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空中散歩  作者: 雨咲はな
21/42

21.背後の闇



 バイトが休みの水曜の夕方、学校からそのまま家に帰る途中、電車の窓から流れる景色を目で追いながら、成海は小さな溜め息を漏らしていた。

 ……あちこちに電話をかけまくって一週間近く。

 いろいろ訊いてはみたものの、結局、これといった情報は何も得られなかったな、と考える。

 これではもう、誠には本当に恋人はいなかったか、あるいは、いたとしてもその存在は誰にも知られないよう完璧に隠されていたか、そのどちらかだと思うしかない。

 普通だったら、友人知人にそこまで隠す必要はなさそうなものだ。誠はコブつきではあるが既婚者というわけではないのだし。異性との付き合いを内緒にするような、世間に対して後ろ暗い理由はない。相手のほうに特殊な事情でもあれば別だが、あの真面目で融通の利かない性格の兄が、夫持ちの女性と不倫関係になるというのは、想像するだに困難だった。

 かといって、誠が女性にまったく興味がなかったかといえば、家の掃除を一手に担っていて兄の部屋のベッドの下にちゃんとその手の雑誌が積まれているということを知っている成海としては、それはどうかなと首を傾げざるを得ない。一緒にテレビを観ている時も、綺麗な女子アナや可愛いアイドルには普通に興味を示していたし、そちら方面で兄はかなりノーマルな嗜好であったはずだ。多分だが。

 合コンくらいは何度か出席していたようだし、大学時代にはいい感じになった女の子がいた、という話も聞いた。ただ、深い付き合いになる前に自然消滅したということで、現在、その相手はすでに結婚して遠方に住んでいるとのことである。

 要するに、手詰まり。こちら方面でも、兄についての手がかりは得られなかった。誠がラーメン屋の店主に語っていた「夢」というのはなんだったのか、それさえも判らないままだ。

 まだ、何も判らない。


 誠は一体、何を目指し、何を抱いて進んでいたのか。

 ──両親が亡くなって背負う羽目になった「厄介な荷物」を、誠はどう思っていたのか。


 誠がいなくなってから、成海は何度も考える。

 繰り返し、繰り返し。考えたくはなくても、勝手に頭がそちら方面へと向かってしまう。いつの間にか、気づくとそのことばかりで心が占められている。倦まず弛まず、いつだって思考の行きつく先はそこになる。

 誠は何を考えていたのだろう。

 一緒に暮らしていた頃、成海はそんなことをほとんど考えたことがなかった。朝起きて、ご飯を食べて、それぞれ会社と学校に行って、帰ってきたらテレビを観ながらなんだかんだとお喋りをして。成海にとって、誠という人間は、そこにいて、笑って、話して、時には文句も言ったりして、いつでも妹に優しい兄、ただそれだけだった。

 誠が口には出さないところで、何を想い、何を考えていたのかなんて、ちらりとも頭を過ぎったこともない。

 もっとよく知っていれば、いや、少なくとも、成海のほうで知ろうという努力をしていれば、いくらだって機会も時間もあったのに。それをみすみす見逃して、誠がいなくなってはじめて、自分が何も知らなかったことに愕然としている。

 だから成海は、ずっと後悔し続ける。

 何かが出来たはずだった。どうにかする手立てはあったはずだった。事故に巻き込まれたにしろ、自分の意志でいなくなったにしろ、誠がいなくなる前に、その原因を取り除くことは可能であったはずだった。どうしても、そう思えて仕方がないから。

 いろんな人に会って、あれこれと聞き回って、悪あがきをせずにいられないのは、きっと、自分のそういう罪の意識と後悔の重みに、押し潰されそうになるからだ。ああしていればよかったんじゃないか、こうしていればよかったんじゃないかと、そればかりを考えて、頭が変になってしまいそうになるからだ。

 ──成海が「何か」を出来ていたら、誠は今も何事もなく平和に笑えていられたんじゃないかと。

 冬が近づきはじめた現在、時刻はまだ早くても、外の世界は陽が傾き始めると同時に、素早く闇に浸食されつつある。

 電車の窓に映る自分の顔は、ひどく情けなく眉を下げていた。

 胸にある問いはいつも同じ。そして、答えがどこからも返ってこないのも同じ。


 誠ちゃん、誠ちゃん。

 誠ちゃんは何を考えていたの?

