#037 刹那的幸福
取りあえず僕は熊沢の店で働くことになった。
はじめに話をもらったときには何となく腰が引けていたのだが、一晩考えたいまではかなり前向きな気持ちになっている。クルマも借りて帰ってきてしまった手前、いまさら断るわけにもいかないし。
僕としても、せっかく手にしていた二級整備士の資格を遊ばせておくのはもったいないような気がしていたし、あまりに長いあいだ現場から離れて感覚が鈍ってしまうことも嫌だったから、タイミングとしてはよかったのかもしれない。
とは言ったものの具体的な仕事の内容については、熊沢からはナニも聞かされていない。ただ「いじれるんだろ?」という言葉から考えても他の選択肢はないような気はするが。
それはともかく、熊沢の会社はチューニングショップというからには、ディーラーのように点検中心の整備ではないのだろう。
きっとより高い応用力が必要とされるのだろうけど、僕がメカニックとして身につけたかったのは"究極の応用力"とも言えるモノだったから寧ろ好都合と言えるのかもしれない。
そして……熊沢はジムカーナへの出場を僕に強要した。まるで業務命令だと言わんばかりに。
ジムカーナを走った経験がないわけではなかったが、僕は競技としてのジムカーナにはまるで興味がなかった。
パイロンの周りをくるくる回る感じがどうにも好きになれない。
しかし、ココでもやっぱり僕は押し切られた。「A級ライセンスを取らしてやる」という甘い言葉に流され熊沢の命令を受け容れることにした……渋々ではあったのだが。
「どうしたの、このクルマ――」
足元の方から声がした。
クルマの下から顔を出すと、ソコには買い物袋をぶら下げた祐未さんが立っていた。
彼女の視線は、寝板に寝そべる僕とクルマとの間を交互していた。
その表情を見た瞬間、僕には「彼女が頭に思い浮かべた不安」が手に取るようにわかった。
「借りたんですよ。足がないと何かと不便なんで」
僕はそう呟くと、寝板を滑らせクルマの下から這い出した。
彼女は怪訝そうな表情でカローラFXを見つめている。
「でもね、めちゃくちゃ調子が悪いんですよ」
僕は苦笑いしながら両手にはめた軍手を外すと、ドコか腑に落ちないと言った顔の彼女から買い物袋を取り上げた。
いつものように彼女を二階に案内すると、僕は寝室へと向かった。
ツナギを脱ぎ、Tシャツとジーンズに着替えて部屋を出ると、既に祐未さんはキッチンに立っていた。
その後ろ姿を見て、僕はほっと息を吐いた。
さっき階段を上るあいだ、彼女はずっと何か言いたげに首を傾げていた。
きっと僕がクルマを手に入れたコトで、またよからぬ道に進むんじゃないかと心配……というか不満を持ったのだ。
しかし、いまキッチンに立っている彼女はそんなことは忘れてしまったかのように見える。少なくともその後ろ姿からは、僕に対する不満のようなモノはいっさい感じられなくなっていた。
ふと窓に目をやった。
ブラインドの隙間から覗く外の景色はすっかり暗くなっているみたいだった。
壁の時計は八時を指している……が、秒針が動いている様子がない。
僕は寝室の目覚まし時計を覗き込んだ。
秒針が元気に走り回っているそっちの時計は七時になる少し前を指している……。
「なにしてるの?」
背中越しに祐未さんの声が聞こえた。
振り返ると彼女が寝室を覗き込んでいた。
「さきに食べちゃうわよ?」
「電池、切れたみたいなんで」
僕は彼女の後ろの壁を指さした。
そこにはかれこれ十二時間くらい「時を刻むこと」をさぼっている時計があった。
「確かここらへんに電池があったはずなんですけど――」
僕はクローゼットを覗き込んだ。
しかしあいにく電池の予備は見当たらなかった。
実家から持ってきた荷物に入ってたのを見た記憶があったのだが……気のせいだったのか?
