#036 挑発
僕らは熊沢の運転するマスターエースに乗って首都高速を走っていた。
木場から首都高速に乗るとき、真昼の首都高速を、しかもワンボックスで走ると言うことに僅かな違和感を抱いていたが、箱崎を通過する頃にはそんなことは気にならなくなっていた。
板橋へと向かうこのクルマに吉井の姿はなかった。いまごろは熊沢の言いつけを守って店番をしているはずだった。
彼が何の仕事をしている人なのかは知らないが、熊沢のところで働いてるわけではないということは彼らの会話から窺い知ることができた。
それはともかく、僕は自分の状況がよくわからなかった。
なぜこのクルマに乗っているのかがわからない。
B級ライセンスの講習会に向かっているというのは知っている。だけどつい先程「B級ライセンスは取得済」ということを告げたばかり。なのにその僕が板橋まで行かなきゃいけない理由……残念ながら思い当たるモノは何もなかった。
それにしても……僕は窓の外に視線を伸ばした。
日曜日の環状線は平和そのものだった。
普段の僕らが目にする緊張感がそこにはまったく存在しない……ワンボックスの助手席という高台から見える景色のせいかもしれない。
そして、環状線の周囲は意外と緑が多いと言うことにイマサラながら気付いた。
マスターエースは竹橋を通過した。
何度となく通っている「見慣れた場所」であるはずなのだが、助手席から見る景色に見覚えのあるモノはなかった。
ジャンクションから五号池袋線へと入ると、程なく護国寺を通過した。
神藤が僕のTZRを見かけたというのはココを下りた辺りのはずだ。
もともとはそのTZRに会いたくて、僕は首都高速に足を運ぶようになった。
だけど不思議なモノで、あのときほどTZRに対する執着のようなものはない。それはたぶん、もっと執着したいモノがいまの僕にはたくさんあるからなんだろう。
北池袋の出口が出てきた。
熊沢がウインカーを灯した。そして速度を落とすとそのまま首都高速を下りた。
正面の信号がちょうど赤から青に変わった。
マスターエースはタイヤを軋ませながら、右折して山手通りへと入った。
そのまましばらく進んだ先を左に入ると、ちょこまかと走り回り、やがて茶色っぽい建物が見えてきたところでクルマの速度が落ちた。目的地に着いたみたいだ。
熊沢はクルマを建物の前に横付けすると、祐二だけを下ろし「入ってすぐの階段を上ると受付がある」と走っていくように指示をした。
よく躾された犬のように駆けていく祐二……そんな彼の後ろ姿を、僕は助手席から少し悲しい気持ちで眺めていた。
祐二を下ろして再び走り出したマスターエース。
熊沢は大山駅に近い時間貸し駐車場にクルマを止めた。
そしてクルマを降りるよう僕に促すと、「ついてこい」とでもいうように指先で合図し、無言のまま歩き出した。
黙って後ろについて行くと、やがてあらわれた小さな喫茶店のまえで立ち止まった。
少し古びた感じのする小さな喫茶店。
建付の悪い木製のドアを開けるとカランカランと安っぽいベルの音がした。
店内には僕らの他に客の姿はなかった。
熊沢は迷わず窓際の奥にあるテーブル席に向かい、席に着くとすぐにメニューを広げた。
そしてオーダーを取りにきた女の店員に向かって、迷わず「ミルクティー。ミルク多めで」と低い声で言った。
一見すると凶悪犯のような彼の口から飛び出した「ミルク多めで」という台詞。
容姿とのあまりのギャップに思わず吹き出しそうになったが、それを左手で口を押さえて何とか堪えていると、熊沢は僕の方を一瞥し「おまえは?」と呟いた。
顔を上げると、店員が僕の言葉を待っていた。
僕は熊沢の方を見ないようにしながら、広げたメニューの「ブレンドコーヒー」を指先でさした。
店員は感情のこもらない声で注文を繰り返すと、投げやりな態度で僕らに背を向けた……なんだか少し感じが悪い。
「――先に言えよな」
何の前触れもなしに熊沢が呟いた。
「何がです?」
「ライセンスだよ。持ってるなら早く言え」
「……」
無茶苦茶な人だ。
ライセンスのことなんか僕だって忘れていた。
だから自分から話すつもりもなかったし、聞かれなければおそらくずっと言う機会はなかった。だいたい言わなきゃいけない理由がない。
「いつ取ったんだ」
「去年です。八月頃だったと思いますけど」
確か八月に入ってすぐの日曜日だった。
講習会場だった会議室のエアコンの調子が悪くて暑かった記憶がある。
