18.好奇心猫を殺す
何を食べるにしろ、とりあえず私服に着替えたい、ということで、二人でアパートに向かった。制服姿のままだと、なにより成海が落ち着かない。
が、敷地に足を踏み入れたところで、
「あっ、成海ちゃん」
と声をかけられ、わあ、と天を仰ぎたくなった。
外階段の手前で止まって、こちらに好奇心いっぱいの顔を向けているのは、隣に住む美沙である。ちょうど彼女の帰宅時間と一緒になってしまったらしい。
「こんばんは」
曖昧に笑いながら挨拶して終わらせたかったが、相手のほうに、そんなつもりが露ほどもなかった。美沙は狭い階段を塞ぐようにして立っているので、頭だけ下げてささっと通り過ぎる、ということも出来ず、成海は困ってしまう。
「今、帰り?」
「はい、そうです」
美沙の質問は成海に対して投げかけられているもののはずなのに、彼女の視線はさっきからずっと成海の隣に立つ晃星に据えられている。艶やかなピンクで彩られた唇がむずむずと動いているなと思ったら、やっぱり案の定、くふふという含み笑いとともに質問攻めが来た。
「やだ成海ちゃん、彼氏?」
「違います」
「照れなくてもいいじゃない。そーよね、一人暮らしなんだから、気楽に家デートも出来るよね。年上? やるじゃん」
「違います」
「あ、ヘーキヘーキ、あたし別に、そーゆーの、オバサンみたくうるさく言わないから。変な目で見たりもしないし。お兄さんにもチクったりしないよ。高校生だもん、いろいろ遊びたいよね! ねえどうやって知り合ったの? 彼氏カッコイイね、ひょっとしてナンパされたとか?」
「違……」
「成海ちゃんて真面目そうだからこーゆーことあんまり縁がなさそうだって思ってたけど、そうでもないんだね! あ、変な意味じゃないんだけどさ! ねえねえ、いくつ違いなの?」
「…………」
美沙は問いかけてくるわりに、成海の返事をほとんど必要としていなかった。三日月形に細められた目はぴかぴか輝いて、次から次へと言葉を紡ぎだす口に至ってはまったく止まる気配がない。成海は困惑しながら口を噤み、ちらっと隣の晃星を見る。
上着のポケットに片手を突っ込んでその場に立ったまま、上から下へじろじろと移動する美沙の目線を大人しく受けていた晃星が、同じようにちらっとこちらに目をやった。もう片方の手で軽く顔の下半分を覆っているのは、成海と同じように困惑しているためではなく、完全に笑う形になっている口許を隠すためであるらしい。
これが例の? と、いかにも面白そうな瞳が言っている。
「……えーと、こちらは、兄のお友達で」
美沙が息継ぎをした瞬間を狙って、成海はなんとか説明しようとした。しかし、それはそれで、他の方面でのさらに余計なものを刺激してしまうことになったようだ。
「あっ、そうなの? お兄さんの? ねえそういえばお兄さんて今、アメリカにいるんでしょ? アメリカのどこにいるの? 電話くらいはしてるんだよね? ね、成海ちゃん、実はあたしさ、どうしても欲しいものがあるの。ちょっとお兄さんにさあ──」
買ってきてって頼んでほしいんだけど、と続けられそうになって、成海は慌てた。それは無理だ。いろいろと無理だ。お洒落に関心が強くて、ブランド物などの流行にも敏感な美沙の要求がどんなものであるのかは大体想像がつくが、日本では手に入らないアレやコレが欲しいと言われても、絶対に無理だと断言できる。しかしどうやって言い逃れればいいのか判らない。やっぱりその場の思いつきでウソなんてつくものじゃない、と心底から後悔した。
「あ、あの」
しどろもどろになって思わず二、三歩後退しかけたところで、その代わりのように、晃星が一歩前へと出た。
にっこりと笑って、美沙に向かってすいっと右手を差し出す。
「Hello! Nice to meet you!」
「え」
美沙がぎょっとして目を丸くした。
