第13話 地図の場所
三人は崖を越え、その先の湿った森の斜面を下っていた。
粘つく根が足に絡み、遠くでは奇妙な鳥の声が響いている。
斜面には昨夜に少しだけ降った雨がわずかに残っており、踏み込むたびに土が崩れ、足元がずるりと滑った。
そのたびにアシナが小さく息を呑み、ナユカも無意識に周囲へ目を走らせる。
森は静かだったが、その静けさがかえって神経に触った。
「何か出てきそうな感じね……」
アシナが不安そうに口にする。
ここに来るまでに、様子のおかしな大型の草食動物に出会っているし、ナユカからルードラに襲われた話も聞いた。
薄暗い森の中に入ると、不安の色が濃くなるのも自然なことだった。
「うん。ただでさえ、人の手がほとんど入っていない立ち入り制限エリアだからね。普通に野生動物と出くわすことだって全然あるよ……」
三人の歩く場所に、道と呼べるものはもうない。
今はただ、地図だけを頼りに前へ進んでいる。
時折、ピオラが行く手を遮り、別の方向へ進むような指示をしているように見える。
初日の経験もあり、三人はその指示に従って進んだ。
確認する術はないが、危険から守ってくれているような気がした。
しかし――
そのとき、木々の間を低い唸り声が走った。
「……っ」
次の瞬間、茂みから黒い影が弾丸のように飛び出した。
四足、甲殻に覆われた原生獣――ウロバイト。
動きは速く、迷いがない。
湿った地面を蹴る音が異様に重く、爪が根を砕きながら一直線に迫ってくる。
ナユカの背筋が凍りつく。
「下がって!」
ジローの声と同時に、エアショックガンが火を噴いた。
圧縮された衝撃弾が獣の肩を打ち、黒い体が一瞬だけ大きく揺れる。
だが、倒れない。
ウロバイトは痛覚が鈍いのか、狙いを変えずに突進してくる。
その脚は少しも鈍らなかった。
「アシナ、右へ回って!」
「う、うん!」
アシナが横へ走る。
だが次の瞬間、ウロバイトは急に進路を変えた。
一直線に、アシナへ跳びかかる。
「っ!」
鋭い爪が振り下ろされる。
アシナは間一髪で横へ転がった。
地面に爪が深く突き刺さり、土と石が跳ね上がる。
乾いた枝が何本もまとめてへし折れ、その音が森に鋭く響いた。
ナユカは息を整え、フォージペンダントを強く握った。
拳の上に、淡い光の刃が形成される。
指先には汗がにじみ、柄のない光刃を支える感覚が、いつもより心許なく思えた。
(……やるしかない)
「こっちだ!」
ナユカは大声を出した。
ウロバイトがその声にナユカの方を振り向く。
獣の視線が、まっすぐナユカを捉えた。
黒い甲殻の継ぎ目で、わずかに筋肉が盛り上がるのが見える。
次の瞬間、再び跳躍する。
「くっ……!」
ナユカは一歩踏み込み、横なぎに脚を狙った。
光刃が装甲の隙間をかすめる。
硬い感触が手首まで返ってきて、浅く裂けた脚部から濁った体液が飛んだ。
だが致命傷には届かない。
「ナユカ! まだ!」
ジローの声が飛ぶ。
「分かってる!」
声を返したものの、喉の奥は乾いていた。
獣が再びナユカへ飛びかかろうとした瞬間――
ピオラのレンズが、一瞬だけ強く光った。
その光に反応したように、ウロバイトの動きが止まる。
ほんの一拍。
だが、それで十分だった。
ナユカは動きを止めたウロバイトに向けて一歩踏み込み、正面から光刃を叩きつけた。
光刃が甲殻に食い込む。
硬い装甲に亀裂が走り、その奥の肉まで刃が届いた。
ウロバイトが苦痛に身を捩り、大きく後ろへ跳ねる。
その瞬間を狙ってジローがエアショックガンを立て続けに撃ち込んだ。
その一発が獣の側部をまともに捉える。
衝撃で巨体がよろめき、ウロバイトはついに地面へ崩れ落ちた。
湿った斜面に重い体が滑り、土と落ち葉を巻き込みながら止まる。
森の中に、荒い息だけが残る。
「ナユカ、大丈夫?」
アシナが駆け寄る。
「うん……ちょっと怖かったけど……平気」
言ってから、自分の膝がわずかに震えていることに気づく。
「ちょうど、産卵期で、気が立っていたみたいだ。危なかったね……」
ジローが眼鏡型情報端末〈サイトグラス〉を立ち上げ、ウロバイトについて調べる。
それによると、普段は自分から人を襲う事は無いようだが、たまたま巣の近くを通りがかったので襲いかかってきたようだった。
「ええ、気をつけましょう。余計なトラブルは避けないとね」
「うん……」
ナユカは頷き、ピオラの方へ視線を向けた。
ピオラはただ静かに浮かび、レンズをわずかに揺らしている。
さっきの光が偶然だったのか、ピオラが何かをしたのか、ナユカには分からない。
けれど、それはまるで心配しているように――ナユカには、そう感じられた。
⸻
短い休憩のあと、三人は再び歩き始めた。
