17.三者面談
「常陸さん、どうして」
座っていた椅子から立ち上がり、混乱しきって問いかける。その成海を見て、征司は少し意外そうに目を瞬いてから、「あれ、聞いてなかったんだ」と苦笑した。
「てっきり君はもう了解してるものとばかり……でも、説明はあとにしよう。すぐ先生が来るから、とにかく話を済ませてしまおうか」
「話?」
何がなんだか判らない成海はひたすら困惑して繰り返すしかなかったが、もう一度質問を口にする前に、再び教室の戸が音を立てて開いた。
「どうも、お待たせしました」
と軽く頭を下げながら入ってきた上田は、征司の姿を見ても、取り立てて驚いた様子は見せなかった。それどころか、まったく当然のように彼に対して着席を勧め、自分もガタガタと机を動かし成海と向き合う形にして椅子に座る。淡々としたその顔つきと口調からは、最近の成海に向ける苛ついたものが、綺麗さっぱり拭い取られていた。
征司も何食わぬ顔をして成海の隣に腰を下ろし、小さな声で、「座って」と未だ立ったままの成海に促した。
これでは完全に征司を保護者とした三者面談の形ではないか、と思いながらも、上田と征司がこの状況をすっかり受け入れているように見える以上、自分一人がいつまでも突っ立っているわけにもいかない。とにかくちょっと落ち着こう、というつもりで、成海も仕方なく席に着いた。
「……あの」
「今日はわざわざ足を運んでいただいてありがとうございました」
「いえ、僕のほうも、こちらの都合に合わせていただきまして」
まず事情説明をしてもらいたい成海を余所に、担任と征司はさっさと挨拶を交わしてしまっている。しかしそれは、どちらもかなり表面上の礼儀正しさで、そのことをお互い隠そうともせず、相手が判っていることを自分も承知している──というような、成海にはどうにも座り心地の悪い、「大人同士」のやり取りに思えた。
「では早速ですが」
と言いながら、上田が手に持っていたファイルを机の上に置く。早速ってなに? と成海は疑問符ばかりが頭に浮かぶ状態だが、隣の征司は椅子の背もたれにゆったりと体重を預けて、ええ、と返事をした。
「──天野さんの進路について、話し合いたいと」
「ちょ……」
ちょっと待ってください、と成海は慌てて言葉を挟もうとした。その話は、成海と担任の二人で話し合いたいと申し出たはずではないか。それについて了承を得られていないのは理解しているが、だからって第三者の征司の前でするような話ではない。成海は一言だって、そんなことを同意した覚えはない。
異議を唱えようと身を乗り出した成海を、征司が静かに片手を上げて遮る仕草をした。上田はこちらを見もしない。
「どうぞ、続けてください」
「常陸さ」
「本人は、就職を希望しているということです。進学は、成績上、不可能ではありませんが、金銭面で何かと問題があるということで」
上田はファイルを見ながら事務的に話したが、その説明からは、兄についての事情がすっぽりと抜け落ちていた。
「学校側としては出来る限り生徒には進学をしてもらいたいと願っているところなのですが、家庭の事情でどうしてもやむを得ないという場合には、こちらでも就職先を見つける手助けをします。学校が仲介に入るわけですから、当然それなりの責任として、のちのちにトラブルの種になるような事態は避けねばなりません。そこまでは、ご承知いただいてるわけですよね?」
上田のその持って廻った言い方の真意に気づいているのかいないのか、征司は最初とまったく変わりない穏やかな微笑で、ええ、と頷いた。
「未成年の就職の際は、保護者の同意はもちろん、身元引受人を求められることが、まあ、一般的です。普通は親や親類がなるものですが……」
一旦言葉を切って、ちらっと征司の顔を見る。続きを征司がすらりと口にした。
「正当な理由があれば、他の成人でも構いませんよね? ある程度の収入があって、自分の地盤を築いている人間が身元を保証するのなら、何かがあった時にあちらも安心ということでしょう。僕は、成海ちゃんとの血縁関係はないけれど、小さいながら店を持っていて、地域ともそれなりに友好的な関係を保っているほうだと思いますから、さほど問題視されないと思いますね」
成海は今度こそ目を丸くした。
ここに至って、いつの間にか、征司が成海の身元引受人になる、ということが二人の間で暗黙の了解になっていると気づいたのだ。
どうして、そんなことになっているのか。成海本人の意向を、まったく無視した形で。
「待ってください、常陸さん、先生」
強引に割って入ろうとした成海を、上田は迷惑そうに一瞥しただけで相手にしなかった。征司はこちらを向いてくれたが、長い人差し指をそっと唇に押し当てて、成海の言葉を押し戻した。
「いいから、成海ちゃん。あとでゆっくり話そう。今は黙って見ていなさい」
「でも」
成海はなおも言いかけたが、征司は上田に向き直ると、二人だけでの会話を再開させた。
「しかし、この時期からだと、就職も難しいかもしれないというのが本当のところです。そもそも募集自体、そんなに数が来ているわけじゃないので」
という上田の言葉に、考えるように口許に手をやる。
「……とにかく、本人が納得できるまでは、そちらもなるべく手を尽くしてください。どうしても就職するのが不可能となったら、その時はその時で考えます。僕は、なにも無理に就職しなくても、進学させてもいいと考えているし」
「──……」
成海は、征司の言っていることが理解できない。
その時はその時で考えるって──誰が?
