第13話「同じ目をした未熟者へ」
ハロワン第13話「同じ目をした未熟者へ」
いよいよプロジェクトArcの第1回目派遣まで十日を切った。
日に日に鮮明になる悪夢にうなされていた産土は、自分の中で、いつしか陸の存在が心強いものに変化していたことに気が付く。
二人はきたる開戦の日に向け、今、固い握手を交わす―—
P.S.
今回で、陸と産土が互いの弱さを見せ合うことで、やっと本物の仲間になれた気がしています。
一方、産土×朝霧のペアはまだビジネスライクな感じの描写が多いですが、今後彼らの出会いのエピソードも出しますので、是非ぜひそちらもお楽しみいただけたら嬉しいなと思っています…!
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今回は、残酷な描写はありません。(ごく一部流血表現あり)
独自用語や舞台設定が多いので、リンク先に解説をまとめています!
物語の進行に併せて随時更新してまいります。
宜しければご覧くださいませ。
https://ncode.syosetu.com/n9351kp/1/
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それから時が流れ、およそ一か月が経過した。
プロジェクト『Arc』の第1回派遣日まで、すでに十日を切っている。
その夜、産土は眠れずにいた。
彼は一人、クロノス本部の一角――Arc参加者のみ自由な出入りが許された応接間にいた。時計の針は、まもなく午前3時を指そうとしていた。長かったトワイライトアワーが、ようやく終わりを告げようとしている時間帯だ。
誰もいない、物音ひとつしない広い部屋の中央の窓際に設けられたソファに、産土はじっと横たわっていた。
考えごとをしているのか、あるいは何も考えたくないのか。うっすらと青白い光が大きな窓から差し込み、産土の秀麗な横顔をほのかに浮かび上がらせていた。
重たい瞼が不意に落ちかけるたびに、彼は微かに身体を起こす。目を閉じれば、またあの夢を見てしまいそうで――それが怖かった。
それは、産土がArc参加を決めた理由――その核心ともいえる悪夢だ。
出発が近づくにつれ、悪夢はより鮮明に、頻度を増すようになっていた。この場所に来てからはほぼ毎晩、同じ夢を見ては、一人きりでそれと闘っていた。
誰にも打ち明けていない。同時に、誰かに話す気にもなれない己がいる。しかし、孤独はときに静かに、じわじわと彼の脆さを刺激してくる。
忘れよう。忘れてしまおう。
産土はゆっくりと息を吐いた。長く、深く、重く――。
しかし、彼の意識の奥には、その記憶がゆらゆらと浮かび上がってくる。
***
【夢の中にて~記憶にはない景色~】
その日、産土はいつものように街を歩いていた。
黒塗りのトランクを引きながら、お気に入りのブランドのサングラスと細身のライダースを身にまとい、颯爽と風を切り、闊歩している。
その顔立ちはどこか氷のような冷たさを纏いながらも、誰の目にも美しいと映る。人々の視線を浴びているのは分かっていたが、気にする様子もない。彼には自分が目立つ存在だという自覚があった。
そして、ふとその時――
「うぶちゃん……?」
不意にかけられた、少し高い女性の声。その瞬間、それまでどんな音も届いていないかのようだった産土の耳が、ぴくりと反応する。
この声は――
なんと優しく、心地の良い声だろう。馴染みのある響きに、思わず足を止めて振り返る。
期待に揺れた眼差しの先、視界に入ったその姿に――産土は息を呑んだ。
「……っ!」
そこにいたのは、志乃だった。名前を呼ばれた時点で、心当たりはあった。
けれど、まさか本当に。
目の前に、あの日と変わらぬ姿で、志乃が立っていた。
信じられない。
彼女は、微笑んでいた。産土には、まるで時間が止まったように感じた。
人違いかもしれない――そう思っては、いや違うなとすぐに思い直すのの繰り返し。頭の中で何度も、何度もその思考がループする。
(けど……俺をその呼び方で呼ぶのは――)
この優しい声、この全てを包み込むような眼差し、それに――この胸が締め付けられる感覚。
間違いない。彼女だ。
「……志乃さん……?」
まるで儚い焔を壊してしまわぬよう、産土はそっと声を絞り出す。
――なぜここに?
