モダン・ウォーフェア
モダン・ウォーフェア
2001年9月11日、ニューヨークは核の炎に包まれた。
300万人が死亡したこの大惨事を引き起こしたのは、ロシア内戦で流出した戦術核兵器だった。
核出力は120キロトンと推定されている。
戦術核兵器とはいえ、京都に投下された原子爆弾の10倍以上の破壊力があり、摩天楼は一瞬にして松明のように燃え上がり、衝撃波で粉砕された。
平和な朝を迎えていた市民は、地上にいたものは熱線で焼き尽くされ、地下にいた幸運なものも放射線障害で次々に倒れていた。
マンハッタンに核爆弾を持ち込んだのはイスラム原理主義を掲げる国際テロ組織アルカイダだった。
アルカイダはイラン・イラク戦争に参加したイスラム戦士団が母体となった組織である。
イ・イ戦争中はサウジアラビアとアメリカの資金提供を受けつつソ連軍と戦ったイスラム戦士団は停戦で用済みになるとその過激思想をサウジから危険視され、解散させられた。
これに不満を持った過激派は国外に脱出し、本拠地を持たない国際テロネットワーク(アルカイダ)を作り出すことになる。
アルカイダは湾岸戦争ではイラクの侵略に備えてメッカ防衛を申し出るも、サウダイ王家から拒否された。
代わりにアメリカ軍がサウジアラビアに展開した。
聖地メッカを擁するサウジに外国軍が展開したことは、イスラム保守派や過激派を激昂させ、反米ジハードを生み出す素地となった。
湾岸戦争以後、アルカイダはアメリカを標的としたテロ活動を繰り返し、2001年9月11日にそれはピークに達したと言える。
ニューヨーク核テロに引き続き、国防総省やホワイトハウスも旅客機を使用した自爆テロの標的となった。
ジョナサン・ブッシュJr大統領は公務でホワイトハウスを離れていたため攻撃を免れたが、燃料を満載したジェット旅客機が突入したホワイトハウスは英米戦争以来180年ぶりに全焼することになった。
大統領に代わって執務中だったリリカル・チェイニー副大統領はこの攻撃で即死した。
燃え盛るホワイトハウスはテレビで全世界に向けて放送され、超大国アメリカの威信は地に堕ちることになった。
金融中枢であったニューヨークが壊滅した被害は凄まじく、アメリカが被った経済損失は10兆ドルに及んだ。
ソビエト幕府大老岩里政男は犠牲者に哀悼の意を示し、即座に医療スタッフをアメリカに派遣している。
ソ連の放射線障害に関する医療技術は皮肉なことに京都原爆投下のおかげで世界で最も進んでおり、多くのニューヨーク市民を救うことになる。
その他にも様々な医療物資や義援金などがソ連からアメリカに送られた。
半世紀前にステイツに化学兵器をばら撒いたバーサーカーとは思えないソ連の思いやりある対応に、アメリカ人の多くは戸惑ったものの多くは素直にそれを受け入れた。
ニューヨーク核テロ以降、米ソの友好感情は急速に高まっていくことになる。
日本人の多くはその理由を語らなかったが、
「同じ痛みを味わったのなら、それでいい」
というのが正直な感情だったと言える。
戦争経験世代の多くが高齢化して鬼籍に入り、京都原爆投下の記憶が薄れつつあったことも大きかった。
ソ連世論は他国が訝しむほどアメリカに友好的になり、
「911が冷戦を真の意味で終わらせた」
というのが歴史学者の支配的な見解である。
西側世論はこの頃から急にまともになった狂戦士という不気味な存在を持て余すことになった。
核テロや航空機自爆テロに続いて、アルカイダは炭疽菌入りの手紙爆弾を政府機関に送付していたが、こちらは難なく阻止された。
半世紀前に全く同じ攻撃を受けたことをアメリカ政府は忘れておらず、チェック体制が敷かれていたので生物兵器テロ攻撃は失敗に終わった。
アルカイダはロシアから流出した化学兵器をアメリカ本土に持ち込もうとしていたが、通報を受けたSASが大西洋上で密輸船を拿捕した。
このときに、謎の勢力による航空攻撃で、証拠品となる化学兵器ごと密輸船は撃沈されており、アルカイダと共闘関係にある国家勢力の存在が示唆された。
攻撃を受けたアメリカでは、世論は愛国心が高揚し、一連の計画の首謀者と見込まれたオサマ・ビン・ラディソの殺害とテロに関与したあらゆる勢力への即時報復を肯定する世論がつくられた。
