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やっと見つけた、私の居場所  作者: 瑠璃くちの


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1/2

前編・見つけていて、ずっと


「……先生、ずっと私のこと見てたの?」

 そう聞いた自分の声が、ひどく頼りなく震えていた。

 気持ち悪い。怖い。こんなの、絶対におかしい。

 頭ではちゃんとそうわかっているのに、どうしてか私の足は、その場から逃げることができなかった。

 館本先生は少しも言い訳をしなかった。

 ただ、静かに私を見つめたまま、低い声で言った。

「知っていました」

 その声は、課外授業で花に触れていた時と同じくらい穏やかで、だから余計に怖かった。

「君がひとりで帰る日も、雨の中で立ち止まっていた日も、誰にも何も言わずに笑っていた日も」

 ひとつずつ、隠していたものを指先で暴かれていくみたいだった。

 逃げなきゃいけない。

 そう思うのに、胸の奥の、ずっと誰にも触れられなかった寂しい場所だけが、その言葉にひどく安堵してしまう。

 ――ああ、この人だけは知っていたんだ。

 私がずっと、ひとりだったことを。


     


 家に帰っても、誰もいないことのほうが多かった。

 父は海外赴任が長く、顔を合わせるのは年に一度あるかないか。母は管理職で、帰宅はいつも遅いし出張も多い。姉は大学進学を機に家を出ていて、たまに連絡はくれるけれど、何でも話せるほど近くはなかった。

 別に、ひどい家庭だったわけじゃない。

 欲しいと言ったものはちゃんと誕生日に届いたし、熱を出せば病院にも連れて行ってもらえた。進路のことだって、反対されることはなかった。

 ただ、家族で笑い合った記憶が、あまり残っていないだけだ。

 友達が家族旅行の話をしているのを聞くと、少しだけ胸の奥がざらついた。羨ましいと思うたびに、こんなことで寂しいと思う自分は子どもっぽいのかもしれない、とも思った。

 高校に入ってからは、夕方に来ていた家政婦さんも来なくなった。母は「もう一人で大丈夫でしょう」と悪気なく言った。

 たぶん、その通りだったと思う。

 私は大抵のことを、一人でできたから。

 ごはんを温めることも、洗濯物を取り込むことも、進路を考えることも、具合の悪い日に薬を飲んで寝ることも。

 ――でも、本当は、誰かに迎えを待っていてほしかった。

 そんなこと、口にしたこともない。

 言ったところで困らせるだけだと、ずっと前から知っていたから。

 春、高校三年生になってすぐ、私は職員室前の掲示板で「希望者対象・課外授業」の案内を見つけた。

 華道課外授業 四月~九月 放課後/校外文化施設にて

 華道に強い興味があったわけじゃない。

 ただ、写真の花が綺麗だったのと、放課後にまっすぐ家へ帰るのが少しだけ嫌だったのと、その二つで申し込んだ。

 初回の授業で、講師として現れたのが館本慶太だった。

 二十代後半くらいだろうか。若いのに、どこか静かで落ち着いて見えた。黒に近い紺のシャツの袖をまくり、花材の前に立つ姿は、先生というより、音を立てずにそこに在る人みたいだった。