――なぜ、そのままの姿で?
――俺のことを覚えているのか?
疑問は渦を巻くように浮かび上がるが、それでも――
志乃が、その声に応えるようにまた微笑むと、もう全てがどうでもよくなってしまう。
今、この瞬間に、彼女が目の前にいる。それだけで、すべてが満たされる。そうだ――
世界はいつだって分からないことだらけじゃないか――ならばせめて、この奇跡を疑わずに受け止めていたい――と、産土は思った。
「……やっと、会えましたね」
柄にもなく産土は、声が震えるのを抑えられなかった。
あの日、志乃が亡くなったあの日からずっと、彼女の魂が、今度こそ幸せになれているのか――
それを見届けたくて、産土は各地を巡っていた。
でも、心のどこかでずっと思っていた。きっと叶わぬ夢だと。
(まさか……本当に志乃さんに。しかも志乃さんの姿で……)
こみ上げる感情に、言葉が追いつかない。
「久しぶり。大きくなったね」
懐かしい声が、優しく耳をくすぐる。もう一度聞きたいと思っていた、その声に産土の表情がゆるむ。
「志乃さんも……相変わらず、麗しい限りですね」
気づけば、そんな言葉が自然と口からこぼれる。
「あれぇ? うぶちゃん、そんなこと言えるようになったんだ。なんか変な感じ」
志乃は、変わらぬ笑顔でそう言った。
「でも、ありがと」
産土はまだ、その場から一歩も動けずにいた。
――どうしてここに?
――何を話せばいい?
頭の中には問いが渦巻き続けているのに、足は前に進まない。
すると、志乃の方から、ふわりと歩み寄ってくる。
その距離がほんの数歩まで縮まった――その時だった。
突如、頭上から凄まじい轟音が響き、何かが、ユートピアのドームの天井を突き破って落ちてくる。
「!?」
ドームを突き破り、巨大な隕石が唸りをあげて降り注ぐ――そして、目の前にいた志乃を直撃した。
ぐしゃりと、まるで熟れた果実のように、彼女の身体はおぞましい音とともに砕け散った。
「……え?」
時間が止まったような感覚の中で、理解だけが取り残される。だが、悪夢はそれで終わらなかった。
次々と空から隕石が降り注ぎ、街は地獄絵図と化していく。逃げまどう街の人々が、志乃と同じように押し潰され、次々と呆気なく命を失っていく。
赤い液体が辺り一面を染め、甲高い悲鳴が空気を震わせた。血の匂いが鼻を刺し、足元には無数の壊れた体――
「……志乃さんっ……!」
叫びとともに手を伸ばした、次の瞬間、視界がぐるりと歪み、全てが暗転した。
――そして産土は、荒い息とともに飛び起きた。
「……はぁっ……はっ、……っ……」
寝室の静けさが、彼を現実に引き戻す。薄暗い照明の下、心臓がドクドクと激しく脈打っている。
両手をシーツにつき、汗に濡れた裸の胸を震わせながら、産土は深く俯いた。
裸の胸に張り付いた汗が、冷たい夜風でじっとりと冷えていく感覚が気に障る。乱れた髪が頬にまとわりつき、背中を伝う汗がじくじくと布団を濡らしている。
耳の奥では心臓の鼓動が規則的に鳴り響き、手は小刻みに震えていた。
(……夢、か……)
震える手をシーツに押しつけ、気持ちを落ち着けようとする。
深呼吸を繰り返すが、心のざわつきは簡単には収まらない。まだ夢の残像が頭に焼きついて離れないのだ。あの破裂音、志乃の笑顔、そして――砕け散った身体。
息を整えきれぬまま、産土はふらつく足取りで寝室を出た。暗闇の廊下を手探りで進み、洗面所の灯りをつける。
パチン、という音とともに鏡の中の自分と目が合った。
「……っ」
額からこめかみ、首筋まで汗が伝い、髪がべったりと張り付いている。
目は赤く充血し、どこか虚ろで焦点が合っていない。普段なら絶対に人前に晒したくないような、自分の惨めな姿がそこに映っていた。
「……はぁ……っ……」
鏡に映るその姿を、まるで夢の続きを拒絶するように見つめ返す。蛇口に手を伸ばしたところで、ふと止まる。それすらも、今はしんどい。
