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空中散歩  作者: 雨咲はな


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37/42

37.信じるのは



 その時、成海はわずかに首を横に振ったらしい。

 自分では意識していなかったけれど、ぼんやりと、しかし確かに、ゆらゆらと頭を振るという動作をとって、それが目の前の征司の目つきをさらに厳しいものにさせたようだ、という認識はかろうじてあった。

 嘘、と小さな小さな、消えそうなほどに弱々しい呟きが、成海の唇から漏れる。

「僕の言っていることは嘘じゃない。その八神と名乗った男の言ったことが嘘なんだ。どうしてそいつは君に対してそんな嘘をつく必要があった? 偽名を名乗って、天野の幼馴染だなんてデタラメを言ってまで、君に近づいた、その目的はなんだ? 成海ちゃん、よく考えてごらん」

 両肩を掴む征司の手の力が強まった。

 ……以前、これと似たようなことがあったっけ。

 と成海はその顔を見ながら思う。ああそうだ、成海が崩れそうになった時、駆けつけてきた晃星が、こうして両肩を掴んで引き立たせてくれたんだった。

 成海、しっかりしろと、力強い声で名前を呼んで。

「疑うのなら、君自身が学校に──いや、そんなまどろっこしいことをしなくても、本人に問いただしてみればいい。連絡先くらいは知ってるんだろう? 今ここで電話して、聞いてごらん。あなたは一体どこの誰なんですか、とね」

「電話……」

 征司の言葉を鸚鵡返しにして、自分が肩から下げているバッグにちらりと目をやる。この中に携帯はあって、登録してある番号の中には、晃星のものも入っている。その番号にかけることは可能である、けれど。

「……無理です。晃星くんのスマホは今、故障中で」

 別れる時に、ショップに寄る時間も惜しいと言って、成海の携帯番号をメモしていった。これでいつでもかけられる、と満足そうに笑っていた晃星。

 今に至るまで、電話はかかってこない。

「故障?」

 征司がふっと笑い出した。

 楽しそうな笑い方ではない。それに名前をつけるのなら、「失笑」というものだと、成海にも判った。こちらを見下ろす彼は、簡単な手品に引っかかって驚く子供を憐れむ大人の目をしている。

 可哀想に、世の中の「不思議なこと」にはすべて種がある、そんな当たり前のことも知らないで──

「どんな故障だと言ってたんだい?」

「電源が入らなくなって……私も確認しました」

「スマホには電池パックが内蔵されてる。成海ちゃんも、それくらいは知ってるよね? それを抜いておけば、そもそも電源なんて入るわけがない。裏のカバーを開けて中を見てみたかい?」

「…………」

「もちろん相手だって、素直な君が、そんなことまでするはずがないと判っていただろう。だからわざわざスマホを渡して確認させた。まず仕掛けをしておいてから、ほらこれだよと見せて納得させて、騙すんだ。どう考えても、詐欺師の手口だよ。……思い出してごらん、成海ちゃん。その男は、君の前に現れてから、ずっとそうだっただろう?」


 突然現れ、天野誠の幼馴染だと名乗って安心させて。

 銀行に連れて行き、交渉の代理人となって信頼させて。

 高校生に高価なアクセサリーをぽんと渡して舞い上がらせて。


「そうやってどんどん距離を縮めて、弱っているところに手を差し伸べる──完璧だよね。まるで世慣れていない君の心を絡め取って手中に収めることなんて、その男にとっては赤ん坊の手を捻るくらいに簡単だったことだろうさ。成海ちゃん、その男はね、結局そうやって君の恋心を利用しているに過ぎないんだよ。いずれ時期を見て、君から何もかもを奪って姿を消すつもりに決まってる。だからこそ、自分のことは何も言わないんだ、そうじゃないかい?」

