零.萌芽
──それはまだ、「今」の彼女を知らなかった頃の話。
スマホの向こうで延々と続く友人の愚痴に、晃星はすでにうんざりしていた。
「学校のこととか、友達のこととか、中学の時はもっといろいろと教えてくれたのに……最近は曖昧に誤魔化されることが多くなってなあ……けどあんまり突っ込んで聞きすぎて、『誠ちゃん、しつこい』って嫌われたら困るし……でも気になるだろ、高校生なんて、難しい頃合いだからさ。成海は可愛いし性格もいいしちょっとおっとりしてるし、変な男に狙われてつきまとわれたりしたらどうしようって。なあコウ、俺どうすればいいと思う?」
いつもと同じようなことを問われて、はあーと溜め息を吐き出す。
「だからどうすればも何も、お前は余計な心配のしすぎなんだっての。妹ちゃん、もう高校生なんだろ。もう少し信用して、放っておいてやれよ」
残り少ない忍耐力と友情から、かなり真っ当なアドバイスをしてやったのに、あちらでは誠がまだグズグズと、「信用はしてるけど、それとこれとは別じゃないか」などと、こもるような声で言っている。鬱陶しい。妹のことについてくだらない心配をする前に、これは果たして、日本とアメリカという距離を置いてまで話すような内容なのか、そこからじっくり考えてみて欲しい。
「お前の言ってること聞いてると、兄としてというより、父親が年頃の娘に対して気を揉んでるようにしか思えないんだけど」
「俺は成海の兄だが、同時に父でもあり、母でもある」
うわー、うぜえ……
「あんまりうるさいことばっか言ってっと、妹ちゃんも怒るぞ。それこそ高校生なんて、肉親からの干渉を受け付けたがらないもんだろうしさ」
晃星には日本の家族形態、いやそればかりでなく、一般的な「家族のありかた」というものが、今ひとつよく判らない。しかしそれでもやっぱり、ティーンエイジャーの女の子なんてのはおおむね、両親や兄弟に自分のことを詮索されたがらないものだろう、というくらいの認識はある。
「なに言ってんだコウ、成海は怒ったりなんてしない。すごく優しい子だからな」
「……あっそ」
それから誠の話は、妹の自慢話に移行した。ほとんど恋人の惚気を言っているようにしか聞こえないその内容に、半ば以上ドン引きしながら付き合って、ようやく晃星が友人との遠距離通話を終えた時には、かけてから三十分以上も経過していた。
いつものことだが、疲れる。
手にしたスマホに視線を落とし、ひとつ息をついた。
「相変わらずアホで安心したよ」
うんざりするし疲れることは判っているのに、それでも時間があると誠に電話してみようかなと思うのは、やっぱりその変わりなさを確認して安心したい、というのが大きい。大体その話は妹についてのあれこれで占められることが多いし、中身はほとんど無きに等しいものばかりだったりするのだが、呆れたり窘めたりしながらも、晃星は意外と、それを聞くのが嫌いではなかった。
誠と妹が、何事もなく平穏に過ごしているのが判ると、ホッとする。
「けど妹ちゃんも、大変だねえ」
あの度を越したシスコンの兄を持っては、いろいろと窮屈そうだ。
誠は自分の妹について、いつもやたらとベタ褒めで、晃星はそれをふんふんと聞きながらも、内心では、かなり分厚いフィルターがかかっているんだなと冷静に考えていた。きっと実際は、どこにでもいるような、普通の女子高校生なのだろう。
もともと子供の頃から、年の離れた妹を猫可愛がりしているところはあったが、両親が亡くなったことにより、誠は箍が外れてしまったらしい。責任感の強い性格でもあるし、「自分が守ってやらなくちゃ」という強い思いが、現在の過保護過干渉に繋がったようだ。気持ちは判らないでもないが、ここまで愛情が大きく重苦しいと、向けられるほうにも同情してしまう。
「ホントに彼氏が出来たら、誠のやつ、どうするのかね」
本気で発狂しかねないぞ、あの調子じゃ。また泣き言をさんざん聞かされるんだろうな。鬱陶しいな。
──将来、妹ちゃんの恋人や夫になる男も、さぞかし苦労するだろう。気の毒に。
「……ま、しょうがないか」
しょうがないから、その時には、とことん付き合ってやることにしよう。日本に行って、一緒に酒を飲んでもいい。酒くらいで、あのシスコン男の衝撃を中和できるかどうかはいささか心許ないが。
もしも妹が結婚ということになったら、その時には写真のひとつでも見せてもらえるだろうか。「可愛すぎるからダメだ」という謎の理由で今まで一度も見せてもらったことがないから、長い付き合いだというのに、晃星は未だに「妹ちゃん」の成長した姿を知らない。
どんな容姿をしているのか、まったく興味がないと言えば嘘になる──が。
けれど、知らないままでいいかな、という気持ちも、自分の中には少なからずあるのだ。
