のテニス大会で見たスーパープレイの話、ちょっと外れて芸能人の話題だとか好きなブランドの服の話だとか喋った。
もちろん春花ちゃんを交えて。
もっとも春花ちゃんから話してくれることは少なかったけどね。少しでも心の琴線に触れてくれればいいけど。
他愛のないことを話しながら歩いていたら気づかない内に先生の家に到着した。
「到着! ここが先生の家だよ」
「……家? おい佐々木、あたしたちは病院を目指してたんじゃないのか?」
不審げに問う京子に香奈が「そうですよ」と同調した。
「こんなどこにでもあるような住宅地の一軒家に、センパイの先生がいらっしゃるんですか?」
「そうだよー。ここが先生の自宅兼仕事場。結構綺麗でしょ。築十年くらいだねえ」
驚くのも無理はない。だって驚かせるために黙っていたから。
住宅街の中心から東に寄ったところに先生の家はあった。庭付き一戸建てのサラリーマンが憧れるような外観の家だった。
「私が物を知らないからか分かりませんけど普通、病院にいるものではないですか?」
「開業医だからね。どこで病院を開こうか問題ないんじゃない? よく知らないけど」
「いや、良くないだろ。本当にここなのか?冗談じゃないよな?」
「えっと、そうだね、冗談じゃないよ。ここに先生はいる」
矢継ぎ早に質問され続けるのはしょうがないか。
私も初めてみたときは嘘だと思ったし。
「疑問なんですけど、こんなところに建てて採算取れるんですか? 看板らしいものもありませんでしたし、どうして目立たないところで開業したんでしょう」
「目立たないからこそいいんじゃない」
私は以前先生から聞いた話を思い出していた。
「精神科医の患者さんって目立つことを殊の外嫌がるんだよ。恥ずかしいって感情があるのかな。もしくは自分に負い目があるかも。その辺のことは分かんないけど。だから精神科の通院は結構ハードなんだよ。周りから変な目で見られるし。その点、こういった一軒家のほうがそういった負担が解消されるし。何より入りやすいでしょ」
「そういうものなのか?」
「よく分からないですね……」
私の説明は京子と香奈にいまいち理解されないようだった。
「ていうか大学病院のほうがいろんな患者がいるから目立たないんじゃないか?」
「うーん、そうかもね。でも待つ時間がながいからね。こういった個人の開業医のほうがいいんじゃない?」
「他人事ですね。通ってたんじゃないんですか?」
通ってたからこそ自分を客観的に見られるし俯瞰で見下ろせるんだろうなあ。
「とにかく、いつまでも話してるのも何だから入ろうよ。もう時間になるし」
私のこの発言で「そうだな」と京子が首肯した。二人とも納得はしなかったようだけれど、その考えが払拭されるよう先生に期待しよう。
玄関にあるドアホンを押す。内側から音が鳴り「はーい」と声がした。先生の声だ。
ガチャっとドアが開き、先生が現れる。
「やあ久しぶりだね、あやめちゃん。つい一ヶ月前に会ったばかりだけれど相も変わらず不健康そうな顔をしているね。ははっ、冗談さ。元気そうで何よりだ。それより心のほうは不養生になってないかい? 君は思いつめるとどんどん気持ちが沈んでいく性質だからある程度ガス抜きが必要なんだよ? まあ何年も私の治療を受けているあやめちゃんだから重々承知しているだろうけど。一ヶ月前にも言ったけれどまだ治療は終わってないんだから無理は禁物だよ。君の病は対人関係に難を示すものだから気をつけて損をすることはないんだよ。そうそう、大学で友達はできたのかい? うん? これもまた一ヶ月前に聞いたことだけど、その様子だとまだできていないようだね。まあ高校時代の友達が居れば大学で友達が居なくてもいいというあやめちゃんの気持ちは分からないことはないけど。私の時代の大学は開放的でありながらどこか閉鎖的な部分もあるしね。例えばお酒が呑めない人間には冷たいところとか。アルコールなんて消毒するときにだけ使えればいいんだと私は思うんだけど。これは余計なお世話かな。でも私は世話好きだということも長い付き合いだからわかるよね。理解してくれたら嬉しいな。ところで隣にいる人はあやめちゃんが言っていた京子ちゃんと香奈ちゃんと春花ちゃんかな。ああ、よく二人のことは話題に出してくれたからなんとなくのパーソナリティは熟知しているつもりだけど、不愉快なことがあったら遠慮なく言ってね。それでその少女が私の患者になってくれるのかな?