 ……私は、どうしていればよかったの?



          ***



 そんなことを考えているうちに、電車が駅に到着した。

 ここは高架駅なので、改札がホームよりも下にある。この時刻、駅は会社帰りや学校帰りの人でごった返していて、ホーム上の電車の扉から階段への道には、ぞろぞろとした人の波が出来ていた。

 成海もその中に混じり、俯きがちに歩いて階段へと向かう。

 こんなに暗いことばかり考えていたらダメだな、と思うのに、どうにも元気が出てこない。今日はバイトも休みだし、アパートに帰ったら、あとは一人でひたすら時間を過ごすだけだ。両親の写真と誠人形にただいまを言って、宿題をして、適当にご飯を食べて……

 先週の水曜日の賑やかさとはかけ離れた静かな食事に、きっとうんざりすることだろう。晃星が山と買ってくれた食材も、さすがにアイス以外はもう使い切った。冷蔵庫にあるものといえば卵くらいだ。もういいかな、今夜の夕飯は卵かけご飯で。

 ご飯に卵をかけてひっそりと一人で食べる自分の姿を想像したら、なんだかさらに落ち込みそうになった。惨めだとかそういう以前に、きっとその時、晃星のことばかりを考えずにはいられない自分がありありと予想できてしまうからだ。

 あれだけ「二人」に慣れないようにと戒めたつもりだったのに、楽しかった記憶はどうやったって簡単に去っていったりはしない。小さな食卓の空いた椅子に、間違いなく彼の幻を乗せてしまいそうで、自然と足取りが重くなる。

 そこで、ふと、思いついた。


 そうだ、ラーメン屋さんに行ってみようかな。


 夕食時だと他のお客さんもいるだろうし、あまり話すことは出来ないかもしれないけれど、あの店主の顔が見られれば、なんとなくそれだけでほっとするような気がする。あそこの美味しいラーメンも食べたい。マツがいたら、きっと彼の陽気さに、自分の鬱屈もどこかへ行ってしまう。

 自分で思いついたその案にちょっとばかり気分が楽になった。少なくとも、一人であのアパートにいるよりは断然いい。卵かけご飯より、ラーメンのほうがずっと豪華だ。バイト代も入ったことだし、それくらいの贅沢は自分に許してあげてもいいだろう。

 バイト代、と考えたところで、連想がまた別の方向へと向いた。

 そういえば、征司とは、あれからまだちゃんと話をしていない。笙子の不調は続いているのか、土日の手伝いにも姿を見せなかったようだ。遅い時間にこんばんはと店を訪れることもない。やはり征司も心配なのだろう、穏やかなところは普段と変わりないものの、どこか笑顔に元気がないように見える。そんな状態の時に、自分のことで煩わせるわけにはいかず、保護者の代わり云々という話はずっと保留にされたままだった。

 笙子さん、大丈夫かな……と思いながら、ホームから改札へと向かう階段を一段ずつ降りていた時。


 どん、と後ろから衝撃があった。


 次の段に下ろそうとしていた右足が、バランスを崩して着地点を見失う。

 内臓が浮き上がるような浮遊感と同時に、左足だけでは支えきれなくなった身体の重心がそのまま下へと向かった。

 落ちる、と思った時には、すでに自分では止めようがなかった。声を出す間もない。

 成海の近くにいた人たちの、あっ、とか、きゃっ、とかの息を呑むような悲鳴が聞こえた。



          ***



 ──その夜。

「何も変わったことはない?」

 という晃星のいつもの質問に、一瞬考えてしまったのは失敗だった。ないです、と答えようと口を開きかけた時に、自分の手の絆創膏と足の包帯が視界に入ってしまったのが、どうやらまずかったようだ。