進学「させてもいい」、って、どういう意味?
「現在のこの子の家庭環境が非常に複雑なのは先生もご存じのことと思いますが、僕は、そんな状態ですぐに社会に出て行かなくてもいいんじゃないかと思うんです。友人の大事な妹に、なるべくこれ以上、つらい思いはさせたくないですしね。とにかく、高校を卒業して……今後のことは、それからゆっくり考えてもいいんじゃないかなと」
「そうですか、そういうことなら」
征司の答えに、上田はありありと荷物をひとつ背中から下ろしたという安堵感を漂わせて、大きく頷いた。
相変わらず成海のほうは見ないまま、開いていたファイルをパタンと閉じる。
「それではこちらも、就職先を大急ぎで検討します。企業のほうとも何かと連絡を取り合うことになるかと思いますが、その場合、天野──さんの保護者については」
「両親がすでに亡くなっている、ということを正直に先方に伝えてください。その時点で断ってくるような差別意識のあるところなら、さっさと切っていただいて結構。この子の唯一の肉親である兄は、現在、仕事で長期の不在となっている、と。だからその兄の友人が、実質的な保護者代わりをしている、ということでよろしいんじゃないですか」
征司の言い方と微笑は、やや皮肉の混じったものだったが、上田はそれにも安心したように、何度も頷いて見せた。きっと本当に本心から、それが事実だと思いたいのだろう。「では、そういうことで」と椅子から立ち上がると、軽く頭を下げてから、早足で教室を出ていく。
最後まで、彼は成海には声をかけることもなかった。
「……やれやれ、あれが担任じゃ、成海ちゃんも大変だ」
息をつきながら、独り言のようにそう言って、征司も立ち上がる。硬直したまま身動きも出来ないでいる成海を振り返り、口許に笑みを浮かべた。
「とりあえず、ここを出ようか。お茶でも飲みながら話そう」
***
学校近くのファミレスに入り、固い表情で一言も発しない成海と向い合わせに座って、征司は困ったように笑った。
今日の征司は、いつも店で見る白いシャツに黒エプロン、という姿ではない。もっと明るくラフな格好で、だからこそずっと若々しく、整った顔立ちがますます映えている。さっきから、客やウェイトレスが、こちらを気にしてちらちらと視線を投げかけているが、しかし今の成海に、そういったものを気にする余裕は一切なかった。
「そんなに怒らないでもらえるかな、成海ちゃん」
「──怒ってなんて、いません」
テーブルに置かれたコーヒーカップを見つめて、ぎこちなく、声を喉から引っ張り出した。
成海は怒ってなんていない。ただひたすら、混乱し、納得できない、それだけなのだ。
「実はね、月曜日、君の友達から店に電話があって」
弾かれるように顔を上げて征司を見た。
友達?