ああ、申し遅れたね。私の名前は榊由佳子。榊診療所所長の榊由佳子だよ。榊は木を示して申すと左から書くと覚えやすい。由佳子は口での説明がめんどうくさいから後で名刺をあげるね。呼び方は好きにしていいけど、おすすめは先生かな。気軽に先生と呼んでね。君たちみたいな可愛い子にそう呼ばれると天にも昇る心地になるんだ。そんな性癖の持ち主だけどこれからよろしくしね。はじめまして」
と長々一人で原稿用紙二枚ぐらい喋りまくったこの女性は私が六年ほどお世話になっている精神科医の先生、榊由佳子先生だ。見た目は二十代前半に見えるけど今年で三十三歳になる。白衣の下に赤いインナー。黒髪をポニーテールに結んで前に垂らしている。銀縁メガネがとても似合っているけど度のない伊達メガネだと私は知っている。
ていうか『はじめまして』までが長い。
「えっと……その、はじめまして?」
長台詞をばあっと聞いた衝撃だからか、目上の人に対して常に礼儀正しい京子が勢いに負けて敬語を使えずにいた。先生ぱねえ。
「…………」
香奈なんか挨拶すらできずにいる。
「はじめまして。私、春花です」
唯一まともに返事ができたのは一番年下の春花ちゃんだけだった。感情が枯渇しているせいかこういったマシンガントーク(一方通行)には動揺しないようだ。
「先生、お久しぶりです。先生のほうもお元気で何よりです。えっと、無理言って診療してくださりありがとうございます」
頭をペコっと下げると先生は微笑んで「いいよ」と身振り手振りで答えた。
表情が豊かで人懐っこい、医者ということを差し置いても好感を持てる性格をしているのだ。
「リアルよりも患者優先だからね私は。人を救うために医者になったんだから、その本分を果たさないとね。まあ立ち話もなんだから入ってよ。外寒いし。さあどうぞ」
招き入れてくれる先生に従って私、京子、春花ちゃん、香奈の順番で家に入った。その際「おじゃまします」と言ったのは私と春花ちゃんだけだったけど。
玄関で靴を脱いで、スリッパに履き替えると先生の案内でリビング(正確にはリビングダイニング)に行く。
「ここで待っててね。診察室をちょっと片付けないといけないから。そこにポットと茶葉があるから好きに飲んでて」
そう言い残して診察室に向かう先生。私は急須を探しながら「みんな緑茶でいいよね」と聞いた。
「いや、それより佐々木。あの人大丈夫なのか?」
「大丈夫って何よ京子。良い人でしょ?」
「良い人かどうかは判断しかねるけど、あの人は変人だろうが」
人の先生を捕まえて変人って容赦がないなあ。
私は変人だとは思わないけどね。
「ちょっと変な人だけど、でも良い人だよ。信用してほしいな」
「センパイの性格が変なのはあの人の影響だと分かりましたよ……」
酷いこと言うなあ香奈は。
五人分の湯吞みに緑茶を注いで一息ついて五分ぐらいした後、先生がやってきた。
「ああ、私の分まで用意してくれたんだね。ありがとう。あやめちゃんも気を使える人間に成長したのは嬉しいな」
ニコニコ笑いながら湯吞みを取り、ふうふう吹きながら少しだけ飲む先生。先生はコーヒー派なので緑茶は好まないけど私に義理立てしてくれたのだろう。まあ一人だけコーヒー淹れるのもどうかと思ったので淹れなかったのは気が利かないのかもしれないけど。
「さて、早速だけど診察しようか。春花ちゃん、一緒に来てくれるかな?」
そう先生が告げると春花ちゃんは湯吞みを置いて「はい、わかりました」とぼそりと言って椅子から立ち上がり先生についていく。
「ちょっと待ってください。二人きりで診察するんですか? 私たちも一緒に付き添ったほうが良くないですか?」
香奈が慌てて言うと先生は「うん?」と首を傾げた。
「こういう診療は一対一のほうがいいのだけど……春花ちゃんにも聞かれたくないこともあるだろうし。三人はここで待ってほしいなあ」
先生がやんわりと断ると香奈は「でも」と言いかけたけど京子が「おいやめろ」と遮った。
「専門家の言うことは聞いたほうがいいだろう。別に私たちが居ようが居まいが関係ないしな」
「……はい」
渋々了承したのを見て、先生は「さあ行こうか」と春花ちゃんを手招きして診察室へ向かった。春花ちゃんは特に逆らうわけでもなくそのまま従っていった。
「本当に大丈夫でしょうか……」
ドアが閉まって一分くらいして我慢できなかったのか香奈が零すように言った。
「大丈夫だよ。先生は優秀な精神科医なんだから」
私が努めて明るく言うと香奈は「センパイの知り合いだから心配なんです」と心外なことを言ってきた。
「それって酷くない? ていうか私の知り合いがみんな変人だったら香奈と京子はどうなのさ」