「…………」

 成海は黙って征司の顔を見返した。反論しないのは、出来ないからだと思ったのだろう、征司はなおも成海の両肩を掴んだまま、言い募った。

「成海ちゃん、目を覚まして。君はちゃんと、見るべきものを見なくてはダメだよ。今ならまだ間に合う。その男とはきっぱりと手を切って、僕のところに戻っておいで。天野がいなくなって、君はこれからもずっと一人きりだ。あんな小さなラーメン屋のバイトをしながら、不安定な生活を続けていくなんて無理な話だよ。僕なら君を大学にも行かせてあげられるし、その先も安心して生きていけるように手配だってしてあげられる。天野の代わりに、僕が守ってあげるから、何も心配しなくていいんだ」

「──……」

 話し続ける征司の顔を見て、成海は口を開きかけた。言うべきことを言うために、息を吸い、言葉と共に外に出しかけた。

 常陸さん、と呼びかける声が音となって空気中に発される、その寸前。

「──なるちゃん」

 聞き慣れた声が、後ろから聞こえた。




 びくりと身じろぎしたのは、衝撃のためというより、条件反射のようなものだ。

 成海はやっぱり、突然の声かけに弱い。いつもいつも背後から驚かされていたから、慣れるどころか余計に苦手になってしまった。

 胸に手を当て、振り返る。

「……晃星くん」

 そこに立っていたその人は、普段のように成海のすぐ後ろにはいなかった。

 五歩も六歩も離れた位置で、暗闇の中でもはっきりと判るほどに強張った表情をして、こちらを凝視して棒立ちになっている、その人の。

 ……琥珀色の瞳が、不安に揺れている。

 朝、いってくるねと言って別れたはずの彼が、どうして今ここにいるのかという疑問は、不思議なほどに成海の頭には浮かばなかった。晃星はいつも神出鬼没だ。どこにいて、どこからやって来るのかも、判らない。


 ──そう、判らないことばかり。


 最初から、判らないことばかりだった。晃星は自分のことをほとんど何も話さない。いつだって、ふらりと現れ、ふらりと去っていく。

 八神晃星という名前も、誠の幼馴染だということも事実ではないのなら、成海は本当に、彼のことは何ひとつ知らないということになる。


「……なるちゃん」


 晃星が……成海がずっと「晃星」だと思っていたその人が、名前を呼んだ。

 栗色の髪が風に吹かれてさらりと流れる。その前髪の下の瞳は、まっすぐ成海に向かって据えつけられている。

 硬い声、切羽詰まった口調、緊張を孕んだ空気。口元には一片の笑みもなく、いつもはそれだけで近寄りがたい雰囲気が滲む晃星の顔には今、くっきりとした焦燥が現れている。

 何かに怯えている──そんな風にも見えるその顔は、今まで成海の知らないものだった。

 見たことがない。知らない。

 いつも陽気で、余裕たっぷりで、人懐っこい顔でニコッと笑って、英語混じりの気障な台詞を吐いて、冗談ばかり言って、時々、落ち込んだりもして。

 その彼は、今、そこにはいない。

 こんな晃星を、成海は知らない。知らなかった。


 ……この人のことを、まだ、こんなにも知らない。


「いよいよ、ご本人の登場というわけだね」

 征司がそう言って少し笑い、成海の肩を抱いてぐっと自分のほうに引き寄せた。

 成海は口を噤んだまま、晃星から視線を外さない。晃星もまた、征司の声など耳に入らないように、成海を強く見つめ続けたままだった。

 その腕がゆっくりと動き、前方へと伸ばされる。

 差し出された手の方向はあやまたず、成海を向いていた。

「……なるちゃん、こっちにおいで」

 いろんなものを無理やり抑え込んだような、不自然なほどに低く掠れた声で、晃星はそう言った。

 征司がまた笑った。

「聞こえてなかったかな。君の欺瞞はもう成海ちゃんに伝えたよ。それともこの期に及んで言い逃れするつもりなのかい? 君は相当口が上手いらしいけど、いくらなんでも成海ちゃんだって、この状況で君の言葉を信じるほど幼くはないだろう。いい加減、観念して手を引いたらどうかな」

