十字架と血潮と(3)
真っ暗な校内には独特の雰囲気がある。
昼間、生徒や教師らによって活発に描かれる動線は、この夜更けには微塵の気配も残っておらず、代わりに沈黙の滓が漂っていた。
出入口付近の校内配置案内図を見て、校門に近い建物内から奥へ奥へと先行するのは長身白髪の男の方だった。
長い方の黒ナイフを右の利き手で抜いて、ホールドリングに親指を引っ掛け、刃を振り回す様子は、これから起きようとしている事態に対し不必要に好戦的だ。
背後から彼について行くケニー神父が、小声で念を押す。
「惠介、もう一度言いますケド、これは狩りではナイですからネ」
釘を刺された方は、やや振り向きながら、
「狩りになるかどうかは、相手次第だろう?」
言いながら不敵に笑い、ナイフをベルト後ろの鞘にしまう。
その様子は、相手に選択権を与えているようでいて、場合によっては一方的な暴力になってもそれを楽しもう、と宣言しているようだった。
毎度のことなのか、ザイトワの言葉に聖職者は困ったように嘆息した。
校舎を通り過ぎ、体育館への渡り廊下でのやりとりだった。
「惠介、アナタは強い。トテモ。しかしナガラ、その強さは問題を楽しむためディワナク——」
言いかけるケニー神父の前に、ザイトワが手を広げ言葉を制した。
体育館の引き戸が片側だけ開け放たれている。ザイトワはその手前で後ろの神父に顔だけ向け、体育館内の暗がりを指差し、二本指で自分の両目を示す。
ハンドサインで注視を促されたケニー神父が、言葉を収め、静かにザイトワの後に続いた。
アリーナ全体に上下階の窓からの微かな明かりが差し込んではいたが、暗く、無音の空間が広がっていた。
だが、その静寂の下には異様な光景が広がっていた。
入口から覗き込んだケニー神父は、息を呑んだ。
体育館の床に散らばった通学カバン、片方だけの上履き、引きちぎられたリボン、運動部のラケットケース、破れた制服の一部——
さらに奥へ目を凝らすと、倒れている人影がいくつも見えた。女性教諭と、女子生徒たちだろう。白目をむいた者、泡を吹いている者、うずくまり肩を震わせている者が見えた。
衣服の乱れを見れば、ここで何が行われていたかは、言葉にしなくても分かる。
ケニー神父が、怒りに声を震わせた。
「How awful……!」(なんてひどいことを……!)
その言葉に、体育館の中央あたりの暗がりが反応した。問題の英語教師だった。
この時間、この場所で、女性教諭と女子生徒たちを巻き込み、忌まわしい儀式に及んでいたのであろう男の後ろ姿だった。
「おやおや、オレ以外の男は招いたつもりはないが」
互いが認証し合ったのを機に、ザイトワが先に体育館に踏み込むと、途端、極僅かに漂って来る異臭に眉を顰める。
軽く振り返り、人差し指の背で鼻頭を示すと、
「Sulphur?」
ケニー神父が小声で確認した。ザイトワは黙って頷いた。 人の臭いではなかった。
黒い影から目を離さず、ザイトワは足元に倒れている女性教諭に、その肌を覆い隠すように自分のロングコートを掛けた。
中央の暗がりで、ぶよぶよと蚯蚓のような何かが、中空から無数に蠢き出て、教師の姿をしたものに耳打ちする。
「ほぉ、そぉか…お前らがここ最近、ここら一帯の祓魔をやってのけているとかいう、神父、カール・トーマス・ケニー、そして…ザイトワ・ダ——…!!」
呼び名は最後まで言い切れなかった。呼ぼうとした相手が、すでに眼下にいた。
——速い!!
入り口付近から十五メートルはあった。瞬き一つでこの距離を詰めた、こいつ…!
窓から差し込むわずかな光を反射した刃が、顎下から人型の脳天へ抜けた。
「……ッ…!!」
言葉を発することは出来なかった。口内で舌が、ザイトワの大型のナイフで顎下から貫かれ、口蓋に縫い止められているのがわかった。
途端、ナイフが抜き取られ、続けざま、襟首を左手に掴まれ、喉元、胸、脇腹、下腹を間断なく刺され、抉られる衝撃が脳裏に届く。
人型はよろめき、後ろずさる。だが、倒れず、ナイフで突かれた箇所から流れる滂沱の血潮を両手で受け止め、血泡を口から溢しながら、「やっで…ぐれだな…ごの体、は、貴重、なんだ…ぞ」
人型で語る悪霊の言葉に、ザイトワは片目を細め、反対の片眉をやや上げた。
告げ口をした蚯蚓様の雑多霊が流血する悪霊の主を庇うように広がろうとするのを、黒鉄の一閃が蹴散らす。
雑多霊の主人は、ザイトワを訝しむ。人間にしては、出来が良過ぎる。
なぜ霊を見据え、ただのナイフ一本で断ち切れる?