「私はまともですけどね」
「おい葉山、あたしはまともじゃないのか? 良く考えてから物を言え」
「す、すみません。でも私、春花ちゃんが心配で」
どうやら二人とも不安でしょうがないようだ。香奈は落ち着かないし京子は苛立ってるし。
「まあお茶でも飲んで落ち着きなよ。それなりに高い茶葉だから美味しいよ」
そう薦めたけど、二人とも手をつけなかった。何を心配しているのか全く理解できなかった。
しばらくそのまま沈黙が流れた。私は壁に掛けてあった時計を見つめてぼうっとしていたけど、その針が二十分くらい進んだとき、京子が私に聞いてきた。
「診療ってどのくらいかかるんだ?」
「詳しい時間は分からないけど、だいたい三十分くらいだよ。だから後は大体十分。すぐに終わるさ」
「結構短いんですね。私は一時間ぐらいかかると思ったんですけど」
香奈の疑問に私は「そうでもないよ」と答えた。
「普通の病院は十分から十五分ぐらいしか診ないしね。それと比べたら長いほうだよ」
自身の経験から言ってみると香奈はますます不審な顔をした。
「私、ずっと考えていたんですけど、どうしてセンパイはそんなに詳しいんですか」
何が詳しいのかを言わない辺り、どうやら遠慮しているようだ。
「春花ちゃんの傷跡を見ても動揺してなかったし、それに加えて馴染みの精神科医が居てしかも通っていて、一体センパイは何者なんですか」
「…………」
ちらりと京子を見ると熱心に自分の爪を触っていた。どうやら助け舟を出してはくれないようだ。
「私の――」
「ルート云々はやめてください。正直言って不愉快です。真剣に訊ねているのに茶々入れないでくださいよ」
ありゃ、これ本気みたいだね。
「そうだね。ふざけるのも限度があるよね。でも茶化さないと話せない話でもあるんだ。だからごめん。今は言えないよ」
「私、センパイのこと、何も知りませんね」
香奈は疲れたように、疲弊したように呟いた。それから溜息して、そして言った。
「センパイって明るく振舞っていますけど、どこか暗いところがあって、陰を差してるところがあって、なんだか安心できないんですよ。不安になるっていうか」
隠してるつもりだったけど、バレてたみたいだ。
「例えばテニス部の合宿で、みんなが花火していたときにセンパイは一人離れて私たちを見ていて、何か傷みを抑えてるような感じがして、それが、その、とても嫌でした」
「気のせいだよって、言いたいけど、もう誤魔化せないよねえ」
昨日から涙腺が緩くなってるのか、話してるだけで泣きそうな雰囲気を醸し出している香奈に嘘はつけなかった。
香奈のことは信用しているし、人として好感を抱ける。最高の後輩だ。その後輩に対して嘘を重ねることは私の良心だとか心の弱いところを刺激しているようで、率直に言って心苦しかった。
それでも言うわけにはいけなかった。
何故なら私が築いてきた『飄々とした先輩像』を崩すことになるのは嫌だったから。
自分が演じているキャラクターを限界だからって放棄するのは私のちっぽけなプライドが粉々に砕けてしまう気がしてとても嫌だ。
二律背反。ジレンマ。
あちらを立てればこちらが立たず。
「ねえ、香奈。私の秘密をどうしても知りたい?」
「……はい」
質問に対して香奈は頷いた。
「私はどうしても話したくないの。それでも聞きたい?」
「…………」
この質問には肯定も否定もしなかった。
やっぱり香奈は良い子だなあ。
良い子過ぎて真っ直ぐで。
悪い子でひねくれている私は眩しくて見てられない。
「分かった。春花ちゃんのことが済んだら教えてあげる。まあたいした話じゃあないし、すぐ済むことだから過度な期待は禁物だよ」
私は問題を先延ばしすることに決めた。
「……分かりました。この場で話すことではないってことは分かりました。ちゃんと話してくれますよね」
「うん。私は守れない約束はしない主義だから。約束する――」
そのとき。
ドアが開いた音がした。
「結構早かった――」
京子の言葉が途中で止まった。
私はちょうど後ろを向いていたので、もっと言うと香奈と向き合っていたので何故言葉が止まったのか分からなかった。
「――っ!」
目の前の香奈が驚愕の表情をしていた。
なんだろうと思って振り向いてみた。
春花ちゃんが大粒の涙を流していた。
昨夜のように騒いだりしない。けれど涙を拭っても拭っても止まらないくらい泣いていた。
「――っ! 春花ちゃん!」
香奈が慌てて立ち上がって春花ちゃんに近づく。
「何か、されたの? 大丈夫?」
「おいあんた、どういうつもりだ!」
京子が先生に詰め寄ってきたので私は間に入って止める。