 最初の実演で、彼は枝を一本、迷いなく落とした。

 ぱちん、と小さな音が部屋に響く。

「全部を残せば、綺麗になるわけではありません」

 低く、よく通る声だった。

「空いているところがあるからこそ、残るものが見えることもあります」

 花器に置かれた花は、華やかではなかった。

 むしろ少し寂しそうで、余白が多くて、それなのに目が離せなかった。

 どうしてだろう、とその時思った。

 寂しいものって、本当は見ていられないはずなのに。

 でも、その花はちゃんと綺麗だった。

 授業が終わったあとも、私はしばらくその作品を見ていた。

「何か気になりますか」

 気づいた時には、すぐ隣に館本先生が立っていた。

 驚いて振り向くと、彼は少しだけ目を細めた。

「すみません、急に」

「い、いえ……あの」

 私は作品の枝先を見た。

「どうして、この枝だけ少し外したんですか」

 自分でも変な質問だと思った。もっと華道らしい聞き方があったはずだ。花の名前とか、形の決まりとか。

 けれど先生は笑わなかった。

「全部を揃えると、綺麗すぎて、どこにも引っかからなくなるからです」

「引っかかる?」

「目とか、気持ちとか」

 先生は作品を見たまま言った。

「少しだけ外れていたり、少しだけ寂しそうだったりするものって、見過ごせないでしょう」

 私はうまく答えられなかった。

 ただ、胸のどこかを見透かされたような気がした。



     

 それから、毎週水曜日の放課後が待ち遠しくなった。

 他の生徒は、内申書のために来ている子も多かったと思う。課題が終わればすぐに帰っていく。けれど私は、片づけを手伝うふりをして最後まで残ることが増えた。

「どうして左右対称にしないんですか」

「花が少ないのに、綺麗に見えるのはどうしてですか」

「枯れかけてる花を使うのって、変じゃないですか」

 そんな質問ばかりしていた。

 今思えば、私は華道のことだけを聞いていたわけじゃなかったのかもしれない。

 整っていないものが綺麗に見える理由とか、足りないものがそこにあっていい理由とか、そういうことを、誰かに教えてほしかっただけだった。

 館本先生はいつも、少し考えてから答えた。

 すぐに決まりごとを押しつける人ではなかった。

「変ではありませんよ」

「それもひとつの見方です」

 まず否定しないでくれるのが、嬉しかった。

 ある日、私の生けた花を前に、先生が珍しく長く黙ったことがあった。

 その沈黙が不安で、私は思わず言った。

「変でしたか」

「いいえ」

 先生は私の作品から目を離さないまま、静かに言った。

「岸本さんの花は、置いていかれたみたいで目を引きます」

 胸が、ひやりとした。

 それが褒め言葉なのかわからなくて、私は曖昧に笑った。

 たぶんその顔を見て、先生は少しだけ言葉を足した。

「悪い意味ではありません。ちゃんと見ないと通り過ぎてしまうものを、あなたは残すんですね」

 ちゃんと見ないと通り過ぎてしまうもの。

 その言葉を聞いた瞬間、泣きそうになった。

 誰にも言ったことはないけれど、私はずっとそういう側の人間だった気がしたからだ。目立たなくて、手がかからなくて、困らせないから、後回しにされても仕方がない側。

 なのに、目の前の人は、そのことに気づいてしまったみたいに見えた。

「……先生って、よく見てるんですね」

 やっとそう言うと、先生は少し困ったように笑った。

「見ていないと、花はうまく扱えませんから」

 花、だけじゃないのだと、その時の私はどこかで思ってしまった。



     

 九月の終わり、課外授業は最後の日を迎えた。

 窓の外では、夏の気配がきれいに消えかけていて、校内はもう受験の空気に入っていた。三年生の放課後は、これからどんどん重くなる。そういうことを、みんながなんとなくわかっていた。