「こっちに来て、なるちゃん」

 征司の言葉を無視して、晃星が繰り返した。その視線は懸命に何かを訴えて、一心に成海に向かって注がれている。頼むから、という声にはならない言葉を、必死になって伝えようとしている。彼の足はその場に縫い付けられたように動かない。けれどこちらに差し出された手も、ぴくりとも動かなかった。

「晃星くん」

 成海が呼びかけると、晃星の肩がびくっと揺れた。成海の肩に置かれた征司の手の指も揺れた。

「晃星くんは、私には絶対に嘘をつかないって言いましたよね?」

 静かに問いかけると、晃星の口許が苦しげに歪んだ。

「常陸さんは、八神晃星という名前の人は、誠ちゃんの通っていた小中学校にはいなかった、と言いました。それは本当のことなんですか?」

「…………」

 晃星が黙り込む。息詰まるような沈黙が、長く続いた。

 街灯の光に照らされる彼の顔色が悪い。


「──本当だよ」


 しばらくして、肯定の言葉が絞り出すように落とされた。

 征司が再びふっという笑いを漏らす。

「だったらこれで終わりだ。さあ、成海ちゃん、行こう」

 そう言って、促すように背中を押された。その動きに逆らわず、成海は征司のほうに向き直り、

「常陸さん」

 と、口を開いた。

 征司が優しく微笑みを返す。

「うん? なんだい、成海ちゃん」

「ごめんなさい」

「え?」

 こちらに向けられる征司の目が見開かれた。次にその口から疑問の言葉が出るのを待たず、成海は自分を引き留めようとする手を跳ね除け、くるりと踵を返して、走り出す。

 晃星の許へ。

 彼の胸に勢いよく飛び込むと、すぐに両腕が廻ってきつく抱きしめられた。頭のてっぺんに頬が当たり、強く押しつけられる。片手が移動して、何度も確認するように髪の毛をかき回した後で、細く長い息が、すぐ近くにある唇から吐き出された。

「来てって言うから、来ました」

 笑いながらそう言ったら、さらに腕の力が強まった。「……うん」と呟くように言って、晃星が目を閉じる。

 その手はずっと、小さく震え続けていた。




「ごめんなさい、常陸さん」

 その場に突っ立って、こちらを茫然と見ている征司に向かって、成海は謝った。とりあえず身体にべったりとくっついた両腕の拘束を解こうとしたのだが、あちらにまったく離そうという意思がないようなので、諦める。

 晃星は成海を抱きしめたまま、黙って征司に鋭い視線を投げつけていた。

「成海ちゃん、僕の話を信用して──」

「疑ってなんていません。学校がそう答えたというのなら、そうなんだろうと思いますし、晃星くん本人もそれを事実だと認めているんですから」

「じゃあ、どうして」

「でも、それは関係ないんです」

 成海はそう言ったが、征司は固い表情を崩さない。晃星を見上げたが、こちらもきょとんとした顔で見返してくるだけだった。

 あれ──私、そんなに変なこと言ってるかな。

「晃星くんがどこの誰であっても、あんまり関係ないんです」

 言い直してみたが、二人にはやっぱり通じていないらしいと判って当惑する。成海は理を尽くした説明というのが、晃星のように得意ではない。多分、どちらかといえば不得意だ。どう言えば少しでもわかってもらえるんだろう、と、脳味噌を振り絞るようにして考える。

 うううーーーん。


「……あの、誠ちゃんがいなくなってから、ずっと考えていたことなんですけど」


 考えながら言葉を出すと、征司がわずかに眉を寄せた。

 ふと、違和感を覚えたが、それは頭の片隅に追いやって続ける。

「誠ちゃんがいなくなって……私、長いこと、自分を責め続けてました。もっと話を聞いていればよかったんじゃないか、もっと何か出来ることがあったんじゃないか、もっとちゃんと考えていればよかったんじゃないかって。もっと、もっと、もっと。思うことは、そればかりでした」

