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空中散歩  作者: 雨咲はな
41/42

エピローグ



 誠は会社に復職できることになり、年明けから仕事に戻ることになった。

 会社には、一部分だけ省略して、ほとんどありのままを説明したという。昔よく登っていた山に行って、崖から足を滑らせて落ちたこと。その時に頭を打って、自分のこともそれ以外のことも、すべて忘れてしまったこと。記憶がない間、近くの村の親切な夫婦に世話になっていたこと。

 会社の人々は、その話を疑うこともなく、本当にそんなことがあるんだねえと、ただ驚いていたらしい。誠の姿を見れば、当時に負った怪我の状態が酷かったことは察せられる。とにかく生きていてよかったと、その幸運をひたすら喜んでくれたのだそうだ。

 そして、少しだけ、叱られもしたらしい。

「妹が本当に必死で聞いて廻っていたよ、って、みんなに言われた。社長が休職期間を延ばしてくれていたのも、その一途な姿に心を動かされたからなんだって。これから二度とあの子を心配させたり、悲しませたりするようなことをしたらダメだよ、って、すごく、言われた」

 成海にそう話す誠は、ぶたれた犬のようにすっかりしょげきって、何度もごめんなと謝った。これからは何があっても一人にはしないからな、と力強く宣言する兄は、なんだか以前よりも輪をかけて過保護になりそうな雰囲気で、傍で聞いていた晃星は、非常にイヤそうな顔をした。

 現在のところ、杖がないと上手に歩けないという右足は、リハビリで少しずつ改善されていくだろう、という話だ。長く伸ばしていた髪も切り、損傷を受けて少し変わってしまった顔以外は、以前と同じような外見に戻っている。

 それもあってか、隣の美沙は、今もまだ、誠が短期のアメリカ支店勤務の期間を終えた(いつの間にかそういう話になっていた)と信じ切っているようで、なにかとあちらのことを聞きたがったり、アパートを訪れる晃星を見つけては嬉しそうに駆け寄って、たどたどしい英語で話しかけてくる。成海と誠はあたふたと取り繕うので精一杯だが、晃星は愛想よく笑い、ペラペラと英語で返してと、やっぱりノリノリだ。でも正直、どんな内容を話しているのかは、怪しいものだと思う。

 嘘はつくものじゃない、という人生における教訓を、深く胸に刻んだ次第である。



 あと二カ月で高校を卒業する成海は、就職ではなく、進学を目指して予備校に通うことになった。

 費用もかかるし、一度は諦めた進路なので迷いもあったが、誠と晃星が強く勧めてくれたこともあって、決心した。誠がいなくなる前まで希望していた看護大学に入るために、これから一年、頑張って勉強しなければ。

 卒業後は、朝から夕方まで予備校に行って、それから夜まではラーメン屋でバイト、という生活になるだろう。勉強との両立は大変なんじゃないか、と店主は心配してくれたが、働きながら勉強している人は他にもたくさんいるし、それくらい出来なければ、看護師としてのハードな仕事も出来ないと思う、と説得して、続けさせてもらうことにした。マツは喜んでくれたし、誠などは、仕事帰りに店に通うことを今から公言しているくらいである。三十前でメタボ体型にならないといいのだが。