「どけ、佐々木」
「先生に何するつもりなの? やめてよ暴力は。野蛮人じゃないんだから――」
と言いかけたところで。
「違うんです」
小さいけど、私たちの動きを止めるかすれた声がした。
「悲しいから泣いてるんじゃないんです。嬉しくて泣いてるんです」
そう語る春花ちゃんは晴れやかとは言えないけど、特別曇っている表情ではなかった。
負の感情がすっかりなくなっている。
「先生に話を聞いてもらって安心しました。本当にありがとうございます」
続けて頭を下げながらそんなことを言う。
私はいくらか予想していたから驚いたりしなかったけど、京子と香奈は狐につつまれた顔をした。
「佐々木、お前の先生って一体何者なんだ?あの春花ちゃんがまるで憑き物が落ちたように――」
「名医だよ。先生は名医なんだ」
私は京子を遮るように言った。
「私も先生に救われたから。春花ちゃんも救ってもらえるって信じてたんだ」
「あやめちゃん。まだ救ってはいないよ」
先生は静かに「ふふふ」と笑って壁にもたれた。
「これからのことをあやめちゃんに言いたいから、三人は帰ってもいいよ。待っていてもいいけど長くなるし。ついでにあやめちゃんの診療もしたいから」
マイペースな先生らしい言葉だ。
「でも先生、私たちも立ち合うことができないんですか?」
香奈の疑問、いや要請に先生は「うーん」と悩むポーズを取った。
「君はなんでもかんでも立ち合いたいんだねえ。でも駄目だよ。春花ちゃんのお母さんに預かるよう頼まれたのはあやめちゃんなんだから、責任はあやめちゃんが持つべきだ」
どうやら春花ちゃんかも事情を訊いたようで私が頼まれたことを知っているみたいだ。
「責任って……そういう次元の話じゃあないでしょう!」
「君――香奈ちゃんは巻き込まれただけなのにどうして春花ちゃんに肩入れしてるの?」
先生は本当に不思議そうに尋ねた。
「私の見る限り、香奈ちゃんは特別に『不幸なこと』を経験したことないでしょ?」
先生にしては回りくどい言い方をした。
「そ、それはそうですけど、なんで分かるんですか?」
「だって私、そういうの専門だもん。プロだもん」
三十代の女性が『だもん』って……
「そんな君に言わなければならないことがあるんだ」
急に真剣な顔をする先生。
「昨日のお風呂で、一緒に入ってもらえなかったこと春花ちゃんから聞いたよ。それがどれだけ春花ちゃんを傷つけたと思う?」
「えっ?」
香奈の顔色がサアっと青くなった。
「私の見立てだと京子ちゃんはトラウマがあるから平気だったんだと思う。あやめちゃんは言わずもがなだね。二人に比べて君はトラウマがないから、対応することができない」
先生はどこか追い詰めるような話し方をした。まるで詰め将棋のようだ。
「君にできるようなことは何一つないよ。これは君が悪いってわけじゃない。むしろ環境が良すぎたんだろう。家族に対してトラウマやストレスがないから、他人に期待を持ち続けてしまう。君の人生にはこう言った『精神的致命傷』がないんだ」
精神的致命傷。これは先生が良く使う単語だ。この症状に当てはまるのは私と春花ちゃん、それに京子も含まれるのかもしれない。
「繰り返しになるけど、君が悪いわけじゃない。それはそうでしょう。トラウマやストレスがあるほうがおかしいんだからね」
奇しくも私が昨日考えたことと似ている。やっぱり先生の影響が思考に出ているのかもしれない。
先生の診断に間違いはない。それと少し会話しただけでそのパーソナリティや人となりを把握できる先生のスキルはまさに名医と言っても過言ではない。
「……私、何もできないんですか?」
「基本的にないけど、それでもやれることはあるよ」
すっかり落ち込んでしまった香奈に先生は打って変わって優しい言葉をかけた。
「普通の人間はこうだって、見本を示すことかな。あやめちゃんや京子ちゃんにはできないことだから。後はまあ、なんだ、適当に頑張ってね」
後半は面倒くさくなったのか曖昧なことを言って「さあ、あやめちゃん。こっち来て」と診療室に招く。
「あ、ちょっと待ってください。……京子、鍵渡すから先に家に帰ってて」
私はポケットから鍵を取り出して京子に投げて渡す。
それを京子は器用に片手で受け取りくるくる回してぱしっと握る。
「道は覚えてる?」
「……ああ」
さっきから黙ってばかりの京子だったけど私は気にしないようにした。
「佐々木センパイ、私――」
「香奈、春花ちゃんを頼んだよ」
何かを言いかけた香奈を遮ってそう言うと私は先生の後に続いて診療室に入った。
ばたんと音を立てて、ドアは閉まった。