「園ちゃん……園加ですか」
「うん、そう、園加ちゃんだ。そういう名前だった」
思い出すように、征司が視線を遠くにやってゆっくりと頭を動かした。無意識のように手前にあった白いカップを取り、唇に持っていく。中の液体を口に含んでから、ちょっと顔を顰めた。
「不味い」
と小さく呟く。
「……突然だけど、折り入って話があるから、夜に店に行ってもいいか、と言われてね。僕もびっくりしたけど、成海ちゃんのことだと言うし、了解したんだ。君には黙っていてくれとも口止めされていたから、言わなかったんだけど」
「…………」
では、月曜の夜、閉店後に店に来た客は、笙子ではなく、園加だったのか、と思ってぎゅっと膝の上で拳を握った。それを知っていれば、なんとしてもあの日、園加が来るまでその場に居座っていたのに。
思い返してみれば、今日の園加は朝から妙にそわそわしていた。言い訳のように、「あんたは怒るかもしれないけどさ、あたしだっていろいろ考えてんのよ」というようなことを何度か言っていた気もする。放課後のことばかりに意識が飛んでいて、それをちゃんと確認しなかった自分が悪かったのである。
「彼女、ずいぶん君のことを心配してたよ。事なかれ主義で話の通じない担任に、さんざん苛められてる、って。君は遠慮深い性格だから、誰にも何も言えなくて、一人で困ってるのだろう、でも自分じゃ力にはなれない、じれったくてもどかしくて腹が立ってたまらない──ってね」
友人のその行動には、成海が何も言わずに黙っている、という選択をしたことにも原因があるに違いなかった。それが結果として、心配していたのとは別の方向で、彼女を暴走させることになってしまったのだ。
「あの子はね、だから形だけでも、君の保護者役になって面談に出てもらえないか、と僕に言いにきたんだよ。とにかくそういう存在と話をしたという既成事実だけでも作ってしまえれば、あの担任は満足するだろうから、って。なかなかしっかりしているし、人をよく見ているなと、今日、あの先生と実際に会って話をしてみて、実感したよ。あれは確かに、他人に責任を押しつけてしまえばそれでよし、っていうタイプだ」
今度は上田のことを思い出したのか、くすくす笑う。
つまり、園加は征司に、「一回限りの担任の話相手」というつもりで今日のこれを頼んだ、ということなのだろう。しかし成海は、とてもではないが、そこまで楽観的には受け止められない。
「ご迷惑をおかけしました」
深く頭を下げる。コーヒーカップを持ち上げたままの征司と、まっすぐ目を合わせた。
「園加を心配させたままでいた私がいけなかったんです。こんなことになるなら、ちゃんと説明をして、大丈夫だからとはっきり言うべきでした」
「お友達を、怒ってはダメだよ。君のためを思ってしたことなんだから」
「怒ってはいません。でも、結果的に、常陸さんを巻き込むことになって」
形だけ、なんて、そんなことが出来るわけがない。一度保護者の代わりを名乗り出たからには、これからもそうやって扱われる。上田は今後、就職のことで相談する事柄──いや、もっと言うなら、成海のことで責任を負う誰かが必要になった時には、迷うことなく征司にその役割を求めるだろう。なにより征司自身が、就職活動の際には、自分の名前を出して構わないという態度をとっているのだから、なおさら。
成海は、そんなことは望んでいなかった。
「先生には、私から……」
「成海ちゃん」
カチン、と音を立てて、征司がカップをソーサーに戻した。両腕の肘をテーブルの上に置き、上半身を乗り出して、成海に顔を寄せる。
「君にももう判っただろう? あの先生に、君の理屈とやり方は通用しない。君の友達が正しい。これが、最善の方法だ」
静かに、きっぱりと言った。
「──これから、僕が、君の保護者の代わりになる」
成海は征司の顔を見た。微笑を浮かべてはいるものの、それは意向を訊ねるというものではなく、決定事項を告げる口調だった。
「……そんなわけには、いきません」
「なぜ? 現実問題として、君にはそういうものが必要だ。今回のことだって、一人ではどうしようもなかった」
「…………」
どうしようもなかった。それはそうだ。けれど、成海は諦めてはいなかったし、これからも努力をするつもりだった。
「あの先生の相手をするには、君では荷が重いだろう。独善的で、思いやりもないし、生徒を守ることよりも自分の仕事を済ませることを優先させる。さっきだって、君のほうを見ようともしなかった。その点、僕が相手なら、話もずっとスムーズに進んだだろう?」
「でも」
「何もそう頑なに考えることはないよ。僕は天野が帰ってくるまでの、ただの代理だ。君は僕を利用するくらいのつもりでいればいい。これからも呼ばれればいつでも学校に行くし、求められれば面談だってちゃんと出席する。成海ちゃんは、隣でそれを見ているだけでいいんだよ。あの先生相手に孤軍奮闘するよりは、よほど楽だと思うけど」
「…………」
にこ、と笑われて、成海は口を閉じた。
頑なに考えることはない、と征司は言う。
晃星も、成海のことを、頑固だと言っていた。
二人の言っていること、成海のためにしてくれることは、非常によく似ている。
でも──違う。
隣にいてくれて、「大人」の話相手を求める人物との交渉役を申し出てくれて、手を貸してくれる。
それは同じだけれど、征司と晃星では、多分、本質的なところで違う。
