『一章』㊷ エマの涙は誰のもの?
ーーこの世界はどうしようもなく歪んでいる。
いつからか、そう思うようになった。
……ぁあ。ううん。違うね。
そう思うようになったのは、お父さんとお母さんが死んだ時だ。
「サフィアナ王国」ならどこにでもある小さな町で、アタシは育った。町の名前は知らないけど、ありふれた幸せが、「笑顔」が溢れていたことは今でもハッキリ覚えてる。
お父さんと、お母さんと、町のみんなで一緒に生きる毎日は、眩しいくらいに幸せで、この世界で一番の幸福者は自分だと疑わなかった。
浮遊魔法に目覚めたのは、一〇才の時。
家のコップに手を伸ばそうとしたら、持つ前にふわりと浮かんだ。その瞬間を両親は見ていて、そして自分のことのように喜んでくれた。
両親は固有魔法を持たない、術式魔法と呼ばれる、ゼロから魔法を作り上げて行使する、初歩的にして基本的な魔法しか使えなかったから。
ーー神の祝福だと、言ってくれた。
小さな町に固有魔法使い、魔道士が誕生したと喜び、その日はお祭り騒ぎだった。
なんとなく、嬉しいと思った。
この力でみんなを支えることができて、この町と両親、町のみんなの「笑顔」を守ることができるならこれほど光栄なことはないし、嬉しいこともないから。
浮遊魔法、ありがとう。
アタシに宿ってくれて。
アタシに力をくれて。
ーーけれどそんなものはすぐに破綻した。
「母さんと一緒に逃げろ、エマ!」
「ーーお父さん!」
夜だった。
町は魔獣除けの術式が組み込まれた壁に囲われていて、魔獣が多いこの国には必要な盾。
その調整は、いつも両親がしていた。
その最中に、一体の魔獣が壁を破壊して町を襲った。魔獣除けの力が緩んだその僅かな時間に、偶然その魔獣が町を襲った。
その魔獣にお父さんは無惨に喰い殺され。
「あなただけでも生きて、エマ!」
「やだ、やだお母さん!」
守ろうとした。
『黒い魔獣』からお母さんを守ろうとした。
今こそ浮遊魔法を使ってみんなを守るべきだ。
この時のために宿った力なんだ。
だから迷うことなく使った。周りにあった石とか木材とか、とにかく浮かせられる物は全部浮かして『黒い魔獣』にぶつけた。
ーー最後にコップを当てて、気づく。
「ーーーっあ」
もう、みんな死んでいた。
アタシが必死に物を当て続けている間に、もうみんな死んでいた。
みんな死んでいたみんな死んでいた。
たくさん死んでたの。
「あ、あああ」
お母さんも、死んでたんだ。
顔から食べられて。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ーー魔法なんて、何も守れない。
誰も彼も、エマを置いて先に逝った。
逃げた。泣いた。助けを呼ばなきゃ。誰のために?もうみんな死んだのに?自分のため?どうして自分のために?
ーー走って、走って、走って、泣いて。そうして辿り着いたのは、みんなが頼る、アタシも何度か頼って憧れた、アレス騎士団の駐在所。
アレス騎士団の騎士様たちならきっとあの魔獣をやっつけてくれる。きっとみんなをーー助けてくれる。まだ生きている人がいるかもしれない。
だからーー。
「ーーレイシア様が行方不明!?どういうことだちゃんと説明しろ!!」
「ですから!王城にいた第二王女、レイシア・エル・アルテミス様が忽然と姿を消したんです!何者かに攫われたのかどうかは不明ですが、我々も今すぐ王都まで行き捜索をしなくてはいけないという話です!マルス総騎士団長からのご命令です!」
怒鳴り声の洪水。
アタシのことなんて誰も見ていなかった。
「あ、あの。町が、みんなが、お父さんとお母さんが………あ、う」
声なんて誰にも届いていない。手を伸ばしても誰も掴んでくれなくて、アレス騎士団はアタシを無視して王都に向かっていった。
すぐ近くに、こわい魔獣がいて、みんな苦しんでいて、死んでいて、町が壊されてるのに。
「あ、まって、いかないで……」
ーーおねがい、たすけて。
「だめ、まって、まって!お父さんとお母さんを助けて、助けてください!お願いします!助けてください!まじゅうがいるんです!おねがいだから助けてください!!」
泣きながら走って、アレス騎士団の団員の一人を掴んで、けれど。
「ごめんねお嬢ちゃん、今国にとって一大事の事件が起きているんだ。話は帰ってきたら聞くから、それまでお父さんとお母さんと待っててくれるかい?」
「ちが、ちがう、ちがうの!そうじゃないの!今、今じゃないとーー!」
ーー今じゃないと、みんなが。
「ごめんね」
頭に手を置いてから、その人は王都へ行った。
どうして。
すぐ近くに、助けを求めてる人がいるのに。
アタシがいるのに。
なんで遠くにいるお姫様を助けに行くの。
アタシのことなんて、みんなのことなんてどうでもいいの?