 すぐにバレた。

「……なるちゃん、正直に言って。何があった?」

「…………」

 問い詰めてくる厳しい声を聞いて観念した。最近の晃星は、時々電話での雰囲気が剣呑なものになる。おもに成海が隠そうとしたり誤魔化そうとしたりする時だが。

 しょうがない、今回は素直に報告しよう。

「あのー、ちょっと、怪我をしました」

「え、怪我?」

 晃星の声は、純粋に驚いているようだった。彼はよく何があったのかと問いかけてくるが、それはたとえば、どういう「何」を想定しているんだろう、と成海はちらっと頭の片隅で思う。

 少なくとも、怪我や病気の類ではないらしい。

「どんな?」

「軽い捻挫です」

「捻挫? 大丈夫? どうしたの、転んだ?」

「駅の階段から落ちました」

「危ないなあー」

 電話だから見えないのだが、見えたら絶対に顔を顰めているだろうと思わせる声で、晃星がぶつぶつ言った。

「何段くらい落ちたの?」

「数段くらい。階段自体は結構高さがあるんですけど、途中で踊り場があるので、そこで止まりました。えーとなんて言うんでしたっけ、映画の、階段落ち? みたいなことにはならなかったですよ。ほら、あの、いちばん上からゴロンゴロンって転がりながら下まで落ちるやつ」

「何を呑気なことを……他に怪我は?」

「他は、打ち身と擦り傷くらいです」

「どこ?」

「どこって……手とか足とか。大したことはないです」

 お尻に蒙古斑のような大きなアザが出来た、とは言えず、ごにょごにょ濁す。捻挫以外はすべて軽傷なので、数日経てば治る程度だ。

「病院へは行ったんだろうね? 治療代がもったいないから自力でなんとかしようなんて馬鹿なこと考えたらダメだよ。ちゃんと手当てしてもらったね?」

「行きましたよ。すぐ近くに病院があるからって駅員さんがおんぶして連れて行ってくれたんです。ていうか、連れて行かれました。家に絆創膏もシップもあるからいい、って言ったんですけど」

「おんぶ……」

 晃星はそこでちょっと黙ってしまったが、あいにく、はあーと深い溜め息を吐いて別のことを考えている今の成海は、それを気にするような精神状態にはない。

 保険証を持っていたので助かったとはいえ、それにしたって高かったよね、治療代。

 わざわざ負ぶってまで病院に連れて行ってくれた駅員の厚意と親切にはもちろん感謝しているのだが、治療代の出費は、正直言って捻挫よりも痛かった。シップなら家にあるって病院でも言ったのに……。

「……駅員って、男?」

「女性の駅員さんって、あまり見ませんよね。それでお医者さんには、一週間ほどで治る、って言われました。ちょっと腫れてますけど、歩けないほどじゃないし、特に問題ないです」

「そんなわけないでしょ。軽くたって捻挫なんだからさ。でもなんでまた階段から落ちるようなことになったわけ? 考え事でもしてた?」

「はい、そうですね。今日はバイトが休みだからラーメン屋さんに行ってみようかな、とかいろいろ……結局、行けませんでしたけど。それに、時間が時間だから、駅が混んでいたっていうのもあります。近頃、あそこの階段を降りるのは誰もいないような遅い時間が多くて、ゆったりのんびり歩くのに慣れちゃっていたので、他の人とのペースが合わなかったんですね」

「つまりマツのせいか」

「違います。どうしてそうなるんですか」

 理不尽な責任の押しつけをしてから、携帯の向こうで、晃星が、うーん、と考えるように唸った。

「……どうするかな、一度様子を見にそっちに戻」

「大丈夫ですってば」

 成海は慌てて声を大きくした。そんな風に思わせるためにこのことを口にしたわけではない。

「本当に、軽く捻った程度なんです。いつもと違うといったら、体育の授業を見学するくらいです。だからちゃんと正直に言いました。晃星くんがあまり大げさに考えるのなら、これからは何があっても黙ってます」