 最後の授業が終わって、他の生徒たちは軽く挨拶をして帰っていく。

 私はいつもみたいに片づけを手伝っていた。

 花ばさみをケースに入れ、花器を拭き、余った花材をまとめる。

「もういいですよ」

 館本先生にそう言われても、私は「あと少しです」と返した。

 この時間が終わってしまうのが、嫌だったのだと思う。

 やがて本当に片づけるものがなくなって、部屋に沈黙が落ちた。

 私が「じゃあ」と言いかけた時、先生がふいに名刺を差し出した。

 白地に黒い文字で、名前と連絡先だけが簡潔に書かれている。

「進学してからも、興味があれば」

 私が受け取るまで、先生は手を引かなかった。

「花展の案内でも、わからないことの質問でも。連絡してきても大丈夫です」

 その言い方は、とても穏やかだった。

 押しつけがましくない。無理に近づいてこない。私の返事を急かさない。

 だから余計に、胸が熱くなった。

「ありがとうございます」

 名刺を受け取りながら、私は小さく頭を下げた。

 本当はその場で、「連絡してもいいですか」と聞きたかった。

 けれど言えなかった。

 自分から何かを求めるのが、昔から下手だった。

 迷惑かもしれない。覚えていてくれているのは、ただ先生として当然だからかもしれない。私だけが特別だと思っていたら、恥ずかしい。

 そんなことを考えるうちに、何も言えないまま別れの挨拶だけが口から出た。

「お元気で」

 それはまるでもう二度と会えない相手に言う言葉みたいで、自分で言っておきながら胸が痛かった。

 家に帰ってから、私は名刺を何度も見返した。

 財布の透明ポケットに入れて、取り出して、また戻して。

 けれど結局、一度も連絡はしなかった。


     


 十月、十一月。

 学校は一気に受験色になった。

 友達は推薦や一般の準備で忙しくなり、放課後に残って話すことも減った。私は付属大学への内部進学希望で、秋のうちには進路がほぼ固まっていた。先生にも「このままいけば大丈夫」と言われていたし、母も「じゃあ安心ね」とだけ言った。

 安心、なのだと思う。

 けれど、安心したはずの日の帰り道、私は一人でコンビニに寄って、小さなプリンを買って食べた。誰にも報告する気になれなかった。母はまだ会社だろうし、父は時差の向こうだし、姉にわざわざ連絡するほどでもない。

 進路が決まったって、こんなものなんだ、と思った。

 家に帰って、誰もいないリビングの電気をつけて、制服のままソファに座った時、ふいに館本先生のことを思い出した。

 連絡してみようかな、とその時ほんの少しだけ考えた。

 でももう、課外授業が終わって随分時間が経っていた。今さら突然連絡したら変かもしれない。忙しいかもしれない。私なんて覚えていないかもしれない。

 そうやって、私はまた何もしなかった。

 その頃から、誰かに見られているような気がする時が増えた。

 駅のホームで。

 改札の向こうで。

 バイト先へ向かう途中の信号待ちで。

 振り向けば、誰もいない。

 たまに似た背格好の男の人がいても、すぐに別人だとわかる。

 気のせいだと思った。

 そう思うしかなかった。



     

 冬が本格的に始まる頃、バイト先のカフェで、その人は現れた。

 夕方の、混み始める少し前。制服にエプロンをつけて注文を取っていた私は、入口のベルの音に反射的に顔を上げた。

 そして一瞬、息を忘れた。

 館本先生だった。

 私服の彼を見るのは初めてだった。濃いグレーのコートに黒いマフラー。課外授業の時と変わらない静かな目が、こちらをまっすぐ捉えた。

 でも先生はすぐに「久しぶりですね」とは言わなかった。

 ほんの少しだけ間を置いてから、まるで今気づいたみたいに目を細めた。

「……やっぱり、岸本さんだった」

 その言い方が、なぜだかひどく嬉しかった。

「あ……先生」

「もう先生ではありませんけど」

 そう言って、少しだけ笑う。

「ここで働いていたんですね」

「はい。あの、びっくりしました」

「この近くに花材を扱う店があって。たまに来るんです」

 自然な理由だった。何も不思議はない。

 私は注文を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。

 覚えていてくれた。授業が終わっても、ちゃんと。

 たったそれだけで、世界が少しだけやわらかくなった気がした。

 その日、先生はコーヒーを一杯飲んで、長居せずに帰った。

 でもそれから、週に一度か二度くらいの頻度で店に来るようになった。

 毎回同じ時間ではない。長く話し込むわけでもない。

 だからこそ、私も不審には思わなかった。

 私だけが、先生が来る曜日や時間をなんとなく覚えてしまっていた。

 バイト終わりに外へ出ると、たまたままだ近くにいて、「駅までですか」と一緒に歩くこともあった。

「進路はどうですか」

「付属の大学に進学が内定しています」

「そうですか。よかった」

 それだけの会話が、どうしてあんなに嬉しかったのだろう。

 家では誰も聞いてくれないようなことを、聞いてくれるからかもしれなかった。

 ある帰り道、私が何気なく「家に帰っても誰もいないことが多いんです」と言った時、先生は少しだけ黙ってから、静かな声で言った。

「岸本さんは、一人でいることに慣れすぎているんですね」

 その言葉に、私はうまく笑えなかった。

 慣れすぎている。

 たぶん、その通りだった。

 誰かにそう言われたのは、初めてだった。


     


