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空中散歩  作者: 雨咲はな
38/42

38.四月五日



「調べたんだよ」

 成海の混乱が収まる隙を与えないかのように、素早く晃星が言葉を継いだ。

「──ずっと、あんたのことを調べてた。あんたも俺のことを調べたらしいけど、俺はただ学校に電話して聞いてお終い、なんていう中途半端なやり方はしてないぜ。もっと徹底的にだ」

 成海は驚いて晃星を見る。彼の視線はまっすぐ征司のほうを向いていた。

 表情に笑みはなく、口調はどこまでも冷静で冷淡。知ってる、この鷹のような鋭い目は、これから誰かをどんどん追い詰めていく時のものだ。

 征司はさっき落とした微笑を、また取り戻して口許に浮かべていた。

 いつも通りの、余裕のある、落ち着き払った大人の態度──でも、どうしてだろう。その微笑みには、実体がないように感じる。

 笙子が、成海の住むアパートの部屋にまでやって来た時の……あの、ぽっかりと何かが抜け落ちた空虚な笑い方と重なって見える。

「僕を調べるって? 何をかな。僕は君のように身許を偽ったことはないけど」

「たとえば、あんたの店の経営状態について」

 征司の頬がぴくりと動いた。

「お店……『ル・クール』ですか?」

 つい口にしてしまったその名前に、晃星は頷いた。

 征司から成海へと視線を移し、静かに告げる。


「……あの店はね、ずっと、経営難だったんだよ」


「え──」

 困惑した。

 成海の知る「ル・クール」は、順調に営業を続けているカフェのはずだった。そりゃあ、行列が出来るほどではなかったけれど、お客さんはそれなりに入っていたし、土日のランチ時などは休む暇もないほどに賑わっていた。経営難だったなどと言われても、まったくピンとこない。

 晃星がゆっくりと首を横に振る。

「なるちゃん、店舗経営ってのはね、そこそこ客が入る、ってだけで成り立つほど、甘い世界じゃないんだ。人件費もかかる、家賃や光熱費なんかの固定費も馬鹿にならない、原価率や集客のことも計算しなきゃいけない、競争だって激しい。その上で利益を出せるのは、ほんの一部分だ。ましてや資本力も人脈もない、大学を出てちょっと経営の勉強をしただけの人間が、おいそれと成功させられるもんじゃない」

 征司が軽く笑い声を上げた。

「ずいぶん、わかったようなことを言うんだな。なるほどね、その口の上手さで、ずっと成海ちゃんを騙してきたわけだ」

「最初から、無理があったんだよ」

 晃星は征司の挑発には乗らなかった。呟くような言い方には、わずかに憐れみが混ざっているような気さえした。

「もともとの資金もそんなに多くなかった。開業資金は融資を受けて、その返済をしながら店をやりくりしていくのは大変だ。壮大な夢を見て、そこに足をかけたはいいが、実現できるまでには足りないものが多すぎた。──あの店は、開店半年足らずで、すでに経営に行き詰っている状態だったんだ」


 征司さんね、昔からずっと、自分のお店を持つことが夢だったんですって。

 苦労して、努力して、ようやく持てたあのお店は、彼の大事な夢の結晶なの。


 いつか、笙子が話してくれたことを思い出す。

 それが本当なら、征司はずっと、夢と現実の間で苦しみ続けていたのだろうか。

「それでも、もうちょっと時間をかけてじっくりやっていこうという根気と忍耐があればよかったのかもね。自分の落ち度を自覚した上で、みっともなくても、石にかじりついてでも、足掻こうとする覚悟があったら、まだしもよかった。あるいは、潔く店を諦めるか。……けど、小さな頃から優秀で、ほとんど苦労なんてすることもなく育ってきたあんたには、そのうちのどれも出来なかった」