誠の妹、という言葉で思い出すのは、十数年も前に、たった一度見たきりの、幼い子供の姿。
……あの天真爛漫な、愛情のみに囲まれた無垢そのものの笑顔は、今はもう失われてしまったのだろうから。
だったら、現在の彼女の姿は、知らないままでいい。晃星の胸の奥底で、なによりも大事にしまわれたその思い出を、上書きしてしまうのはしのびない。美しい夢は夢として、実体を持たないまま、時々自分の心を癒したり慰めたりしてくれれば、それでいい。
誠とその家族だけは、昔から、晃星にとっての「特別」だ。
激しい憧憬と罪悪感とが入り混じる複雑な感情、それを向ける、ほんの一握りの大事な人々。誠以外は、過去にしか存在しない、儚い幻のようなものだとしても。
晃星がそんな風に思っているなんて、誠を含めた誰も、まったく知らないとしても。
いいんだ、それで。そう思う気持ちは自分だけのもの。この先も、決して口にすることはない。
誰にも触れさせない。知って欲しいとも思わない。他の人間と、共有するつもりはない。
晃星は自身のことを、かなり徹底した個人主義の人間だと思っている。常に、自分は自分、他人は他人として切り離して考える癖が身についているからだ。友人も、仕事仲間も、今まで付き合ってきた女たちも、実の両親でさえ、自分の領域の深いところまで侵入させたことはなかった。
自分以外の誰かに自分の心を明け渡すことはしない。それは結局、晃星が誰のことも信じられていない、という証なのかもしれないが。
──願うのは、ただ。
誠と、今の顔も知らないその妹に、これ以上の不幸が降りかかることのないように、ということだけだ。
***
日本に来て探し当てた、誠とその妹の住処は、小さくてつつましいアパートの一室だった。
昔住んでいた家を売って引っ越した、という話はずいぶん前に聞いていたが、実のところ、その場所に足を向けたのはこれがはじめてだ。子供の頃と同じく、誠が同性の友人を妹のいるところに連れて行きたがらない、というのもあるし、晃星自身、その必要を感じなかった、というのもある。
あの部屋に、今は誠の妹だけが、たった一人で暮らしているのか。
ぽつりと明かりの灯った窓を見上げながら、そればかりを思う。いつも誠にあれやこれやと日常の細々としたことを問い詰められて、閉口していただろう妹は、話しかけてくる人間のいないしんとした室内で、何を思っているのだろう。
誠がいなくなった経緯を知るためにも、妹と顔を合わせるのは必要不可欠であることは判っている。いや、本当は、真っ先にそうすべきだった。
どうやって会いに行こう。いきなり訪ねていっても警戒されるだけだろうし、どんな手順をとるのが適切かな──と理性的に考える頭とは裏腹に、今になっても踏ん切りつかず躊躇してしまう気持ちを、晃星はいささか持て余していた。
無邪気に笑っていたあの女の子は、今、どんなに萎れているだろう。
会わなければ何もはじまらない。でも、その顔を見たくない気もする。自分の中で、小さな女の子の記憶は、少々美化されすぎているのかもしれない。両親を亡くし、兄さえもいなくなったこの状況で、暗く沈んでいないほうがおかしいのに、実際にそれを目の当たりにして、自分は動揺せずにいられるかどうか。
窓を見ながら迷っていたら、ふいに、その明かりが消えた。
ん? と怪訝に思う。まだ七時だし、もう寝るということはないだろう。どこかに出かけるのだろうか。
そう思っているうちに、高校生くらいの女の子が、アパートの敷地から小走りで出てきた。咄嗟に電柱の陰に身を隠してから、これじゃ俺不審者みたいじゃんと慌てる。いや、でも、ここで突然姿を見せて、こんばんはと挨拶するのも変だしな。
女の子は晃星が張りついている電柱には目もくれず、たったったと足を動かして前を通り過ぎていった。手に財布だけを持っているから、近所に買い物にでも行くのかもしれない。
肩のところで切り揃えた髪は、艶やかで軽くて柔らかそうだ。すらりとしたしなやかな身体つきが、小鹿みたいで愛らしい。街灯に照らされて、白い肌の映える横顔が闇に浮かび上がる。大きくて真っ黒な瞳は、一途に前方へと向けられていた。
……あれが、成長した「誠の妹」。
彼女が前を通り過ぎ、その後ろ姿が暗闇の中に小さくなっても、晃星はしばらくその場に立ち尽くしていた。自分にしては珍しいほど、胸の鼓動が高鳴っている。
どうしよ。なんか、思ってたよりもずっと可愛いんだけど。
誠の言葉はほとんど話半分にしか聞いていなかったが、兄バカで目が曇っていたというわけではないらしい。確かに可愛い。なにより、まっすぐ前しか向かない、ひたむきなあの実直さがいい。
どこに走っていくのかな、と気になった。もう暗いのに。コンビニか、スーパーか。それは近くなのか。ここに誠がいたら、間違いなく大げさに心配してぴったりくっついていくのだろうなと思ったら、じっとしていられなかった。自分も駆けだし、彼女の後を追う。
