十字架と血潮と(1)
見よ。
十字架の血潮——
その血は流された。
罪を贖うため……
人間の、罪を。
激しい雷電の音が、ひと気のない夜の河川敷の高架下に広がった。
〝ギァアアァァアアアァアァァアアアァァッ!!!〟
聞く者の身の毛をよだたせるような絶叫は、闇夜に吸い込まれていった。
夜目にも明らかな白髪の、焦げ茶色いオイルスキン風ライディングコートを着た男が、川原で異形を押さえ込んでいた。
夜釣りの風情では、どう見てもない。
男が押さえ込んでいるものは、体長にして四、五メートル。最も太い中ほどは、成人男性が両腕でようやく抱え込めるほどに膨れていた。
激しくくねる赤黒い鯰のような——いや、大蛇か、巨大なナメクジのような何か——それが耳障りな声で喚いている。
のたうつ長大な異形の頭部に、男は大型のナイフを突き立てていた。夜と同じ色をした刃に貫かれ、異形はまるで闇に杭打ちされているように見える。
その周囲に時折、青白い電気のような火花が散った。電光が不規則に男の腕から、突き刺した刃を伝い、怪物へと流れていく。
肉の焦げる臭いと、硫黄に似た異臭が立ち込めていた。
〝クソクソクソクソ!キサマキサマキサマキサマ!!ギャハァッ…!!〟
頭部にナイフを刺され、万力のような剛腕で押さえつけられながら、相手に罵倒を繰り返しているのは、夜の闇に紛れ、河川敷を寝ぐらにしている寄るべのない者たちの恐怖する心と血肉を貪っていた悪霊であった。人間どもを面白半分に屠るのは、本当に楽しい。
——はずだった。
だが今、脳天を地にナイフで縫い付けられている。
なぜこうなった?
いや……思い出した。
この男は——霊的存在である我々を掴み、こうして好きにいたぶることができる。
邪な霊どもの界隈で聞こえるようになった、その名を邪霊の蛇が呻く。
〝ヨクモ、コノ……ウラギリモノ…ッ……ザイトワ…ダジャン…!!〟
名を呼ばれた男の歳の頃は、二十代後半を過ぎているだろうか。屈んだ体躯からも、かなりの高身長であることが分かる。
荒くカットされた長い前髪から覗く顔貌には、その罵りに何を感じてか、シニカルな薄笑いが張り付いていた。
「ケイスケー!やり過ぎはイケマセンてぇ、あれほどォ——」
ザイトワ・ダジャン、と悪霊に呼ばれた男を、背後にいた初老の——黒く裾が長いスータンを着込んでいる——男が別の呼び名で制止する。目前で展開されている、悪霊の『電撃焼き』に眩しそうに目を瞬かせ、ザイトワの肩を揺さぶって行き過ぎた制裁を止めようとしていた。
だが止める声は、再度響き渡る電光と雷の放つ激音にかき消された。同時に肉の焼けるような、嫌な臭いとより強烈な硫黄の臭いが辺りに立ち込める。
〝……オ…ボエ……テ…イロ…ォ……ォオ………キ、サ、マ…!…カナラ、ズ…ッ…!!…ァアァ……ッ…〟
「In the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit——…」
<父と子と聖霊の御名により——…>
ヌメヌメした大蛇のような形を模していた悪霊が、どうしてか霊の体まで焼き焦がす電撃と、傍にすっくと立った初老の神父の祈りの言葉によって、人間の世界から、シュウシュウと音を立て、煙のようにほどけて消えつつあった。
「Go back to where you truly belong.
You must never return to the human world again.
In the name of the Lord Jesus.