 出来なかったんだ、ときっぱり繰り返した。

「昔から、顔も良くて、頭も良くて、人心を掴むのも上手い人気者。誰からも頼られ、いつでもそつなく役割をこなしてきた。自分の店を持って、マンションに住み、乗っているのは高級車、誰もが羨む美人の恋人だっている。今まで挫折を知らなかったあんたは、自分の失敗を、どうしても認められなかった」

 自分の夢が途中で、それもずっと最初の段階で、無残にも破れそうであることを、どうしても、認められなかった──

「あんたが考えたのは、もう少し元手があれば、ということだった。多店舗経営にすればその分メリットも出る。そうでなくても返済分がなくなれば、それだけでかなり楽になる。能力の問題じゃない、金の問題だ、元手さえあれば、すべてが上手く廻る──そう思った。しかし自分の手持ちに余裕はない。悩んでいた時に、大学時代の知り合いから話を聞いた」

 後輩の天野誠が、大学を卒業した後、両親を亡くしたらしいと。

「千万単位の保険金が懐に転がり込んできたそうだ、羨ましい話だね、とでも言ったかな。話をしたそいつにとっちゃ、あくまで無責任な風の噂、他人事としてのニュースでしかなかっただろうさ。でも、あんたにとっては、そうじゃなかった」

 大事な店を存続できるかどうかの瀬戸際に立たされていた征司にとっては、そうではなかった。

「あんたはすぐに、誠に連絡を取った。誠はさぞかし面喰らっただろうね、大学を卒業してからは、カフェを開店したというダイレクトメールのようなハガキをもらったくらいで、あとはまったく音沙汰もなかった先輩が、いきなり電話をかけてきたんだから。とにかく無下にも出来ずに会ったものの、言いだされたことにまたビックリだ。突然、金を融通してくれないか、なんて持ちかけられたんだからね」

 驚いたが、それよりも、困惑が大きかっただろう、と晃星は淡々と続けた。

「もちろんあんたも、店が立ち行かなくなって困っているから金を貸してくれ、なんてことは正直に言わなかった。せいぜい、今のカフェをもう少し大きく事業展開したいと思っている、ついては共同経営者として、それに協力してもらえないか──そんなところだったかな。その言い分をすべて鵜呑みにするほど、誠も子供じゃなかったと思うけど」

「…………」

 晃星の言葉に、征司は何も反論しなかった。

 その顔から微笑はすっかり消え失せて、能面のような無表情になっている。

「ただ、体育会系で、先輩の言うことには絶対服従するもんだと信じ込んでる単細胞の誠でも、その申し出には肯えなかった。両親の保険金は、妹と、使わずに大事にとっておこうなと固く約束したものだったからだ。そうそう簡単に、他人に貸し出せる種類のもんじゃない」


 父さんと母さんが残してくれたこの金は、ないものとして生活していこうな、成海。

 なるべく贅沢しないようにすれば、兄ちゃんの少ない給料でも、なんとか生活はしていける。これはこの先のために、使わずに、大事にとっておこう。

 ──約束だ。


「……誠にとって、その保険金は」

 晃星が、ちらっと腕の中の成海に目をやった。

「妹の将来のために、ただそのためだけに、とっておくつもりのものだったんだ。看護師を目指して一生懸命勉強している妹が、どこの大学を選んでも、迷わず行かせてやれるように。いつか嫁に行く時に、親がいないからって肩身の狭い思いをしないだけの支度をさせてやるために。──そしてもっと先には、妹が失った『幸福な家』を、もう一度取り戻すために」