岩里大老はテロ攻撃を受けたアメリカに深く同情し、痛みを分かち合う旨のステートメントは発表したが、アメリカが無軌道な行動に出るのではないかと不安を覚えた。
報復に大量破壊兵器を使用するのではないかと考えたのである。
後に岩里大老はブッシュJr大統領に自制心の大切さを説いているが、鬼籍に入ったトロツキーやチャーチル、ムッソリーニ等がそれを聞いたら、こう言っただろう。
「「「お前が言うな」」」
アメリカ同時多発テロ事件を受けて、国際連盟では全会一致で「テロとの戦いにあらゆる手段を用いる」として、全ての加盟国にテロ対策と報告を義務付ける国際連盟安全保障理事会決議が採択された。
東西の陣営を問わず全ての国が、テロを国家と人類に対する脅威と断じたのは、テロ計画の首謀者ラディソにとっては予想外のことだったと言われている。
ラディソは東側諸国からの支援があるとは思っていなかったが、西側諸国に同調して敵対してくるとは考えていなかった。
東西冷戦時代では、敵の敵は味方であり、イスラムテロ組織は少なからず東西両陣営のスパイ組織とつながりを持ち、冷戦対決の尖兵として使われていた。
イラン・イラク戦争の際に、ラディソのグループはCIAのインストラクターから米軍の最新兵器の供与と訓練を受けていたのである。
イ・イ戦争のさなかでラディソが学んだことは、ソ連の強烈な反米感情で、ラディソはソ連にはシンパシーさえ感じていたのである。
ラディソはニューヨーク核テロは京都原爆投下の復讐としてソ連世論から支持されると考えていた節がある。
ラディソは犯行声明ビデオの中でも、京都への原爆投下に言及し、
「人類に対する大罪を犯した不信仰者への懲罰」
と正当化を図っていたことは、ソ連世論を意識していた証拠と言える。
しかし、ラディソの理解は表面的な思い込みでしかなかった。
ラディソはイスラム教徒であり、国家社会主義神道の信奉者ではなかった。
また、仮にラディソが国家社会主義神道に改宗していたとしても、理解するのは恐らく困難だっただろう。
そもそも、理解とは概ね願望に過ぎず、1945年8月にソ連人民の胸を打った喪失と衝撃は本人たちにしか分からないものであった。
そして、それは既に歴史の1ページになりつつあったのである。
人類の前衛として、世界の半分を率いる使命を帯びたソ連にとって、核兵器を保有した国際テロ組織など殲滅の対象でしかなかった。
アルカイダの根拠地となっていたイラクに、アメリカ軍が攻め入ったのは2001年10月7日のことだった。
当時のイラクはフセイン政権崩壊後の混沌の中にあり、バグダッドやイラク西部を支配していたスンニ派政権のイスラム国、イランの支援を受けてバスラを首都とするシーア派のバスラ政権、北部のクルド人自治区に分かれていた。
この中でも最大勢力となったのはサウジアラビアから支援を受け、旧バアス党政権幹部を取り込んだイスラム国である。
イスラム国は、イスラム法に基づく国家を標榜し、カリフ制を復活させるなど、イスラム原理主義を掲げる政権であった。
サウジアラビアの大富豪の子息であるラディソはイスラム国とサウジアラビアを結ぶパイプ役を果たすことで、イラクにアルカイダの聖域を作り上げることに成功していた。
脱イスラム化が進むイランは、原理主義政権のイスラム国の危険性を1990年代から繰り返し警告していた。
しかし、ソ連はロシア問題に忙しく、アメリカは旧敵の警告に全く耳を貸そうとしなかったため、911を招いたと言えるだろう。
ちなみに、大西洋上でロシアから流出した化学兵器を捕捉できたのはイランの情報機関からの通報があったからで、イランの活躍がなければワシントンDCにVXガスが散布されていたと考えられている。
イラク・イスラム国の指導者オマル・アル=アサドはラディソ引き渡し要求を拒否し、徹底抗戦を打ち出したためアメリカ軍の侵攻を招いた。
アメリカ軍の攻勢は圧倒的で、巡航ミサイルやステルス爆撃機、ペルシャ湾に展開した空母艦載機による空爆で地上侵攻前にイスラム戦士を細切れ肉に変えていった。