 不安と心配ばかりじゃない。いつだってその裏には、後悔と自責の念が、同じくらいの大きさと重さで、成海の上に圧し掛かっていた。

「考えてもしょうがないことだと判っていたけれど、どうしたって、考えずにはいられなかった。誠ちゃんには私の知らない一面があって、そこで悩んで苦しんでいたなんてこと、私はちっとも気づかないままだった。気づいていれば、誠ちゃんは今でもそばで笑っていてくれたかもしれないのに──そうやって、少しずつ、少しずつ、自分を追い込んで、毎日がつらくてつらくて、しょうがなかったんです」

「だから、君のそのつらさに、そこにいる彼はつけ込んだわけだ。そう言ったろう? 頼りなく心細い時に、救いの手を出されたら、誰だってその手に縋りたくなる。そうやって君は」

 征司の言葉に、首を横に振る。

 違う、逆だ。

 そんな時に、誰かを好きになるというのは、成海にとっては恐怖でしかなかった。また失うつらさを味わうかもしれない、同じ後悔を繰り返すかもしれない、帰ってこない人をずっと待ち続けることになるかもしれない。そんなのは、考えるだけでも怖いことだった。

「でも──それでも、私は晃星くんの手を取りました。あとで失って泣くのよりも、口を噤んでこの気持ちを見ないふりして諦めてしまうことのほうが、よっぽど後悔すると思ったからです。晃星くんが見ているものを、私も一緒に見てみたいと……実際に見ることは出来なくても、そう願う心は止めないでいたいと思ったからです」

 晃星は何を見ているのだろう。

 いつもそう思っていた。そうやって思いを馳せる時間、晃星の横顔を眺めている時間、いつか自分も同じものを見られるといいなと願う時間は、成海にとって、本当に幸せなものだった。

 そう、今も、成海は幸せなのだ。

 両親がいなくても、誠の安否が定かではなくても、そうやって幸せを感じる時間があって、たくさんの人からいろんな愛情を向けられている現在の成海は、やっぱり、幸せなのだ。

 幸福は永遠不変に続くものではないと知っているけれど。いつかなくなり、思い出しては自分の胸を締め付けるだろうことも知っているけれど。


 ──でも、だからといって、それに背を向けてしまうのは愚かなこと。


 幸福は、確かにそこにあるのだから。それを見ないでいることは、向けられる愛情を否定するのと同じ。昔の幸せだった日々を思い出した時、胸に込み上げるのは、寂しさ哀しさばかりじゃない。そこにはやっぱり、ほんのりと生じる泣きたくなるほど温かな感情だってあると、成海はちゃんと知っているのだから。

「不安はあります。心配することだってあります。怖くなってしまうことももちろんあります。晃星くんがどこにいても、何をしていても、それはきっと消えることはありません。人はいつかいなくなるということを、私は知っているから。だけど」

 けれど、それは。

「それは、自分でなんとかしなくちゃいけないことなんです。自分で戦って、乗り越えていくしかないんです。これからも生きていくのなら、そうするしかない。それは私の問題で、私が決めるべきことなんです。私の気持ちは、私だけのもので、これから先に何があっても、その気持ちの責任は、自分で取ります。私にとって、信じるってことはそういうことです」


 目には見えないもの。

 形のないもの。

 言葉では言い表せないもの。

 だとしたら、その存在の有無を決めるのは自分自身しかいない。

 ──成海が信じるから、そこには「それ」がある。


「晃星くんのほうに、どんな事情があるのかは知りません。でも、そのことと、私が晃星くんを好きだということは、別の話です。どこの誰かは判らなくても、ここにいる晃星くんは、私の足元を明るく照らしてくれた。崩れそうになった時、近くにいて支えてくれた。また前に進む力を与えてくれた。それは間違いなく本当のことなんです。今までに、私が見たもの、私が聞いたこと、私が感じたこと、それが自分にとっての本当だと──それが本当だって思う自分を、自分の気持ちを、私は信じているんです。そこにどんな思惑があるかなんてことは、関係ありません」