 父と、母と、兄と、笑い合い楽しく暮らしていた家。

 車庫には車、庭には花と少しの野菜、家族が集まる広いリビング、母と並んで料理をしたキッチン、兄妹で仲良く遊んだ部屋、父の帰りを待ち続けて眠ってしまった玄関。

 温かい、家。


「小さくても、そういう家をいつか妹のために用意してやりたい──それが、誠の夢だっんだ」

 どうしても叶えたい夢がある、とラーメン屋で話していた誠。

 その夢はすべて、成海のほうを向いていたのか。

 伏せた目から、ぽつ、ぽつと涙が零れ落ちる。

「でも、あんたはなかなか諦めなかった。なにもくれと言っているわけじゃない、きちんと法に則った手続きだってしよう、店が軌道に乗れば、倍にしてだって返せる……あんたも必死だったんだろうね、なにしろ自分の生活もかかってる。精神的に不安定なところのある恋人には、とてもじゃないが、そんなことは相談も出来ない。その本気が伝わったから、誠だって迷って悩んだんだろう。あいつはそもそも、バカだけど善人で、お人好しだ。妹のためだからって、目の前で困っている先輩を冷たく突き放してもいいんだろうか、かといって一千万近い金を両親の保険金から切り崩したら妹に申し訳が立たない、しかも返済のアテもなさそうなのに……とね」

 誠は揺れていた。迷って、悩んでいた。職場の同僚に不審がられるほど。そして、行きつけのラーメン屋の店主に、つい愚痴を零してしまうほど。

 ……妹が、いつかまた、自分の家族と家を持ち、心から笑えるような日を夢見て。

 そのためにひたすらまっすぐ突き進んでいたのに、今になってそんなことを言いだされても、困惑するしかない。揺れ動く自分が、情けなくもある。ずっと守っていくべき妹と、大学の先輩、その天秤は本来なら、ぴたりと片方に重心を置いて止まっていなければならないものだったのに。

 だから、同僚に訊ねられて、自嘲気味にこう答えた。


 ちょっとね……俺って、もしかしたらダメな兄ちゃんかもしれないなあ、と思ってさ。


「いっそ、こんな金なんかなきゃ、こうまで悩むこともなかったのに、と思っただろう。両親が遺してくれた大事な保険金とはいえ、余計な荷物を残していったなあと、つい恨み言のひとつでも言いたくなるくらいに」

 成海はびっくりして、顔を上げて晃星を見た。

「じゃあ、あの……誠ちゃんが言ってた、『親父とお袋が残していった厄介な荷物』って……私のことじゃなくて」

「もちろん、君のことなんかじゃないよ。なに、なるちゃん、そんなこと思ってたの? ていうか、誰に聞いた?」

 晃星は目をくりっとさせて成海を見返し、少し驚いたような顔をした。

 口許に苦笑を刻む。

「そうやって、情報の断片だけを耳に入れて、君がおかしな誤解で変な方向に進むことがないように、注意してたつもりなんだけどな……俺が言ったこと、ちゃんと聞いてた? 誠がいちばん大事にしてたのはなるちゃんだって、俺、何度も言ったはずなんだけど。一億の札束と、君がいれば、誠のやつは一秒だって迷わずに君を取るに決まってるでしょ、お馬鹿さん。あいつは、君自身が思っているよりもずっと、怖いくらいにシスコンだよ」

 そう言って、ちょっと笑ってから、また征司のほうを向いた。

「それで迷って迷って、誠は結局、ひとつの結論を出した。あんたと話をしてこの件に決着をつけようと、二人だけで会うことになった──それが、四月五日」



 四月五日、日曜日。

 誠が姿を消した日。



「『ル・クール』はこの日、臨時休業だったね?」

「…………」

 その確認に、征司は何も答えなかったが、晃星は構わず続けた。

「二人きりで、決して誰にも邪魔されないところで話をしたい、と思ったのは、双方の希望だっただろう。誠はこんなことを妹に知られて心配をかけたくなかった。あんたは自分を頼りきっている恋人に、店の内実を知られるわけにはいかなかった。じゃあどこで話そう、ということになって、思いついたのが、露草山だ」

 露草山──

 聞いたことがある、と成海は思った。何度か、そう、大学時代、誠の口から何度かその山の名前が出たような。

「そこは、大学のワンゲル部で、何度も登った山だ。近場にあって、標高もそんなに高くなく、なだらかな登山コースもあり、山登りに慣れてない初心者の女の子も参加できるくらいの手頃な山だからね。山中を通り抜ける道路も完備されていて、何かあればそこに出さえすれば安全だ。車でなら、二時間もあれば行ける。二人は、あんたの車で、そこに向かった」

「…………」

 だんだん、成海の顔から血の気が引いていく。

 山?