イラン政府の承認のもとでバスラに上陸したアメリカ軍はサンダーラン作戦を展開し、アメリカ軍海兵隊が長駆、バグダッドを急襲した。
アメリカ軍の目的はラディソ拘束であった。
北部にはクルド人勢力と手を結んだ上で空挺作戦が行われ、ラディソの退路を断った。
サンダーラン作戦は機動戦には煩いソ連軍を瞠目させるほどの速度で展開した。
イスラム国のスポークスマンはテレビ中継で
「バグダッドに米兵は一人もいない!」
と叫んだが、その背後をアメリカ軍のM1戦車が猛スピードで駆け抜けていくなど、もはやコメディとしか思えない状況が発生した。
イスラム国はアメリカ軍の作戦展開速度に追随できず、殆ど思考停止状態に陥った。
サンダーラン作戦こそ、1990年代にアメリカ軍が追求した軍事的トランスフォーメーションの成果だった。
C4ISR兵器の強化とネットワーク化戦闘はアメリカ軍の戦闘能力を飛躍的に高めた。
しかし、最終的にそれらの努力は無意味になった。
追い詰められたイスラム国は、バグダッドでロシアから流出した戦術核兵器を起爆させ、自爆する道を選んだからである。
バグダッド中心部で発生した人類4度目の核爆発によって、バグダッド市民120万人が死亡した。アメリカ軍も自爆攻撃に巻き込まれ、海兵隊員1万人が死亡するという大惨事となった。
バグダッド核爆発によって、複数の核兵器がテロ組織に手に渡っていることが判明し、全世界を戦慄させた。
この核自爆テロでラディソは死亡したと思われたが、実際にはアメリカ軍の侵攻以前にバグダッドから脱出しており、アゼルバイジャンの隠れ家に潜伏していた。
ソ連のGRUスペツナズが隠れ家を急襲して、ラディソを射殺したのが2002年6月8日のことだった。
ラディソは最後まで抵抗を試みたため、逮捕することは叶わなかった。
この結末はアメリカ政府を落胆させたが、本当の危機はここからだった。
ラディソの隠れ家を捜索したところ、アルカイダにロシア製の戦術核兵器を流出させた経路が判明し、ロシアの過激民族主義者インラン・ザカエフの関与が判明したのである。
後に真夏の夜の悪夢と呼ばれることになる大事件は、2002年8月3日に発生した。
ザカエフのテロ組織がウクライナの核ミサイル基地を武力占領したのである。
インターネットを通じて発表されたザカエフの要求はロシア復活であった。
1996年のソ連によるロシア進駐以後、住民投票の結果としてポーランドやバルト三国、チェチェン共和国やグルジアといったカフカス諸国はロシアから分離独立していくことになった。
ベラルーシ、ウクライナはロシアからの分離後にソ連加盟を希望し、1999年7月にロシアと共にソビエト連邦の構成国となった。
何れも国際連盟による選挙監視団を受け入れて行われた公正な住民投票の結果である。
しかし、過激民族主義者達はロシアのソ連加盟は侵略であると激しく反発し、ソ連転覆のためテロ活動に走ることになった。
ザカエフはその中心人物であった。
ちなみにザカエフはロシア共和国からオデッサ核爆発の主犯として指名手配されており、大量破壊兵器密売に関わったロシア・ミリタリーマフィアの首領でもある。
アメリカの中東支配に反発するアルカイダとザカエフ一派は共闘関係となり、一連の同時多発テロ事件を計画したのだった。
情報収集のため、内務奉行所刑事Б局のスペツナズ(アルファ)がザカエフの息子の逮捕を試みたが、逮捕前にザカエフの息子は自殺した。
ちなみにザカエフの息子の潜伏先が明らかになったのは、ザカエフの息子が乗った黒塗りの高級車に地元の学生が運転するワゴン車が背後から衝突し、示談金交渉で揉めるという肛門があまり締まらない話が原因である。
その報復にザカエフは核ミサイル基地を占領、ロシア復活を要求し、ソ連の大都市に向けて核ミサイル・テロを実施したのである。
ちなみにこの事件は西側のゲーム会社によってFPSゲーム化されており、最終ステージでウクライナの核ミサイル基地に突入することになる。
ゲーム内の主人公はイギリスのSAS隊員だが、実際に核ミサイル基地へ突入したのはソ連軍のGRUスペツナズの精鋭部隊である。
ソ連はテロ対策で特殊部隊員の情報を公表していないため氏名は不明だが、顔にやけどを負った痕がある女性のスペツナズ大尉に率いられた精鋭部隊が、核ミサイル基地制圧に成功している。