確かに晃星は、困っている成海に手を差し伸べて助けてくれた。けれどそれは、頼らせたり依存させたりするためではなかった。いつでも、当事者は成海、という前提で話をしていた。口には出さないけれどおそらく、晃星の言動の最終的な目的は、成海がこれから一人でやっていけるように、というところに置かれていた。
……「見ているだけでいい」とは、彼は、きっと言わない。
それは、性格の違いなのだろうか、それとも、優しさの方向性の違いなのだろうか。
そして成海は、どうしてか、征司の「優しさ」のほうが、格段に心に重い。楽でいい、とは、とても思えない。
「常陸さんに、そこまでしていただくわけにはいきません」
「僕は天野誠の友人で、現在の君の雇用主でもあるんだよ」
それから、征司は少しだけ、声音を落とした。笑みを消し、真面目な表情で、成海の顔を覗き込む。
「出しゃばりすぎ、と君は思うかもしれないけど」
「そんな」
そういうことではない。成海は否定のために慌てて手を振ったが、征司は掌でそれを制した。
「僕もそう思う……思ってた。最初に、天野のことを訊ねに成海ちゃんが僕の前に現れた時から、君のことは、ずっと心配してたよ。高校生の女の子が、たった一人ぽつんと取り残されて、どんなに大変だろうと思うくらいの想像力は、僕だって持ってるからね。でも、僕はただ天野の大学の先輩という立場でしかないし、ましてや男だしね。あまり踏み込みすぎても、かえって悪い噂を引き起こすことにもなりかねない。だからせめてというつもりで、うちの店のバイトを勧めたんだ」
「はい。とても助かりました」
ですからそれで十分です、という言葉を出す前に、征司が続けた。
「でも、今考えると、それはやっぱり、中途半端なことだったと反省してる。それだけでは、君の不安や心細さはまるで埋められるものじゃなかった。君の心の傷はとても深くて、もっとちゃんとしたケアが必要だったんだ。精神が不安定な時に優しくされれば、相手がどんな人間だって盲目的に傾倒してしまう、というところにまで頭が廻らなかった」
晃星のことを言っているのだと、すぐに判った。
「……八神さんは」
「ああ、うん、ごめん。成海ちゃんはそうは思いたくはないんだろう。でも、僕の目から見て、どう考えても、その男は君の気持ちにつけ込んでるとしか思えない。僕はそれを放置しておけない、どうしても。成海ちゃん、その八神という男は、『今の』君の力にはなってくれたかもしれないけど、『これからの』君の力になり続けるわけじゃない。どんな思惑があるにしろ、いずれすぐに姿を消すことになるだろう。だからこそ、自分のことについて、何も話そうとはしない。そうじゃないかい? 君にとって、本当に必要なのは、一時的に楽しい気分にさせてくれる存在なんかじゃなくて、この先も長期的に君を支え続ける存在なんじゃないのかな」
「…………」
唇を結び、目を伏せる。
晃星が、ずっとそばにいるだなんてことは、成海だって思っていない。望んでもいない。
いつか、彼も成海の前からいなくなる。
知っているつもり、判っているつもりだった。けれど、それを言葉にしてはっきりと投げつけられると、心臓が鷲掴みされるように苦しかった。
「成海ちゃん」
ふと、征司が声を和らげた。
「冷静になって、よく考えてごらん。僕が保護者の代理になっても、君にデメリットはないはずだ。人に気を遣ってばかりじゃなくて、たまには甘えてみるのも、世の中を生きていくには大切なことだと思うよ」
「…………」
成海はしばらくの間黙り込んで、よく考えます、と小さく言った。
***
車で来ているから送るよ、と征司は言ってくれたが、一人になってゆっくり考えたい、と断った。そう、と答えてそれ以上は強いたりしない征司は、やっぱり大人だなと思う。
挨拶をして駅へと向かう成海の後ろから、スポーツタイプの黒い高級車が、追い抜きざま軽くクラクションを鳴らした。顔を向けると、運転席でハンドルを握った征司が、にこっと笑いながら軽く片手を挙げ、傍らを通り過ぎていった。
何をしてもカッコイイ人だ。洒落たお店を持っていて、素敵で、そつがなくて、優しい。女の子なら誰でも憧れるような男性だと成海でも思う。あんな人が兄代わりになってくれると言うのだ、自分には贅沢なくらいにありがたい申し出だと大喜びするところなのかもしれない。
──でも……
胸の中にもやもやしたものを抱えたまま、電車に乗って、駅から家までの道のりを歩いた。
すでにすっかり陽が落ちてはいるが、まだ夕方と言ってもいい時間帯なので、バイトから帰る時ほど真っ暗ではない。立ち並ぶ家々はほとんど明かりが灯っているし、人通りも車の通りもある。
そういえば最近、ずっと走るのをサボっているなあ、と成海はぼんやりと考えた。バイトが終わると、晃星から電話がかかってくることが多いから……
と思っていたまさにその時、鞄の中で携帯が電子音を鳴らしたので、全身でびくっとした。
「す……すごいタイミング」
心臓を押さえながら携帯を取り出して開いてみると、メールが一件届いている。差出人はやっぱり晃星だ。彼は超能力でも持っているのかと成海はかなり本気で疑った。
『なるちゃん、メリーさんの話、知ってる?』
「……は?」
本文に書かれているのは、それだけである。何度読み返してみても、他に文章はない。なに、これ? と成海は首を捻った。なぞなぞかな?
