11 悪寒(おかん)
午後一時少し前。
智子は、ベッドの上で、せきこみながら、
数学の問題と、格闘していた。
彼女の背中に、悪寒が、はしった。
はじかれたように、ベッドから、飛びおりる。
部屋の窓を、全開にして、
店の入り口に、目を、やると、
お客の行列が、自動ドアをはみ出し、
えんえんとつながっていた。
整理券が、必要なくらいだ。
「やっぱりだ!やってくれたよ!
言わんこっちゃない!
まったく、もーう!
優希はどっか、とろいとこがあるから」
心配で、いても立ってもいられず、
早送りのように着がえると、
一階へ、ばたばたっと降りる。
作業場を通りぬけ、レジへ、ダッシュする。
しかし、父親に、制止された。
「カゼだなんていってられない。
わたしが、レジを、手伝うよ!」
息せき切りながら、智子。
父親が、
めったに見せない種類の笑顔を浮かべ、
レジの方へ、あごを、しゃくる。
「どこに目をつけてる。よーくみてごらん」
作業台の真横にある、
大窓の、向こうがわには、
落ち着きはらって、
しかも、迅速に、
レジをこなしている、優希のすがたがあった。
売りきれて、空になったプレートの山をかかえ、
作業場へ戻ってきた、母親が言う。
「あの娘は、見かけによらず、
肝っ玉が、すわってるね!
お客さんの行列にも、平常心を、たもっていられる。
レジの操作も、すぐに、のみこんだ。
パンの値段は、完ぺきに覚えてる。
モノが違うわ。
まったく、あたしゃ近ごろ、
こんなにビックリ仰天したことはないね」
他人にたいして、
たいそう辛辣な目を持つ母親が、優希をほめている。
それも手ばなしで。
智子の全身に、うれしさが、わきあがってくる。
店の方へまわる。
混雑しているお客の肩ごしに、
優希の姿を、確認する。
かいがいしく、
レジをこなす彼女の姿を、
しっかり目にいれる。
むずかしいといわれる、
焼き立てのパンの、
袋入れの、
絶妙なタイミング、スピード。
袋入れしたパンを、
紙袋へとおさめていく、
順番も、申しぶんない、
パンがつぶれないように、工夫している。
お客ひとり一人に見せる、笑顔の、さわやかさ。
パーフェクトである。
わが友が、あらためて、誇らしくみえる。
ヒューッ♪
思わず口笛を吹く智子。
それを耳にした優希が、顔を上げる。
トングを、西部劇のガンマンよろしく、クルクルまわして、
ピタリと静止、
ポーズを決めた。
「優希、あんたはエラい!」
「ごくろうさま」
智子はベッドの上から、もどってきた友人をねぎらった。
「どういたしましてじゃ」
クッションにペタリと座りこむ優希。
「あのお客の数じゃ疲れたでしょう。
いつもより、多い気がする」
首をかしげつつ智子。
「ほんのちょっぴり。
まぁ、お役にたてて良かった」
言うなり、こてんと横になった。
すぐにスヤスヤ寝息をたてる。
赤ん坊のような寝顔である。
トン、トン!
ノックの音と同時に、扉が開いた。
「おやおや」
と言いながら、
眠りこんでいる優希のそばに、そっと座る。
本日のヒロインの頭をなで、
やさしく微笑んだ。
「いい娘さんね、優希ちゃんは」
「まあね。だって、わたしの親友だもん」
それから首をかしげて、
「何か、おかしいな?
いくら、日曜のお昼とはいえ、
うちの店が、こんなに混んだこと、あったかなぁ?」
母親が、大きく、息をついた。
「お父さんが、ホームページに、優希ちゃんの写真をアップして、
ミス・コン優勝者が、レジ係をつとめると、
告知したのよ。
おかげで、きょうは、てんてこ舞い。
瞬間的な売り上げは、
大みそかを、しのいでるわ」
「どーりで。
若い男性客が多かったのは、そのせいなんだ。
しっかし、オヤジも罪つくりなことしてくれるよ。
あの、お客の数は、ハンパじゃなかった。
私でも・・・こなせたかどーか、」
「あたり前だよ!
あんな離れ業を、やってのける能力の持ち主は、
この優希ちゃんだけさ」
あっさり他人の娘を、
上位にランクした。
「はっきり言ってくれちゃってさ。
優希の時給、はずんでくれるんでしょうね」
「もちろん。
大入りもつけるわよ。
それでさ、今晩、
なにか、腕によりをかけて、ごちそうを、
こしらえてあげたかったんだけど・・・
・・・お母さん、疲れちゃってさ」
腰のあたりを、とんとん、叩く。
「それで?」
「店屋ものにしようと思うわけ。
なにを食べたいのか、お嬢さんが起きたら、訊いといて。
お寿司でも、うなぎでも、
お好みのものでかまわないから」
「へぇー。それは、豪勢なことで」
しまり屋の母親の、めったにない、申し出だった。
音をたてないように、扉を閉めると、
母親は、静かに、部屋を後にした。
かすかな寝息をたてている親友を横目に、
ベッドの上で、勉強に集中している智子。
作業場の、パン生地を仕込む、ミキサーが停止した。
音と振動がストップして、
室内に、静けさがただよう。
優希がいるために、
最近覚えた「静謐」という言葉すら、
使ってみたくなる。
ミキサーの振動音が、
幼いころから、
体内のリズムとなって、組み込まれているため、
あまりに静かな状態は、かえって、落ちつかない。
『L・Aウーマン』
ドアーズのラストアルバムを、
CDプレイヤーにセットする。
ヴォリュームを、しぼって、流した。
一曲目はいかにも、らしいナンバーの・・・『チェンジリング』。
BGM効果か、すんなり勉強に集中していくことができた。
苦手な数学の問題を、
いつもとは違った角度から、アプローチしてみる。
いくつかの問題を解いているうち、
当然のことだが、
正解と不正解がでてくる。
不正解のどこを、どう間違ったのかを、
突っこんで、検証してみた。
すると、優希センセイご指摘の、
いわゆる、ワンパターン性や、
強引なところが、あぶり出しにされた。
うまく方向転換のきく問題と、
そうではない、
自分の欠点があらわになる問題とに、
大別される。
よくよく考えれば、引っかかるのは、
難易度の高い、
上級問題なのである。
そうか!