ゲーム内ではステージの途中でICBMが発射されているが、現実では炸薬を抜いたレーザー誘導徹甲爆弾による超精密爆撃でミサイルサイロ内のICBMは発射される前に全て破壊されていた。
また、ゲーム中で攻撃目標となったのは北米大陸西海岸だったが、現実には前述のとおりソ連の大都市が攻撃目標になっていた。
ザカエフは基地から逃亡を図ったところで包囲され、抵抗を試みたため射殺された。
ソ連はテロとの戦いに一先ず勝利したと言えるだろう。
ちなみにゲームの続編では、ソ連国内で政変が発生し、最終的にソ連軍がアメリカ本土へ直接侵攻して第3次世界大戦が始まるのだが、米ソは対テロ戦争で共闘関係にあり、第3次世界大戦など起こりようがなかった。
このゲームは第1作は素晴らしい出来栄えだったのだが、続編を重ねるごとに脚本が荒唐無稽な方角に迷走し、
「殺せ、日本人だ」
といった酷い誤訳を連発したため、ソ連国内での売上は散々なものになった。
それはさておき、21世紀最初の年は血と放射能に塗れた散々な1年であったと言える。
また、対テロ戦争はラディソやザカエフの死で終わるものではなかった。
国際テロ組織は領土を持たないネットワークであり、聖域の一つであるイラクを潰したところで終わるものではなかった。
テロの温床となっているのは底なしの貧困と過激思想であり、世界各国は地道な資金源潰しと掃討戦を続けるしかなかった。
その中で、最も下手くそな戦争をやっていたのはアメリカ合衆国だと言える。
特にイラクの占領統治政策は故意に失敗しているとしか思えない酷いものだったことは周知の事実だろう。
自爆核テロでバグダッドが消滅した後、イラク第2の都市バスラがイラク首都となったが、新政権の閣僚名簿には聞いたこともない亡命イラク人の名前が載っていた。
フセイン時代にアメリカに亡命したイラク人で構成された暫定政権は地元とのつながりは皆無な上に行政経験もなく、完全な素人集団だった。
イランやソ連の息がかかったシーア派のバスラ政府はイラク暫定政権の中枢から完全に遠ざけられ、無視された。
バスラ政権が無視されたのは、スンニ派盟主であり同盟国のサウジアラビアがイランの勢力拡大を望んでいなかったからである。
ブッシュJr大統領は、ソ連によるロシア進駐が成功したことで、圧倒的な軍事力があれば他国を簡単に占領統治できると考えていた節がある。
たしかに軍事革命(RMA)を経たアメリカ軍は国家同士の正規戦争なら強大な軍力を持っていたかもしれないが、その駐留兵力はわずかに13万でしかなかった。
占領軍は同盟国軍を加えても15万を超えることがなく、占領地行政を担うにはマンパワーが全く不足していた。
ソ連がロシア進駐に投入した兵力が350万だったことを考えれば、一桁間違っているとしか言いようがなかった。
結果として、イラクの治安状況は極めて悪化した。
それなりに治安を維持していたのは、イランの支援を受けたシーア派民兵組織の統治するバスラ周辺か、北部のクルド人自治区しかなかった。
イスラム国は正面からアメリカ軍と戦っても勝てないと戦前から考えており、戦闘機や戦車などの大型兵器を捨てて小火器を各地に隠匿していた。
ムジャヒディンの多くは軍服を脱いで民間人に紛れてアメリカ軍をやり過ごすと武器弾薬を回収して、ゲリラ戦を開始した。
イラクを持て余したブッシュJr大統領は州兵を動員すると共に新たな盟友のソ連に助けを乞うことになる。
アメリカの支援要請に応じたのは、ジュンイチィーラ・イズムィコ大老だった。
イズムィコは2002年の大老選挙で初めて勝利した保守党候補の大老である。
ソビエト幕府の大老の殆どは社会党出身であり、それ以外の大老は共産党の有畑大老が戦後に一人いるだけだった。
保守党は典型的な万年野党だった。
それが大老を輩出するほど拡大したのはロシアの惨状から共産主義や社会主義への幻滅が起きていたことや、長すぎる社会党政権に国民が飽きてしまったという事情がある。
また、ソ連は経済的な苦境にあり、社会党政権は国民の信任を失っていた。
ソ連経済を苦しめていたのはハイインフレーションであった。