Amen.」
<お前の本来の居場所に還れ。
二度と人の世に戻ってはならない。
主イエスの御名によって。
アーメン>
悪霊の〝コロス…コロス…〟という呻きは、次第に小さくなり、最後は姿とともに完全に聞こえなくなった。
「Done?」
近くで、使用していた大型ナイフを川の水で洗っていたザイトワが振り返りながら、尋ねる。
「Done!」
ケニー神父が答え、開いていた聖書を閉じて十字を切った。
「声が完全に消えました」
「それはそうと、惠介、アナタ。毎度毎度、やり過ぎ——」
「ハッ!売られたケンカは買わなきゃな」
「これはケンカではアリマセン」
好戦的な男の回答に、神父が嘆息気味に嗜める。
「何度も言うデモ、アナタのその力——」
「何度も言うけれど」
「Thank you! 何度も言うケレド!」
神父はまだ、日本語を完全に使いこなしてはいないようだった。ザイトワの修正に、礼を言いつつも、言いたいことは何とか続ける。
「アナタのその力はァ!天からの賜物ネ!正しく用いないと…」
「天?何を言ってるんだ、先生」
その力、とはさっきの悪霊を掴んでは、電撃で打ち据えていたことを指しているのだろう。
「俺の力は悪霊と同じ所から来ているんだ。俺も何度か言ってるぜ」
ザイトワはさっき神父が言っていた『何度も』の物言いに、同じようにまぜっ返し、ニヤリと笑った。
「俺という、あんたの懐刀は、〝悪霊の力〟なんだ。ケニー神父」
言いつつ、洗ったナイフで宙を一閃して雫を切ると、履いている黒いアーミーパンツで残りの水気を雑に拭き取る。ひとまずの手入れとしては、これで十分なのだろう。コート下のベルトを探り、背面のナイフシースに悪霊を貫いていた刃物を仕舞う。
ケニー神父、と呼ばれた方は、相方の物騒な片付けを見ながら、
「いーえ!ワタシの用は主の御用ですカラ、使われる惠介は悪霊、違いマスネ!」
と反論する。
「使われる俺は悪霊、とは、違いません」
「Oh? 悪霊、トハ……違いま、ン? 違いマス? マセン?」
「行こうぜ。今夜は二件目の依頼があるんだろう」
ザイトワ・ダジャンは、神学の話なのか日本語の添削なのか分からない追及から逃げるように、ケニー神父を次の現場へ急かした。
「惠介? マセン isn’t correct for this case, is it?」<惠介?この場合は「マセン」では正しくないのですよね?>
移動する車中で、運転席のザイトワがうんざりした声を上げた。「まァた、これか!」
助手席のケニー神父が自分のスマートフォンを車両のステレオに同期して、讃美歌94番を鳴らしている。
「いいデショウ?解放の讃美歌ですネェ!」
「勘弁してくれ。クリスマスはまだ先だろう。これ、クリスマス・ソングじゃねぇか」
「賛美というモノは24時間365日、クリスマスに限らず、いつだって主に捧げるモノですヨ♪〜Rejoice〜Rejoice〜♪」
一度デバイス同期の方法を教えたら、これだ、とザイトワの方が辟易した顔をしている。
「今からまた、悪霊からの解放を目指すのですカラー、良い応援歌デショ」
「応援?誰をォ!?誰がァ!?」
唸るザイトワに構わず、ケニー神父が目を細め、
「ん〜これからはワタクシー日本語でも覚えるべきでショウね、この讃美ハ」
「……Who cares……」<知ったことかよ>
ザイトワは苦々しそうに呟いた。本当に、この先生には敵わねえ。
「I care! About you, Keisuke! That’s why I’m here!」<私が気にかけています!あなたのことを、惠介!だから私はここにいるのです!>
ザイトワのWhoを普通に受け、マイペースなケニー神父が、鼻にかかる上品なイングリッシュアクセントで応じる。
「よせ。俺に説教するな」
「これは説教ではアリマセン。〝証〟デス。」
〝証〟とは、神から受けた恵みを人に証言すること——運転中のザイトワがそれを聞いて、ヒクッと嫌そうに反応する。
「やめろ。神とか何とか、俺に絡ませるな」
「エー?ワタシ、主の命でアナタを助けにキタからーね」
「言ってろ。誰も信じねぇよ」
「アナタ、自分を助けた恩人に、ヒドイこと言わない事ネ」
「ゥグ…」
「惠介、スピード出し過ぎデス」
「ほっとけ!」
ザイトワ・ダジャンは、次の目的地に向かう深夜の首都高で忌々しげに、必要以上にアクセルを踏み込んだ。




