22.通行止め
右足を捻挫した状態での生活は、大まかなところではそれほど変化はないものの、細かいところではやはりいろいろと不便なことが多かった。
基本的に、歩く速度がかなり遅い。そのため、いつもと同じ時間に行動するとズレが生じる。朝のラッシュでは両足で踏ん張れないので倒れそうになり、足を踏まれて痛みのあまりその場にしゃがみ込みそうになり、乗る時も降りる時も人波に押されてこれまた転びそうになった。学校に到着しても成海の教室は三階なので、移動教室のたび階段を上るのも下りるのも一苦労だ。健康って素晴らしいことだよね、と少々ぐったりしながら思う。
そんな調子で半日過ごして、やっぱり今日のバイトは休もう、という結論に達した。
飛んだり跳ねたりするわけではないが、この足で店に行っても、征司に気を遣わせてしまうだけだ。動きも鈍いから、もともと良くもない効率がさらに悪くなる。リラックスしてもらうためのカフェなのに、ズルズルと右足を引きずるような歩き方をする店員にコーヒーを運ばれては、客も落ち着かないだろう。いきなりの欠勤はあちらも困るだろうと思うと心苦しいが、行ってもかえって足手まといになるくらいなら、行かないほうがいい。
ランチで混み合う時間を避けて店に電話をし、その旨を告げると、征司もまた晃星と同じように驚いた声を上げた。
「捻挫? どうしたんだい?」
「すみません、不注意で。そういうことなので、申し訳ないんですけど、今日一日お休みさせていただきたいんです」
成海の申し出に、征司はあっさりと了承した。
「ああ、わかった。こっちのことは気にしなくていいよ、代わりに誰か頼むから」
代わりにシフトに入ってくれる人がすぐ見つかるといいのだが。あちらにもこちらにも迷惑をかけているなあと思うと、申し訳なさで身が縮みそうだ。
「本当にすみません。明日からは必ず」
「いや、いいんだよ。そもそも成海ちゃんほどバイトを休まない子は珍しいくらいなんだから。捻挫だろう? 明日も休んでいいから安静にしなさい」
「いえ、そんなわけには」
いきません、と慌てて言おうとしたら、携帯の向こうから征司の軽い笑い声が聞こえた。
「治るまでゆっくり休むといい、と言いたいところだけど、成海ちゃんにそこまで休まれると、さすがに僕も困るんだ。だから明後日からは出勤をお願いしてもいいかな。土日は客も多くて大変かもしれないけど、つらかったら休憩を挟みながらでもいいし」
「は、はい! いえ、力いっぱい働きます!」
思わず返事をしてから、結局さりげなく明日までの休みをもらっていることに気がついた。征司が上手なのか、あるいは成海が丸め込まれやすいのか。
「すみません、店長」
携帯を耳に当てながら、ぺこぺこと頭を下げる成海に、征司はいつもの穏やかさで、「お大事にね」と言った。
そこで言葉が途切れたので、てっきり通話も切れるものと思っていたのだが、待っていてもなかなかプツンという音が鳴らない。ん? と成海も口を噤んで携帯の向こうに耳を澄ませていると、少しの沈黙を経てから、再び征司の声があちらから聞こえてきた。
「──成海ちゃん」
呼びかける声に、なんとなく躊躇いが感じられる。言おうか言うまいか。あるいは、聞こうか聞くまいか。征司は態度は優しげだが、実際の言動はそつがなくてきぱきしていているので、こういうことは珍しい。また晃星のことで何かの忠告をされるのだろうか、と成海は少しだけ身構えた。
「はい」
「……その怪我」
「はい?」
問い返したが、征司はそこでまた黙ってしまう。
顔は見えないものの、その時彼は確かに、何かを言いかけようとしていたようだった。口を開きかけるところまでいっていたかもしれない。少なくとも、無言の中に、それくらいの迷いがあることは伝わってきた。
何を言おうとしているのだろう?