 ──さっき、晃星は、なんて言った?


 身体に廻った腕の力が、さらに強まった。

「山を登ったところにある駐車場に車を停めて下りると、他の登山客たちに見られないように、そこから離れて、二人でもう少し上のほうに登った。先は崖になっていて、行き止まりの立札が出てるところまで来て、ここなら誰も来ないだろうと、誠は金を取り出した。……二百万。ATMで引き出すことの出来る、限度額いっぱいだ」

 誠本人が、ATMを操作して、引き出した金額。

「誠は、その金を差し出して言った。無利子、無期限、無催促でいいからと。これを渡すから、もう自分には関わらないで欲しいと。それが、誠の精一杯の妥協案だったんだ。これ以上はもう両親の保険金を使うつもりは一切ない、だからこの二百万で手を打ってくれないか、とね」

 でも、と語調を強める。

 征司に向ける晃星の目が、いっそう鋭くなった。

「でも、あんたは納得しなかった。あんたにしてみれば、誠の対応は冷淡すぎるように思えたんだろう。多額の保険金を手にして、しかも、その金は今のところ使い道もなく、ただ無駄に銀行で眠っているだけに過ぎないんだからね。それくらいだったら、一部を融資に廻してくれてもいいんじゃないかと詰め寄った。だけど、誠も一度決心したからには、それを翻すつもりがなかった。あいつはそういう時、頑固で、融通の利かない面が表に出る。しかもあまり上手いこと口が廻るほうでもなければ、空気を読んで調整するのも得意じゃない。次第に、興奮して、言い争いになり、とうとう掴み合いにまでなった」

 その時、露草山は前日の雨で、下がぬかるんでいた。誠と征司が話していた場所は、周囲を木に囲まれていて、地面は乾くことなく、滑りやすくなっていた。崖の手前には柵があったが、大柄な誠の身体を受け止めるほどの高さはなかった。


「押されたのか、足が滑ったか、とにかく──誠は崖から転落した」


 がくんと成海の足から力が抜けた。

 自分を抱きとめている力強い腕がなければ、とっくにその場にしゃがみ込んでしまっていただろう。いや、実際、そう出来たら、どれほど楽だろうかと思った。

 ぶるぶると震える手で、晃星の上着を握りしめる。涙で滲んで、世界がぼやけた。

 誠ちゃん──

「そこでやっと我に返ったあんたは、急いで車に取って返して、その場から逃げた。誰にも、何も、知らせることなく。誠が崖から落ちたところを見ていたのは誰もいない。自分たちがここに来たことを知っている人間もいない。自分さえ口を拭ってしまえば、誰にもわからない……」

 成海をしっかり抱きしめ続けながら、晃星が正面から、征司と対峙する。

「そうだろ? 常陸さん」



          ***



 しばらく、征司は無表情のまま、その場所でじっと立っていた。

 暗闇に、静けさが戻る。ぶらぶらと歩いてきた通行人の男性が、向かい合う一人と二人をどう思ったのか、ちらっと視線を寄越し、「修羅場だねえ」と小声で漏らして通り過ぎて行った。

 その男性の姿が暗がりの中に消えると同時に、征司の手がゆっくりと動いた。口許へと近づいていく。

 下に顔を向け、肩が揺れた。

 ……笑っている。

 彼が、くすくすくす、と可笑しそうに笑うのを、成海は目を見開いて見つめていた。ひんやりしたものが背中を撫で上げる。

 征司はその笑みを唇にかたどったまま、こちらを向いた。

「講釈師、見てきたように嘘をつき、だね」

 微笑を浮かべてそう言う。細められた目と、優しげな声、落ち着いた物腰は、いつもの征司のそれだ。それがかえって、成海を怯えさせた。


 どうしてこんな話を聞いて、そんな顔をしていられるのだろう。

 どうして、いつもと同じように笑っていられるの?