「だから正直に言った、ってのがすげえ引っ掛かるけど……。何があっても黙ってられるのは、確かに困るな」

 本当に困ったように苦々しい口調でそう言って、晃星はしばらく逡巡しているようだったが、少ししてから、「……本当に大丈夫なんだね?」と慎重な言い方で念を押した。

「はい。大丈夫です」

「不便はない?」

「普段と変わりありません」

「いや待てよ、でもその足だと、駅から家に帰る時も走れないってことだよな。そうすると暗い夜道で誰かに襲われそうになった時に」

「だったら夜間歩く時は防犯ブザーを持ち歩くようにします」

 晃星の言うことが、だんだん誠と似てきたように思うのは、成海の気のせいなのだろうか。

「本当に大丈夫ですから」

「そう? ホントに?」

「はい」

「無理はせずに、完治するまで病院に行って、きちんと手当てしてもらうんだよ?」

「はい」

「これから階段を昇り降りする時は手すりを掴んでゆっくりね?」

「はい」

「それで駅員って何歳くらいだった?」

「二十代くらいと思いますけど」

「…………。あ、そう」

 晃星は低くて小さな声でボソッと何かを呟いたが、英語だったので何を言っているのかは判らなかった。



          ***



 電話を終えてから、成海はふう、と息をついた。

 改めて、白い包帯の巻かれた自分の右足に目をやる。

 そっと指先で触れてみた。ズキズキとした痛みは残っているが、最初に比べれば、大分楽になっている。一週間程度で普通に歩けるようになるだろう。晃星に話した内容に何ひとつ嘘は入っていない。

 そう、嘘は言っていない。


 ちょっと考え事をしていた。

 夕方の駅には人が多かった。

 のろのろした成海の足取りは、他の人のペースとは合わなかった。

 全部、本当だ。

 ──落ちたのは、後ろから誰かに押されたからだ、ということを言っていないだけ。


 でも、気のせいなのかもしれないし。そもそも、あれだけ混雑していたのだもの、偶然後ろの人の身体の一部が当たってもまったく不思議ではない。自分の思考に気を取られていた成海は、後ろにいたのが、学生であるのかも、サラリーマンであるのかも、まるで意識していなかった。

 背中に、はっきりとした手の平の感触を覚えた、ような気がした。気がした、だけでそれを故意によるものだと決めつけることは出来ない。階段から落ちて、何人かの人が大丈夫かと駆け寄ってくれたけれど、みんな成海が足を踏み外したものだと信じて疑っていない様子だった。そうだ、誰かに突き落とされるなんて、そんなことは普通、あるはずのないことだ。

 ……あるはずがない。

 こんなこと、考えすぎるのはやめよう。晃星に余計な心配をさせたくない。ただ階段から落ちて軽く怪我をしただけ。大したことじゃない。

「大丈夫」

 自分に言い聞かせるように、ぽつりと呟いた。



 落下する時の血の気の引くような感じが、今もまだしっかり身の内に居座っているとしても。

 階段の踊り場でうずくまり、激しい痛みに目を閉じた、あの闇の中で。

 心臓がばくばくと激しく音を立てて、しばらく震えが止まらなかったとしても。

 背中から、誰かの悪意が迫ってきたようで、怖くてたまらなかったとしても。

 ……大丈夫だ。



「大丈夫……大丈夫」

 片手でぎゅっと携帯を握りしめ、もう片手で首にあるネックレスを掴んで、呪文のように、何度も繰り返す。

 両親もいない。誠もいない。晃星もいない。ここにいるのは、成海一人だけ。

 大丈夫だと、そう思うしかないではないか。

 強く力を込めすぎて、手がぶるぶると震え続けていた。




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