成海は大人しく待ったが、結局、征司はその先を続けるのをやめたらしい。
「早く、治るといいね」
とってつけたように明るい声でそんなことを言って、今度こそ電話は切れた。
***
今日のバイトは休みをもらったと話すと、園加は張り切って、「よっしゃ、んじゃ、今日はあたしに付き合え!」と授業が終わった途端、学校近くのファーストフード店に成海を引きずっていった。
放課後の店内は、同じ学校や他校の制服を着た生徒たちで大いに賑わっている。わいわいと大勢でお喋りしていたり、同じテーブルの数人がそれぞれ無言で自分のスマホと睨めっこしていたり、課題を片付けているのかノートを広げて真剣な顔をしていたりと様々だ。
こういうの懐かしいなあ、と成海はその光景を見ながらしみじみと思った。誠がいなくなってからというもの、こういった場所とも空気ともご無沙汰だったので、半年以上ぶりということになる。
──今年の春前までは。
ようやく両親の死の悲しみが薄れてきた成海も、ああやって楽しそうに笑いながら友人たちとお喋りして、今日の夕飯は何にしようかなあ、とお腹を空かせて帰ってくる兄の顔を頭に思い浮かべていたのだが。
「あんたにしちゃ、豪華じゃない」
と感心したように言う園加の目線は、成海が手にしているトレイの上に向けられている。注文したのは普通のハンバーガーのセットメニューだから、豪華、というのは少々語弊があるが、いつもこういう場所ではSサイズのドリンクしか頼まない成海にしては確かに華やかな顔ぶれである。
「ついでだから、これを夕飯にしようと思って」
「え、これを?」
同じくセットメニューをトレイに載せている園加が目を剥く。彼女自身は、これから家に帰って、また夕飯を食べるつもりなのだろう。
「こういうの、久しぶりで嬉しい。そういえば、よくポテトを園ちゃんに分けてもらったよね。今日は、お返しに私が分けるよ」
成海がそう言うと、園加は盛大に顔を顰めた。
「いいって! 幼稚園児がママに食べてもらうために好物のおやつを残しておく、みたいで、なんかちょっと泣けてくるでしょ! アップルパイを奢ってやるから、それも食べろ!」
乱暴な口調で言って、席にトレイを置くと、アップルパイの追加注文をするためかまたドスドスとレジへと向かっていく。園加は成海のことをお人好しだなどと言って怒ったりするが、多分、彼女のほうがずっとお人好しだ。
「成海いー! やっぱあたしナゲットも食べたい! 一人じゃ食べきれないからあんたも食べなさいよね!」
レジのほうから園加が大声を出すので、周囲の客たちの目が一斉にこちらを向いた。ちょっと赤くなりながらうんと頷いて、テーブルの上に目をやる。
ハンバーガーとポテトとドリンクとアップルパイとナゲット。
いくらなんでもちょっと食べすぎだよ、と内心で呟いて、くすっと笑った。
表現が少々荒っぽい園加のその思いやりに触れるたび、成海は心がほっこりする。
「──で、就職のほうはどうなってるわけ」
新たに頼んだアップルパイ二つとナゲット一箱を狭いテーブルの上にドサッと置いて、成海の向かいの席に座った園加が、早速ポテトを口に放り込みながら切り出した。
「上田はちゃんとやってるんでしょーね」
監査役のようにキラリと目を光らせて確認する。ふんぞり返ったその態度を見ていると、園加のほうが担任の上役であるような錯覚を起こしそうだ。
「うーん……」
曖昧に首を傾げると、園加の眼つきが鋭さを増して怖くなったので、「あ、違う違う」と大急ぎで手を振った。言葉を濁したのは、誤魔化そうとか黙っていようとか考えたわけではなく、本当に報告するようなことがない、というだけの話なのである。
「先生は就職先を探してくれてる。でもね、なにしろ時期が時期だし、そんなに簡単には見つからないみたい。本当だったら、夏休みのうちにはあちこちの会社を見学したり検討したりをはじめて、九月には採用試験を受けてるものだから。一応、少しだけどまだ追加募集をかけている会社もあって、なんとかそこを当たってみるしかない、ってことなんだけど」
しかし正直言って、相当難しいだろう、というのが担任の見通しだ。
ほとんどの企業は高卒の就職希望者をすでに確保している上に、まだ募集をかけているところだって、何もわざわざ複雑な境遇の女子生徒を採用したいとは思わないだろうからな──とは上田の言葉だが、成海もそれを聞いて、その通りだなと思った。
厳しいけれど、間違ってはいない。自分のように不安定な立場の人間が、普通の企業に敬遠されるのは仕方のないことだ。