相手を警戒しつつ、ザイトワは黒い刃を一瞥した。
雑多霊から付着した体液は、霊の体同様に消失していく。
刃に残る悪霊人の血糊だけを黒のシャツで素早く拭うと、左は手刀を前に、右は上向きナイフを腰溜めに持ち、左半身で構え直す。
人型の悪霊の傷は、すでに塞がり始めていた。その治り方は、人間の肉のものではない。
ケニー神父が、倒れている女生徒たちの衣服を整えながら、生存確認をしていた。
静けさを湛えたまま、救護に慣れた手捌きで、流血の闘いの側にありながら、被害者たちへのケアを平然と続けている。
〝ジユウビョウドウハクアイ〟
〝ジュウボウドウエロスエロス〟
〝キャハハハハハハハハマルミエーッ!!!〟
周辺にはまだ、卑猥な戯言を喚き立てる細かい邪霊、雑多霊が這い回っていた。
ケニー神父はその姿は見えないようで、女生徒の側に居座ろうとする雑多霊を声の気配で追い立てて行った。
「In the name of the Father, the Son and the Holy Spirit,
you unclean spirits, return the way you came.
You shall never again be permitted to interfere with their lives.
Begone!」
毅然とした祈りが、体育館の一角に聖い霊的な光を差し込ませる。
耳障りで不快なつぶやき、呻きを繰り返す細かな邪霊どもが、その光は見たくないとばかりに、ギャアギャアと喚き、暗がりに隠れるように散っていった。
形だけは人間の悪霊教師が、神父の祈りに顔を歪め、後ろに下がりつつ嘯いた。
「なぜ邪魔をする?お前らも、女を好きにいたぶりたいと思うこともあろう?…一緒にどうだ?」
そう言って、倒れる女子らを顎で指した。
女性たちをあたかも物扱いにし、下卑た言葉を吐き出す。
ケニー神父が呆れたように顔を上げる。
「惠介!That girl——!」
血まみれの教師姿の悪霊は、言いながら、倒れる女子生徒に手を伸ばしていた。
だが伸ばす手に次の瞬間、ダマスカス鋼紋様の小ナイフが生えていた。
ザイトワのナイフ投擲の勢いに、人間の皮を被った悪霊はよろめき、唸った。
ナイフに手を貫かれたまま顔を上げると、ザイトワが近づいてくる。
その顔には一方的な暴力を堪能する者特有の、嗜虐的な笑いが浮かんでいた。
己が人間を騙し、苦しめるたびに浮かべてきた笑みと、同じ種類の——そう思った瞬間、教師もどきの背筋に、ぞわりと悪寒が走る。
なんなんだ、こいつは——…っ!
いつだって、人間どもを好きにいたぶるのは我々ではなかったか。
嘘を囁き、家族を、愛し合う者を、裏切らせ、親に子を、子に親を殺させて、絶望の内に自死を極上の選択として見誤らせる。我々の悦楽だ。
神の被造物を破壊するのは!
だがこの男は、易々と悪霊に手を伸ばし、捕え、なぶってくる…!