なぜ、こんな夢を何度も見るのか。しかしその答えは、産土自身が最もよく分かっていた。
志乃の――その御霊の生まれ変わりのために、自分がやるべきこと――それは、Arcの任務を、命を賭して全うすること。
それを誰よりも分かっていながら、本当はその宿命から逃れたくて仕方がない自分を、産土は受け入れられなかった。
産土が志乃を想う気持ちは本物だ。
しかし、彼は志乃の生まれ変わりに出会う前に、Arcの任務によって己の息の根が止まり、志乃の生まれ変わりに出会うという夢を、見続けられなくなることを、誰よりも恐れていたのだ。
鏡の中の自分をじっと見つめながら、眉間に皺を寄せる。
外の空が、白み始めている。夜は、もうすぐ明けようとしていた。
***
そうして迎えた翌日。
この日は、クロノス本部より、Arcで使用する大陸外領域への極秘直通ゲート《アルテリア》の存在が初めて公開され、周辺設備のレクチャーが行われた。
集合場所には、クロノスの幹部数名と、ダリウス、ラヴィ、白石、朝霧、陸、そして産土の面々が揃っていた。先の第1回全体会議で待機組に振り分けられた朧や久遠、高嶺の姿はそこにはない。
「これより、大陸外沿岸部までの直通ゲート《アルテリア》へ皆様をご案内いたします」
クロノス幹部のひとりが前に立ち、簡潔な口調で案内を始めた。
「アルテリアは、クロノスの最深部に位置する最重要機密機関の一つでございます」
初耳の説明に、誰もが自然と真剣な面持ちになる中――
その場でただ一人、産土だけが、時折一点を見つめるようにしてぼーっと立ち尽くしてしまう。
(……やべ……)
連日の悪夢のせいで寝不足が効いている。目の焦点がうまく合わず、明らかに顔色も悪い。少しでも気を抜けば皆から歩みが遅れてしまう。
その様子に気づいたのは、白石だった。
「……体調、悪いのか」
一歩遅れて届いた声に、産土はハッと我に返る。視線を白石に向けると、彼女は特段心配そうではなく、どちらかと言えば「気を抜くな」とでも言いたげな面持ちをしていた。
「……なに、りんりん。心配してくれてんの?」
普段どおりの調子を装おうとする軽口も、声に張りがない。むしろ、その頼りなさが余計に目立ってしまう。
「誰が見てもあからさまだ。問題ないなら、普段通りにしておけ」
白石は仏頂面のまま、彼の軽口を冷静に突き返す。そんな彼女の反応に、産土はポケットに手を突っ込みながら、わざとらしく口角を上げてみせた。
「なーんだ……俺のこと、特別よく見てくれたのかと思ったのにぃ」
だが、その芝居がかった台詞にも覇気はなく、彼女の背を引き止めるほどの力はなかった。白石は一瞥をくれただけで、無言のまま歩みを進める。
「その軽口も、少しは減ると良かったんだがな」
その背を、産土は数歩遅れて追いかける。前方ではクロノス幹部による説明が次々に展開されていた。
「アルテリアは、言ってしまえば海底を拓いて造られた海底基地です。こちらのエレベーターで降下し、そこからポイント地点までは複数名の係員で誘導係を交代しながら、最深部へお連れします」
その後、一行は数名の誘導員による案内のもと、クロノスの最深部のアルテリアへと到達した。
「ここは、海の水圧に耐えうる構造と、安定したエネルギー供給を完備しており、地上と変わらぬ環境での滞在が可能です」
幹部の声が、無機質な施設の壁に反響する。
「また、身体への水圧負荷もゼロに等しく調整済み。地上に戻った後も、人体への負荷の心配はありません」
彼は手元のパネルを操作し、壁面に広がるホログラムを表示させた。
「アルテリアはまさにその名の通り“動脈”なのです。ここを通って、各国沿岸部まで直通で向かうことが叶います。ご自身の派遣先に従い、所定のポイントから出発ください。なお、専用機は各人に割り当てさせていただいておりますゆえ、認証カードがなければ起動できませんので、ご注意を」