難しい問題を解くには、
まだまだ、実力が不足しているという、
単純な事実なんだ!
ちょいとした、
自己発見をした気分。
それだけに止どまらず、
難しい問題のポイントが、
わずかながら、視えてくる、ときがある。
ハードルは高いが、ここを足がかりに、
数学力アップへとつなげなくては。
ドアーズサウンドにまじって、
不協和音が・・・響いてきた。
集中がじょじょにほぐれ、
元の意識レヴェルに、立ちもどる智子。
ひどくうなされている優希を、発見する。
「う、うーん、智子・・・・智子!」
美しい顔に、苦悶の表情が、浮かびあがっている。
歯ぎしりの音も、加わった。
智子は、バッ!と、
ベッドから飛びでるや、友人の肩をつかんで、ゆすった。
右腕を、高々(たかだか)と、
宙に伸ばし、叫ぶ優希。
「智子ォ=っ!」
強い気合いを込め、
優希の肩を、ガクンとゆさぶり、
意識を引きもどす。
意識と呼吸の回路が、
正常に、復旧したかのように、
覚醒した、優希。
上体を、起こすと、
みけんを、刺しつらぬくように、
指を強く、押し当てた。
顔色蒼白だった。
「どうしたの?すごくうなされてたよ」
心配そうに、友人を、のぞきこむ智子。
両手を祈るように、
にぎりしめ、肩をふるわせている優希。
「あーあ、夢だったのね。
よかった。神様、ありがとうございます」
「よしよし、もう大丈夫だから。
よっぽど怖い夢を見たんだね」
友人をつつみこむように、抱きしめる。
「ああ、智子」
しがみついてくる優希。
まるで、幼ない子供だ。
智子が、用意してくれた、
マグカップに、なみなみと注がれた、
ホットミルクを、椅子に腰かけて、口にする。
だいぶ落ちつきを、取りもどしたようすの、優希。
彼女が、
身体を、ぷるんと震わせた。
「その音楽、ストップしてくれない?
ふたたび、悪夢のなかに、引きずりもどされそうで・・・
・・・怖くて」
「ああ、これ。そんなに怖い?」
意外そうな顔の智子。
恐ろしさ、大さじ4杯、という表情で、首をすくめる優希。
顔には、悪夢の痕跡が、はっきり残されていた。
CDが停止された。
「さっき、流れていた“ラ‘メリカ、ラ‘メリカ”って、
リフレインする曲があったでしょう。
まるで、悪魔の唱える、お呪いみたい」
「んな・・・オーバーな。
ドアーズと相性が悪いのかな?
で?・・・いったい、どんな夢をみたわけ?」
みけんに指をあてたまま、黙りこんでしまう優希。
「ひとに話せば、楽になるっていううじゃない。
それとも私は、信用されていないっテか?」
ためらいがちに、優希が、言葉を紡いだ、
「・・・かつてないほどの、黒い波動だった。
智子が、とつぜん、
私の前から、存在を消してしまう。
二度と会えない、
ひどく冷たい、
絶対零度の、
リアルな・・・それはリアルな夢」
マグカップを両手で持ち、
かっと見ひらいた目を、
聞き手の方に、
急接近させる。
ベッドの上で、思わず、あとずさりする智子。
「やめてよ!縁起でもない!」
「ごめんなさい。
子供のころ、お祖母さまが、
突然死する直前に、
見た夢の感じと、酷似しているの」
深く考えこみながら、ミルクを飲む。
「優希の予感は、当たるからなあ・・・
超自然な話ってのは、
どうもニガテだよ。カンというのはわかる。
私だって、ある局面では、ひらめくことがあるし、
個人差はあれど、
本来ヒトに、備わっているものだと思う。
しかし、予知となると・・・どうだろう?
SFだよ。
信じない。断固、信じないぞ!
・・・とはいえ・・・寒気が止まらない」
がっしりした、自分の身体を、抱きしめ、歯をガチガチ鳴らす。
「かならず、予感が的中するというわけじゃないから、
そう、気にする必要はないよ」
優希のふたつの瞳は、
智子へ、向いているが、
見つめているのは、自己の内面だった。
「ひとつ、たずねるけど、きみの予感がはずれたことってある?」
「・・・・・・」
沈黙でもって、こたえる優希。
「うほーい!!
百発百中ってことかい!」