せめて最初から就職希望だったのなら良かったのかもしれないが、成海は高校二年までずっと進学を希望していたため、それについての申し込みもしていなければ準備もしていなかった。三年の夏休みといえば、誠のことでまだバタバタしていた頃だ。進路のことなんて考える心の余裕はまったくなかった。その出遅れが、今になって響いている。
成海の行き先が見つからないのは誰のせいでもない。強いていえば、自分の責任だ。
「出来れば高校卒業と同時にどこかの正社員になって働ければいいなと思ったんだけど、やっぱり甘かったね。どうしても無理なら、卒業後にバイトをしながら求人を探してみようと思ってる」
「ふーん……」
飲み物のストローを口にくわえたまま、眉を寄せた難しい顔つきで園加が低く唸った。視線は、成海を通り越し、その向こうの窓の外に据えられている。
「あのさ、成海」
ぼそっと言う。
「うん、なに?」
「……どうしても、進学は無理なわけ? 奨学金制度とか、そういうのだってあるんでしょ」
「…………」
成海は少し困ったように笑うだけにした。奨学金は、学費の立て替えはしてくれても、生活費まで立て替えてくれるわけではない、ということは、園加だって判っているだろう。
「だってさ」
園加が窓の外から目線を外し、成海のほうをまっすぐ向いた。
「だって、あんた、ちゃんと将来なりたいものがあったじゃん。希望する進学先も最初からずっと決まってて、それに向けて頑張って勉強もしててさ。お兄さんだって──」
「園ちゃん」
勢い込んで言い募ろうとする園加の言葉を、やんわりと押しとどめる。園加は口を閉じて黙ったが、不満そうに唇を曲げた。
「それはもう、諦めたんだよ」
「でも」
「もし状況が許しても、今の成績じゃ無理だと思う」
なんとか上位をキープしていた成績は、誠がいなくなってから見事なまでに一直線に下方へと滑り落ちた。勉強する時間がなかったというのもあるし、そんな精神状態になかったというのもある。今もバイトがあって宿題をするだけで精一杯という有様で、どちらにしろ、この成績では受けることすら出来なかっただろう。
そちらへと向かう成海の道は断たれた。だから他の道を選び直すしかない。それだけのことだ。
「園ちゃんは、大学に入って合コンしまくっていい男をたくさん侍らせて貢がせる、のが目標だったよね。頑張ってね」
「そうだけど、この流れで言うな! あたしすごいバカみたいじゃんよ!」
園加が怒って、成海は笑った。
どんな内容であれ、叶えられる夢は叶うといいなと思う。
園加の夢、征司の夢、誠の夢。
──そうしてみんな、笑っていられるといいのにね。
***
駅の階段を降りる時は、ドキドキして何度か後ろを振り返ったりもしたが、特に何事もなくアパートに辿り着いて、ホッとした。
誰もいないしんとした室内はいつも通りだ。仏壇の前にぺたりと座り、しばらくぼんやりと放心する。
……高校卒業まで、あと少し。
このままでは就職先が決まらないうちに卒業することになるのだろう。それからどうしたらいいのか、ちゃんと考えなくてはと思うのに、なかなかそういう気力が湧いてこない。
近いうちに、このアパートからも出て、新しく住むところを探さないといけない。そうだ、その場合、多分また保証人とかが必要になってくる。でも、誰に頼めばいいのか判らない。お金が尽きるのを待つまでもなく、その時は後見人を立てることを真面目に考えることになるのだろうか。だったらまずは役所に行って、はじめから事情を全部話して……
「…………」
隣に立てかけた誠人形を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
──僕が保護者の代わりになる。現実問題として、君にはそういうものが必要だ。
征司の声が脳裏に甦る。
そう、この世界では、成海一人の力では出来ないことが多すぎた。未成年で、仕事もなく、高校卒業後の行き先もない。宙ぶらりんに漂ったまま生きていけるほど、世の中は甘くはないだろう。
頼りなく、ちっぽけなこの身が、どうやったら地に足をつけて生きていけるのか。途方もないその難題に、成海はまだちっとも答えを出せていなかった。
征司の言葉に従えば、先の見えない独りぼっちの不安からは逃れられる。
逃れられるけれど。
でも、やっぱり、それは出来ない。
「……私、ホントに頑固だね、誠ちゃん。誰に似たんだろ」
枕のニコニコ顔を見て、えへ、と笑った。晃星に呆れられるわけだ。誠も一度決めたら頑として譲らないところがあったから、両親が生きていたら、さぞや二人の子供の頑固さに手を焼いていたことだろう。
「もうちょっと頑張るよ。大丈夫。今までだってやってきたんだもん、これからだってなんとかなるよ、きっと」