 先生と話す時間が増えるにつれて、私は少しずつ落ち着かなくなっていった。

 会える日を待つようになったし、会えた日には気分が軽くなった。スマホのメッセージが鳴るたび、先生からではないかと思ってしまう自分にも気づいた。

 おかしいと思う。

 相手は元先生で、十歳近く年上で、授業が終わってから少し会うようになっただけの人だ。

 それでも、先生の前では肩の力が抜けた。

 急かさないこと。否定しないこと。私が言葉を探している間、黙って待ってくれること。細かいことを、驚くほど覚えていること。

 たとえば、私が甘いカフェラテよりも、疲れている日は少し苦い紅茶を頼むこと。

 たとえば、人が多い日は端の席を選ぶこと。

 たとえば、一度だけ授業中に「雨ってあんまり好きじゃないです」と言ったことを、冷たい雨の日に覚えていたこと。

「傘、持ってますか」

 バイト終わりに店を出たら、先生が軒下に立っていた。私はその日、朝の天気予報を見忘れていて、折りたたみ傘を持っていなかった。

「えっ、どうして……」

「なんとなく降りそうだったので」

 そう言って差し出された傘を、私は受け取ってしまった。

 どうしてここまで優しいんだろう、とその時はただそう思った。

 好きになってはいけない相手なのかもしれない、と頭のどこかで思いながら、その優しさを手放したくなかった。

     



 違和感に気づき始めたのは、それから少ししてからだった。

 言っていないはずのシフトの日に、先生が店に来ることが何度か続いた。

 疲れている日に限って、私の好きだと言っていた紅茶を選ぶ。

 駅でばったり会う回数が、偶然にしては多い気がする。

 家の近くで、見覚えのある背中を見た気がしたこともあった。

 気のせいだと思おうとした。

 実際、全部こじつけなのかもしれない。

 けれど二月の初め、花展の準備を手伝わないかと誘われて、私は先生の作業場へ行った。

 古い住宅街の一角にある、小さな教室兼作業場だった。木の匂いと水の匂いがして、壁際には花器が並んでいた。静かで、整っていて、先生に似合っていた。

「少し待っていてください。花材を取ってきます」

 そう言って先生が奥の部屋へ入っていった時だった。

 作業台の端に置かれたノートが、エアコンの風で少し開いた。

 見るつもりはなかった。

 でも、そこに見えたのが自分の名前だったから、私は動けなくなった。

 11/28 17:42 岸本由莉奈 バイト終了 疲れている顔。帰りにコンビニ。プリン。

 指先が凍ったみたいに冷たくなった。

 慌てて閉じようとして、ノートの下に挟まっていた写真が床に落ちた。

 カフェで働く私の後ろ姿。

 駅のホームで電車を待つ横顔。

 高校の最寄り駅の改札を出るところ。

 雨の日、傘もなく立ち尽くしている背中。

 誰もいない歩道橋で、一人でスマホを見ている姿。

 全部、私だった。

 その中の一枚を見て、息が詰まった。

 誕生日の日だ。

 学校帰りに、友達と別れたあと一人で歩いていた日。母から「今日も遅くなる」とだけ連絡が来て、ケーキも何もなくて、でも別に期待していたわけじゃないと自分に言い聞かせながら帰ったあの日。

