5つの影
夜が明けても、空は灰色のままだった。
風は鋭く、雪は音もなく降り続ける。
昨夜の焚き火の熱もすでに消え、白だけが世界を満たしていた。
「進もう」
ハルトが短く告げ、長剣の重みを確かめる。
ガルドが頷き、炎翔の刃に霜を払った。
リーナは弓弦の凍りを指で溶かし、セリスは杖の宝珠に小さく光を宿す。
リュシエルは風の流れを読むが、精霊の気配は――やはり、無い。
やがて、雪の帳が薄く切れ、白い平原の中央に“輪”が見えた。
氷で描かれた陣。幾何学の線が淡く青く脈打ち、中心に細い柱のような光が立っている。
「……誰かが、呼んでる」
セリスの囁きに、全員の足が止まった。
その瞬間、気温が一段、落ちた。
吐息がきしむ。肌が刺す。音が消える。
氷の柱の向こう――白い影が、ゆっくりと歩み出る。
白い髪。氷色の瞳。
感情の波を映さない、静かな顔。
「……セラフィナ」
名を呼ぶハルトの声は、雪に吸い込まれて小さくなる。
「――氷冥王の地を汚す者たち」
彼女の声は平坦で、凍りついた水面のように揺れない。
「去りなさい。ここは“永冬”の心臓へ至る路。温もりは、許されない」
「俺たちは進むために来た。ここで止まるわけにはいかない」
ハルトは剣を下げたまま、半歩だけ前に出る。
「……前に会ったとき、君は――」
「知らない」
短く切るような一言。
氷の陣が瞬き、足元に冷気の紋が走った。
次の瞬間、白い花弁のような氷片が舞い、空間に“影”が生まれる。
それは人の形をとった氷像――けれど、ただの氷ではない。
リーナの眼が細くなる。
「……私たちの“感情”を写してる……?」
氷像は五体。
怒り、後悔、恐れ、孤独、そして――空白。
それぞれが持ち主に向き直り、武器を構えた。
「やめろ」
ハルトが言う。
「そんなものを……俺たちに向ける必要はないだろ」
「必要。あなたたちが進む理由が“脆い”なら、ここで砕ける」
セラフィナの指がわずかに動き、氷像が一斉に踏み出す。
ガルドの前へ、怒りの剣が振り下ろされる。
炎翔が火花を散らし、衝突の衝撃で雪面が爆ぜた。
「……悪くない。けど、偽物だ」
押し返す一撃。氷の怒りは砕け、細かな欠片になって風に散る。
リーナに迫るのは、細い“ためらい”の影。
弓を引く腕がわずかに揺れる――が、彼女はまっすぐ狙いを定め、矢を放つ。
「私は、今の私を選ぶ」
矢が影の心臓に突き刺さり、ためらいは霧散した。
リュシエルの前には、孤独の影。
寄せては返す白の波のように、距離を奪い、隙を探る。
彼女は短剣を一閃、足をかけ、崩した瞬間に喉元を抜く。
「もう大丈夫、背中には仲間がいるから」
セリスを包むのは、恐れ。
杖先の光が弱まりかける――彼女は息を整え、視線を上げた。
「怖い。……でも、見続ける」
宝珠が脈動し、薄い光環が広がる。恐れは、輪の外でほどけて消えた。
最後に、ハルトへ。
空白の影が無音で迫る。
剣を合わせた瞬間、骨のない重さが腕に沈む。形がない。芯がない。
“空っぽ”の刃が、彼の芯を試すように押し込んでくる。
「……空っぽなんかじゃない。」
ハルトは踏み込み、鍔迫り合いを押し返す。
「今、仲間とこの世界を守りたい。」
剣が鳴り、影は紙のように裂けた。
粉雪が舞い、静けさが戻る。
セラフィナは瞬きもしないまま、ただ彼らを見つめていた。
氷の陣の光が、わずかに明滅する。
「……砕けなかった」
それは感情ではなく、判定の報告のようだった。
「ならば、路を変える」
氷の紋が反転し、雪原に細い裂け目が走る。
遠く――白の地平に、薄い蒼の柱が新たに立った。
道標。けれど、罠にも見える光。
「待て、セラフィナ」
ハルトの声に、彼女のまぶたがわずかに震えた。ほんの一瞬。
だが次の瞬間には、瞳はまた静かに凍てつく。
「――あなたの温もりは、ここでは許されない」
白い裾がふわりと揺れ、彼女の姿は雪の帳に溶けた。
残されたのは、微かに砕けた氷花の欠片と、遠くへ移された“路”。
リーナが息を吐く。
「……追うの?」
「追う」
ハルトは答え、掌に忍ばせた小さな氷の欠片に目を落とす。
洞窟で拾った“涙”が、かすかに震えていた。
セリスは杖を抱え、遠い蒼柱を見つめた。
「……さっき、ほんの一瞬だけ揺れたの。あの人の目が」
小さく息を吸い、言葉を選ぶ。
「まだ、完全に凍ってはいない気がする」
風が、雪を運んで行く。
ハルトは剣を背に、頷いた。
「行こう。――凍りきる前に」
白い世界に、五つの影が伸びた。
薄い蒼柱は遠く、けれど確かにそこに在る。
“永冬”の心臓へ伸びる新たな路を、彼らは踏みしめて進んだ。