「……なるちゃんのナース姿か……」

 と独り言のように呟いた晃星は、それだけで誠から勢いよく拳骨を喰らっていた。

 我が兄ながら、理不尽だ。




 ──そして、「ル・クール」は、閉店した。

 晃星から聞いて、成海が大急ぎで行ってみると、すでにそこはドアが閉じられて、看板もなくなっていた。白い張り紙には、丁寧な文字で、「閉店のお知らせ」と書かれてある。

 長い間ご愛顧いただきありがとうございました、という文字を見て、通りがかった女の子たちが、えーここ潰れちゃったんだあー、と残念そうな声を上げていた。

「…………」

 その事実に対して、自分でもどう感じるのかよく判らない。でも、なぜか涙が止まらない。上着の袖口で目許を拭う成海の頭を、晃星の大きな手が軽くぽんと叩いた。

「なるちゃん、『ル・クール』って、どういう意味か知ってる?」

「いえ……」

「『Le Coeur』……フランス語でね、『心』、っていう意味なんだよ」

「……心」

 小さく呟いて、まだドアに残っている、凝った白文字で描かれた店名を見つめる。

 晃星も同じところを見たまま、静かに言った。

「心を守ろうとして、心を失くしたら、本末転倒だ。──あの男も、それに気づくといいよね」



 ……少しして、成海と誠が住むアパートの部屋の郵便受けに、ひっそりと茶封筒が入っているのを見つけた。

 いつ、誰が入れたのかも判らない。気がついたらそれはそこにあり、表には、宛先の住所はなく、ただ、「天野誠・成海様」と書かれていた。

 店の張り紙に書かれていたのと、同じ筆跡で。

 その中には、銀行の封筒に入れられた二百万。成海が何度も足を運んだ銀行名が印刷されたその封筒は、あちこちが土で汚れてもいた。

「……常陸先輩、この金を使わなかったんだな」

 誠がそう言って、封筒をそっと撫でた。

 征司は結局、そのお金には頼らずに、半年以上もの間、なんとか自分の力で、あの店を立て直す努力をしていたのだ。

 茶封筒の裏には、宛名と同じ字で征司の名前。

 それからその横に、違う字で、笙子の名前があった。

 二人の間で、どんな話し合いがなされ、どんな結論が出たのかは、判らないけれど。

 征司と笙子が、今度は互いに支え合い、信頼し合って、二人でまた新しい夢に向かって歩き出したのであればいいな──と、成海は思う。

 祈るように、思う。



          ***



 そんな日々の中、成海と誠と晃星は、小さな村で暮らす、武藤夫妻の元を訪れた。

 夫妻も、村の人々も、みんな歓迎してくれて、誠は彼らに向かって何度も頭を下げていた。記憶のなかった誠は、その村では、武藤家の一人息子の「高志」という名前で呼ばれていたらしい。成海にとっては馴染みのないその名前で、自分の兄が笑って返事をしているのを見るのは、なんだか変な気分だった。

 彼らとの交流は、見ていて微笑ましいほどほのぼのしたもので、誠はこの場所で、傷だけでなく、いろんなものを癒してもらっていたのだろうと想像できた。武藤夫妻は、自分たちの息子が現在に至るまで連絡が途絶えていることもあり、兄が世話になったことの礼を述べようとした成海を遮って、「待っているほうがどれだけ精神的にしんどいかは知ってる」と、誠をこの地に留めていたことを詫びて、あれこれと気遣ってもくれた。とても優しい人たちだった。

 ──お父さんとお母さんみたい、と成海はそっと心の中で思う。

 亡くなった両親と似ている、という意味ではなく、こちらに向けられる愛情と眼差しが、親が子に向けるそれに似ているからだ。誠がこの二人を置いてここを出ることが出来なかった、というのが、よく判った。

