剛壁
――雪原を越えた先に、切り立つ氷の谷が口を開けていた。
地表を覆う氷は脈打つようにうねり、まるで大地そのものが息づいているかのようだった。
「……ここ、覚えてる」
リュシエルが息を呑む。
雪崩の夜――私たちが分断されたのは、この谷のはず。
ハルトは白の彼方を見据えた。
「戻ってきたんだ。あの戦いの続きに」
その瞬間、地が鳴った。
風が止み、浮かんだ雪片が静止する。
氷壁の裂け目から、鈍く光を放つ巨影が姿を現した。
「……やっぱり……」
ガルドが低く構える。
氷の装甲をまとい、屹立する巨躯――“剛壁”のダルガ。
その瞳の奥には、なお燃える意志の炎が宿っていた。
「――また来たか」
低く響く声は、氷よりも重く、遠雷のように谷を震わせる。
「お前とは、決着をつけなきゃならないと思ってた」
ガルドが一歩、雪を踏みしめる。
ダルガは口元にわずかな笑みを刻んだ。
「俺も同じだ。……あの時、お前たちを止められなかった。それが心残りだった」
リーナが矢を構えたが、ハルトが手で制する。
「……待ってくれ。お前は氷冥王の命でここにいるのか?」
ダルガの瞳がわずかに揺れた。
「命令ではない。俺は、“大地を守る壁”としてここに立つ。それが俺の生き様だ」
ハルトは剣を下げたまま頷く。
「……なら、俺たちはその壁を越える。止まるわけにはいかない」
「わかっている」
ダルガがゆっくりと拳を握る。氷が軋む音が、まるで大地の心臓の鼓動のように響いた。
「だが――越えるなら、誇りを賭けて来い」
次の瞬間、地が裂けた。
氷の破片が宙を舞い、重力が狂う。
ダルガの力――大地と重力の支配。
戦場そのものが敵の手となり、五人を呑み込む。
「くっ……足が、沈む……!」
リュシエルが叫び、浮遊の魔法で体勢を保つ。
だが、空間自体が歪み、視界が軋んだ。
「甘いな、まだ軽い!」
ガルドが咆哮し、炎翔を地へ突き立てる。
炎が奔り、圧力を押し返す。
「これが……俺の全力だ、ダルガァッ!」
衝突。
炎と氷が拮抗し、轟音が谷を割った。
爆ぜた雪が蒸気となり、瞬く間に視界を奪う。
「……まだ、届かん!」
ダルガが叫び、地を踏み鳴らす。
隆起した氷の波が、ガルドを弾き飛ばした。
その瞬間、ハルトが滑り込む。
「――なら、二人で行く!」
リーナの矢が閃光を走らせ、リュシエルの風がそれを押し上げる。
矢が氷の装甲の隙を撃ち抜いた。
動きが止まる。
その刹那、ハルトの剣が閃き、白銀の弧を描いた。
――氷が砕け、音が消える。
静寂の中、巨躯がゆっくりと膝をつく。
ダルガが拳を雪へと沈め、短く息を吐いた。
「……見事だ。……これで、止まれる」
「止まる?」
ハルトが問い返す。
「俺は氷冥王に拾われた時、約束した。――この地を守る壁となると。
だが……壁は、いつか壊れねばならない。お前たちが来る時にな」
淡い光が、彼の胸から零れていく。
その顔に、穏やかな笑みが戻っていた。
「……悪くない戦いだった、ガルド」
「……ああ。次は、どっかの暖かい場所で飲もう」
氷の巨体が、静かに崩れ落ちる。
雪が舞い、風が通り抜ける。
その音は、まるで永き戦いの終焉を告げる鎮魂歌のようだった。
ハルトは剣を収め、静かに呟いた。
「……“壁”は倒れた。けれど、道はまだ続く」
彼らは再び歩き出す。
背後には、白銀の中で静かに眠る一人の戦士の影。
“剛壁”の名を誇りとして――その魂は、氷の谷に永遠の安らぎを得た。
吹雪が止んでいた。
氷の谷を覆っていた灰の雲が裂け、かすかな光が差し込む。
白銀の地に横たわる巨影は、もう動かない。
その胸元には、彼の誇りであった紋章――氷の壁を象る印が、静かに光を失っていた。
「……眠れ、戦士よ」
ガルドが低く呟く。
炎翔の刃先が淡く輝き、炎の花がひとひら、雪上に散った。
それは、炎の祈りだった。
「……彼は敵じゃなかった」
セリスの声が、冷えた空気に溶ける。
「自分の誓いに、最後まで従っただけ」
「だからこそ、強かったんだ」
ハルトは静かに答えた。
雪を踏みしめ、谷の奥を見つめる。
「誓いがある限り、人は止まらない。――たとえ氷に覆われても」
その時、地の底で何かが動いた。
谷の氷が音を立てて割れ、淡い蒼の光が走る。
それは一本の“道”となり、谷の向こうへと続いていた。
「……導かれてる?」
リュシエルが風の流れを読み取る。
「この光、セラフィナの気配と似てる……でも、どこか違う」
「氷冥王の中枢……“永冬の心臓”だな」
ガルドが低く呟き、剣の柄を握り直す。
「なら、行こう」
ハルトが短く言う。
その掌には、まだ小さな氷の欠片があった。
それが微かに震え、光を宿す。
「……彼が“壁”を壊してくれた。あとは――」
リーナが弓を背にかけ、前を向いた。
「“門”を開くだけ」
仲間たちは頷き合う。
氷の谷を抜けた先、遠くに見える蒼の光。
それが、次への道標だった。
風が再び吹く。
雪は舞い上がり、やがて静かに降り積もる。
谷に残るのは――一人の戦士が守り抜いた誇りと、その上に灯る小さな炎だけだった。