 誰かにとっては「嘘」でも、成海にとっては「本当」だ。

 だから、それでいい。

 普通じゃなくても、変でも、それでもいい。

 成海は、晃星を好きだと思う自分を信じる。

「誠ちゃんの幼馴染の八神晃星という人はいなくても、私が好きな晃星くんはちゃんとここにいます。私はこれからも、この人のそばにいたいと思ってます。それが、いちばん大事なことなんじゃないでしょうか。晃星くんの知らないところがまだたくさんあるなら、もっともっと知っていけたらいいことです」

 もっともっとと考えるのなら、それは後ろを向きながらではなく、前を向いて望みたい。

 ああすればよかったこうすればよかったと後悔するよりも、自分の気持ちに従う行動をしてから、後悔したい。

「……理解できないな」

 征司のくぐもった声に、成海は眉を下げる。引き攣ったようなその口許を見て、彼がこちらの言うことを全く受け入れる気がないらしいことを悟った。けれど成海にはこれ以上、それを説明する言葉が見つけられない。

「──そりゃ、理解なんて出来ないだろうさ、あんたには」

 困って口を閉じた成海の代わりに、そう言ったのは晃星だ。ようやく出てきたその声は、さっきまでとは比較にならないほど落ち着いて、背筋をひやりとさせるほどの突き放した冷淡さを帯びていた。

 征司が醒めた視線を晃星に向ける。

「さぞかし満足なんだろうね、君は。成海ちゃんのような子供を誑し込んで、すっかり自分の手の中だ。そりゃあ、笑いが止まらないだろう」

「あんたはさぞかし腸が煮えくり返ってるってところかな? もうちょっとだったのにね。もうちょっとで、なるちゃんを手元に取り戻すことが出来たのに」

 今度こそ、自分の庇護下に置くために。

 晃星は一言ずつを区切るようにして、ゆっくりとそう言った。

 今まで見たことのない、鋭利な刃物のような彼の視線に、成海は困惑を隠せない。征司を見たが、そちらは薄っすらと笑みを浮かべたまま、晃星を見返して首を傾げているだけだ。

「あんたはこの子を見くびりすぎなんだよ。子供だから、甘い言葉と態度ですぐに取り込める、とずっと高を括ってたのはあんたのほうだろ?」

「何のことを言ってるのかな」

 征司が楽しげに目を細めた。

「僕は成海ちゃんには誠実に接してきたつもりだけど。君と違って」

「そうさ、俺はずっと、なるちゃんに対して不誠実だったよ。大事なことは何も言わずに、ただ俺のことを信じて待っていて欲しい、なんて身勝手なことを言い続けたんだから」

 晃星らしくない自嘲じみた言い方をしてから、眉を上げて征司を見た。

「なあ、人を信じるってどういうことかわかるか? 普通それは、相手の誠実さを信じる、ってことだ。信頼関係ってのは、双方が互いに対して誠実だという前提で、はじめて成り立つものだ。だったら不誠実な相手を信じるためにはどうすればいい? 何が必要だ? 言葉? 証拠? いいや違うね」


 ただひとつ、心の強さだよ──と晃星はきっぱりとした口調で言った。


「信頼を貫き通すための、強靭な心だ。隠されているものがあってもそれでいいと許せる優しさ、好きなものは好きだと言い切れる一途さ、相手を責めることなく笑っていられる純粋さ。そして、自分だけの真実を見抜く目──それは全部、彼女の持つ強さだ。その揺らがないまっすぐな心で、なるちゃんは俺を信じてくれた。あんたはそのあたりをちっともわかってない。理解も出来ない。それらは、あんたも、あんたの恋人も、まるで持っていないものばかりだからだ。わかるわけがない。その尊さを理解できないし、しようという気もないから、ただの子供だと甘く見て、失敗するんだ」

 すっと目を眇めて、征司を見据えた。

「……また、焦ったね」

 夜の静寂に、晃星の静かな声が通る。

 彼の腕が自分の身体に廻った状態で、成海は混乱しながら二人の間で目線を彷徨わせた。晃星はさっきから、何を言っているのだろう。

 また?

