氷涙
――静寂。
雪のような白が、視界のすべてを覆っていた。
冷たい風が頬を撫でるたび、何かが剥がれ落ちていく。
それが“感情”だと気づいたのは、ずっと後のこと。
少女――セラは、雪原に膝をついていた。
両手には、砕けた氷の結晶。
それは、たった今まで胸の奥で光っていた“何か”の欠片だった。
誰かが泣いていた。
誰かが叫んでいた。
でも、声が届かない。世界のすべてが、冷たく静まり返っていた。
――あのとき。
“彼”が消えた瞬間。
「……どうして、いなくなったの」
唇が震えても、声は風に溶けて消える。
涙は凍り、頬に張りつく。
胸の奥が焼けるように痛かった。
けれど、その痛みがどんな意味を持つのか、もうわからなかった。
だから――凍らせた。
痛みも、悲しみも、優しさも。
すべてを氷の結晶に変えて、胸の奥深くへ封じ込めた。
そうすれば、もう誰も失わずに済む。
誰かを想う苦しみも、感じなくていい。
そのとき、耳の奥で低い声が響いた。
「――ならば、私がお前を“氷涙”として留めよう。
感情を捨てた者よ。
お前の静寂を、この“永冬”の地で永遠に凍らせるがいい」
氷冥王の声だった。
彼の手が触れた瞬間、胸の光が完全に閉ざされた。
痛みは消え、心は空白となり――彼女はただ、命令に従うだけの存在になった。
それが“氷涙”セラフィナの誕生だった。
……けれど。
今、あの人の声が、凍りついた記憶の奥に届いている。
――「泣くのは、生きている証だ」
その言葉が、氷の奥で音を立てて亀裂を走らせる。
冷たく閉ざされた心の核が、微かに脈打つ。
セラフィナはゆっくりと目を開けた。
胸の奥が熱い。凍てついた世界の中で、確かに何かが溶けはじめていた。
冷たい風が吹き抜けた。
氷の洞窟の奥、焚き火の炎が一瞬だけ揺らぎ、消えかける。
セラフィナの体が震え、瞳が虚空を見つめたまま動かない。
ハルトはすぐに彼女の肩を支えた。
「セラフィナ! しっかり――!」
その瞬間、彼の指先に冷たい波動が走る。
氷の結晶がセラフィナの身体から浮かび上がり、空中に散っていく。
結晶のひとつひとつに、彼女の記憶が封じられていた。
――雪原、孤独、そしてあの“声”。
「……氷冥王……」
ハルトが名を呟いたとき、洞窟の奥から黒い霧が立ちのぼった。
それは人の形を模し、紅い瞳が闇の中に浮かぶ。
『哀れな器よ。再び、我が永冬へ還れ――』
声が響いた瞬間、セラフィナの体がひとりでに立ち上がった。
その瞳に光はない。氷冥王の幻影が、彼女を操っていた。
「……っ! やめろ!」
ハルトが剣を抜き、霧の中へ踏み込む。
だが斬撃は虚空を切り裂くだけ。冷気が刃を覆い、腕に凍傷のような痛みが走る。
幻影の声が、凍る空間に響いた。
『お前の心もまた、氷に沈む運命だ。記憶を失った者よ――』
ハルトの動きが止まる。
その言葉に、胸の奥が強く疼いた。
何かを思い出しそうになる――けれど、それは白い霧に包まれて届かない。
「違う……俺は、沈まない。
たとえ何も思い出せなくても、今ここで感じてる“誰かを救いたい”って気持ちは、本物だ!」
その叫びに応じるように、剣が光を帯びた。
白銀の輝きが闇を裂き、セラフィナを覆う霜の鎖を砕く。
彼女の瞳に再び光が戻る。
涙が、一粒だけ頬を伝い落ちた。
「……あたたかい……あなたの光は……痛いほど、あたたかい……」
幻影がかすかに揺らぎ、溶けていく。
残ったのは、氷冥王の低い囁きだけだった。
『――鍵は“心”。封印を解くのは、お前たちだ。』
声が消え、静寂が戻る。
セラフィナは膝をつき、震える手で胸を押さえた。
「……私……泣いてたのね」
「それでいい。泣けるってことは、生きてるってことだ」
ハルトは微笑み、彼女の肩にそっと手を置いた。
氷の洞窟に、再び小さな焚き火の光が灯る。
その炎は、ふたりの心の奥にも確かに燃えていた。