 私はその時、少しだけ泣いていた。

 たぶん、自分でも気づかないくらいに。

 それが、写っていた。

「……なに、これ」

 声が、うまく出なかった。

 奥から戻ってきた先生が、足を止める気配がした。

 振り向くと、先生は私の手元を見て、すぐに表情を失くした。

「由莉奈」

「なに、これ……?」

 写真が震える。指先だけじゃなく、腕も、膝も震えていた。

「どうして、こんな……どうして私が……」

 否定してほしかった。

 何か理由があって、誤解だと言ってほしかった。

 けれど先生は、しばらく黙ってから静かに言った。

「見ていました」

 世界が、そこで一度きれいに止まった気がした。

「課外授業が終わって、もう会えないと思ったら……駄目だった」

「……駄目だったって」

「最初は、元気か知りたいだけでした」

 最初は。

 その言葉の中に、どれほど多くの越えてはいけない時間が詰まっているのか、考えたくもなかった。

 気持ち悪い。怖い。吐きそうだ。

 後ろへ下がろうとして、作業台に腰が当たる。逃げたいのに、足がうまく動かない。

「ずっと、見てたの」

「……はい」

「学校も、バイト先も?」

「はい」

 気分が悪くて、視界が少し揺れた。

「なんで……そんなこと……」

 先生は私から目を逸らさなかった。

「君が、連絡をくれなかったからです」

 責めるみたいな言い方ではなかった。

 でもその静かな言葉が、かえって怖かった。

「待てると思っていたんです。終わった授業のことなんて、君にはその程度かもしれないと、何度も思いました。けれど、待てなかった」

「だからって……」

「わかっています」

 先生はそこで、ほんのわずかに目を伏せた。

「気持ち悪いでしょう」

 私はすぐに答えられなかった。

 気持ち悪い。怖い。おかしい。全部本当だった。

 それなのに、床に散らばった写真の中に、見覚えのある一枚がまた目に入った。

 雨の日、学校帰りに私は駅前でしばらく立ち尽くしていた。傘がなくて困っていたわけじゃない。誰かが迎えに来るはずもないのに、なぜかその日は少しだけ、待っていたかったのだと思う。

 その時の私を、この人は見ていた。

 もう一枚。進路がほぼ決まった日に、コンビニの前でプリンを食べながら笑ってもいない顔をしている私。

 もう一枚。誕生日の夜、誰にも祝われずに帰る私。

「……これも」

 自分の声が、遠く聞こえた。

「この日も、見てたの?」

 先生は写真に目を落とした。

「はい」

「進路が決まった日……私、誰にも言わなかったのに」

「知っていました」

「誕生日も……」

「知っていました」

 私は唇を噛んだ。

 怖い。なのに、胸の奥に別の何かが滲んでくる。

 自分でも言葉にしたことのない寂しさを、この人だけは知っていた。

 誕生日に一人で帰ったことも。

 誰にも報告しないまま進路が決まったことも。

 雨の日に意味もなく立ち止まっていたことも。

「……誰も、知らないと思ってた」

 零れた声は、怒りよりずっと弱かった。

 先生の目が、ほんの少しだけ揺れた。

「知っていました」

 静かな声だった。

「ずっと、見ていたから」

 その瞬間、涙が落ちた。

 怖くて泣いているのか、悲しくて泣いているのか、自分でもわからなかった。

 ただ、胸のいちばん奥にずっと空いたままだった場所へ、冷たくていびつな何かが、ぴたりとはまってしまった気がした。

     