メリーさん、ってなんだろ。羊? でも、あれは童謡か。話、というと──
ひょっとすると、あれかな、と思いついた。都市伝説というか怪談というか、ある日いきなり知らない女の子から電話がかかってきて、「私、メリーさん……」というやつだ。切っても切ってもかかってきて、メリーさんの口にする居場所がどんどんこちらに近づいてくる。そして最後には、「私、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」という有名な台詞を……
「わっ!」
「きゃあああっ!!」
いきなり後ろから両肩をポンと叩かれて、成海は悲鳴を上げた。
そのまま猛ダッシュで駆けだして逃げようとしたところで、「ちょ、待っ、ごめん俺が悪かった!」と慌てた声がして腕を掴まれる。
「……え」
聞き覚えのある声に、なんとかかろうじて理性を取り戻し、足を止めた。
涙目になっておそるおそる振り返ると、そこに立っているのは、スマホを手にした晃星だ。
ほー……と力が抜けてその場にしゃがみ込みそうになった成海を、晃星がさらに慌てたようにもう片方の腕を取って支えた。
「こ……晃星くん、ひどいです……」
「ごめん。そこまで驚くとは思わなくて。いやホントに」
前半は本当に申し訳なさそうに謝っていたが、後半から言葉が震えはじめた。唇の端がぴくぴくしていて、今にも噴き出しそうになっているのが明白だ。
「反省してませんよね?」
「してるしてる。心からしてる。I’m so sorry.」
ウソだ。だって垂れ気味の目が完全に笑っている。
晃星は、成海がつい放り出してしまった鞄と携帯を拾って、パンパンと汚れをはたいてから返してくれた。しょうがなく、むくれながらそれを受け取る成海の顔を、上体を屈めて覗き込む。
「…………」
この顔、人をからかう時の顔だ、と後ずさった。成海とて学習能力はある。
「なるちゃんてさあ」
「なんでしょう」
「実はものすっごい、ビビりでしょ」
「そんなことありません」
速攻でキッパリ否定したら、どういうわけか、晃星の疑惑は確信に変わってしまったらしい。なぜ。
「突然の声とか音とか接触とかに、極端に弱いタイプでしょ。以前、後ろから肩を叩いただけで過剰な反応をしたのも、痴漢と思って警戒したというより、単にビビったからなんでしょ」
「違います」
「携帯の着信音が鳴っても、それだけでびくっとするでしょ」
後ろから見てましたね?
「そんなこと、全然まったくありま」
「わっ!」
「きゃあっ!」
晃星の大声に飛び上がる。
はっと気がつけば、晃星はお腹を押さえて笑っているし、通行人は歩きながらこちらをジロジロと見ているしで、顔が赤くなった。
くるりと身を翻し、アパートに向かってすたすたと歩きだす。晃星が追ってきて、「ごめんごめん」と笑いながら謝った。
「なるちゃん、メシ食いに行こうよ」
「ナンパはお断りです」
「ごめんってば。可愛いから、つい。お詫びになんでも好きなもの奢る。パフェもつける。ね?」
「晃星くん、いつ帰ってきたんですか」
「わりとさっき。どうせ夕飯食べるなら、なるちゃんの顔見ながら食べたいと思って」
「…………」
ぴたりと足を止める。
晃星を見ると、ん? というように首を傾げた。そこに、さっきまでのからかう色はもうない。けれど、彼の内心を窺わせるようなものも見つけられなかった。
「しばらく」出かける、って言ってたのに。
──来てくれたのは、月曜の夜の電話が理由かと訊ねても、晃星は絶対に答えをはぐらかすのだろう。
征司とは違う種類の優しさ。どうしてこんなにも、泣きたいような気持ちになるのか判らない。
その顔から視線を外し、少し下を向いて、ぽつりと言った。
「……パフェ、食べたいです」
晃星が、うん、と柔らかく言って目を細めた。