「さっきから黙って聞いてれば、まるで君の目の前ですべてが起きていたかのような話し方だよ。成海ちゃんの話では、君は天野がいなくなった頃、外国にいたということだったけど。国境もすっ飛ばして物事を見通す千里眼でも持っている、ということかな。まあ、外国に住んでたっていうのも、どこまで本当なんだか怪しいものだけどね」

 征司はくすくすと笑い続ける。晃星もふっと唇の端を皮肉げに上げて、軽く肩を竦めた。

「反論をしてもらっても構わないよ? 俺だけが一方的に糾弾するのは確かに不公平だ」

「バカバカしい。何から何まで嘘ばかりの作り話に、どこをどうやって反論すればいいっていうんだい。それこそ時間の無駄だよ」

 微笑が冷笑に変わった。征司がこんな笑い方をするのを見るのははじめてだ。

 しかし晃星の笑い方も、負けず劣らず冷たかった。

「そんなこと言って、内心はけっこうビクついてんだろ?」

「くだらない」

「なるちゃんがあんたの前に現れた時も、かなりビクついただろ? きっと毎朝毎朝、新聞を舐めるように読んで、ニュースもネットもチェックしてたことだろうからな。誠のことが載っていないか、転落した遺体が今にも発見されるんじゃないかって。そこにやって来た誠の妹を見て、一体どんな気分だった? 驚いた? 疑心暗鬼になった? それとも多少は、居たたまれなくなった?」

「……くだらない」

 征司の声が、ほんの少し低くなった。闇の中の虚空に向けて目を逸らす。

「誠の妹が、行方不明になった兄を探して、あれこれと聞き回っていることを知ったあんたは、ひやりとした。せっかく警察が誠の自発的な失踪として見ているのに、勝手に動き回られて、余計なことを耳に入れられたらたまったもんじゃないからな。それで、近くで見張ることにしたんだろ、自分の店でバイトしないかと持ちかけて」


 よかったら、うちの店で働いてみないかい?

 征司の優しい笑顔が脳裏に甦る。


「そうやって信頼させて、全面的に頼らせるつもりだった。何かあれば、すぐに自分に相談するように。相手は高校生で、親もいなくて、ぽつんと一人になって途方に暮れた子供だ。取り込むことは造作もない、とあんたが考えたとしても無理はない」

 成海は下を向き、唇をきゅっと噛んだ。

「……けど、なるちゃんは案外、手強かっただろ? 兄貴に似て、頑固だし、融通が利かないし、素直なわりに、自分が作った壁を容易に壊そうとはしない。ぜんぜん距離が縮まなくて、さぞかしやきもきしただろうね」

 晃星がくくっと笑う。

「時間をかけてやるしかないと思いかけていたところに、突然出てきたのが、『天野誠の幼馴染』だ。そいつがさっさと銀行との交渉役を買って出たと聞いて、あんたは焦ったんだ。このままじゃ、自分のポジションをそいつに奪われかねないからな。そして同時に──また欲がむくむくと出てきた。多額の保険金の入った預金はほとんど手つかずの状態で、まだ宙に浮いている。なるちゃんの正式な後見人になれば、その預金の半分が手に入る。そのことに気がついた」