「……こんなの、おかしいよ」

 やっとそう言うと、先生は小さくうなずいた。

「はい」

「気持ち悪い」

「そうですね」

「逃げたほうがいいのに」

「そう思います」

 先生は、一歩も近づいてこなかった。

 それが余計にずるかった。

 無理やり腕を掴まれたら、きっと私はちゃんと怖がれた。怒れた。拒絶できた。

 でも先生はただそこに立って、私を見ているだけだった。

 課外授業の時と同じように、静かに、じっと。

「……どうして」

 私は涙を拭いもせず、先生を見た。

「どうして、そこまでするの」

 先生は少しだけ目を閉じた。

「君だけが、ちゃんと見てくれたからです」

 低い声だった。

「花のことも、俺の話すことも、何ひとつ軽く扱わなかった。嬉しかった。――それだけで終わればよかったのに、会えなくなってから、君のことばかり考えるようになった」

 それは告白というには、あまりに歪だった。

 綺麗でも、正しくもない。

 けれど、私には妙に真っ直ぐに聞こえた。

「最初は、元気でいるか知りたかっただけです」

 先生は続けた。

「でも、見ているうちに、君がひとりでいることが多いと知った。誰も迎えに来ないことも、進路が決まっても一人で帰ることも、具合が悪そうでも一人で歩いていることも……知ってしまった」

 喉の奥が熱くなる。

 知られたくなかったわけじゃない。

 本当は、ずっと、誰かに知ってほしかったのかもしれない。

「君は、一人でいることに慣れすぎている」

 前に言われた言葉が、今度は違う意味で胸に刺さった。

「だから……見ていたら、離れられなくなったんです」

 私は笑いそうになった。

 泣いているのに、笑いたかった。

 こんなの、おかしい。気持ち悪い。どう考えても駄目なことだ。

 なのに。

「……私、ずっとひとりだったの」

 気づけば、そんなことを言っていた。

 先生の表情が、初めて大きく揺れた。

「知っています」

「ううん。知ってるとかじゃなくて」

 私は首を振った。

「たぶん、私、自分でもちゃんとわかってなかった」

 声が震える。

「平気なふりしてた。別に寂しくなんかないって。みんな忙しいし、そんなものだって。でも、ほんとは、誰かに見つけてほしかった」

 見つけてほしかった。

 その言葉を口にした瞬間、自分の中の何かがほどけた。

 そうだ。私はたぶん、ずっとそれを待っていたのだ。

 迎えに来てくれる誰か。

 後回しにしない誰か。

 ひとりで帰る背中に気づいてくれる誰か。

 それがこんな形で来るなんて、思ってもいなかったけれど。

「気持ち悪いのに……」

 涙で滲んだ視界の向こうで、先生の肩がかすかに強張る。

 私は息を吸って、ゆっくり吐いた。

「どうして、こんなに安心するんだろう」

 先生は何も言わなかった。

 言えなかったのだと思う。

 その沈黙が、却って優しかった。

 しばらくして、私は自分でも信じられないくらい穏やかな声で言った。

「ずっと、隠れて見てたの?」

「……はい」

「じゃあ、もう隠れないで」

 言ってから、自分の心臓の音がうるさいくらいに響いた。

 これは、正しい言葉じゃない。

 たぶん、言ってはいけない言葉だ。

 それでも、今の私には、それがいちばん正直だった。

 先生は、すぐには動かなかった。

 まるでその一歩が許されるのか、何度も確かめるみたいに、じっと私を見た。

 そしてようやく、ゆっくりとこちらへ近づいた。

 近づいても、腕は掴まない。頬にも触れない。ただ、私が逃げないかを確かめるように、少し手を差し出しただけだった。

 私はその手を見た。

 花を切る手。

 形を整える手。

 静かで、綺麗で、少しだけ怖い手。

 でも、その手を私は知っていると思った。

 恐る恐る、自分から指先を重ねる。

 その瞬間、息が止まりそうになるほど、安心した。

 見張られていたはずなのに。

 逃げるべき相手のはずなのに。

 どうしてか、初めて、ひとりじゃないと思った。

 窓の外では、もう冬の夕方が落ちかけていた。薄暗い教室の中で、花器に残された一輪だけが、不自然なくらい鮮やかに見えた。

 全部を埋めれば綺麗になるわけじゃない。

 あの日、先生はそう言った。

 たぶん私は、ずっと空いていた場所に、いちばん触れてはいけないもので、ようやく蓋をしたのだ。

 正しい場所じゃないことは、わかっている。

 それでも私は、その手を離せなかった。

 やっと見つけてもらえた気がしたから。



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