最終話「愛おしい君よ」
それから四年後。
あきらは突然この世から去った。
26歳だった。
平均よりもかなり早い死だった。だが、死因については何も聞かされていない。
家族から告げられたのは、「あきらが死にました」という一言だけだった。
葬儀場は思った通り、参列者が大勢いた。泣きわめく者。静かに涙を流す者。誰もが彼女の死を悲しんでいる。
ーーー茶番みたいだ。
私はそう心の中で呟いた。
葬儀場のロビーで、私は一人、壁にもたれて立っていた。
黒い服の人間が行き交う中、空気だけが異様に重たい。
「…トウカ?」
聞き覚えのある声。振り向くと、そこにシンがいた。
高校以来だろうか。背は少し伸び、声は低くなっていたが、あの目だけは変わらない。
偏見も、差別も、同情でもない。
ただ、じっとトウカだけを見つめるあの目だ。
「久しぶり」
「…あきら、亡くなったって聞いて」
「うん」
「突然すぎて、全然実感が湧かないな」
「そうだね」
「聞いたよ。弔辞を読むんだって」
「ああ、うん」
交わす言葉はこれだけで十分だった。
慰めでも、同情でもなく、事実をそのまま置く言い方。
あきらの遺影はやはり、私の知る笑みではなく、太陽のような笑みを浮かべていた。
「大丈夫か?」
「何が?」
「顔色が悪いぞ」
私は自分の頬に触れる。冷たい。
でも、それが普通なのかどうか、もう分からなかった。
「大丈夫だよ。むしろ、楽しみなくらい」
その言葉に、シンの眉がわずかに動く。
そう言って微笑んだ私を、シンはまるで、遠くへ行く人間を見るような目で見ていた。
――そしてその直後、私は“あの弔辞”を読み上げることになる。
友人代表で弔辞を読むことになった私は、マイクの前で立ち尽くしている。弔辞は用意していたが、作り物の言葉ではなく、今、私が心の底から思っていることをぶちまけたくなったのだ。
なかなか弔辞を読まない私に葬儀場がざわざわする。
私は口を開けた。
「あきらは私にとって、憧れで同時に大嫌いな女の子でした」
この一言で、空気が凍り付く。当然だ。普通ならありえない。友人代表で、しかも、ご遺族の前で「大嫌いだ」と吐き捨てているのだから。
「あきらはみんなの人気者でした。彼女の自由なところに誰もが憧れたでしょう。
あきらが笑うと、みんなも笑った。
彼女の言葉や感情一つで周りが支配される。そんな感覚を私は何度も経験してきました。
そのたびに、吐き気がしたのです。
誰もが思ったでしょう。なぜ、あきらはいつも私のそばにいたのか。
それは、私が彼女を特別視しない唯一の人物だったからです」
冷ややかな眼差しをいつも私に向けながらも、軽々しく「好きよ」と言ってくる彼女が大嫌いだった。私ならいくら傷つけてもかまわないと思って、容赦なく鋭いナイフで切り付けてくる。そんな冷酷なあきらが大嫌いだった。
一息つき、再度、あきらの遺影を見つめる。この笑顔を直接向けられたことはない。
「四年前、あきらは私に言いました。
26歳で死ぬと思う、と」
どよめく葬儀場。
「何言ってんだ、この子は。と思いました。けれど、あきらは微笑んでいました。私の大嫌いな、大嫌いな笑みを浮かべて。
みなさんは知らないでしょう。
冷たさを帯びた美しい顔で微笑むあきらを」
そのとき、前列の端に座るシンが、わずかに身じろぎした。
黒い喪服に身を包み、背筋を伸ばしたまま、じっと私の方を見ている。
これが私の弔辞だよ。軽蔑したかな?
彼の表情は硬い。けれど、困惑でも嫌悪でもない。
ただ、真っすぐな眼差しで私の言葉を聞いていた。
私をただの「トウカ」として見ていてくれた人。
シンがいたから、私は「トウカ」でいられた。
「予想通り、26歳で死んだら笑ってほしいと、彼女は私に残酷なお願いをしました。
……まるで、この日を迎えることを、私が一番先に知る立場にいるとでもいうように」
マイクに背中を向け、遺影と向き合う。顔の筋肉がゆっくりと緩む。凍り付いていた湖面に、初めて亀裂が入るみたいに。その割れ目から、静かな笑みが浮かび上がった。
「ふひっ……」
笑い声が漏れた。
「やっぱりな!!」
力いっぱいの声が、葬儀場の天井に跳ね返る。私は笑ったのだ。月を模したブレスレットが、引力を失った天体のように、手首で力なく揺れていた。
一瞬、時間が止まった。
すすり泣きの音が途切れ、すべての音が世界から消えた。参列者たちは、誰もが息を呑んだまま、笑っている私の方を見ていた。シンは呆然としていた。
場違いな音だった。弔いの静寂の中で、笑い声だけが、感情を持つ歪な生き物のように蠢いている。
高校の教室で、窓際に座って鳥の骨格の話をしていた少女。
誰とも群れず、誰にも媚びず、けれど誰よりも世界を冷静に見つめていたトウカ。
あのときと同じ目を、今もしている。
感情を爆発させているようでいて、どこか異様に澄んでいる。
悲しみでも、狂気でもなく、
もっと別の――長い時間をかけて沈殿した何かが、今ようやく表に出てきたような表情。
誰かの喉が、ひくりと鳴る。視線が刺さる。困惑と嫌悪、そしてはっきりとした恐怖。
それでも、私は笑うのをやめなかった。
泣く人々。怒りを押し殺す遺族。凍り付いたまま動けない参列者たち。彼らの感情など、どうでもよかった。
私の視線の先にあるのは、ただ一つ。白い花に囲まれた棺だけである。
シンは喉の奥が詰まるのを感じながら、その背中を追った。
走り出したい衝動に駆られながらも、足は床に縫い止められたままだ。
あきら。
みんなの太陽。
そして、私が憎み続け、必要とし続けた存在。
笑い声が、ようやく喉の奥で鎮まる。その代わり、残ったのは奇妙なほど澄んだ、夜の静けさだった。
私はマイクから離れ、誰にも止められることなく、棺へと向かった。蓋に手をかける。冷たい木の感触がした。
開けるよ、あきら。
あなたは、私を拒まない。そうでしょう?
静かな音を立てて、棺が開く。
「ああ…」
思わず、声が漏れた。
そこに横たわるあきらは、もう誰にも笑いかけない。誰にも呼びかけられない。誰にも応えない。
光は消え、あきらはただ、そこに在るだけ。
太陽と月が初めて同じ夜に沈む。
私は膝を曲げ、冷えた額にそっと口づけをした。これは別れの口づけではない。愛の証でもない。ただ、確認しているだけ。
あきらの額から唇を離す。両手であきらの頬をそっと掴む。
喉の奥がじりじりと焼ける。笑いで乾いたはずの場所が、今度は熱で満たされていく。胸の奥に溜め込んでいたものが、堰を切ったように溢れ出す。
耐えきれずに叫んだ。
「大好きだよ、あきら」
ぽたり、と涙が落ちて、あきらの冷たい頬に吸い込まれていく。
そして、そのとき、私は確かに聞いたのだった。
意地悪そうで、でもどこか満ち足りたような、すべてを知ったうえで赦すみたいな声が、何もない月の世界を優しく照らすようにして響き渡ったのを。