施設の奥には、通常FANGが任務で使うのと似た形の専用機が完備されていた。しかし、その機体は通常とは異なり、より流線的かつ精密で、見る者の心を惹きつけるより洗練されたデザインだった。
「FANGの方なら、専用機には慣れているかと存じますが、こちらはスペックが段違いです。体への負荷はゼロ、5時間で約1万キロの走行が可能です。つまりこの機材を使えば、各目的地まで、およそ6.7時間程度で到達できます」
身体への負担ゼロで、航空機よりも速い時速の運航を可能にするとは、流石はクロノスと、その説明に技術好きのメンバーは思わず目を輝かせた。
「おおー、なんだこれ! おい、白石! 見ろよ!」
ラヴィの野太い声が響き、自然と彼女もそちらへ近づく。
「イカしてんなあ……何が何だかサッパリ分からんけどよ!」
豪快に笑いながら、ラヴィはパネルに手を伸ばす。かつて腕に巻かれていた包帯はすでに外され、約一ヶ月前の騒動がまるで嘘のように、彼の姿は元通りだった。
「ラヴィ、むやみに触るな」
白石が静かに制止の声をかけるも、ラヴィはお構いなしにあちこちのボタンをつついている。
「ほら、これなんて絶対ヤバいやつだろ! こう、引いたら“ドッカーン”ってなりそうじゃねぇか!」
白石は小さくため息をつきながらも、ラヴィの無邪気な様子にどこか呆れきれないものを感じていた。
その横では、ダリウスが既に自分の専用機材の席に座り、慣れた手つきで空調やシートの設定を整えている。FANGじゃないにも関わらず、もはや何度も使ったことがあるかのような動きだ。
陸もまた、初めて見る機体に目を輝かせ、ガイダンスを確認しながら各種機能を真剣に試していた。
気づけば、その場に立ち尽くしていたのは産土と朝霧だけだった。
「……産土」
朝霧の低く響く声が耳に届き、産土はハッと横を向いた。そこには、隣の専用機に乗り込もうと、入り口に手をかけた朝霧の姿があった。
その呼び方――彼が産土を本名で呼ぶのは実に久しく、それだけで不穏で意味深な様子が漂う。
「……何があったか知らねぇが、もうすぐ俺の夢がようやく叶う」
そう口にした朝霧の目は、普段の無関心さからは程遠く、何かを射抜くように鋭く、過去の執着に満ちた色をしていた。
「しっかり付き合ってくれよ」
静の雰囲気をまといながらも、奥底は燃える様に獰猛な瞳が、産土を値踏みするように捉えている。
「……っ」
産土は思わず息を呑み、表情を引き締める。心の奥底を覗かれるような感覚に、軽口を叩く余裕も失う。
「……頼んだぞ、ボス」
ふっと普段の表情になった朝霧は、それだけ短く言うと、専用機に乗り込み淡々と動作確認に移っていった。
「……」
産土は何も言えず、それを無言で見届けるだけだった。すると――
「うわっ、これなんですか!」
突如響いたのは、陸の慌てた声だった。産土は反射的にそちらを振り返る。
「そこのボタンを押して止めてください! ……ああ、違います、それじゃないです!」
慌てふためく陸に、クロノスの職員が苛立ちながら対応している。どうやら、陸が誤ってスプリンクラーモードを起動してしまったらしい。天井からは細かな水が噴き出している。
彼の髪も服も、見るも無惨にびしょ濡れだった。
「……なにしてんの」
呆れたように声をかける産土に、陸は苦笑しながら濡れた髪をぐしゃぐしゃとかきあげた。
「いや、ちょっと触っただけなんだけど……運が悪かったみたいで」
笑って誤魔化すようなその顔は、どこまでもマイペースだ。だがその笑顔の奥に、揺るぎない芯のようなものを感じ、産土はなぜだか目を離せなかった。
***
【そして現在――クロノス応接間にて】
産土は、ふとあの日の陸を思い出して、ふいに小さく笑ってしまった。
濡れた髪を振り乱して慌てる彼の姿。それを見て、自分がなぜか落ち着かされたことを思い出す。
