#035 RX-7
電話が鳴ったとき、僕はまだベッドの中にいた。
既に目を開いてはいたものの、頭は全然醒めていなかった。ベッドの上に座ったまま、遠くから聞こえる電子音に聞き入っていた。
それが電話だと気付くまで若干の時間を要した。そして電話だと認識できた頃、それを見計らったように音は途切れた。
ま、いいや――。
日曜日にかかってくる電話なんてロクな用件ではない。だからといって平日の電話に意味があるわけではなかったのだが。
僕は喉の渇きを覚え、重いカラダを引きずるようにベッドを抜け出した。
アキレス腱を伸ばしながらキッチンへと向かい、冷蔵庫からペットボトルを取り出し口を付けた。
冷たい水が喉を通って胃に落ちていく。干涸らびた身体に水分が吸収されていく。
また電話が鳴った。
受話器は手を伸ばせば届く位置にあったが、放っておくことにした。
ふと壁に貼ったカレンダーが目に入った。
まだ五月のままになっている。
僕はため息を漏らすと、カレンダーを二枚めくった。それと同時に電話は切れた。
七月に入っていた。
梅雨の真っ直中だったが、今日は雨の匂いがしなかった。
雨の日は憂鬱だ。洗濯物だけでなく、心の中までシケっぽくなったような気がする。
しかし晴れの日曜日はもっと憂鬱だった。
今日も意味のない一日が始まる。この一日をどう乗り切ろうかと考えるたび、僕は得体の知れない虚無感に嘖まされる。
また電話が鳴った。
放っておこう――。一瞬そう思ったが、掛けてきたのはなかなかしつこい人物らしい。僕が出るまで何度でも何度でも掛けてくる気なのかもしれない。
僕は手を伸ばして受話器を取り、そっと耳に当てた。言葉は何も発しなかった。
『――おい。生きてるのかよ?』
電話の声が言った。
聞こえてきたのは熊沢の声……。
僕は時計に目をやった。針が指しているのははまだ八時を過ぎたばかりのところ……僕は一切の感情を押し殺し「おかげさまで」とだけ答えた。
『いま、なにやってるんだ?』
「……寝てました」
『そうじゃない。仕事はしてるのか?』
「いえ。してません」
僕が即答すると、受話器の向こうから大きなため息が聞こえたような気がした。
運送会社をクビになってから一ヶ月以上が経っていた。だけどこれといって就職先を探すこともしていない。
ただ貯蓄を食いつぶし、漫然とした日中を過ごし、夕方に来てくれる祐未さんを待っている。
そして相変わらず右肩には包帯を巻いている。あたかもそれがお気に入りのファッションのひとつでもあるかのように。
『なあ北条よ――』
熊沢はため息混じりに話し出した。
それは僕に対する説教の類ではあったが、いまの僕の心には何も響いては来なかった。すべての言葉が僕を素通りしていった。
『――とにかくだ。そんなにまったりしやがるのは十年早い。取りあえずあとで迎えに行くから、すぐに出られる準備しておけよ』
彼は一方的に言うと電話を切った。
「……勝手な人だ」
受話器を置くと独り言を呟いた。そしてブラインドを上げ、窓を開けた。
よく晴れていた。
昨日までの曇り空が嘘だったかのように雲ひとつない快晴だった。
僕は窓を開け放ったまま、着ていたシャツを脱いだ。
汗ばんだ肌にシャツの生地が引掛かる窮屈さを感じながら、上半身を外から入り込む風に晒した。
そして右肩周りを覆う包帯を剥ぎ取ると、それをゴミ箱に放り投げた。
ゆっくりと時間をかけてシャワーを浴び、コーヒーを淹れる。
いつもの朝と少し違うはじまりだったが、ようやくいつものルーティンを取り戻したような気がした。
濃いめにドリップしたコーヒーにたっぷりの牛乳を注ぎ込む……。
矛盾してるし邪道よ――。
以前付き合ってた女にそんなことを言われたことを思い出した。
濃いコーヒーとたっぷりの牛乳の組み合わせ……僕の嗜好を鼻で笑って真っ正面から否定した。
彼女はブラックを好む人だった。
ただし砂糖は欠かさなかった。いつもスティックシュガーを半分だけ入れていた。
甘いコーヒー……僕にしてみれば、そっちの方がよっぽど理解できなかったのだが。
そんなことを思い出しながら、立ったままカップに口を付けた。
そして頭の中で熊沢の言葉を反芻してみた。
迎えに行くから――。
つまり、僕をどこかに連れて行こうとしているのだろうけど……。
幸か不幸か、今日は何も予定がなかった。もっともそれは明日も明後日も同じコトだったが。
ただ、行き先もわからずに連れ出されることには抵抗がある。だいたい僕と熊沢は親しいわけでもなんでもないのだ。
――ん?
