氷涙の記憶
――白い世界。
音も、匂いも、温もりもない。
ただ雪が降り続けるだけの、永遠の冬。
幼い少女がその中にいた。
名を呼ぶ声も、抱きしめてくれる手も、もうどこにもない。
雪に膝を沈め、凍えた指で小さな花を掬い上げた。
「……冷たいね、セラ。泣いているの?」
どこからか、声が聞こえた。
柔らかく、けれど確かに自分の声。
氷に映る小さな影が、彼女を見つめている。
「違う。これは、涙じゃない。ただの氷の雫よ」
少女はそう言って、凍てついた花を見つめた。
淡い青に透ける花弁が、まるで涙の結晶のように輝いていた。
「でも、綺麗。ねえ、この花の名前は?」
「……“氷涙花”。寒さの中でも枯れないの」
「それって、セラみたいだね」
「……わたしは、枯れてるのよ」
その言葉を最後に、世界は静止した。
雪の音も、風の息も止まり、代わりに心臓の鼓動だけが響く。
――あのとき、初めて泣いた。
誰かを守ろうとして、何も守れなかった。
あの日、温かかったものがひとつ、またひとつと凍りついていくのを感じた。
人の手も、笑い声も、涙の意味さえも。
そして最後に残ったのは、痛みのない心だけだった。
「……これでいい」
少女は呟いた。
「悲しみも、怒りも、いらない。
凍らせてしまえば、もう誰も傷つけないから」
その瞬間、雪が降り止み、世界が静寂に包まれた。
彼女の瞳から光が消え、代わりに淡い氷色が宿る。
空を見上げる。
どこまでも広がる白の天。
涙のかわりに、頬を冷たい風が撫でていく。
――その日、少女は“人”であることをやめた。
心を凍らせ、感情を封じたまま、
永遠に溶けない“氷涙”として生まれ変わった。
けれどその奥底で、
誰にも届かぬ声が、かすかに凍りついていた。
――「あたたかいものが、ほしかった」。
氷の世界に響くその声は、
誰にも届かないはずだった。
……けれど。
遠い未来、ひとりの青年の声がその静寂を破る。
そのとき初めて、“氷”は涙を思い出すのだ