「あとで買いにいったら」
祐未さんは言った。
「どうせ今日も駅まで送ってくれるんでしょ」
いいって断っても強引に――。
彼女は呆れたような笑みを浮かべていた。
「当然送って行きますよ――」
僕はクローゼットの扉を両手で閉め、毅然とした態度で言った。
「さすがに一人で帰すわけにはいかないでしょ」
とくに最近は物騒なんですから――。
そう言ったところで彼女が妙な視線を向けていることに気付いた。
「……なんですか?」
「いい口実ができたってコトね」
祐未さんは口元を弛めて言った。
その口ぶりは、駅まで送っていく口実を作るために僕が時計に細工をしておいた、とでも言いたげだ。
しかしさすがにソコまで面倒なコトは考えない。
僕は言い訳をするように身の潔白を主張したが、意味ありげな笑みを浮かべた彼女は逆に僕を宥めるように何度も頷いてから「取りあえず手を洗ってきなさい」と洗面室を指さした。
そして……僕は彼女に言われるがままに、背中を丸めて洗面室へと向かった。
気が付くと、祐未さんの存在は僕の暮らしの中にすっかり溶け込んでいた。もう以前の暮らしがどういうものだったのか思い出せないくらいに。
だけど僕は知っていた。
そんな当たり前のようになってしまった日常もいつかは終わってしまうということ、そして彼女がいなくなったあとに待ち受けている退屈な生活から抜け出すことを、きっと僕はしないのだろうということを。
いまが幸せであれば幸せであるほど、それが過ぎ去ったあとの疵が深いものになるのは目に見えている。
だけど……わかってはいるけど、簡単には手放せそうもない。
或る意味刹那的ではあったけど、いま目の前にある幸せを自ら放棄することなど僕にはできなかった。
それがときどき、僕を酷く鬱な気分にさせるとしても。
食後、キッチンで食器を洗う祐未さんの横で、僕はいつものようにコーヒーを淹れはじめた。
はじめの頃は僕の所作を興味深そうに眺めていた彼女だったが、いまではすっかりなれてしまったようで、とくにコレと言った反応を示してくれなくて少しさびしい。
僕は横目で彼女を窺った。
いつも思ってたことだが、彼女は本当に楽しそうに家事をこなす。きっといい奥さんになるに違いない。
ふと、いつか一弥君が言ってた言葉が頭を過ぎった。
結婚するんだ――。
あの言葉を聞いたとき、僕のなかでは憤りにも似た感情が湧いていたのを思い出す。
僕らの目指していた夢……一弥君から誘っておいて、いまさらそれはないんじゃないか、と。
だけど、本当は少し違ってたんじゃないかと、いまになって思い始めている。
あのときの僕の苛立ちはそういうことではなかったんじゃないか、と――。
「なに、固まってるの?」
声に反応して僕は顔を上げた。
「大丈夫?」
祐未さんは怪訝そうな顔で僕を覗き込んでいた。
「大丈夫です」
僕はひと言だけ告げると、何事もなかったように二つ並べたカップにコーヒーを注いだ。
「ねえ、聖志」
祐未さんの声に視線だけを動かすと彼女と目が合った。
「本当に大丈夫なの?」
彼女は真顔で呟いた。
「何がです? べつに普通ですけど」
「なんだか最近おかしいし……アタマ打ったりしたんじゃないの?」
深刻そうな顔でそう言う彼女を見て、笑みがこみ上げてきた。
「まあ、打ったとは思いますけど」
僕はこみ上げる笑いを抑えながら、左手で後頭部のあたりをそっと撫でた。そして「でも異常はなかったですよ、まったく」と言った。
仮におかしかったのだとしても、他に思い当たる理由がいくらでもある。
「本当に?」
「本当です。ただ……」
「ただ……?」
「いえ、そろそろ仕事しなきゃと思いまして――」
僕は熊沢の店で働くことを彼女に話した。
その流れでクルマを借りることになったと言うことも。
当然、熊沢たちと知り合った経緯については若干の脚色をさせてもらったが。
「仕事は来週の月曜からなんで……そのまえに実家に行かないといけないんですよね」
工具一式、置いてきちゃったままなんで――。
僕は顔を顰めつつ言った。
宅配便で送ってもらうことも考えていた。だけどわざわざ住所を教えることもしたくなかった。
当然、父に聞けば教えてくれるのだろうし、既に聞いてる可能性だってないわけではない。
それでもやっぱり伝える気にはならなかった。自分の口から直接伝えるのとでは、また少し違った意味合いがあるような気もしていたのだ。
そしてその父から僕に連絡はない。
僕が病院に運び込まれた日には父も顔を出したらしいが「死んでない」ということだけを確認するとすぐに病院をあとにし、僕の意識が戻る頃には機上の人となって上海だか香港だかに向かっていたようで……その後はお互いに連絡は取らないままに現在に至っている。おそらく「親子としての関係」は既に破綻していると言っていいのだろう。
「たぶん……おかしいんだとしたら、実家に行きたくなくてヘンなプレッシャーを感じてるからですね」
そう言って苦笑いすると、祐未さんも理解を示してくれたように遠慮気味に笑みを浮かべた。
「でも、ちゃんと挨拶して来なきゃダメよ。みんなに心配かけたんだから」
彼女の言葉に僕は頷いた。
確かに母と由佳里には心配を掛けた。それにそろそろ由佳里がぶち切れてる頃だろうし。
「でもそっかー、完治したってことは私の役目も終わりね」
祐未さんはため息混じりにそう呟いた。
「そんなことないですよ! 祐未さんには毎日でも来てほしいくらいで――」
言いかけて口を噤んだ。
慌てて腰を上げた僕を、祐未さんは目を丸くして見上げていた。
「いや、まあ……一人でメシ食うのもなんだし……」
僕は彼女から目を逸らすと、そう言いながら腰を下ろした。
祐未さんはナニも言葉を発していない。
ただこちらを向いていることだけは気配でわかった。
彼女がどんな顔をして僕を見ているのか……それが気になって仕方がなかったが、確認する勇気をいまの僕は持ち合わせていなかった。




