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8.私は大丈夫

「凪は本当に女なのか?」

 章は俯いたままそう訊いた。凪はかなりの美少年だとは思ったが、髪も短いし男だと疑っていなかった。それは、章がそう願ったからかもしれない。改めて凪の姿を思い出してみると女性のような気がしてくる。


「こめんなさい」

 嗚咽に消え入りそうな声で凪が答える。章を騙していたことが心苦しくて、章に恐れられていることが悲しくて、涙を止めることができない。


 広いリビングの端と端、かなりの距離を取って二人は無言で立っていた。

 章は女性と暮らすのは無理だと思うが、それでも凪との生活が幸せすぎて、手放すことができない。

 凪にとっても章との生活は穏やかで幸せなものだった。

 毎日挨拶を交わして、作った料理を美味しいと言って食べてもらえる。そんなごく普通の毎日がかけがえのないものだと感じていた。


 それでも、凪はこの場所に留まることは許されないことはわかっていた。

「騙していてごめんなさい。でも、私は章が好きだったから一緒にいたかったの。章の役に立ちたかった。章に必要とされたかったから…… どんな言い訳をしても、私が酷いことをしたのは変わらないよね。ごめんなさい。もう出ていくから。章から貰ったお金は手を付けていないので返すね。ピーマンの肉詰めと、鯖の竜田揚げを作ってあるので、良かったらお弁当に入れて」

 もっと言いたいことがあるが、凪は涙が止まらず伝えることができない。

 章が何も答えないので、凪はリビングを出ていこうとした。


「待ってくれ。俺も凪と一緒に暮らしたい。でも、女が怖くて、俺は……」

 顔を上げた章の声は揺れている。凪を引き止めたいが近寄ることすらできない自分の不甲斐なさが情けない。

「私は、銃を乱射するような女とは違う。嘘をついてセックスまでしてしまったけれど、章を傷つけたかったわけじゃない。章が愛おしくて欲しいと思ったの。だから、私を怖がらないで。お願い」

 章に一緒に暮らしたいと言ってもらえて凪は嬉しい。しかし、好きな人に恐れられるというのは本当に辛い。せめて怖がらないでほしいと願う。


「俺のことを知っていたのか?」

 怪訝な顔で章が聞いた。教えた記憶はない。

「名前で検索したの。だから…… 知っている」

 凪は勝手に調べたことが後ろめたい。しかし、あの女とは違うと伝えたかった。


「俺が女を恐れる訳は、凪が思っているのと違う。俺を誘拐したのは巨大な麻薬組織で、俺は戦うために戦闘訓練を強要された。銃で撃たれて人が死ぬ場面なんて何度も経験している」

 それはとても辛い記憶に違いない。それでも章は淡々と語っていた。心をなくさなければ耐えられなかったのかもしれない。

 誘拐された少年が幸せに暮らしていたはずはないと思っていた凪だが、あまりのことに言葉が出ない。


「だから、女が銃を乱射する場面を見た時も冷静だった。背後がおろそかだった女を止めようと後ろから羽交い締めにしたんだ。例え相手が銃を持っていたとしても素人に負けるはずがなかった。あの女は生まれつき骨が脆い性質だったらしく、俺の腕の中で骨が何本も折れていった。俺はあの骨が折れる感覚も音も、耳を(つんざ)くような悲鳴も忘れることができない。俺はまたこの手で女を壊してしまうのではないかと思うと怖い。凪を傷づけたくないから側に寄ることができない。でも、やっぱり一緒に暮らしたいんだ」

 凪が大切だからこそ、章は近づくことができない。凪に触れてしまうと骨が折れるのではないかと、章は恐怖で震えることを止めることができないでいた。


「女が怖いって、壊しそうだからなの?」

 女性が銃を乱射するという凄惨な場面に遭遇して、被害者として女を恐れていると思っていた凪は、その理由に驚くしかなった。

 章はゆっくりと頷く。


 想像もできないほど辛い六年間を過ごしてきたのにも拘らず、人を傷つけることをこんなにも恐れている優しい章が、やはり大好きだと凪は思う。

「章、私は大丈夫だから。今までだって普通に暮らしていたじゃない。章は私を傷つけたりしない」

 凪が一歩前に出る。何度もあの男に殴られて肉体の痛みは知っている。それでも、章が殴るのならば受け入れようと凪は思う。

 章は凪が近づいてくるのを震えながら見ていた。

「近づかないでくれ。俺は凪を壊したくない」

 章は止めるが、それでも凪はゆっくりと歩を進める。


「章、セックスだってできたのよ。あれ以上に理性を手放す時はないと思うの。でも、大丈夫だったでしょう?」

 凪は諭すように章に言い聞かせる。自分は壊れたりしないとわかってほしかった。

「あれは凪がしてくれたから」

「章は冷静だったの?」

「違う! 気持ちよくて理性なんて蕩けてなくなっていた。だけど、凪は十六歳だから、それ以上求めては駄目だと」

 苦しそうに章は呟いた。理性を乗っ取りそうになる快楽の記憶を、首を振って払おうとするが、凪を目の前にしている今は無駄なあがきだった。



 凪はまた一歩前に出る。広いリビングの半分ぐらいは進んだが、また二人の距離は遠い。

「章、ごめんなさい。年齢も嘘をついていた。本当は二十三歳。章より四歳も年上なの」

「二十三歳? 本当か」

 章は近づいてくる凪に聞こえるくらいに大きく息を飲み込んだ。


「ごめんね。たくさん嘘をついていて。でも、章を好きな気持に嘘はなかった。だから、もう一度証明しよう。章は私を壊したりしないって」

 凪はまた一歩前に進む。

「本当に俺としてくれるのか? 礼とかではなく」

 凪に触れることが怖い章は、凪に何も与えることができない。

「好きな人と肌を合わせるだけで満足するのよ。章は違うの?」

 章は安心したように首を横に振った。


 あまりにも孤独に生きてきた二人は、幸せな時を知ってしまったからこそ、もう後戻りはできない。お互い求め合い、与え合うことしか道は残されていなかった。



「まずはお母さんに電話しないと。それから、後片付けをして、お風呂に入って」

 食べかけのまま食器を放置しているテーブルのところへ急いで近寄った凪は、食器の後片付けを始める。

 まだ凪に近寄るのが怖い章はスマホを取り出し、地下の駐車場で待っている母親に電話をした。

『凪とこれからも一緒に住むことになったから』

『反対するならここを出て、凪と暮らす』

『心配しなくても大丈夫だ』

 キッチンにいる凪にも章の電話の会話が聞こえてくる。この豪華なマンションの部屋を出てでも一緒に暮らしたいと言ってくれたことがとても嬉しいと凪は思った。

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