今、あの妹を守る人間は、誰もいないのだ。
彼女が向かったのは、近所のコンビニだった。
店の外では部活帰りらしい高校生男子たちが数人たむろして喋っていたが、店に入っていく女の子には、ちらっと視線を向けただけで、それ以上のことはなかった。よしよし、その子にちょっかい出すんじゃないぞ、と遠目で見守りながら安堵する。なんだか誠の過保護とお節介が乗り移っているようで、我ながらちょっと気味が悪い。この場合、どちらかというと、怪しいのは自分のほうなのではないか、という疑問はとりあえず棚上げだ。
店のガラスの向こうでは、妹が店内を廻って品物を選んでいた。何を買いに来たにしろ、ついでにのんびり時間を潰す、という気はさらさらないようで、雑誌コーナーにも菓子コーナーにも見向きもしない。さっさとレジに行って、精算を済ませる。
また自動ドアが開いて、外に出てこようとしたところで、ちょうど入ろうとした子供連れの女性とすれ違った。
母親のほうは子供がついてくるものだと思い込んでいるのか、後ろを見もせずぱっと店内に入ってしまったが、小さい子供のほうは何か気を取られたものがあったらしく、ドアの手前で立ち止まって余所を向いた。
誠の妹がそれに気づき、同じ場所に立ち止まりドアを開けた状態で、子供が入るのを待ってやる。うん、ちゃんと他人への気遣いもできる子だ。
我に返って視線を戻した子供は、目の前に母親がいなくて驚いたのか、キョロキョロと焦って周囲を見回した。その子供に、妹が何か声をかけている。聞こえないが、きっと、「お母さんはもう中に入ったよ」とでも教えているのだろう。
子供が口を動かし、妹もまた何かを返した。目を細め、ふわりと口元を綻ばせる。
──笑った。
腹の底のほうから、何かが強く突き上げてくるような感じがした。
……そうか。
君はまだ、そうやって笑えるんだね。
親を亡くし、兄を見失い、たった一人、この地に取り残されて。
きっと、たくさん泣いて、不安で、悲しくて、寂しくて、心細くてたまらないだろうに。
それでも、優しさと笑顔を、捨ててはいないんだね。
***
実際に近くで話をしてみれば、彼女は素直で大らかで無防備で、誠によく似た頑固さもあり、大人しそうな見かけによらず意外とはっきりものを言うところもあった。そしてブラコンでもあった。
晃星は自分のすべきことをしたら、またアメリカへと帰るつもりでいる。だからあまり依存されすぎても困るなと警戒して、自分のことは最小限の説明しかしなかったのだが、依存どころか、彼女は少し腹立たしくなるほどに、一人でなんでも抱え込みがちだった。真面目に育てすぎた誠が悪い。もうちょっと外に出して自分を解放してやらなければ、いずれ遠からず、潰れてしまうんじゃないかとハラハラする。
きっと、いろんなものを自分の中に押さえ込んで、誠の無事を信じ、日々を懸命に過ごしているのだろう。彼女は他人に寄りかかることを、極端に怖がっているように見えた。歯を喰いしばり、必死に涙を見せないようにして、それでも人には笑顔を向けようとするその姿は、強さと脆さの間でなんとかバランスをとっているように感じられる。
自分が支えてやれれば──とは、何度も思った。
彼女と一緒にいるのは楽しかったし、気持ちが安らいだ。子供と大人の中間地点にいるような彼女は、状況によりどちらかに傾いて、そのたび晃星を惹きつけた。頼りなさげだったり、温かい包容力を感じたり。
ふとした仕草に目を奪われる。離れていても、彼女のことを心配している自分がいる。縮まらない距離がもどかしい。もっと近づきたいという欲求を抑えつけるのが困難になることもあった。
手を差し伸べて、抱きしめて、安心させてやりたいけれど。
……でも、晃星は結局、彼女から残り少ない希望を取り除くために、この日本にやって来たようなものなのだ。
逃れようのない「現実」を突きつけて、その顔から完全に笑みを消すのは、他の誰でもない、晃星自身であるのかもしれない。
その現実を乗り越えなければ、この先を進むことは難しいのだとしても。
乗り越える前に、真っ暗な絶望を味わわなくてはいけない。
その時、彼女は晃星をどう思うだろう。責めるか、憎むか、恨むか。
世界にただ一人きり、残される孤独。そんなのは知りたくなかったのに、と。
そう思うと、こちらに向けられる屈託のない信頼は、いつでも胸が痛かった。
痛みを覚え、揺さぶられ、引き寄せられ、浮き沈みする。
それは確かに、自分の「心」だ。
けれど、自分ではどうしても、制御できない。
こればかりは、どうにもならない。
いつの間にか、晃星は自分以外の誰かに、自分の心を明け渡していたことを知った。