 武藤夫妻は、誠だけでなく、成海のことも、非常に可愛がってくれた。特に夫人のほうは、娘が出来たみたいだと喜んで、家を辞去する際には、またおいで、と繰り返し言った。

 はい、絶対にまた来ます、と約束して、ぎゅっと握った彼女の手は、少し硬くて皺の多い、でもとても温かい、働き者の母親の手だった。



「……ねえ、誠ちゃん」

 村を出て、三人で並んで歩いている時、成海は兄に向かって言った。

「ん?」

「誠ちゃんは、お父さんとお母さんが残してくれたお金で、私に家を用意してくれようとしたんだよね?」

 昔、家族四人で暮らしたような、「家」を。

「した、っていうか、今でもそのつもりだぞ。まあ、一括即金で一軒を買うのは無理かもしれないけど、頭金にすれば、前と同じくらいの家が買えるはずだから」

 でも、それはずっと先の話だけどな……と、ちらっと晃星を見ながら付け足す。晃星は肩を竦めた。

「あのね」

 成海は顔を上げ、空を見ながら、ゆっくりと口を開いた。

 広がる青い空。流れる白い雲。

「私、誠ちゃんの言う『家』っていうのは、ただの容れ物だと思うな」

「え?」

 顔を戻し、目を瞬く兄に視線を向ける。

「たとえば、昔、家族で暮らしたあの家とそっくりな家を──ううん、あの家をまた買い取ったとしても、やっぱりそれは単なる箱に過ぎないんじゃないかな。同じような形、同じようなキッチン、同じような庭があったとしても、それはやっぱり、昔のあの家とは違う。私はそう思う。だって、そこで仲良く笑い合った人たちは、もうこの世にはいないんだから」

「成……」

「私たち、幸福だったよね、誠ちゃん。あの家で、お父さんとお母さんと誠ちゃんと私とで、幸せに過ごしていたよね。でも、その時間はもう、戻っては来ない。失ってしまった人は、戻らない。たとえ容れ物だけを整えても、中身が空っぽじゃ、しょうがない」

「…………」

 うな垂れる誠に、にこ、と笑った。

「大事なのは、容れ物じゃないの。そこにいる自分たちなの。武藤さんのおうちが、誠ちゃんにとってのもう一つの『家』であるように、おじさんとマツさんのいるお店で私がほっと安心できるように、私たち、どんどん自分の中に、帰る場所を作っていける。私たち自身が、誰かにとっての帰る場所にもなれる。失ってしまった幸福は戻らないけど、また新しい幸福を見つけることは出来る。これからもっと幸せな時間を増やして、それをこの先の希望に変えてもいける。……だから誠ちゃんは誠ちゃんの幸せのために、あのお金の使い道を考えていいんだよ」

「…………」

 誠は黙って成海の顔を見てから、隣を歩く晃星に目を移し、寂しそうな表情になった。

「コウ……妹がいつの間にか、成長してる」

「そりゃそうだろ。そもそもお前の、箱入り娘を育てよう、って教育方針は、どっかおかしいんだっての。なるちゃんはもう大人なんだから、兄離れもするだろうよ」

「お前の口から、『大人になった』とか聞くと、ものすごくイヤな気分」

「もっとイヤな気分になること教えてやろうか」

「絶対に聞きたくない。お前、いつアメリカに帰るんだ?」

 晃星は、状況が落ち着いたら、一旦アメリカに戻るのだそうだ。荷物もほとんど置いたままだし、仕事も放り出してきてしまったからである。あちらからは、晃星が立ち上げたプロジェクトについて、せめて引継ぎだけでもしろと、現在でも矢のような催促があるらしい。

「なに、その、いかにも『早く日本から出てけ』みたいな言い方。十年来の友人に対して」

「いっそそのままアメリカにいればいいのに……」

「聞こえてるんだけど。用件を済ませたら、さっさとこっちに帰る。俺が帰るのはあくまで『なるちゃんのいるところ』だもん。ねー、なるちゃん」

「断っておくが、無職男との付き合いは認めんぞ」

「日本で職探しするよ。俺、持ってる肩書きはけっこう悪くないから、大丈夫、すぐに見つかるって」

 晃星はどこまでも楽天的だ。持っている肩書き、というと、出身大学のことかな? と成海は首を傾げた。彼からは今のところ、「工業系の大学」としか聞いていない。俺の家族のことや今までのことは、順番にゆっくりと話していくね、と約束してくれたから、それもいずれは教えてもらえるのだろう。

「せっかくあっちでキャリアを積もうとしてたんだろ。悪いこと言わないから、アメリカで暮らせよ」

 誠はしつこく米国在住を勧めている。晃星は冷たくそっぽを向いた。

「遠距離恋愛は趣味じゃない」

「俺も鬼じゃないからな。恋仲の二人を引き裂くようなことは言わないよ。だからお前は普段、アメリカに住んでだな、こっちに帰ってきた時だけあのアパートに来て、俺と成海と一緒に暮らせばいいんじゃないか? あ、これは名案だ」