――本当に、変わったな、と思う。
まだまだ足りない部分は多い陸だが、この数か月での成長は、傍で見ていて目を見張るものがあった。
朝霧や高嶺といったFANG仲間のみならず、死神各位とも濃淡はあれどそれなりにうまくやっているようで、ここ最近はもう、ふとした瞬間に心強さすら感じるようになっていた。
しかしやはり、背中を預けられるのは朝霧、ただ一人――その信頼に揺るぎはなく、今も変わらない。しかし朝霧との関係は、互いの“利害の一致”の上に成立していることを、産土はよく知っている。絆は強いが、根本はビジネスライクな関係性――両者とも、暗黙のうちにそう割り切って付き合っている。
一方、陸は――それとはまるで違う。頼りない弟分のようでいて、何にも染まっていない空気感がある。
産土が身を置く世界の、どろどろしたしがらみとはまるで無縁のような、曇りのない目で、まっすぐに前を見ようとするその姿――それがときに、酷く羨ましく――そして、産土の疲れた心をふっと緩めてくれることがある。
例えば――今夜のような、弱さに飲まれそうな夜には。
(……陸に、会いたいな……)
口には出さず、産土は自分の中に湧いた気持ちをそっと胸の奥に沈めた。数か月前の自分では、考えもしなかった感情だ。
(……たく……すがれりゃなんでもありかい)
自嘲気味にふっと笑い、再びソファに深く身を沈めたその時。
――ギイ。
応接間の重厚な扉が、ゆっくりと音を立てて開いた。当人は静かに開けたつもりだろうが、この闇の静寂の中では、注目を集めるに足る大きな音だった。
「あ、」
その小さな声とともに、顔を覗かせたのは、まさしくその人――陸だった。
産土はこのタイミングでの陸の登場に、嬉しさ半面と何となくのばつの悪さを少々感じながらも、いたって自然に振舞う。
「おう、どしたの」
その一言で、ほんの少し場の空気が和らぐ。
「……いや、なんか目ぇ覚めちゃってさ……悪い、入ってきちゃって」
陸は申し訳なさそうに言いながら、すぐに引き返そうとしたが、産土は軽く手を振ってそれを制し柔らかい声で言った。
「いいって。座んなよ」
自分の向かい側のソファを指差して陸に座るよう促す産土。促されて、陸は少し遠慮がちに歩み寄り、そっと腰を下ろした。
陸が着席したのを見届けつつ、産土はゆるゆると口を開く。
「……俺も寝れなくてさ」
産土の声は普段より低く、夜に溶け込むような穏やかさがあった。その声に引き寄せられるようにして、陸は産土の姿を見つめた。
近づいて初めて気づいたが、今の産土にはいつもの鋭さはなく、どこか柔らかな空気を纏っている。ガウンを羽織り、いつもワックスでばっちりと決まっている髪は、風呂上がりのように無造作にかきあげられている。高い鼻梁にかけられた大きめのウェリントン型の眼鏡が、彼の小顔ぶりをいっそう引き立てていた。
その姿が、不意に兄の面影と重なって、陸は思わずぼんやりと見入ってしまった。
「ん?」
産土が小さく首を傾け、不思議そうに陸を見返す。
「あ、……すまん」
陸は我に返って、曖昧な笑みを浮かべる。
「ずっとここに居たん?」
「ん」
産土は少しぼんやりとした様子で目をこすりながら頷いた。
「今、何時?」
「……もうすぐ五時」
産土は眠そうな目を見開き、軽く伸びをする。
「そっか……もうそんなに居たんだ」
そう言って視線をテーブルに落とす。半分ほど飲まれたココアの入ったマグカップが、すっかり冷めて置かれていた。産土はその縁を、指先でゆっくりとなぞる。
ふとその時、陸は、先ほどから感じていた違和感の正体に気づき、それをそのままぽつりと口にしていた。
「……ボスの目って、本当は金色なんだな」
ぽつりと呟いた陸の言葉に、産土は一瞬目を見開いたが、すぐに特段気にした様子もなく答える。
「……ん? ああ、いつものはカラコン」