悪寒を抱えながらも、距離を詰めてくるザイトワを睨みつける。
歩み寄りながら、飛びかかる蛭のような悪霊を左手で顔の寸前で掴み取ると、ザイトワの手から細い青色の電流めいた光が走った。
人の頭ほどもある悪霊を、そのままコンクリート床へ叩きつける。それを見て、悪霊人は確信した。
霊を掴むなどと、我々と同じでなければ、出来ないことだ。
人皮の悪霊はザイトワの左手薬指の指輪にも気づき、笑いも堪えず揶揄った。
「ふはァッ?!フハハハハッ!お、お前…オレたちと同じくせに、人間の女を娶っているのか!?——グガァッ!!」
ザイトワの目の色が変わった。悪霊人は頭を掴まれ、壁に激しく叩きつけられた。
「惠介!No! やり過ぎは——!!」
離れた場所からの神父の制止虚しく、激昂のあまり歯軋りするザイトワは床から人皮を被った悪霊の胸ぐらを掴み、まるでズタ袋を振り回すかのように、再び壁に叩きつけた。
壁際に崩れた悪霊人の襟首を、髪を振り乱したザイトワが三度掴み、持ち上げる。
間近に迫ったザイトワの顔を見て、悪霊が何かに気づき、目を見開いた。
「お、前、その、目……」
ザイトワの左目は——まるで獣の目だった。
青灰色の虹彩の中央で、瞳孔が上から下まで縦に割れていた。
薄暗がりを捉えるため、その黒い縦割れの瞳孔は大きく開いている。
血だらけの悪霊の化身が嘲笑い、眼の中の昏い淵を覗き込んだ。
ザイトワは受肉した悪霊を床へ放り捨て、観察された左目を素早く手で隠した。
その様子を面白がって、よろめき立った悪霊人間がさらに言葉を続ける。
「その左の徴!そうだな?!……〝ババリアの祭司〟!!…ククッ…こいつはとんだ拾い物だ……」
相手の揶揄する調子が一層酷くなり、その方が気に障ったか、隠そうとした左目から手を下げて、ザイトワは開き直ったように薄ら笑いを見せた。
「日本に置いてある、と聞いてはいたが、レヴィオン——…おおっと!」
再び掴み掛かろうとするザイトワから、体力が完全に回復したか、軽々と身を翻し、悪霊人は体育館の反対側の出入り口から、すぐ外側の風除室に飛び退いた。
刺し貫かれた手から小ナイフを抜き取り、床に叩きつける。
「Don’t let him get away! 惠介!」すかさず追うザイトワの背に、ケニー神父が叫んだ。
「One second. Stay back!」ザイトワは神父に短く応じ、左手で小ナイフを拾う。
そのまま退く人型の悪霊に向け、五指を揃え右腕の手刀で空を斬る。
青い電流のような放出がザイトワの右手や腕から延び、うねりながら悪霊の影を追う。
激しい電撃と光が教師の皮を被った悪霊を掠め、近くの鉄柱やコンクリート床に当たり、黒白の焼け跡を残す。
辺りに焼けた鉄の金属臭と、焦げたコンクリートのツンと刺すような化学臭が、ないまぜになって漂った。
〝Vvwnw wnyii——!!〟
金属音に似た悪霊の異言に、闇が巨大な蛭の形に凝った。
その異形に向けて青く光る電撃の大鎌が落ちる。
ザイトワ・ダジャンが一振りで、大型の蛭を模した怪物の頭から胴中まで引き裂いた。
霧散する異形の向こうに、悪霊教師が十分な距離を取って立っていた。
「惠介、May I?!」
「Not yet!」
「Be careful there, 惠介!」
ケニー神父が指差した先に、すっかり復活した悪霊教師がニヤニヤと薄笑いしている。
「大した奴…瞬殺だな。さすが〝ババリアの祭司〟。いいや、この…ノツリムの犬が——…!」
踏込みの衝撃に、ザイトワの立っていたコンクリート床がひび割れた。
ザイトワの急接近に、悪霊の似非教師が飛び上がる。
小ナイフを口に挟み変え、ザイトワは悪霊の足首を掴んでコンクリート通路に打ちつけた。
すぐさま小ナイフを左手に戻し、諸手で大小の刃を振り翳す。
刺し貫こうとしたまさにその時——
悪霊教師の体から、マグネシウム炎のような激しい火が吹き上がった。
「惠介!」
駆け寄る神父をザイトワが制し、
「Father?!」
「No! Not me!」
二人のやりとりに、悪霊が笑う。
「ククク…悪く思うなよ…この体は貴様らに渡すわけにはいかんのでな…」
悪霊の体はケニー神父の祈りに反応し燃え上がったのではなく、自ら何らかの仕掛けで肉体を焼き捨てたらしい。
直視できないほどに眩しい、真っ白な光を放ち、人体はみるみる白い灰と化していく。
「日本に来たのは、期待以上の成果だった…」
燃えながらも、悪霊はさも嬉しい、楽しくてたまらない、といった調子で、火勢に一歩引いたザイトワに話し続けた。
「これほどとは思わなかったぞ…〝ババリアの祭司〟…」
「お前のその優れた器——…」
器、と聞いて、ザイトワはケニー神父を背後に回したまま、灰になった悪霊の体——英語教師だったもの——に向けて、青い雷電を落とした。
轟音と衝撃に、ザイトワの後ろ手で掴まれていたケニー神父のスータンの裾が、激しく旗めいた。