「まさかの通い婚推奨?! お前、どんだけなるちゃんを手元に置きたいんだよ! そのシスコンはかなり異常だっていい加減気づけよ! ていうかホントに彼女作れ、マジで!」

「お前たちの間に子供が生まれても、俺と成海とで立派に育てるから、コウは安心してアメリカで暮らせばいい」

「うるせえよ!」

 ぎゃんぎゃんと大人げなく言い合う二人の声を耳に入れながら、成海はまた頭上に目をやった。

 ……以前、成海と誠と晃星の三人で、仲良くお喋りが出来ればいいな、と思ったんだっけ。

 いつか、と願っていたことが、今はこうして目の前で現実になっている。「仲良くお喋り」の内容が、想像していたものとはちょっと違うけど。

 ──こんな風に、夢は叶う、こともある。

 それはとても、幸せなことだ。

 ふわふわと心地よく、心が凪いで、眩しいほどに視界が開ける。

 澄み渡った美しい青色を見て、微笑んだ。




          ***



 晃星がアメリカに発ってから、一週間が過ぎた。

 彼からは、毎日電話がかかってくる。しかも、普通の電話ではない。声だけじゃいやだ、と言い張る晃星が、「迷惑料」と称して誠に買わせて、接続・設定その他をすべて完璧に整えた上でアパートの部屋に置いていったパソコンでの、ビデオ通話だ。

 パソコンについたカメラを通して、画面にお互いの顔が映し出される。慣れないうちは戸惑ったが、離れていても晃星の顔を見られるのは、安心するし、やっぱり嬉しい。そろそろ電話がある頃かなと思うと、いつもそわそわと身支度をはじめる成海を見るたび、誠の機嫌は決まって下降線を辿った。

「や、なるちゃん」

 その日も、陽気にそう言って画面上に出てきた晃星が元気そうなのを見て、ほっとした。

 あちらで彼が借りているというアパートの部屋にいるはずなのだが、彼の背後には、ほとんど家具らしきものが見えない。よっぽど殺風景な部屋であるらしい。

 ちなみに、成海の後ろには、お目付け役よろしく誠が座っている。晃星はまったく気にしていないようだが。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 現在、こちらは夜だが、あちらは朝だ。今こうして同じ時間を共有しているのに、晃星のいる場所では朝、それもこちらではもう過ぎ去った「今日の朝」というのは、何度聞いても不思議に思える。

「いや、それがさ……」

 晃星が何かを言いかけたと思ったら、ずいっと誰かの顔が画面上に割り込んできた。

「Hello! How do you do?  I'm glad to meet you!」

「え」

 出てきたのが、赤い髪とハシバミ色の瞳をした若者で、しかもいきなり英語で話しかけられたため、成海は一気に頭に血が昇ってしまった。晃星のおかげで英語を耳にするのは多少慣れてきたとはいえ、こんなに突然ではパニックにもなる。

「はっ……Hello……! あ、あ、I’m fine!」

 ぷぷーっと噴き出された。わあ、笑われちゃった! どうしようどうしよう! と余計に慌てふためいていると、晃星がその彼の頭をぺしんと叩いた。

「お前、いい加減にしろよ。なるちゃんが泣きそうになってる」

「Oh,sorry!」

 日本ではお目にかかれないようなポーズで大きく肩を竦めてから、彼はくるりとこちらを向いてニッコリした。

「コンニチハ、可愛いお嬢さん」

「えっ……」

 すでに薄っすらと涙の滲んだ目を瞬くと、彼はさらに笑みを深くした。

「ボク日本語話せます。今の、ちょっとしたジョーク。ごめんネ?」

 朗らかに謝られて、はあー……、と脱力する。彼の日本語は、晃星ほど流暢ではなかったけれど、充分伝わった。

「キミがコーセーのpreciousね。ボクLucas。よろしく」

「あ、はい、ルーカスさん、ですね。成海といいます。よろしくお願いします」

 ニコニコするルーカスに挨拶を返しながら、内心で首を捻る。precious……preciousってなんだっけ。「彼女」とか、そんな感じかな。でも大分前に、その単語、聞いたことがある気がするんだけど。晃星の口から、「my precious」って……いつだっけ。

「あの、晃星くん、前に……」

「ごめんね、なるちゃん。ついうっかり口を滑らせたら、こいつが見たい見たいってしつこくて」

 晃星に意味を聞こうと思ったら、それを遮るようにして素早く言われた。パソコン越しなので判りにくいのだが、少し耳がほんのりと赤いようにも見える。なんで??