そう言って、長い指で目の端をトントンと叩く。その仕草すら様になっていた。
「むき出しだと、昼間はちょっと疲れるし。俺、オシャレだからさ。服に合わせて色も変えんのよ」
その声は普段よりも少しだけ柔らかい。
「……そっか。金色も、綺麗だな」
陸の素直な言葉に、産土はふっと微笑む。だが、その笑みも長くは続かず、すぐにまた部屋は静けさに包まれた。
ふと、産土は対面のソファに座る陸の横顔に何気なく目をやる。朝霧や他のArcメンバーには決して口にしないようなことも、陸になら話せそうな気がしてしまい、ゆっくりと口を開いていた。
「眠っても、眠らなくても、明日はちゃんと来るのにさ……。それでも、その“明日”が来てほしくなくて、目を閉じたくないんだよね」
掠れた声でそう呟きながら、産土はうっすらと目を開けたまま、窓の外に浮かぶ月を見つめる。その光が、彼の瞳に薄く差し込んで、どこか儚げだった。
「……ボスでも、そんなふうに思うんだ」
陸は少し意外そうに言う。産土は軽く鼻を鳴らし、「全然あるよ」と、肩の力を抜いた声で返した。
陸もゆっくりとソファに身体を預ける。天井を見上げたまま、ぽつりと口を開いた。
「俺は、なんか急に怖くなっちゃって……もし目的が果たせなかったらって……」
不安が滲むその言葉に、産土は一度、陸の方を見たが何も言わず、再び静かに目を閉じた。
深夜の空気が、二人の沈黙を包み込み、より一層静けさを濃くしていく。
「……まだ、ボスにはちゃんと話せてなかったけど……俺がボスの専属になりたいってせがんだ理由は、行方知れずの兄貴を取り戻すためなんだ」
産土はゆっくりと目を開け、言葉の続きを促すように耳を傾けた。
「兄貴は、弟の俺が言うのもなんだけど……すげぇ頭が良くてさ。オーデ関連の研究してたんだ。で、その研究がクロノスに認められて、2年前にアルカナの最先端チームにスカウトされてさ」
そこまで話すと、陸はジャケットの内ポケットから一枚のポストカードを取り出す。海の写真が印刷されたそのカードを、産土に向けてそっと差し出した。
「これが、兄貴からの最後の手紙。それからずっと、連絡は途絶えたままで……」
産土は無言でそれを見つめる。陸は続ける。
「俺には何のツテもないし、知識も功績もない。だからまずはクロノスやアルカナに“顔が利く人”を探すことにした。……それで、あんぱんに出会って。ボスのことを教えてもらったんだ」
産土は、まるで最初から概ね分かっていたかのように、ゆっくりと頷いた。
「最初からアルカナに入れるなんて思ってなかった。けど……ボスが“死神最強”だって聞いて、だったらこの人に便乗してArcで功績を積めば、交渉の余地くらいはあるんじゃないかって……。それで、ここに来たんだ」
語るたび、少しずつ熱を帯びる陸の声。しかしふと、その勢いが途切れる。
「ここに来るまでにあんぱんから聞いた話とか、実際ここの人達と接してみて……それなりにクロノスのこと、分かってきたつもりでいる。けど、それでもやっぱり、ふと思うんだよ」
俯いたままの瞳が、わずかに揺れる。
「兄貴はちゃんと……生きてるんだよな、って……」
ぽつりとこぼれたその声は、かすかに震えていた。
その言葉に、産土は静かに陸の方を向いた。“確証のない希望を、愚直に信じるしかない”ということの、消耗と、絶望の苦さ。彼の胸に渦巻いているのが、どれほどの孤独と、どれほどの焦がれと、恐怖か――産土には、その気持ちが痛いほどよく分かった。
陸はソファに身体を預けたまま、目元を覆いながら小さく呟く。
「……こんなこと、聞かされても困るよな。すまん……」
その声音には、どこか諦めにも似た苦笑が滲んでいた。
産土は静かに口を開いた。
「いや、分かるよ。……お兄さんの名前と、住所を言える?」
「え」
唐突なその質問に陸は戸惑ったが、産土の目に何か意図を感じ取り、釣られるようにしてぽつりぽつりと答えた。