「You are such a chatterbox.Don’t be too nosy about person’s life.How dare you say such a thing to your neighbor? Shame on you! Do you know “Curiosity killed the cat”?」
「え、え、えっ?」
うろたえつつも無意識に出された美沙の右手と元気よく握手をしながら、晃星はニコニコして喋り続けている。
何を言われているのかはさっぱり判らないながら、非常に友好的なその態度に気を良くしたのか、美沙がぱっと顔を赤くしてはにかんだ。
「やだどうしよ、成海ちゃん、ねえ、なに言ってるの? 仲良くしたいです、よろしくね、的な?」
「…………」
そわそわした顔で訊ねられ、成海は口を結んだ。
晃星が何を言っているのかは、自分にだってまったく判らない。しかし、彼のこの嬉しそうな表情を見る限り、なんとなーく、ろくでもないことを口にしているような気がしてならない。
……通じないと思って、実はものすごくキツいこと言ったりしてませんか、晃星くん。
「やだもうー、成海ちゃんってば、外人さんなら最初に言ってくれればいいのにー! あたし、てっきり日本人かと思って、フツウに日本語で話しちゃったあー!」
「…………」
すみません、そのセリフで、隣の人、こっそり噴き出してます。
「お兄さんのお友達って、要するに会社の人ってことね! アメリカ支社の人なんだ?」
なぜ兄本人がいないのにアメリカ支社(支社と言った覚えもないのだが)の人が自宅を訪れるのか謎だが、ここはもう美沙のそのおかしな勘違いに全力で乗るしかない。「そう、そうですね、はい、兄の忘れ物を取りに」と上擦った声で適当なことを言いながら、ぐいぐいと両手で晃星の背中を押して突き進む。
「じゃあまたー! バイバーイ! シーユー!」
頬を紅潮させてきゃっきゃとはしゃいでいる美沙は、すでに細かいことはどうでもいい精神状態になっているらしい。浮かれた様子で階段の脇に退いて成海たちを通してくれながら、晃星に向けて愛嬌たっぷりに手を振った。
調子よくそれに手を振り返す晃星を強引に押して階段を上る。そのまま玄関へと押し込んで、ドアをバタンと閉じた。
「はあー……」
途端に、どっと疲労感が押し寄せて、その場にへたり込む。
美沙からは逃げられた。疑惑も詮索も避けられた。もともとはつまらないウソをついた自分が悪い。助かったと感謝してもいいくらいなのかもしれない。が。
しかし、それにしたって。
「晃星くん、やりすぎ!」
ドアに寄りかかってしゃがみ込み、晃星は苦しそうに笑い続けていた。
***
「とにかくどうぞ上がってください」
とスリッパを床に置くと、そこでようやく晃星が笑いを止めた。出されたスリッパと成海を交互に見比べ、唇の端を上げて、「いいの?」とからかうように確認する。
「若い男を不用心に家に入れると、狼に変身されたりするかもよ?」
「じゃあ、ドアと窓を全開にして、防犯ブザーをいつでも鳴らせるように手に持っ」
「はい、余計なこと言いましたスミマセン。ていうか、防犯ブザーって何? 小学生がランドセルにつけてるようなやつ?」
「そうです。ストラップを引っ張ると大音響で警戒音が鳴り響いて、ライトも光るんですよ。そういうのってすぐに電池がなくなっちゃうので、誠ちゃんが、毎年新しいものに買い替えてくれるんです」
「あいつ、アホだ……」
ぶつぶつ言いながら靴を脱ぎ、LDKに入った晃星は、狭い室内をぐるりと一通り見回して、ある場所でぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと歩を進め、仏壇の前で足を折り曲げて目線を下げる。
「……よう、誠」
小さな声で、誠人形に向かってそう言った。
成海からはその横顔しか見えなかったが、微笑んでいるような、優しげな、それでいてどこか強張ったような顔つきで、じっと枕に描かれたニコニコ顔を見つめている。しばらく黙り込んでそうしていたかと思うと、くるりと仏壇のほうを向いた。
