第二話「満月のとき」
体育館の床は、冬の冷気をそのまま閉じ込めたように冷たく、薄いスリッパ越しでも足の裏がじんと痺れた。壇上では校長が形式ばった言葉を読み上げている。祝辞。門出。未来。何度も聞かされた単語が、空気の中で乾いた反響を繰り返すだけで、私の中にはほとんど届かなかった。
隣の席に、シンが座っている。
ネクタイの結び目が少しだけ緩く、姿勢もきっちりしすぎず、だらけすぎてもいない。卒業式という儀式に、過度な感情も反抗も持ち込まない、ただそこにいるだけの人間の佇まい。
「寒いな」
小さくそう呟く声が聞こえた。独り言のようでいて、私に向けられているのも分かる距離感。
「そうだね。床から熱が奪われていく」
私がそう返すと、シンは一瞬だけ目を瞬かせてから、くすっと笑った。
「相変わらず、言い方が理系だな」
それ以上は何も言わない。ただ、それで会話は成立していた。
過剰な共感も、踏み込みもない。説明も、演技もいらない。ただ言葉を投げれば、形を変えずに返ってくる。それが、私にとっては奇妙なほど楽だった。
視線を前に戻すと、少し離れた列にあきらがいる。
背筋を伸ばし、壇上を見つめる横顔は、今日も完璧に整っていた。光を集めるような輪郭。誰かに見られることを前提に作られた表情。けれど、その口元だけが、わずかに歪んでいる。
目が合った。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、あきらの瞳の奥で何かが揺れた。笑顔ではない。怒りでもない。もっと粘ついた、所有の色を帯びた感情。
――トウカは、私のもの。
あのときと同じ言葉が、声にならずにこちらへ伸びてくる。
私は視線を逸らさなかった。
代わりに、隣にいるシンの存在を意識する。彼は前を向いたまま、何も気づいていないようで、けれど確かに、そこにいる。私を「あきらの隣の影」ではなく、「一人の同級生」として扱う、唯一の現実。
卒業証書授与の列が進む。
名前が呼ばれ、立ち、歩き、受け取り、戻る。その繰り返し。
名前を呼ばれたあきらが壇上に上がる。空気がわずかに華やいだ。小さなどよめき。期待を含んだ視線。
その背中を、私は客観的に観察していた。
歩幅。重心移動。肩の揺れ。
それはもう、私が何千回も見てきた「人を惹きつけるための運動連鎖」だった。
彼女はそれらを当然のように受け取り、完璧な角度で一礼する。拍手が、他の誰よりも少しだけ大きい。
その姿を見ながら、私は思う。
この人は、きっとどこへ行っても太陽だ。
そして私は、その重力圏から抜け出せない月だ。
式が終わり、解散の空気が流れる。
友人同士で写真を撮り、連絡先を交換し、未来の話をする声が体育館に満ちる。
「大学、都内だっけ」
シンが言う。
「うん。解剖学」
「……相変わらず、物騒だな。でも、トウカらしい」
それは評価でも否定でもなく、ただの事実確認のような響きだった。
「シンは?」
「地方。工学部。たぶん、もう会わないな」
そう言って、少しだけ笑う。その笑顔には、未練も、演出もなかった。別れを別れとして受け入れる、健全な人間の表情。
「元気で」
「そっちもな」
それだけで、十分だった。
そのやり取りを、少し離れた場所からあきらが見ている。
誰にも向けない冷たい微笑を浮かべて。
あれから数年。
私は都内の大学で解剖学を専攻する日々を送っていた。サークルやバイト、卒業論文の準備などスケジュール帳が埋め尽くされるほど忙殺されていた私は、いつしかあきらに連絡を取ることはなくなっていた。
大学最後の夏休みに入ってすぐ、約三年ぶりにあきらから連絡がきた。
高校のころ、よく二人で通っていた古びた喫茶店の奥、窓際から少し離れたソファ席は昔と変わらず少し沈み込んでいた。クッション全体にシワが入っていて、どこか愛着が湧いてきた。テーブルの木目には誰かが引っ搔いたような細い傷が残っている。
私は紅茶をゆっくり味わい、あきらを待つ。時計の針は約束の二時間を過ぎていた。
あきらは待ち合わせの約束を守ったことがない。毎回遅刻はするし、平気で当日のドタキャンをする。それでも、私は必ず待ち合わせ場所に行く。いつだって、彼女の面影を探している。
ドアベルが鳴った。
ふと、視線を上にあげるとあきらは私に気が付くと嬉しそうに微笑んだ。
「ごめ~ん!待った?」
悪いとはこれっぽちも思っていないのだろう。軽い言葉がそれを物語っていた。三年ぶりの彼女は可愛い女の子から大人の女の人になっていた。首元でキラリ、と微かに光る蝶をモチーフにしたネックレスがふと、目に入った。
――アクセサリー?邪魔じゃん!つけないよ。
アクセサリー自体、好まなかったはずのあきらだったが、ネックレスやピアスをつけている。
この三年の内で色々変わったようだ。それでも、あの笑顔だけは変わらない。
「急に連絡してごめんね」
「いや、別に。元気そうでよかった」
「追及してこないところ、好き」
「好き」を連発する彼女の言葉は昔から信用できなかった。簡単に好意を周りに振りかざすところも大嫌いだった。
店員がコップを重ねる音が遠くから聞こえてくる。