ロシア進駐のために350万の兵力を投入した結果として、多額の臨時軍事費特別会計が組まれ、膨大な赤字国債が発行された。さらにロシア経済立て直しのために多額の予算が必要であり、ソ連の財政赤字(通貨発行)は拡大する一方であった。
さらにロシアのソ連加盟が決まると廃止されるルーブルとソ連円が1対1のレートで交換されることになった。
ルーブルはロシア政府が内戦遂行のために紙幣を乱発した結果として紙切れに近い価値しかなく、それを1対1で交換するというのは破格というより他なかった。
しかし、ロシア人の多くはソ連のように豊かな国になることを期待してソ連加盟を希望したのであり、幕府はその期待を裏切るわけにはいかなかったのである。
ちなみにロシアのソ連加盟は一部の過激民族主義者を除けば、概ね歓迎された。
幕府はロシアのソ連加盟を軟着陸させるためにあらゆる手段を講じたが、最も効果的だったのは宗教とロシア帝室の利用だった。
ソ連軍進駐後のロシアでは共産党の一党支配が廃止され、それまで行われていた宗教界への締め付けが完全に撤廃された。
幕府はロシア東方正教の復興を物心両面から支援した。
結果として、ロシア東方正教会は劇的な復興を果たし、共産主義に代わるロシア人の心の拠り所になった。
その対価として、ロシア東方正教会は強力にロシアのソ連加盟運動を推進した。
また、征夷大将軍の徳川康忠はロシア帝室の血を引くことから正当な帝位継承権をもっており、ロシア全土をソ連軍が占領している現状において、帝位継承を妨げるいかなる制約も存在しなかった。
ロシアがソ連に加盟した1999年に、征夷大将軍はロシア皇帝を兼務することになり、徳川将軍家はロシア皇帝家を兼ねることになった。
ちなみにロシア皇帝の第1継承権を持つのは本来ならアメリカに亡命していたニコライ二世の子孫なのだが、旧皇帝家がロシアに帰還することはなかった。
ニコライ家はアメリカでは有数の資産家として成功しており、今更、ロシアに戻って国民の面倒を見るつもりなどさらさらなかったのである。
康忠はツァーリとしてロシア各地を訪問してまわり、融和と秩序回復に努めた。
母アナスタシア譲りの金髪碧眼で、完璧なロシア語を操り、世界最大級の軍事力と経済力をもつ新たなツァーリは各地で親しくあらゆる階層の人々と言葉を交わした。
その姿は、
「ロシア史上もっとも慈悲深きツァーリ」
とされ、ロシア共和国内に皇帝親政を求める帝政党なる政党さえ現れるほどになった。
また、征夷大将軍がロシア皇帝を兼ねることは、ロシアのソ連加盟が吸収併合ではなく、名誉ある国家統合であることを印象づけることにもなった。
しかし、国家統合の結果としては、大量の紙幣増刷となったソ連は年率30%というハイインフレとなり、経済を直撃した。
幕府は通貨が消費に回らないように公定歩合の引き上げなど、貯蓄励行キャンペーンを展開したが、それでもインフレ率は30%を超えてしまっていた。
根本的な解決策は発行しすぎた紙幣を回収することで、要するに増税が必要だった。
2002年の大老選挙でインフレ解消のために消費税復活を訴えた社会党のヴィクトル・オーブッチは経済理論的には正しかったが、政治的に間違っていた。
保守党のイズムィコは西側社会を席巻していた過激自由主義的な改革を実行し、競争によって生産力を拡大するればインフレを克服できるととして、「聖域なき構造改革」をかかげて世論の風を掴むことにも成功した。
社会党や共産党以外の大老が誕生したことは米ソ冷戦終結の象徴として、基本的に西側諸国から歓迎された。
アメリカからもやっと話ができる人物がソ連にトップになったとして、友好関係の構築に腐心した。
イズムィコ大老もアメリカとの関係深化を極めて重視したが、軍部に相談せず、独断でソ連軍のイラク派遣を決定したのはやり過ぎだった。
ソ連軍参謀総長が、新聞報道で初めてソ連軍派遣を知るなど、イズムィコ大老のスタンドプレーは目に余るものがあった。
苦言を呈したソ連空軍参謀総長の田尾神俊夫大将が、特に理由もなく罷免されるなど幕府と軍部の関係は極めて悪化した。