斜面を抜けた先はさらに踏み跡が薄く、枝葉を払いながら進まなければならなかった。
時間の感覚は曖昧になり、どれだけ歩いても景色はほとんど変わらない。
ジローが端末を展開すると、空間に赤い警告線が走った。
「まずいな……」
ジローは眉をひそめる。
「どうしたの?」
アシナが、ジローの様子を見て不安げに尋ねた。
「嵐が来そうなんだ。急いで雨風をしのげる場所を探さないと」
ジローが空を見上げる。
「テントポッドは……」
ナユカは辺りを見回したが、森は深く、開けた場所は見当たらない。
「無理か……」
その時、ピオラが低く飛び、周囲をなぞるように動いた。
目で追いかけると、少し先に、岩の張り出した場所が見える。
「ジロー!」
アシナが、ピオラの向かった方を指さしながら声を上げる。
「うん。沢からは離れてるし、斜面も崩れてない。あそこなら少し待てる」
三人は岩陰に入り、ジローがレインシェル・シートを広げた。
その直後、空からバケツをひっくり返したように雨が降り注いだ。
「さすがにこれは無理だね。タープシェルじゃずぶ濡れになるよ」
この時代、強い日差しや軽い雨なら、タープシェルで力場膜を形成してしのぐのが普通だった。
しかし今降っている雨風は、それだけでしのぐには強すぎた。
「うん、待つしかないね」
ナユカはぽつりと呟いた。
やがて雨は弱まり、森に打ちつけていた音も少しずつ遠のいていった。
三人はレインシェル・シートを畳み、再び目的地に向けて歩き始める。
しかし――
「ちょっと、慎重に歩いた方がいいかもしれないね……」
ジローが低く言った。
森の地表からは、白い霧が立ち上っていた。
数メートル先の輪郭さえ曖昧で、木々の幹も薄い影のようにしか見えない。
しかも先ほどの大雨で、足元のぬかるみはさらにひどくなっていた。
三人は足を取られないよう、慎重に歩く。
ピオラは一番先頭に立ち、時折レンズを赤く光らせていた。
「迷わないように先導してくれてるのかもね……」
ピオラが何を考えているのかは分からない。
しかし少なくとも、ナユカたちを目的地へ連れて行こうとしていることは疑いようがなかった。
やがて一行は、流れの速い川へ出た。
水は先ほどの雨で勢いを増しており、白い泡を噛みながら岩の間を走っていく。
ジローがキャリーコードを取り出し、対岸の太い木に向けた。
引き金を引くと、先端にアンカーのついたコードが勢いよく発射される。
アンカーは木の幹に突き刺さり、爪を広げてしっかりと固定された。
「順番に渡ろう!」
ナユカたちは腰のベルトにウィンチを取り付け、滑車を使って川を渡るつもりだった。
張られたコードは細く見えたが、ナユカが体重をかけてもびくともしない。
ただ、川幅は広く、身体が揺れるたびにコードもわずかに震える。
ナユカは下を見すぎないようにしながら、対岸へ滑っていった。
下を流れる水音は思った以上に強く、視線を落とすと、そのまま吸い込まれそうな錯覚を覚える。
渡りきったときには、肩に余計な力が入っていたことに気づいた。
アシナとジローも、順番にコードを使って川を渡る。
三人が渡りきるころには、霧は晴れ、日の光が雲の隙間から差し込んでいた。
⸻
「ここはもうモルクナだよ」
ジローが、目的地が近いことを告げる。
ルーチェフォード北の大森林は、区域ごとに名前がつけられている。
その中でも、もっとも奥にある一帯をモルクナと呼んでいた。
大規模な調査でもない限り、まず人が足を踏み入れることのない場所だ。
ナユカたちは、そんな場所を進んでいた。
光を放つ植物が群生する斜面を越えると、その先に開けた湖畔が姿を現した。
白い霧が水面を這い、遠くで風が波紋を作っている。
青みがかった発光草が足元にまだらに残り、その淡い光が霧の縁をぼんやり浮かび上がらせていた。
「……きれい」
アシナが思わず声をこぼす。
ジローが腕輪型情報端末〈リンクレット〉を操作して、地図を確認する。
「あとちょっとで、目標地点だね」
三人はそこで少しだけ休憩をとり、疲れた身体を休めた。
湯を沸かし、茶を飲む。
温かさが、疲れた身体に染み渡っていった。
疲労が押し寄せる一方で、静かな達成感が三人の胸を満たした。
ここへ来るまでの足の重さや、森の圧迫感が、一瞬だけ遠のいたように感じる。
ピオラは湖の方を向き、微かにレンズを光らせる。
それは、この先に“何か”があると告げているようだった。
⸻
「ここだ」
ジローが地図データを確認する。
宙に浮かぶ映像の赤い点が、ナユカたちの現在地と重なっていた。
長く続いた道なき道の先に、ようやく目指していた場所が手の届くところまで来ていた。