一人でも。
続けそうになった言葉は故意に胸の中に押し込んで、誠人形を元の位置に戻すと、床に手をついて立ち上がった。右足に重心がかけられないから、ぐらぐらして危なっかしい。
外はもう暗くなっている。夕飯は食べたし、あとは宿題をして風呂に入って寝るだけだ。今のうちにお風呂に湯を張っておこう、と思って浴室へと向かいかけ、思い出した。
カーテンを閉めるのを忘れていた。
毎日していることなのに、ついうっかりしてしまうこの癖はいつまで経っても直らない。左足だけでぴょんぴょん跳びながら窓へと寄って行き、カーテンに手をかけ、夜空を見上げる。
暗くなった空には、いくつかの星が輝きはじめていた。晃星もどこかでこれを眺めているのかな、と考える。そういえば、カーテンを閉める時にいつも空を見上げる習性がついたのは、晃星にはじめて出会った日からのことだ。
その名の通り、光り輝く星のような晃星。
明るくて、堂々としていて、優しくて──遠い。
「…………」
ふ、と息をつく。
カーテンを引っ張ろうとして、なにげなく目線を下にやり、ぎくりと身体を強張らせた。
──暗い歩道に、誰かが立っている。
以前、晃星が成海に向かって手を振っていた場所。でも、あの時ほど街灯に近くはないので、光が届かず、その姿もはっきりと見えない。その人物はパーカーを着ているらしく、フードを目深にかぶっているからなおさらだ。
パーカーの上に羽織っている黒い上着のポケットに手を入れて、何をするでもなく、じっとその場に立っている。背が高いから、男性だろうか。誠ほどがっちりとした体格ではなく、晃星や征司のようなすらりとした細身。
ただ人を待っているのかもしれない。ジョギングの途中で休んでいるのかもしれない。その人の身体がこの建物のほうを向いているだけ──それだけで、この部屋を見ていたように思うなんて、あまりにも自意識過剰だ。
口を引き結び、勢いよくカーテンを閉じた。昨日のことがあって、きっと変に神経が尖っているのだろう。考えすぎるのはやめようって思ったのに。
その途端、静寂を切り裂くように電子音が鳴り響いた。
激しく身じろぎしてしまったために、捻挫をした右足に力が入り、痛みが走った。その痛みで我に返る。鳴っているのは家の固定電話だ。
この家の電話は番号を表示するタイプではない。いつもは勧誘電話くらいしかかかってこない電話が、今はなんだかやけに不吉なものに思えて仕方ない。園加? 晃星? そんなわけない。彼らはどちらも成海の携帯にしかかけてこない。大体、晃星には家の電話番号を教えていないのだ。
バクバクと大きな音を立てて飛び出しそうになっている心臓を宥めながら、そろそろと電話に近寄り、受話器を取った。なんでもない、きっとまた勧誘電話だ。愛想のいい女の人の声で、今ちょっとお時間よろしいですかー? なんて問いかけられるに決まってる。
息継ぎをし、そうっと抑えた声を出す。
「も……もしもし?」
無言。
「もしもし」
もう一度、自分自身を叱咤して少し大きな声で言ったが、やはり返ってくるものはない。数秒の沈黙を置いて、ブツ、という無機質な音とともに、鳴った時と同じく唐突に、電話は切れた。
「…………」
唇を噛みしめ、受話器を戻した。手が少し震えている。
また窓のほうに戻り、カーテンの隙間からそっと外を覗くと、さっきの人物はもういなくなっていた。
しばらくその場に立って、強く目を瞑った。ものすごい速度で打ちたてる鼓動が、なかなか収まらない。首にかかっているネックレスを握り、足下から這い上がってくる恐怖心と戦った。
気のせい、気のせいだ。たまたま人が立っていただけ。たまたま間違い電話がかかってきただけ。偶然が重なった、それだけ。疑う心で物事を見たら、悪い方向にばかり想像が膨らんで、なんでもないものまで怖がることになってしまう。幽霊の正体は、落ち着いてみればただの枯れ尾花なのだ。
覚束ない足取りで床を踏みしめ、自分の鞄から、携帯を取り出す。
大体いつも晃星から電話がかかってくるのは、バイトを終えた夜の遅い時間。今日成海が休んでいることを知らないのだから、まだ働いていると思っているだろう。待っていれば、そのうち「Good evening!」という陽気な声が聞けるはず。
そうすれば、安心できる。
こんなこと、すぐに笑い飛ばせる。
きっと、穏やかな眠りに就ける。
晃星が、いつものように、「なるちゃん」と呼んでくれたなら。
成海は携帯を両手で包んで、自分の胸に抱きしめた。
まるで祈るように。
──が。
待っても待っても、その夜、晃星から電話はかかってこなかった。