右派の保守党政権は親軍政党という前評判だったが、政権を取ると財政健全化のために軍事予算を大幅に削減するなど、軍部との関係を悪化させることばかりしていた。
ソ連空軍の次期主力戦闘機計画が、中止されたのもイズムィコ政権時代のことである。
これはF-117やF-22といったステルス機を保有するアメリカ空軍に一気に追いつくことを目的とした大計画であり、完全な第5世代戦闘機を開発するものだった。
しかし、ソ連経済の低迷から規模が縮小され続け、遂にイズムィコ大老の手によって葬りさられることになった。
開発された要素技術はバックフィットされ、第4世代戦闘機++などを生み出すことになるのだが、ステルス技術の分野でアメリカ軍に大きく水を開けられることになった。
国内世論の大反対にも関わらず強行されたソ連軍のイラク派遣は、多数の死傷者を出すことになった。
イラク派遣ソ連軍はアメリカ軍を除けば在イラク外国軍の中でも最大戦力ということもあって、常に激戦地に投入されつづけた。
ビルマ戦争で対ゲリラ戦で苦労したソ連軍はこの手の治安維持作戦の研究が盛んで、各地で大きな戦果を上げた。
しかし、犠牲も大きく、元々派遣計画そのものが世論から支持されていなかったということもあって国内の評判は最悪なものとなった。
「ブッシュのポチ」
と軍内部でソ連大老が公然と唾棄されたのだから、事態は深刻だった。
また、イズムィコ大老の推し進めようとした「聖域なき構造改革」はソ連社会に大きな反発を招いていた。
「構造改革」を要約すれば、ソ連は非効率な国営企業や膨大な社会保障制度によって経済的な自由が損なわれており、それを民営化することで自由競争を促して社会を活性化させれば生産力が拡大し、市場原理によって需給は自然と調整されてインフレは克服できるというものだった。
これは1980年代から英米を中心に広がった過激自由主義(西側で新自由主義という)そのものであり、所得税や法人税の減税といった富裕層優遇政策も殆どそのままフルコピーするものであった。
また、構造改革路線には、雇用流動性の高めるという名目で、ソ連特有の労働者有利の各種雇用規制や労働基準法の改正が含まれていた。
特に限定的な目的にしか適用されないことになっていた派遣労働者を全業種に拡大するというのは労働者全般の雇用を不安定化させる恐れがあった。
イズムィコ大老とその一派は、非効率な国営企業や社会保障制度の例として、高額なバス運転手の給与や交通安全指導員の賃金や、国営企業で横行していた闇専従といったソ連経済の負の側面をマスコミで繰り返し放送させた。
また、地方の殆ど使われていない高速道路や鉄道に無駄な税金が使われていると叫び、それらの行政の無駄がなくなれば、ソ連はより発展すると主張したのである。
また、財政政策は緊縮財政に転換し、支出の無駄を削減して、財政黒字を実現することを訴えた。
ソ連は膨大な財政赤字を抱えており、ロシアと同様にこのままでは財政が破綻して国が滅びるとまで言い切ったのである。
こうした主張は、実際のところ殆ど根拠のないものであった。
そもそも国営企業や社会保障制度はたしかに非効率なものだったが、それは有事における余裕を意味していた。
ソ連の国営企業が抱えている膨大な余剰人員は有事における動員や人員損耗に備えたものであり、ロシア進駐においても有効に機能し総動員350万の大軍を支えた。
社会保障制度が手厚いのもその一環であり、銃後の家族の生活を守るために絶対に必要なものであった。
確かに平時においては非効率で無駄が多い制度であったが、2001年以後の核テロやイラク戦争は新しい有事のあり方を示すことになり、国家にとっての銃後の守りの必要性がなくなることはなかった。
過激自由主義者は冷戦は終わり、国家総力戦はもはやあり得ないと主張したが、冷戦が終わっても、戦争はなくならなかったし、総力戦はなくても総動員は必要だったのである。
地方の無駄な道路や鉄道については完全に事実誤認であった。
そもそも広大な西比利亜でまともに人が住んでいる地域は大河や西比利亜鉄道の周辺地域のみであり、人口密度が低い地方で道路や鉄道の利用率が低いのは当たり前だった。
利用率の低い道路や鉄道が無駄なら、西比利亜の大半は人が住めないことになる。
