補遺3:詩論ではなく、詩の認識であるということについて
この一連の文章を、私は「詩論」と呼んで紹介してはおりますが、タイトルにもあるように、正確にはこれらは「詩の認識」であるに過ぎず、「詩論」ではありません。読まれるとその部分はすぐに分かるかと思います。科学的検証は一切されておりませんし、何よりも客観的な事実を述べておりません。言ってしまえば私の主観を述べているに過ぎないのです。ですからもとより私は、これらを「詩論」と呼ぶことに抵抗がありました。それでも敢えて「詩論」と呼ぶのは、全くもって便宜的な意味合い以外の何ものでもありません。正確には、「私自身の詩の認識」なのです。
ですが、この私の認識が、言わば普遍的な共通原理にまで至る可能性が全くないかと言えば、そうではないと思っています。詩とはそもそも(詩に限らず、あらゆる芸術が)霊的なものですから、その原理原則の根本は霊的態度で見つけるべきものだと言えるでしょう。ですがそれができない場合のやり方を、科学的方法で見つけ出せるのかと問われたならば、それに対しては「不可能だ」と答えるより他にありません。誰にも、霊視内容を科学的に説明することはできないでしょう。霊視という行為が脳をはじめとする私達の感覚器官にまで降りてきた場所からならば、科学を用いることができます。霊視内容として詩人が捉えた内容が、実際の言葉となって表現されるところからは、科学的な検証を入れることができます。ですがそのように科学的検証が入る場所から詩を理解しようとしても、理解できるのは言わば表の部分だけです。表の部分を理解することはできるでしょう。そしてそれは、詩人にとっても読み手にとっても役立つに違いありません。しかし、それが詩の全てだと解釈してしまうと、たちまち詩そのものは生命を失ってしまいます。霊視内容に関する部分は、ただ霊的な認識をもとに科学的な「態度」で検証するより他にありません。であれば、霊的な認識を持たない場合には、詩の完全な理解への道は閉ざされてしまうのでしょうか。おそらく、完全な道は閉ざされるでしょう。しかし、私達の感覚で認識できるものから、推測することは十分可能だと思います。この時に必要なのは、むしろ主観的な意見だと私は考えています。詩人ひとりひとりの、詩に対する主観的(かつ霊的)な認識が必要なのです。例えば十人の詩人の、詩に対する認識があるとします。それらは共通している部分もあれば、全く違う部分もあるでしょう。それらを集めて、客観的に検証していくことができれば、あるいは脳以前に起こることを推測することができるかもしれません。
ここで、考えられうる誤謬について記しておこうと思います。例えば、私が詩を書く時の経緯を述べますと、まず「テーマへの集中」があります。そこから得た「感情」に沈潜していく行為と、私の意志力が合わさると、直感的に言葉が現れます。その言葉を思考の力で整理しながら、実際に詩を記します。この流れのなかで、「テーマへの集中」から「感情」を得るという段階にある時、いったい私の脳にはどんな反応が起こっているのだろうか、と問うとします。それは脳科学の分野から分析し、科学的な答えを出すことができるでしょう。しかし、それはあくまで現象にすぎません。その段階の時、私の脳に起こっている現象の、単なる説明にすぎませんから、次にその現象を取り出して、そこから詩が創られる時の普遍的原理を導きだすことはできません。それは、時計の文字盤だけを観察して、「時計は一分間で秒針が一周し、一時間で長針が一周し、半日で短針が一周する。これが時計の原理だ」と言うのと同じです。文字盤に現れているのは時計の原理の表現です。ですから、文字盤の動きから原理を推測することはできますが、原理を見つけ出すことはできません。脳に起こる現象から、何らかの原理の仮説を立てることはできるでしょうが、それ以上の証明は科学にはできません。
もうひとつ付け加えておくと、この「詩の認識」は、基本的に私の経験則ではありません。経験から得たものを考察した結果の論ではなく、私なりのやり方で霊的な事実から考察した結果です。霊的な諸事実について書かれた書物は多くあります。その大半は近代以降に発表されたもので、誰でも手にすることができます(その信憑性についてはかなり注意深く検討しなければなりませんが)。私はひとつの「認識」として、それらに書かれている内容をとりあえず全面的に受け入れ、できる限り「科学的態度」を取るように努めながら考察を進めました。最終的に個人的な経験を例として挙げた箇所はありますが、考察の材料として個人的な経験を使うことは極力避けたつもりです。
上記のような態度で「詩の認識」は書かれましたから、ある意味において、これを「詩論」と呼ぶことは十分可能だと思っています。ですが、私にはこれが本当に霊的かつ科学的態度を終始徹底して書かれたものであるかどうかの判断がつきませんので、最初にも書きましたように、今の私からは、これを真の意味合いで「詩論」と呼ぶことはできません。この「詩の認識」を、ひとりの詩人の主観として読み、その隣りに自分の詩の認識を置いてもらえれば、その人にとって少なからず何らかの役に立つものとなるかとは思います。また、真の霊的認識の立場から見て、私の書いたことがその根底において本当に正しいものなのか、そこからの考察は本当に全うなのかを検証して頂けましたら、私にとって大きな励ましと喜びになります。
また、ここに書きました「詩の認識」には、ひとつの期限があります。すぐにでもこの内容は古くさいものとなっていくでしょう。もしかすると、一年後の私は全く違うことを言っているかもしれません。ですがそれは、「私が以前に書いたものは、全くのでたらめだった」と言うわけではなく、互いに矛盾する内容を述べようとしているわけでもなく、ただ、私の立ち位置が変わっただけに過ぎません。そうやってたくさんの角度から詩というもののイメージを膨らます時にのみ、詩は本来の姿を私達の前に現してくれるでしょう。