「元の仕事仲間でさ。今、いろいろと引継ぎしてるだろ、それでやむを得ずこいつとも顔を合わせることになって」

 本当に、「やむを得ず」という口調で忌々しそうに言う晃星に、ルーカスがわざとらしく悲しげに顔を顰めた。

「Oh! 酷い言いよう。ボクとても興味があったよ、このカタブツがどんな顔して恋人と話すのか」

 ん?

「晃星くん、余計なことかもしれませんけど」

「え、なに?」

「ルーカスさんは『堅物』っていう日本語の意味を間違って覚えてるみたいなので、教えてあげたほうがいいのでは?」

「……あのねなるちゃん、いつになったら君は俺を『軽い』って思うことをやめてくれるわけ? いい? 俺はホントに真面目なの! こっちでは頭が固いくらいだって言われてんの!」

「アメリカという国は奥が深いですね……」

「真顔で悩むのやめて。大体、なんでその誤解は、こうも根強くなるちゃんの中に居座ってんのか、そっちのほうが謎だよ」

「だって、しょっちゅう可愛い可愛いって言うし……歯の浮くようなことも言うし……」

「ひょっとして、俺がそういうのを見境なく誰にでも言うと思ってんの?」

「え、違うんですか」

「…………。なるちゃん、帰ったらまず二人で話し合いをしよう、そうしよう。俺たちはまだ知らないことが多すぎる。ていうかなるちゃんは圧倒的に、俺に対する理解が足りない。いろんな説明を後回しにした俺が悪かった」

「日本のloversの会話はよくワカリマセーン! でもコーセーのこんな顔が見られることはほとんどないので愉快痛快でーす! 来た甲斐があったよ! あー楽しい! 楽しいネ!」

 HAHAHA! と本気で楽しそうに笑う赤髪の彼の姿は、晃星が「ものすごく虫が好かない」という誰かに、非常によく似ていた。その隣の晃星は、とてつもなく苦々しい表情だ。

「まあいいや、こいつのことは無視しよう」

 しかし、せっかくの遠距離通話を不毛なまま終わらせたくない、と思い直したのか、乱暴に手でルーカスを画面の外に追いやると、晃星は正面を向いて目許を緩め、甘い声を出した。

「待たせてごめんな、なるちゃん。もうちょっとしたらあれこれに片がつくから、そうしたらすぐに帰る」

「はい、待ってます。でも、無理はしないでくださいね」

「うん。ここんところ忙しくてあんまりぐっすり眠ってないからさ、帰ったら、今度こそ俺の抱き枕になってね」

 後ろにいる誠が大きく咳払いをしたが、晃星は聞こえないフリをしている。

「卒業式には俺も行くから」

「誠ちゃんも来るって言ってくれてます」

「そういやマツに聞いたんだけどさ、日本の卒業式には、『お礼参り』っていって、世話になった教師にアイサツする行事があるんだってね。俺と誠も、なるちゃんの担任にちょっと……」

「やめてくださいやめてください」

 慌てて止めようとしたところで、後ろから成海を押しのけるようにして、誠がぐっと身を乗り出してきた。

「あのなコウ、お前は知らないだろうが、日本の卒業シーズンには、お礼参り以外にも、慣例になってることがあるんだぞ」

 真面目くさった顔で説明をする。晃星はきょとんとしたが、成海も同様にきょとんとした。「卒業シーズンの慣例」ってなに? そもそも、お礼参りだって別に慣例なんかじゃないけど。

「へえ……なに?」

「告白ラッシュ、っつーのがあるんだよ。別れる前に、ここぞとばかりに目をつけておいた異性にコナをかけるわけだ。ダメでもともと、どうせ卒業したら顔も合わせないんだからな。それでちょっと強引に言い寄るやつってのもいたりしてな」

