溶けゆく氷の声
静寂が戻った。
遠くで氷の滴が落ちる音だけが響き、白い息がふたりの間にゆらめいた。
セラフィナは、壁に手を添えて立ち尽くしていた。
凍てついた指先が震えている。けれど寒さではない。
――あの夢。
幼い自分が語りかけてきたあの声が、まだ胸の奥に残っていた。
「……泣いているのか?」
ハルトの声がそっと届く。
セラフィナはゆっくり首を横に振った。
「違う。これは……涙じゃない。ただの氷の雫よ」
同じ言葉。けれどその響きは、以前よりもわずかに柔らかかった。
ハルトは何も言わず、近くの氷片を拾い上げた。
手のひらで摩擦して、指先に残るぬくもりでそれを溶かす。
そして、小さく笑った。
「……ほら。冷たくても、ぬくもりは消えない」
溶けた水が掌から滴り、焚き火の小さな炎の中に落ちて弾ける。
セラフィナはその炎を見つめた。
橙の光が氷の壁に反射して、まるで空が揺らめいているようだった。
目の奥がじんわりと痛む。理由はわからない。
「どうして、そんなふうに火を扱えるの?」
「昔、寒い夜に誰かが教えてくれた。“火は心の形だ”って」
ハルトの答えに、セラフィナはわずかに息を呑んだ。
“心”――その言葉が、胸の奥で刺のように引っかかった。
「……心なんて、もうとっくに凍ったはず」
「凍るのは、守るためだろ。痛みを知ってるから」
彼の言葉に、セラフィナは初めて視線を合わせた。
その瞳に映る自分が、どこか幼く見えた。
焚き火の火が、ふっと揺れる。
その光の中で、セラフィナの頬を伝う一粒の雫。
それは氷にはならず、温かい水滴として落ちた。
「……どうして、溶けるの?」
「君の中に、まだ“春”が残ってるからだ」
ハルトは優しく言い、焚き火に木片をくべる。
セラフィナは小さく息を吐いた。
胸の奥に、確かに“痛み”と“温もり”が同時に生まれていた。
その感情の名を、まだ知らない。けれど――失った何かが少しずつ戻ってくるのを感じていた。
洞窟の外では吹雪がやみ、月光が氷の天井に反射して淡く揺らめく。
セラフィナはその光を見上げ、ぽつりと呟いた。
「……寒くない」
それは、凍てついた心に初めて灯った、微かなぬくもりだった。