「以前も、焦ったんだろ? 時間をかけて自分の手の内に入れようと思ってたのに、『天野誠の幼馴染』なんていう人間がいきなり登場して、焦ったあんたは事を急ごうとした。自分の恋人は、なるちゃんと違って脆くて弱い心の持ち主だってことを失念して──あるいは無視して、強引に話を進めようとした。本当だったら、なによりもまずそこをクリアしてからでないと、事を動かすべきじゃないことは、よく知っていたはずなのに。その結果、彼女が暴走し、逆になるちゃんが離れていくことになった。そりゃ悔しかっただろうさ。最後の詰めが甘いんだよ、あんたは。You are never careful enough in the final stage.」

 晃星の視線は征司から動かない。成海を抱きしめる腕から、力が抜けることもなかった。

 征司の表情はずっと変わらないままだ。薄い微笑を口許に保ったまま、彼も晃星に視線を返し続けている。

「それは焦るさ。得体の知れない怪しい人物に、成海ちゃんを任せられないと思うのは当然だろう? たった一人の身内である兄を亡くした今となっては、その子の周囲にはちゃんとした大人がいない。だから僕が代わりに保護者として──」


 え?


 成海は耳を疑った。

 今、なんて言った?

「……常陸さん……」

 声が揺れた。自分を支える腕に掴まって、征司のほうを向く。

 征司はやっぱり優しく微笑んでいた。これまでと変わりなく。自分が今、何を口にしたかも、まったく気づいていないように。

「成海ちゃん、君も知ってるだろう? 僕がどれだけ君のことを心配していたか」

「常陸さん、今、なんて?」

「え」

 征司が目を瞬いた。

「だから、僕が天野の代わりに」

「兄を亡くした、って言いました」

 成海の指摘に、征司の口許から笑みが消える。

 整った顔から、表情が抜けた。

「……それは、つい。ごめんよ、言葉の綾で」

 言葉を濁して言われたが、成海は追及を止めなかった。

「常陸さんは、誠ちゃんが死んだって思ってるんですね? どうしてですか?」

「いや……だから、これまで消息が知れないってことは、そういうことかなと」

 多くの人がそう思っていたのは、成海だって知っている。ここまで帰らないということは、誠はもう帰れない身の上になっているからだろうと──つまり、もうこの世にはいないからだろうと思っている人はたくさんいて、成海も何度も遠回しにそう告げられたこともある。

 もう兄さんのことは諦めたほうがいいんじゃないのかい、と。

 でも、ここまで断定口調で、「兄を亡くした」なんて言う人は誰もいなかった。それはそうだろう、もう生きてはいないんじゃないかと思っていたって、あくまで推定に過ぎない。人は疑問どまりのことを話す時、せめて「かもしれない」などの不確定を示す言葉を、頭で考えずともつけてしまうものではないか?

 誠が帰ってくるまで保護者の代わりになる、と征司は言っていたけれど、あれは本当にそう思って口にしたことだったのだろうか。必ず帰ってくるから待っていなさい、とは、そういえば一度も言われたことがない。

 出会った時から。

 成海が兄の話をすると、いつも征司の顔は曇った。本人もきっと、無意識だっただろう。さっき覚えた違和感が再びむくりと頭を上げる。

 それは今まで、成海に対して同情しているからだとばかり思っていたけれど……

 足が震えた。

「……知ってるからだよ」

 低い声で答えたのは、征司ではなく、晃星だった。

 成海を抱く腕の力が強まる。まるで、しっかりしろ、しっかりしろと叱咤されているみたいに。

 闇に、彼の凛とした声が響いた。


「誠が崖の上から転落したのを知ってるのは、その時その場にいたあんただけだからだ。そうだろ、常陸さん」




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