「…………」

 晃星が無言になった。

「いや、まあ、別に、一般論なんだがな。しかし園ちゃんに聞いたんだが、最近の高校生ってのは妙にマセたのもいれば、一直線に思い詰めるようなやつもいるらしくてなあ……いやいや、あくまで一般論だが」

 成海はあちらから見えないようにずっと兄の背中をつついていたのだが、その口はまったく動きを止めようとしない。その上、「そういや最近、よく成海宛ての電話が……」と余所を向きながら、さも思い出したように言いだすので、飛び上がりそうになった。誠ちゃん、画面から伝わる空気がいきなり剣呑になったよ!

「……なるちゃん」

「はい、なんでしょう?」

 えへ、と笑ってみたが、晃星は笑い返してくれなかった。

「今の話、ホントに」

「ないです」

「…………」

 晃星は口を噤んで成海の顔を見てから、すっくと立ち上がった。顔が見えなくなり、声だけが聞こえる。

「帰る」

「Huh?!」

 は?! と言いかけた成海よりも先に、ルーカスからその言葉が飛び出した。もしかしたら、驚いた時に人の口から発されるものは、万国共通なのかもしれない。

「What’s that? Yet our work is not done! That's troubling!」

 早口すぎてよく聞き取れないのだが、仕事、と、困る、という単語はなんとか判った。その後も一生懸命ルーカスは何かをまくしたてているようだったが、晃星の返事はにべもなかった。

「そんなもん知るか」

「No~~~!!」

 あ、これははっきり判りました。

 画面の外に出ていたルーカスが、ドタドタと戻ってきて、切羽詰まった調子で成海に訴えてきた。

「ちょっと、ナルミからもコーセーに言って! 今コーセーに抜けられると困るんだ! やっと形になってきたところなんだ!」

「そ、そうですよね」

 オロオロしながら同意する。晃星が元していた仕事というのがどういうものなのかはよく知らないのだが、一度は辞めた人間を呼び戻してまで完成させようとしているプロジェクトらしいのである。あともう少し、という今になって、また日本に行かれてはたまらないだろう。

「あの、晃星くん、ちょっと落ち着いて私の話を聞いてくだ」

「早く帰らないと知らないぞー。成海はボーッとしたところがあるし、疑うことを知らないから、油断してると誰かに連れて行かれるかもしれないぞー」

「もう、誠ちゃん! なんでそういう余計なこと言うの!」

 無責任に煽る兄を叱りつけると、ぷいっと顔を背けられた。

「どこの馬の骨かわからないガキよりは、コウにとられたほうがまだマシだ」

「誠ちゃん!」

 ……と。

 消えていた晃星の顔が、ひょい、と再び画面内に現れた。

 ニコッと笑う。

「すぐに行くから。待ってて、なるちゃん」

 そして、プツンと通話が切れた。

「…………」

 こうなるともう、止めようがない。今頃、叫ぶルーカスを振り切って、さっさと部屋を出てしまっているくらいかもしれない。彼にとっては、国の境界も時間もしがらみも、何の障害にもならずにぽんと飛び越えてしまえるものであるらしい。

 あーあ。

 成海は大きな溜め息をつきかけて──しかし、それでも、やっぱり。 

 笑ってしまった。

 もう少ししたら、晃星の顔が見られる。笑い声も聞ける。いろんな話も出来る。それが判っている。信じられる。だから嬉しくなり、胸が躍り、わくわくする。

 待つのは、成海にとって、こんなにも楽しいことになった。


 きっと、あっという間に、晃星はこの場所に現れるのだろう。

 青い空を渡り、白い雲を抜けて、まるで散歩をするような気軽さで。

 そうして、後ろから驚かせて、明るい栗色の髪を揺らし、琥珀色の瞳を細め、成海を抱きしめながら、笑って言う。

 ただいま、と。


 ──君のところに、帰ってきたよ。




完結しました。ありがとうございました! 次話はおまけの別視点。

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