隣の席にいた太った男が異常に汗を掻いていて、その朦朧とした様子に「コッチに倒れかかって来たら迷惑だ」と、いつでも避けられる半身の体勢で講師の話を聞いていた。だからというわけではないだろうが、講習内容については記憶が曖昧な箇所がいくつかある。
「どこかに入ろうとは思わなかったのかよ?」
熊沢は不機嫌そうに言った。
僕は何も言わずに曖昧に首を傾げた。
どこにも入るつもりがなかったわけではない。ただ、ドコに入ったらいいのかわからなかっただけ。
ライセンスを取得したとき、その講習会を主催していたクラブから誘いを受けた。
べつにそれは僕だけが特別ということではなく、当日の受講者全員に声を掛けていた。現にそのままそのクラブに入った人もいたようだ。
ソコに入らなかったのは、そのクラブがジムカーナをメインにしていたからだった。
僕はダート志向だった。
いつかパイクスピークを走るという夢は、一人になっても消えてしまったわけではなく、寧ろ以前よりも強いものになっていた。
そして、いつかきっと一弥君は戻ってくる、と僕は思っていた。少なくともあの頃は疑いなくそう願っていたのだ。
やがて店員がやってきて、コーヒーと紅茶と伝票をテーブルに置いていった。
彼女は見た目に印象の薄い人だった。
細身の体型で、肩よりちょっと長い髪を後ろでひとつにまとめていた。目鼻立ちは……普通かな。派手な雰囲気はまったくなく、表情に乏しい感じ。そして年齢は不詳……。
ただ、決して愛想のいい人とは言えないのは確かなようだ。
「ところでジムカーナの経験はあるか?」
熊沢はカップを口に付け、ミルクティーを啜った。
ジムカーナという言葉にため息が出そうになったが、それを堪えて「ありますけど、興味はないです」と静かに、そして隙を与えないように言った。
「そうか……来月、ウチが主催する大会があるからソレに出ろ」
有無を言わせない態度だった。
たったいま「興味がない」といったのに、それが耳に届いていないんじゃないかと思わせるくらいの強引さだ。
僕はあからさまにため息を吐いた。「だからジムカーナには興――」
「何か用でもあるのか? 日曜日は」
熊沢は口元を弛めていった。
それは「どうせ用事なんてないだろ」と言わんばかりの表情だった。
彼に言われるまでもなく、僕は週末を持て余している。日曜日の過ごし方については常に頭を悩ませていた。そう言う意味では断る理由などないのだが、どうしても熊沢の誘いを素直にそれを受け入れられない気持ちが心のどこかにあった。
「自信がないのか。もっともオレとしてもおまえに順位なんてモノは期待しちゃいないが」
熊沢は僕を挑発するように口元を弛めた。
そのとき、入口の扉に付いたベルが、カランカランと軽い音を立てた。
目をやると二人組のおじさんが立っていた。狭い店内を見渡した彼らは、緒対外の顔を見合わせると僕らのテーブルの隣を指さし、そのままその席に着いた。
すかさずさっきの店員が水の入ったグラスを持って席に向かったが……彼女は笑顔だった。
その態度は僕らに対するモノとあまりにも違っていた。なんでなんだ?
「ま、どっちにしてもそんなに固く考えることはない――」
熊沢はそう言って立ち上がり、カウンターの脇に置いてあった雑誌を手にとった。
そしてそのままペラペラと雑誌をめくり始めた――。
「……」
話は途中じゃなかったのか……?
僕はため息を吐いた。本当にマイペースな人だ。
いまの言葉に続きがあるものだと思っていた僕は、なんとなく取り残されたような気持ちになっていた。
僕はノビをするように胸を反らせると、そのまま窓の外を眺めた。
陽射しが強かった。一時間くらい外に立ってれば十分日焼けできそうな気がする。
完全に夜型の生活が染みついているいまの僕――。
陽に当たることなんてあまりなかった。さっきシャワーのあと、鏡に映った自分を見て、あまりに白くて少し気持ち悪いとさえ――
「取りあえず完走しろ」
熊沢が呟いた。
よく聞き取れなかったが……気まぐれなおっさんの独り言のようなものか。
「……何か言いました?」
一応聞き返した。
熊沢は雑誌をめくり掛けた手を止めた。
そして僕を一瞥すると「完走しろ。そして取りあえずA級に上がれ」と有無を言わせない口調で言った。
僕は何も応えなかった。
熊沢の視線を感じてはいたが、気付かぬふりで視線を落とし、コーヒーカップをそっと口元に運んだ。