困っている人を助けてくれるのがアレス騎士団なんじゃないの。
ヒーローなんじゃないの。
正義の味方なんじゃないの。
「…………っあ」
茫然と町に帰ったら、魔獣はどこにもいなかった。死体が沢山あって、血の匂いが臭くて。町は破壊されていて。
膝から崩れ落ちて、ビチャっと音がした。
お母さんの血だった。
お母さんの、首から上がない体があった。
「あ、ああああ。あああああ」
お母さんの、首から上がない体があった。
「ああああああああああああああああああああ」
お母さんの、首から上がない体があった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
お母さんの、首から上がない体があった。
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路地裏で生活する日々が何年も続いた。
時には体を売って、媚びて、男に縋った。
そうしないと女は路地裏で生きていけないことを知ったから。
最低な気分だった。
最悪の気分だった。
心底自分が惨めで無様に生きてると思った。
幸せそうな家族を見ると、イライラした。
一九才。
あの惨劇から一二年。
アタシは初めて人を殺した。
偶然立ち寄った街で、あの時アタシの言葉を無視したアレス騎士団の男。
殺した瞬間、体が満たされた気がした。
気持ちよかった。
正しいことをしたと思った。
ーーこれだ。
アタシにしか、これはできない。アタシしかアレス騎士団の正体を、この国の歪みを知らない。
アタシがこの世界を治さなきゃ。
目の前の命、涙、子供を救わない正義の天秤が正しいと勘違いしているこの理不尽を治さなきゃ、アタシみたいな人がたくさん生まれてしまう。
それだけは阻止しなくちゃいけない。
そしてどんな命よりも優先された王族の人間は、特にあの日アタシから全てを奪った第二王女だけは絶対に許さない。
いつか、必ず殺してみせる。
この手で、必ず殺す。
ーー奇しくも、浮遊魔法を既にアタシは使いこなしていた。
みんなを守れなかった力で、みんなを守らなかったクソ野郎を殺した。
ーー喜んでくれるといいな。
血に染まった自分を見ながら、そう思った。
ーー汚れていると思った。
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アレス騎士団を殺す日々が続いた、そんなある日。
一人のおばあちゃんに出会った。
少し、ほんの少しだけ殺すのに疲れて、路地裏で寝てたら話しかけられたんだ。
「こんなところで寝ると風邪を引いちゃうよ」
「………うるさい」
「あ、風邪って知らないのかい?風邪っていうのはね……」
「いや知ってるしそーゆーことじゃなくて。空気読んでよ。大丈夫だって言ってるの」
赤いリボンで髪を結ぶ、腰の曲がったおばあちゃんは、少し考えるような素振りをした後アタシの近くにきて、屈んで言った。
「うん。思った通り臭い」
アタシも一応女だから、ちょっと恥ずかしかったしイラッとした。
「…………は?」
「体臭も口臭も全部臭い。もう全部臭いね。一〇〇点満点の臭さだね」
「な、ななななな」
「だからウチにおいで。お風呂と歯磨き、それから温かいご飯を食べさせてあげよう」
「は?何言ってんの?別にアタシ……」
お腹がバットタイミングで鳴った。
顔が赤くなる。
おばあちゃんは笑った。
「正直者は、どっちだろうねぇ?」
何も言えなかった。恥ずかしかった。
結局アタシはおばあちゃんについていって、言われた通りお風呂も入って歯も磨いてご飯をご馳走になった。
温かいご飯を食べるのは、久しぶりだった。
おいしかった。
「どうして、アタシに声をかけたの」
温かいお茶を飲みながら訊いた。
「さっきのアタシの姿、わかるでしょ」
「…………、」
おばあちゃんは黙ったままだ。