 成海ははっとした。

 そうだ、そのことを征司に話したのは自分だ。

 両親の保険金が四千万近くあるということも、預金の引き出しには正式に後見人を決めることが必要になるということも。

 それで、征司は──

「それで、園加ちゃんの依頼に、これ幸いと乗っかったわけだ。けど、急ぎすぎたあまり、恋人のことを後回しにしたのは間違いだったね。結局それで失敗して、なるちゃんは離れていくことになった。今じゃ、新しい働き場所を見つけて、着々と周囲に味方を増やしつつある。このままだと、確実に後見人は他の誰かのものになる。取り戻すのは今しかない、と思ったんだろうさ」

「…………」

 しばらく黙ったあとで、征司は両手を挙げ、こちらにも聞こえるような、大きな息を吐きだした。

「話はそれだけかな。もういい加減、君の与太話に付き合うのはうんざりだよ。成海ちゃん、これがこの男の手口なんだ。これ見よがしで上辺だけのパフォーマンスで人目を引くことしか出来ない。何ひとつ、確たる証拠もないくせに」

「証拠?」

 片目を眇めて問い返す晃星に、征司が悠然と頷く。

「あるなら見せてくれないか。僕が天野に借金を頼んだ証拠。露草山に二人で行ったという証拠。そこで天野が崖から落ちたという証拠。僕がそれに関わっていたという証拠」

「証拠はないね」

 あっさりと言った晃星に、征司の唇が笑みの形になった。瞳に勝ち誇ったような光が宿るのが、暗くても見て取れた。晃星はそちらにじっと視線を向けたまま動かさない。

「ほら、やっぱり──」

証拠はないけど(・・・・・・・)証人はいる(・・・・・)

 静かなその言葉に、征司が凍りついた。その場で硬直したように動きを止め、目を見開く。

「証、人……?」

 はじめて、彼の声に動揺が滲んだ。

「馬鹿な」

「馬鹿な、と思うだろ。その証人を見つけて、ここに連れてくるまでに、俺は死ぬほど苦労したんだぜ」

 晃星の口調はどこまでも落ち着いていた。そう言いながら、後ろを振り返る。

「そいつ、足がちょっと不自由でさ。だからここまで一緒に走ってくることが出来なかったんだよ。それで……ああ、来た」

 その言葉と共に、バイク音が近づいてくるのが、成海の耳にも聞こえた。暗がりの向こうから、一台の黒いバイクがこちらに向かって走ってくる。

 ……あれは、マツのバイクではないだろうか。

 思わず晃星を見ると、彼もこちらを見た。

 成海と目を合わせ、ニコッと笑った。

「You were born under a lucky star.」

 素早く唇が耳元を掠めて、そう囁く。

 バイクは、成海たちの近くまで来て停まった。

「なんだよ、けっこう近くじゃん。店からアパートに取って返してバイク持ってきたほうが、よっぽど時間喰った」

 メットを脱ぎながら、マツはいきなりぶうぶうと不満顔だ。

 その後ろの座席には、男性が乗っている。

 同じようにメットをかぶったその人は、少々覚束ない動きで、バイクを降りて、地面に足をついた。晃星が言ったように、足が不自由のようだった。右足に力が入らないらしく、ふらりと重心が傾いだところを、バイクに跨ったままのマツの片手に支えられる。

「…………」

 成海はその人に見入ったまま、立ち尽くした。

 今までずっと抱きしめられていた晃星の腕がするりと離れる。ほとんど無意識のうちに、自分の足だけが、一歩、二歩と動いて、その人に近づいていった。

 こちらを向く、大柄な身体。

 見覚えがある。忘れるわけがない。この身長、この体つき、この雰囲気。成海はずっと、その人を身近に見ながら育ってきたのだから。

 彼は自分のメットに手をかけ、ゆっくりとした動きで、それを外した。

「……っ」

 口元を手で押さえる。嗚咽が漏れ出るのが止められない。視界が霞んだ。

 ああ──

 ずっと、この名を呼びたいと願っていた。

 何度も、何度も、祈るように願っていた。


「……誠ちゃん」




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