過激自由主義者は、地方に人は住まなくてもいい。ソ連の限られた財源で人が住めるのは都市部だけでコンパクト化が必要だと主張したが、ソ連が都会だけで成り立っていると本気で信じているのなら、もはや精神異常でしかない。
その者が食べている食べ物も、使っている電気も、皆、田舎で作られているからである。
また、雇用者側が有利になる労働法制改正などは殆ど論外だった。
ソ連は労働者が革命で作った国だった。
革命の旗を振ったのは徳川将軍であったが、其の旗の元で戦ったのは西比利亜に捨てられた名もなき人々だった。
征夷大将軍徳川康忠はイズムィコ大老に対して不信感を隠さず、イズムィコの発言を途中で遮るなど侮蔑する態度をとった。
征夷大将軍が民意の代表である大老の発言を
「もうよい」
などと遮ることは、ソ連の政治常識からは考えられないことであった。
この時、イズムィコはイラク派遣軍の活動状況を報告していたのだが、ソ連軍の死傷者を過小に申告し、楽観的な見通ししか言わないイズムィコに康忠は我慢の限界に達した。
康忠は冷戦中は対米核報復などには反対していたが、世界の半分を支配する武の象徴として、アメリカの戦争にソ連が巻きこまれることは反対していた。
征夷大将軍から不信を突きつけられたイズムィコだったが、
「人生いろいろ、将軍もいろいろ」
などと放言してはばからず、右派を激怒させた。
実際のところ保守党はもはや西側の過激自由主義に被れた組織、政党になっており、親将軍佐幕派の伝統や保守思想は既に失われていた。
右派から総スカンを食らったイズムィコ大老だったが、自身への攻撃に対して、抵抗勢力のレッテルを貼るなどマスコミを巧みに操って高い支持率を維持し続けた。
イズムィコは古い既存の秩序に対する国民のマンネリズムや、膨大な財政赤字に対する不安や経済の低迷に対する不満を扇動することに長けていた。
自分自身が暴漢に襲われたことさえ政治利用し、
「断じてテロに屈してはならない!」
と支持稼ぎに利用したのだから、イズムィコがある種の異能の持ち主だったことは間違いないだろう。
細かい数字を挙げた論理的な反論が、マスコミを使ったワンフレーズポリティクスに押し流されていったことは、ソビエト主義の負の側面であることを反省する必要がある。
旧秩序を巧みに攻撃し、既得権を打破する”イズムィコ劇場”に我々が拍手喝采を送っていたのは事実なのである。
また、ロシアの財政破綻から、過剰に財政赤字を危険視し、プライマリーバランスの黒字化といった緊縮財政政策をすすめるイズムィコ政権を”良識ある人々”が”現実主義”として持て囃したことも反省すべきだろう。
イズムィコ政権は財政再建の名のもとに福祉予算を大幅に抑制したことは、介護や医療の現場に多大な悪影響を及ぼし、介護自殺や介護殺人、医療難民を生み出したが、これらは自己責任という暴論で覆い隠されてしまった。
自己責任論は現在では政治的な無為無策を糊塗するために用いられる過激自由主義のデマゴーグとして認定されているが、当時はインターネットを中心に広く人口に膾炙していた。
しかし、イラク戦争は泥沼化し、際限なく人命と戦費を飲み込むブラックホールとなるとイズムィコ劇場にも陰りが見え始めた。
元々、反対論が多かったイラクのソ連軍派遣は、国民的な反対運動に発展した。
イズムィコは、
「ここで撤退すれば、テロ組織に誤ったメッセージを送ることになる」
として、撤退を拒否し、アメリカの要請に従ってさらに軍を増派しようとさえしており、2007年の大老選挙はイラク戦争が主要な争点となった。
対抗馬は社会党から立候補したアレキサンドル・プーチンだった。
プーチンはソ連に加盟したロシア共和国大統領からの転出である。
そのため、被選挙権がない外国人に当たるのではないかという議論もあったが、それを言ってしまうと国父として絶大な尊敬を集める岡田真純もグルジア人ということで否定しなければならず、プーチンの立候補は最終的に認められた。
また、ロシアは既にソ連邦に加盟しており、ロシア人が大老選挙に挑戦することは、民族の平等と共栄を掲げるソ連にとってある種の試金石であると言えた。