家の前の路地にクルマが入ってきた気配があった。
耳に飛び込んできた低い排気音――、おそらく熊沢が到着したのだろう。
僕は窓から顔を出した。
見下ろした視線の先にあったのは見覚えのない白いFC3S――。熊沢とロータリーエンジン……イメージと合わない気がした。
「よ――」
運転席から顔を出したのは意外な顔だった。
僕らは第一京浜を東京方面に向かっていた。
車内には会話はなかった。
ただスピーカーからはKENNY LOGGINSの声が流れ続けているから沈黙しているという感じはない。
僕は助手席を窺った。
ステアリングを握る彼はこびりついてしまったような笑顔で正面を見据えている。自分から会話を切り出すつもりはなさそうだが、時折口ずさんでいる曲の音程が外れがちで、それが聞こえるたびに妙な居心地の悪さを感じさせてくれている。しかも英語の歌詞なのにドイツ語かなんかで歌ってるようにも聞こえるし……。
「あのさ――」
「え?! なに?」
祐二は僕を振り返った。
口を開き掛けた僕を遮っておきながら「なに?」って……本当は話したくてウズウズしてたんだろうな。
「……これ、誰の」
僕は掌でコンソールを軽く叩いた。
「おお。いいだろ?」
祐二は待ってましたとばかりにそう言った。
僕の質問に対する応えとしては及第点を与えられないが、少し大人になった気持ちで彼の言葉を受け容れた。
「宇野さんっていたじゃん。あの人がオークションで落札してくれたんだ」
「ふ~ん。モーター屋なのか?」
僕は宇野の姿を思い浮かべた。
「いや。青年実業家だって自分で言ってた」
なるほど。一番信用してはいけないタイプのようだ。
「で……どこに?」
僕は言ったが祐二はそれには答えず、さらに口元を弛めて「もうすぐ着くよ」とだけ呟いた。
しかし……
「なあ。いつになったら着くんだ?」
僕はシートに凭れ、動揺を隠せないでいる祐二を横目で窺った。
祐二はさっきから「あれ?」とか「おかしいなあ……」と小さな声で繰り返している。僕には彼の心の声までがまる聞こえだった。
「ここ左折っちゃうとさっきの道に出ちまうけど?」
僕は醒めた声で言った。
「え……マジで?」
「マジで、じゃなくて道の真ん中で停まるなよ」
貸せよ――。
僕は祐二が左手に持っていた紙を取り上げた。
矢印で「ココ!」と記されていたのは葛西橋通りから少し海の方に行ったあたりだった。
結局、そこからは僕が道案内をする嵌めになった。
そして辿り着いたのはチューニングショップ……店の前には古いカローラFXと見覚えのあるZが停まっていた。
看板には「BEAR'S Auto Service」と書いてあった。
「早く食っちまえよ。もうふほひひたらへはへるはら……」
「……」
熊沢は喋りながら餃子を二つまとめて頬張った。
何を言ってるのかわからないが、急いでいるという事だけは間違いがないようだ。
連れてこられたのは熊沢の店だった。もっとも祐二一人じゃ来られなかったはずだから、僕が連れてきたと言ってもいいくらいだったが。
熊沢は僕らが到着するなり「遅せえ」と一喝し、一緒にいた吉井が出前のメニューを広げて僕らの方に向けた。
僕と祐二は熊沢に勧められるまま「ラーメンと半炒飯と餃子」のセットを選んだ。
やがて出前が届いた。
吃驚するほどの早さで届いた四つのラーメンセット。それを僕と祐二は、熊沢に言われるままに「レーシングタイヤの上にガラスを置いただけ」の簡素なテーブルに並べた。
そして現在に至るというわけだが――。
「JAFには入ってるか?」
ラーメンどんぶりを凝視したまま熊沢が呟いた。
「……はい」
僕と祐二が顔を見合わせてそう言うと、熊沢は満足そうに頷いた。
「飯を食い終わったら、板橋まで行く」
熊沢はスープを飲み干すと、食べてる途中の僕らに構うことなく大きなゲップをした。
「ソコでおまえらには講習を受けてもらう。そんで競技会に出るためのライセンスを――」
「持ってますけど」
僕は言った。熊沢は怪訝そうに僕を窺った。
「……何を持ってるんだ?」
「Bライなら去年取りました」
僕が答えると、熊沢と吉井は顔を見合わせた。
国内B級ライセンス――。
免許を持ってれば誰でも取れる競技者資格。
去年、会社を辞めて時間を持て余していたときに取っておいた。
「もうどこかに入ってるのか?」
熊沢は僕を窺った。
「いえ。仮登録のままです。たぶんもうすぐ期限がくるはずですけど」
確か「一年以内にどこかのクラブに所属しないといけない」と、発給の際に言われたような気がする。
「だったらウチで登録するわ。シール寄こせ。もらってるだろ?」
熊沢は僕に向かって手のひらを広げた。
「ないです」
「なくしたのか?」
「いえ。家に帰ればあると思いますけど」
ライセンス発給の時にもらった小さなシール。そこに名前を書いて「登録するクラブ」に提出するように言われていたが、そんなものの存在自体をすっかり忘れていた。
「じゃ、今度来るとき持ってこい。それから……しばらくウチでバイトしろ」
少しはいじれるんだろ――。
熊沢はそう言って工具を扱うような仕草をした。
しかし僕は「ムリです」と言った。
「なんでよ。仕事してないんだろ?」
熊沢は眉間に深い皺を刻んだ。
「まあそうなんですけど……」
彼に言われるまでもなく、失業中の僕にとってありがたい話ではあった。
だけどいまの僕にはクルマがなかった。そしてウチからココまで、電車で通うにはちょっと遠すぎる距離だった。
「なんだよ。そんなことか」
熊沢は表情を変えずに呟くと、店の前に置いてあったカローラFXを指さした。
「あれ、しばらく使ってていいぞ。どうせ車検が切れたら廃車にする予定だし」
好きに使えや――。
熊沢は口元を弛めると、デスクの上にあったキーを僕に向かって放り投げてきた。