悪霊教師の灰は焼け飛び、コンクリートの地面には大穴が開いた。
夜明けが来た。
正気に戻った女性教師と少女たちに、ケニー神父が優しく声をかけ続けている。
警察や救急隊に連絡をしていた校長と教頭が駆け寄って、教師と生徒たちの無事を喜んだ。
問題の英語教師はどこに行ったか、不品行を恥じて逃げ出したようだ、行方を捜せ、とあたふたする警察官たちを見ながら、ケニー神父は懸念をザイトワに伝えた。
「また、やって来る心配アルネ。惠介」
「またやって来る心配が、あるな。連中のことだ。しつこい」
「心配、が、アル。That's it! 祈ります」
「ああ、先生の出番だ。こいつは」
「そこにおられた!ありがとう…ありがとうございました!!」
校長と教頭が、戦闘で所々が破損した現場に立つケニー神父とザイトワに向かって小走りで駆け寄ってきた。
「本当に、ありがとうございました」
「先生も生徒たちも…生きて…無事で、良かった…!」
二人は口々に、ケニー神父へ感謝を述べた。
「ひ、人でなかった…?」
「妖怪…ですか?」
飲み込めない校長と教頭に、若干困りつつもケニー神父は噛み砕いて説明に努めた。
「人そっくりの器…人形?と言いましょうかネ」
「そうしたら、別の器に入って来るって、あり得るんですか?」
突っ込んだ質問をする教頭に、ケニー神父は自身の懸念を棚上げにして、真実を告げていいものか、答えに詰まった。
真実ばかりを気にして、日常生活が立ち行かなくなるのはよろしくない。
「来るだろうな」
ザイトワが代わりに、サクッと答えてしまう。
「惠介!」
「言っておいた方がいい。エサになるものがある限り、あいつらは何度でも来る」
校長は、「エサ?」と反芻した。
その質問にはケニー神父が答えた。
「悪霊…たちは、ヒトの不和が好物です。弱者イジメや不正、トラブルを好んで寄ってキマス」
その答えを聞いて、校長も教頭も肩を落とした。
「…それは我が校に限らず、善処を要しますね。校長?」
「そんなこと、我が校にはない!と言い切りたいところだが…」
「珍しく正直な先生達だったな」
「これ!惠介」
学校を去りかけたところで、ザイトワが率直な感想を口にすると、ケニー神父が嗜めた。学校側にも、さまざまな事情や苦悩があるのだ。
「フフ……」
「待ってクダサイ。惠介。ここで祈りますカラ」
学校の裏門を出てから、ケニー神父は振り返り、学校全体のために十字を切って祈り始めた。
「Lord, by the blood of Christ Jesus shed on the cross at Calvary,
cover and protect this school,
all those connected with it, and their families…」
黒い四駆に寄りかかり、葉巻をもう一度口に挟むザイトワは、紫煙と共にケニー神父の祈りが天に登っていくのを黙って見やった。
——ノツリムの犬……
悪霊に罵られた言葉を、ザイトワは思い出して、忌々しげに「Filth!」と吐き捨てた。
祈り終えたケニー神父に、ザイトワが声をかけた。
「……ところで先生、また断ってたろう」
「ン?」
校長と教頭は、『お車代』として、謝礼の封筒を差し出していたのだ。
「アー、No, 受け取りまセンネ。Because, 私やアナタの力は、神なる主からタダでもらった。タダで分ける。コレ、当たり前デス」
ザイトワは「ハァーッ」と大きくため息をついた。「どうやって暮らすんだよ。先生?」
「それに、惠介が壊したモノもあるカラネ」
「……ッグ…!」
詰まるザイトワに、ケニー神父がウィンクした。
「ソレにワタシも、惠介の会社で働いてマスからァ」
「足りないだろう。顧問料だけじゃ。全然」
「不思議と暮らせているマス。主に感謝ですネ」
「暮らせて、います!俺が諸々担当してるんだろ!」
「暮らせていマース!Thank you! 主は惠介を私に遣わしたもーた」
それを聞いて、ザイトワはガクッと項垂れた。ダメだ。敵わん。
車に乗り込み、早速ケニー神父がザイトワに尋ねた。
「また聴いてもいいデスカ?」
「…You’re the boss.」
エンジンをかけ、明けてゆく街へ、二人を乗せた黒い四輪駆動車が走り出す。
車内に讃美歌94番が静かに流れる。
明け方の街並みを車窓から眺めながら、ケニー神父が運転席のザイトワに告げた。
「惠介、ダイジョーブよ。あなたがいれば、問題ナイ」
「なに…」
「心配顔ヨ」
「………」
「Don't be afraid!——主、我らと共にあり」
不思議と、最後の一文をスラスラと伝えるケニー神父を、一瞬横目で見るザイトワだった。
二人の車を遥か下に見下ろしながら、宙に漂う何かが呟いた。
愉悦を込めた響き——
〝見つけた……ババリアの祭司!〟