「名前は、篁 海。住所は……実家のしか分かんないけど、アトランティス第9区アグラナ1-1312」
産土は陸の言葉を小さく復唱しながら目を閉じた。しばらく沈黙が続き、やがて静かに目を開いて陸の方を向く。
「俺が今まで裁いた中にはいないな。あと、少なくとも直近1年の、不審死および孤独死のリストにもいない。……まあ、ちゃんと葬儀が行われた場合は逆にリストには載ってこないから、完全にとまでは言い切れないんだけど……俺も、お兄さんは生きてると思う」
「……っ!」
陸は思わず上体を起こし、目を見開いた。
「……ごめんな。こんな気休めしか言えなくてさ」
産土は少し微笑みながら言った。
「いや、ありがとう……」
陸の視線が、産土の右手小指に光るリングへと向かう。リングの下にうっすら覗く、導守の証である刻印を陸の視線が捉える。
「……それに、聞いたのか?」
陸は産土に向かって、自分の小指を指し示しながら言った。
「確か、その刻印が……対象者のことを記憶するんだったよな」
「ん……あぁ、これな」
産土は右手をひらりと軽くかざしながら答えた。
「そう。でも、これが記憶するのはあくまで“裁いた”人たちのことだけ。リストのことまでは記録されない。……でも俺、覚えてんだよね。自分が裁いた人たちのことも、これから裁く人たちのことも。
なんか忘れられなくてさ。顔や名前、声、最期の言葉……前はそんなことなかったのに、いつの間にか……ずっとそう」
軽く笑いながら言う産土の声は、どこか遠くを見ているようだった。
「ま、覚えてたところで意味なんてないんだけど……でもまぁ、今はじめて役に立ったよ」
そう言って、産土は力なく笑い、ふと月明かりへ手を伸ばす。指先でそっと空をつかむように、ゆっくりと宙を握る。
遠い日のことを思い出しているような穏やかなその目に、陸は言葉を忘れて見つめてしまう。
「……ずっと、想ってる人がいてさ」
ぽつりと、産土が語り始めた。その声は優しく、そして深く、胸の奥に染みるような響きだ。
「その人は、まるで“慈愛”って言葉を体現したような人だった。誰にでも優しくて、分け隔てがなくて、清きも卑しきも、富も貧しさも、まるで気にしない。彼女は生きとし生けるもの、全てに愛を向けられる人だった。自分が傷つけられたとしても、気味が悪いくらいいつも笑ってて、でもその人がいると、確かに世界が少しだけ明るくなるような気がする……そんな人」
そう語る産土の目は酷く愛おしそうで、陸は初めて見る彼の表情に目が離せなくなりながら話を聞き入っていた。
「その人は導守の仕事を“愛を与える仕事”て言っててさ。それを聞いた時は参ったよ。いやー……俺には到底できねぇって思った」
かすかに微笑む産土の口元には愛しさと哀しみが含んでいた。
「でも、その人が死んだときに、少しだけ分かった」
その言葉に、陸は息を呑んだ。産土の目は、普段の飄々とした彼からは想像がつかない程慈愛の中に悲しみの色を滲ませていた。
「愛には色々あると思う。抱きしめて暖めたり、怖い思いをしないように守ってあげたり、眠りにつくまで頭を撫でてやったり、いつもそばにいて見守ったり、さ……でもそれは全部生きてる時の話だ」
産土は静かに目を伏せた。
「居なくなってしまったら、見ることも触れることもできなくなる。だから、俺にとっちゃ“忘れない”ってことが1番なのよ」
ゆっくりと語られる言葉ひとつひとつが、陸の胸に響く。
「その名前を。その姿を。その声を。最後に発した言葉の意味を――全部、鮮明に。繊細に。……それが、やる気のない俺が唯一ちまちまこだわってることよ。ずーっとさ……ただただ覚えてて、その御霊が本当に幸せになれたのか見届ける。そこまでが俺の本当の仕事。唯一の存在理由」
産土は長く息を吐き、少しだけ顔を上げた。朝焼けの光が、その彫刻の様に美しい横顔をかすかに照らす。