アタシはさっき、ただ臭いだけじゃなかった。全身に血はついてたし、顔にだって血はついてた。
普通、声なんてかけない。
罪人だと思って逃げるのに。
「子供を見捨てる大人がいると思うかい」
「…………、」
「少なくとも私には、アンタが今にも泣き出しそうな小さな子供に見えたけどねぇ」
そう言うと、おばあちゃんはお茶を飲んで、それからアタシたちの間に会話はなかった。
子供。アタシが、子供。もう一九才になって、たくさん人を殺したのに。そんなアタシが子供とか。
何を言ってるんだこの人は。頭までしわくちゃのおばあちゃんなのかな。
「どうぞ」
ふと、おばあちゃんがハンカチを渡してきた。
「え、なに」
「泣いてる」
渡されて、初めて気がついた。
涙が頬を伝っていた。
「な、なに、これ」
「あらあら。泣き方が下手だねぇ。そーゆー時は、叫んだっていいから全部出すんだよ」
「あ、ああ」
知らない。泣き方なんて知らない。どう泣いていいのかわからない。だけど叫んでいいって言われたから、可能な限り大声を出して、胸の中にある蟠りを全部吐き出した。
あとからあとから、涙がボロボロと溢れて、胸が痛くて、ただずっと、泣き続けた。
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ーー泣き続けて、朝起きたらおばあちゃんの膝の上で、どうしてだろう、すごく安心した。
別に頼まれたわけでもないけれど、アタシはおばあちゃんと暮らした。
アレス騎士団の団員を殺す日々をやめた。
よくわかんないけど、気づいたらおばあちゃんと二人で一緒に暮らしてて、アタシは笑ってた。
ーーあぁ。多分、これが平和で、正義で、笑顔がある日々なんだと思った。
ーーアタシは、人をたくさん殺した。
ーーわかっているよ。
ーーアタシは、善人じゃない。
ーーそんなのみんなさ。
ーーアタシは、きっと地獄に落ちる。
ーー寂しいなら、私も一緒に行こう。
ーーアタシは、きっと報いを受ける。
ーー私も一緒に受けよう。
……そうやって、アタシの全部を肯定してくれたおばあちゃんを、アタシは好きになった。
甘えてる自覚はある。
でも久しぶりに感じる他者からの愛を、優しさを、アタシは受け入れて。嬉しかった。
だから。
「……………おばあ、ちゃん?」
買い物から帰ったら、おばあちゃんが血の海に沈んでいた。
「おばあちゃん!」
買ってきた物を全部落として、アタシはおばあちゃんに駆け寄った。
もう、息をしていなかった。
「なんで、なんでぇ……。おばあちゃん、おばあちゃん、しっかりしてよ、ねぇ!ねえってば!」
返事をしないことはわかっているのに、アタシはおばあちゃんを呼び続けた。
おばあちゃんは、アレス騎士団に殺された。
アタシを庇って、罪人扱いされて、殺された。
ーー意味がわからなかった。
「てぃーしぽねぇええ!」
殺した。
全員殺した。
「ーー歪んでる」
復讐の女神の名を与えられた。
S級罪人って呼ばれてることに、おばあちゃんが殺されてから知った。
「ごめんね、おばあちゃん」
アタシのせいだね。
アタシが、いたから。
この罪を。
おばあちゃんを死なせた罪を忘れないように、アタシは赤いリボンを巻いた。
ーーこの国に。アレス騎士団に。何もかもを思い知らせてやる。
「正義を。正す」
全部間違ってる。
全部直してやる。
「死ぬべきじゃない正しい人を守るために」
ーー正しくない人を正しく殺害するために。
「アタシが。やらないと」
殺して殺して殺して殺して。
殺し尽くして。
「ーー守るんだ」
善人を。
アタシを。家族を。おばあちゃんを守ってくれなかったクソみたいなヒーローに変わって。
正義のヒーローなんてどこにもいないから。
ーー血に濡れたままアレス騎士団の駐在所を出たら真っ赤な夕日に世界が満たされていて。
ーー悲しくなるくらいに、綺麗だった。