「なるちゃん、お参りさせてもらうよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
きちんと正座して、手を合わせる。ずいぶん長いこと、その背中は動かなかった。
「──……」
自分以外の人間が両親の位牌に手を合わせてくれるのも、この部屋に自分以外の誰かの存在があるということも、ひどく久しぶりだ。
成海は身動きもしないで、晃星の後ろ姿を眺めていたが、すぐにはっと我に返った。ぼんやりしていないで、コーヒーでも淹れよう。
この状況に、変に慣れてしまってはダメなのだ。一人でいるのはなかなか慣れることが出来ないが、どういうわけか、誰かがいるということにはすぐに慣れてしまう。そしてそのことに慣れてしまうと、また一人に戻った時、以前の何十倍にもつらく感じる。
コーヒーメーカーをセットして、それがポコポコという音を出しはじめた頃、晃星が立ちあがって近づいてきた。
キッチンの椅子に腰を下ろし、漂ってくるコーヒーの香りに目を細める。
「いいねえー。誰かが俺のためにコーヒーを淹れてくれるのって」
「お店では、常陸さんが晃星くんのためにキリマンジャロを淹れましたよ」
「それとこれとは違うでしょ。家の中で、俺だけのために、っていうところが肝心なんじゃん。最近、ずっとこういうのとはご無沙汰だったからなー」
「…………」
じゃあ、以前は晃星のためにコーヒーを淹れてくれる誰かがいた、ということかな、という思考が頭を掠めた。
それはどういう人なのだろう。母親か、それとも恋人か。今は違うということなら、現在の晃星は一人暮らしをしているということなのだろうか。どこで? どんなところで? どんな風に?
成海はその疑問の答えを、何ひとつ知らない。
「じゃあ、私、今のうちに着替えて」
「知りたい?」
「え」
晃星を見ると、彼は今までの笑みを消して、こちらに真っ直ぐ視線を向けていた。
一瞬、心臓が縮んだ。
「……着替えてきますね」
「俺のこと、知りたい? なるちゃん」
「…………」
どういうつもりで晃星がそんな質問をしてくるのか、成海には判らない。けれど、テーブルに肘を突き、こちらを覗き込んでくる琥珀色の瞳は、いつもと違って真剣なものを帯びている、ように見えた。
ぐっと手を拳にして握る。
眼差しが揺れた。心も揺れた。足がどちらへ向かうか迷うように震えた。テーブルのほうへか、あるいは、背後にある自室へか。
けれど成海は結局、その場から動かず、何も言わずに、小さく首を横に振った。
「──そう」
晃星は少しだけ寂しげに笑ってから、そのまま口を閉じた。
***
自分の部屋で着替えを済ませてからまたキッチンに戻ると、晃星に「さて、何を食べに行こうか?」と訊ねられた。普段と同じ気さくな顔つき、明るい口調に、ほっとすると同時に、胸の一部がわずかに痛む。
コーヒーを二つのカップに注ぎ、晃星に差し出してから、自分も口をつけ、首を傾げた。
「そうですね……何にしましょう」
「なるちゃんは、家にいる時、いつもどういうもの食べてんの?」
「適当に」
「適当って?」
「すみません、詳細は言えません」
「余計に心配になるんだけど?! え、なるちゃん、料理は出来るはずだよね? 家事は一通り全部出来るって誠が威張ってたの聞いたことあるよ」
「一人だと材料が余って、かえって不経済だし……」
「出た節約精神!」
呻くように叫ばれた。オバケみたいに言うのはやめて欲しい。
「そんなんで身体でも壊したら元も子もないでしょ。ちゃんと食べようよ、頼むから」
「食べてますよ。お仏壇にお供えするから、ご飯だけはちゃんと炊いてますもん」
「おかずは?」
「適当に」
「すげえ不安! なに食べてんのさ! ちょっと待った、なるちゃん、俺にちゃんと説明して? バイトが休みの日、ここに帰ってからまず何をするわけ?」
「えーと、まず、お父さんとお母さんと誠ちゃんにただいまって挨拶して」
「うん」
「宿題をして」
「うん」
「適当に食べて」
「…………」