「俺は、あの人の生まれ変わりを……この目で見たい」
陸は、その短い言葉に産土想いの全てや覚悟が全て詰まっている気がした。
「けど、なんの因果か知らんけど導守の寿命は短い。大抵は御霊が生まれ変わる頃には、道を案内した導守は死んでる場合が多いから……つまり、俺の夢は望み薄ってわけ」
淡々と語る産土の声には、少しだけ悔しさと、それでも諦めきれない執念が滲んでいた。
「だからせめて、生まれ変わったその人が安心して過ごせるように、この手でこの地の安寧を守る。そういう方程式を作って、俺はなんとか必死こいて毎日このクソみたいな仕事をこなしながら踏ん張ってるわけよ。やばいでしょ」
自嘲気味に笑う産土の横顔を見て、陸は思わず「そんなことない」と、首を横に振った。
自分の信念を打ち明けてくれた産土に、何か言葉を返したくて、陸はぽつりと呟いた。
「……いや、すごいよ。ボスならきっと会える」
その言葉に産土はふと目線をやり、わずかに笑みを浮かべた。
「まず、どうやって生まれ変わりだってわかんのよって話だけどね」
肩をすくめて冗談めかして言いながらも、その瞳には隠しきれない想いがにじんでいる。漂う憂いを帯びたまま、彼は続けた。
「でも、こんだけ想ってんだ。……見た瞬間に、なんかこう……びびっとくるモンがあんじゃねーのって、思っちゃうよね」
産土の声が、より一層真剣さを帯びる。
「俺の夢は途方もない。いつも頭のどっかで、死ぬまで叶わないんじゃないかと思って今まで生きてきた気がする。今までは、それでよかったんだ。死を本気で覚悟するような場面なんて、そうそう無かったからね。『いつかきっと』って、遠い未来に希望を残して生きてこれた。でも……今回ばかりは違う」
産土の目が、静かに揺れる。
「これから対峙するオーデは、今までとは訳が違う。真偽はともかく、どいつもこいつも、過去に大量の人間を殺してきた“執行”対象ばっかだって話じゃん。つまり……間違いなく、最悪の選択肢として“死”を覚悟して挑まなきゃならない。……こんな感覚、初めてだよ」
産土は淡々と、しかしその言葉には確かな熱があった。
「もし……この討伐に関わらなければ、俺はまだ死なずに、夢を見続けられたかもしれない。そう思うと、押し潰されそうなくらい後悔する瞬間もある。……でも、それは“俺がここで死んだら”の話でしょ」
彼は、ゆっくりと語気を強めていく。
「こんなに世界は広くて、気持ち悪いほど人が溢れてんのに、そん中で、この夢を見てるのは俺だけ。俺が死んだら、そこで終わるんだよ。叶わないまま、誰にも気づかれずに終わる。……そんなのは絶対ごめんでしょ」
そう言って、産土は上体を起こし、ソファに腰かけると陸の方に向き直る。その視線が、陸の左手首に光る形見のブレスレットへと落ちる。
「だから……絶対に成功させなきゃなんだよ。俺も、お前もさ」
その言葉に、陸の瞳が正気を取り戻したように光を宿していく。
産土は、陸のまっすぐな瞳の奥にある、後悔と恐怖の中にある、確かな希望と未来と見据えた覚悟に、自分と同じものを感じる。
悪夢によって、胸の奥で絡まっていた恐怖や緊迫がふと緩まる。
――この夜、自分の背中を押してくれたのが誰なのか、産土はそれをはっきりと感じながら言った。
「……初めて会ったとき、軽んじて悪かったな」
誰にも打ち明けられなかった不安を、唯一和らげてくれた、自分と同じ目をした、目の前の一人の未熟な男へ。
最大限の敬意を込めて、産土は手を差し出す。
「一緒に、頑張ろう」
「……!」
真正面からのその言葉に、陸は驚きを隠せなかった。胸の奥で何かが温かく弾ける。
そしてまたその姿が、ふと兄の面影と重なる。
「あぁ」
かすかに震えながらも、陸はその手を強く握り返す。
「頑張ろう」
――十日後は、いよいよArc第一回目の派遣当日を迎えることとなる。