ちなみに、プーチンは元KGB長官ということもあって外国語に堪能であり、完璧な日本語を話すことができた。
得意は柔道で、ソ連柔道連盟から8段を贈られるほどの腕前を誇る。
プーチンはソ連の支援を受けてロシア経済を短期間で立て直すなど、政治手腕にも優れており、社会党のキングメーカーたちからイズムィコ劇場に対抗できるのは彼しかいないと指名されての大老選挙挑戦であった。
2007年の大老選挙は、今日では世界的な過激自由主義と保守社会主義の思想的な全面戦争であったと理解されているが、当時の争点となったのはイラク戦争であった。
さらに国民的なイラク戦争反対運動で不利になったイズムィコ陣営に止めを刺したのは、ウィキリークスによる機密文書暴露であり、イデオロギー闘争的な側面が強調されるようになるのは後年のことである。
ウィキリークスによって、イズムィコ大老府長官の安倍晋二の祖父が、冷戦中にCIAから資金提供を受けていたことが暴露されたことは、イズムィコ陣営にとって致命傷だった。
さらに安倍晋二自身もアメリカの選挙アドバイザーと接触し、接待を受けているという疑惑も浮上した。
ソ連の対米感情は好転しつつあったが、CIAのスパイというのは政治的な即死級の右ストレートであった。
安倍は釈明に追われたが、最終的に議員辞職に追い込まれた。
イズムィコ自身もアメリカに対する異常な肩入れを予てから指摘されており、アメリカの選挙干渉が明るみになったことで自滅することになった。
2007年の大老選挙は、社会党候補のプーチンの勝利に終わったのである。
大老に就任したプーチンは、イラクからのソ連軍撤退を発表し、最初の公約を果たした。
プーチン大老の手によって、イズムィコ時代に進められた過激自由主義政策の殆どは廃止されることになる。
国営鉄道や電電公社の民営化も白紙撤回されることになった。
プーチンは、
「我々はあらゆる過激主義に反対する」
として、西側の新自由主義を過激思想の一つとして全否定した。
イズムィコ改革の否定は、改革後退としてマスコミの激しい攻撃を浴びたが、プーチン大老は殆ど無表情でそれを受け流した。
また、イラク撤退はテロとの戦いに対する敗北として、アメリカや西側諸国から激しく非難された。
しかし、過激主義団体によるスズラン女学園占拠事件が発生し、ソ連軍スペツナズによって犠牲者なしで事件解決に成功され、プーチンの断固とした態度はソ連世論の強い支持を得ることに成功した。
また、2008年にアメリカで大規模な金融危機が発生し、世界的な景気後退に見舞われたことでソ連経済の問題であったハイインフレもほぼ終息した。
むしろ、世界的な需要の後退から、デフレーションが問題となった。
イズムィコ政権では自由競争の拡大など、生産力拡大政策が進められたことから、供給過剰になってしまったのである。
また、冷戦終結で南北融和が進んだ中国経済の拡大もデフレ圧力を高める要因となった。
ソ連ではアメリカで金融危機を引き起こしたサブプライムローン等の金融商品は、未だに浸透しておらず、直接的な被害はなかったのだが、相互の市場開放が進んでいたことからアメリカの景気後退はソ連にも大きな影響を与えたのである。
ハイインフレから一転してデフレーションに陥ったソ連経済を立て直したのは、五カ年計画奉行に再登板したヴィクトル・オーブッチである。
大老選挙に立候補したものが、奉行に就任することは極めて異例のことであった。
本人は当初、健康不安から奉行就任を固辞していたが、プーチンに請われて再登板に同意した。
なお、オーブッチ家系は先天的に脳血管疾患で亡くなる者が多く、仮に2002年の大老選挙で勝利していたら、大老の激務で体調を崩し、任期半ばで倒れていたのではないかと考えられている。
オーブッチは、減税と財政拡大、さらに金融緩和を矢継ぎ早に繰り出し、2011年までには世界恐慌の再来とさえ言われた世界的な景気後退からソ連を脱出させることに成功した。
反対に恐慌の震源地となったアメリカでは、新大統領のバラク・オハマが経済対策に失敗したことで、失われた20年という長期低迷に突入していくことになるのだが、それはまた別の話である。