「お風呂に入って寝ます」
「…………」
晃星は腕組みをして、難しい顔で考え込んでしまった。
それから、「よし、決めた!」ときっぱりした声を上げた。
「本日の外食は中止! なるちゃんは今からとっとと宿題を片付ける! 俺はその間に買い物に行って、しこたま材料を買い込んでくるから、二人で腐るほど作って、吐くほど食べる!」
「腐るのも吐くのももったいないですよ」
「うるさいよこの子は。もう決定! パフェも家で作ろう。アイスと生クリームとフルーツがあればいいでしょ。ほら、そうと決まったら、なるちゃんは宿題を済ませておきな」
畳みかけるように言うと、晃星は椅子の背もたれにかけてあった上着を引っ掴み、肩にかけて、慌ただしく玄関のドアを開けて外へと出ていった。
成海が宿題を終えて少ししてから、晃星が宣言通り、山ほどの食材を抱えて帰ってきた。
「せっかく生クリームがあるんだからクリーム系のパスタと、肉とサラダ……サーモンはサラダに入れるかな……カルパッチョでもいいか。じゃあスープはあっさりしたやつにしてと」
買ってきたものをテーブルの上に広げながら、あれこれと計画を練っている。その多すぎる量にも驚いてしまったが、晃星がなんの迷いもなくメニューを決めていくのも驚いた。材料も、目についたものを見境なく、というわけではなく、ある程度は頭の中で何を作るか計算されて買ってきたものらしい。
腕まくりをして、包丁を手にするその姿も堂に入っている。玉ねぎを器用にみじん切りにしていくのを見て、成海は心から感嘆の声を上げた。兄はこういったことはからっきしダメなほうだったから、なおさら新鮮だ。
「すごい、晃星くん。料理出来るんですね」
「まあ、プロ級とは言わないけど、それなりに」
あっさりそう応じてから、成海と目を合わせて、にやっと笑う。
「なんで? とか、誰に習ったの? とか思うでしょ」
「…………」
思わず言葉を呑み込むと、晃星は口元の笑みを少し違うものに変えた。「──あのさ」と、静かな声を出す。
「俺がさっき、隣の女の人になんて言ったか、わかった?」
いきなり話題がずれた。え、ときょとんとする。
「いえ、わかりませんでした」
「Curiosity killed the cat.『好奇心、猫を殺す』。過剰な好奇心は、身を滅ぼすってことさ。何にでも首を突っ込んでいくのは、俺はあんまり良いことだとは思わない。それで余計な危険を背負い込むこともあるしね。……でもね、なるちゃん」
「はい」
「臆病すぎるのも、あんまり良いことだとは思わない」
冷凍庫の中にしまおうと大きなアイスの箱を持ち上げていた手を止めた。
「たとえば、このしんとした場所で、ビビりのなるちゃんは、一人で宿題をしながら、適当に何かを食べながら、ちょっとした物音にもびくびくして、毎日を過ごしてるのかもしれない。仏壇のお父さんやお母さん、それからあの枕に向かって、いろいろと話しかけては、時々泣いたりしている──のかもしれない」
晃星の目は成海から外れ、手元に向かっている。
彼の言葉が途切れて、成海も何も言わずにいると、とん、とん、という玉ねぎを刻む音だけが室内に響いた。
「けど、なるちゃんは、それを誰かに見せようとはしない」
「…………」
「ものすごくヘコむことがあっても、何か困ったことがあっても、寂しくてたまらない時があっても、それを口に出すことはない。せっかく、古くさいとはいえ、ケータイっていう文明の利器があるにもかかわらず、メールを出すことすらしない。決して、自分からは、他人に必要以上は近づかない。強いからじゃない。……怖いからだ」
また失うのが、怖いから。
「──それじゃ、君はいつか壊れちまう」
晃星はぼそりと呟いて、包丁でまな板をとんと叩いた。
「…………」
アイスをしまい、冷凍庫の扉を閉めて、下を向く。
それは同情ですか、と喉元まで込み上げた問いを、なんとか飲み下した。
好奇心、猫を殺す。
……知りたいと願う心は、時に、致命的な傷になり得てしまう。




