夢の中 16
顔色も良くないし、と店主は言いつつ、わざとらしく小首を傾げてちらりと唇の端を上げてみせた。
「実はね。僕も聞いてたんですよ、きみの噂。大金を、百万円を拾って警察に届けたらしい、と」
「えっ!」
驚いて、知らずうつむけていた顔を跳ね上げた。真久部さんまで?
「どうして? という顔をしてるけど、噂ってそういうものだよ。いつの間にかどこからか聞こえてくる……きみだって、どこかの誰かの何かの噂を聞いたことがあるでしょう?」
──だれそれさんは昔、大企業に勤めてて、海外のあの有名な人質事件の被害者だったんだって、とか。どこそこさんちの息子は外国にいるんだって、いや本当は引き籠りらしいよ、とか。だれだれさんちが家周りに防犯のための玉砂利を導入したけど、あれは空き巣に入られたかららしいとか。どこかの猫が仔を産んだとか。
「……」
「たいていはただの噂ですよ。話のきっかけや接ぎ穂、コミュニケーションのひとつでしかない。人は噂話が好きだというけれど、それは他人と感覚を共有することが楽しいからだと僕は思っています。人と人とのやりとり、自分と他とのやりとりが」
噂ひとつで、それが滑らかになったりもすると言う。
「だから、僕の耳にもきみの噂が入ってきたんだよ。用件だけでは素っ気ないから、『よくこちらのお店に出入りしてる何でも屋さんが』なんて感じでね、聞かされたんです」
お願いしたお弁当を配達に来た、富貴亭の若い衆からね、といつもの古猫の笑みに戻る。──富貴亭は、今風の高級料亭だ。普通は出前なんかしないんだけど、故あって慈恩堂からの注文には応じている。真久部さんはご近所の誼、なんて言ってるけど……まあ、古い道具絡みのあれこれで……。
「彼はうちの店を怖がっているから、本当は届けるものを届けたらすぐ帰りたかったんでしょうけど。それでも彼、社会人として成長したらしくてねぇ。店の者として、あまり不愛想なのはいけないと、自分なりに考えたんでしょう。だから、ただそれだけの話でしたけど」
ちなみに、若い衆はきみのこと悪いニュアンスでは言ってませんでしたよ、とさりげなく俺を安心させてくれる。
「まさに<話の接ぎ穂>です。天気の話と同じ。若い衆もお客さんから聞いたというし、どうやらこの噂は、それなりの範囲に広がっているようだね」
「──俺も、若葉町の早川さんから聞きました。噂好きな人が俺の噂を流してるって。仕事であちこちに行く関係で、俺の顔だけ知ってる人も多いから。その知ってる顔が大金を拾ったことを、ヒソヒソしてるって」
どこかの誰かではなく、見知った顔。そいつが労せず得をした──。
早川さんも、宝くじの高額当選を羨むみたいな心理なのかも、って言ってたっけ。
「つまらないことで妬む人もいるから、気をつけてって。でも、俺、権利放棄したのに……」
「思うんだけど」
真久部さんは猫が香箱を組むように、両の手をゆったりと組み合わせた。
「権利放棄したことも含めて、気に入らないんじゃないかなぁ」
ヒソヒソということは、良いようには言ってない感じじゃないですか? と言うのに、俺は曖昧にうなずくしかなかった。俺も早川さんから聞いただけだし、でも……。
「悪いことをしたわけでもないのに、って──拾ったものを警察に届けて何が悪いのかしら、っておっしゃってたから……そういうことなのかもしれません」
何でだよ、と思うけど。
「実際に大金を手にしたわけでもないのに、気に入らないからってそんなの──あ……!」
何か思い出したんですか? と、店主は読めない笑みのままたずねてくる。
「その、拾得物の手続きを終えて帰るとき、違う窓口の待合に座ってた誰かが……何か言ってたんです」
何て言ったんだっけ。
「確か……百万拾って権利放棄するなんて、はした金はいらないってことか、みたいなことを。あ、『いいカッコしやがって』とかも──」
何の窓口かは覚えてないけど、何か本人的に不本意な理由であそこに居たんだろう。自分のスマホを睨みながら、世の中の全てを睨むような、憎んでいるような、そんな荒んだ雰囲気をまとっていたことは覚えている。
「落とし主さん、焦ってたし、暑い中走り回って息も上がってて、声の調節も出来ない様子で。大きな声になってしまってたから、その人、聞こえてたというか……聞いてたんだと思います」
クサクサした気持ちのときに、たまたまそこにやってきた誰かが、大金を拾ったと聞く。宝くじに当たったみたいな幸運を、そいつは簡単に手放して、当然の権利までも放棄するという──。
「面白く、なかったのかな……だけど」
あのとき、俺は何て思ったんだっけ。
「関係ないじゃないですか。そう、あなたには関係ないじゃないですか。俺、そう思ったんです」
真久部さんは機嫌の良い猫のように目を細めてみせた。
「きっと、そういうところもだよ」
「そういうところ……?」
ふふ、と古猫の笑みをもらし、真久部さんは続ける。
「つまり、何もかもが気に入らないということです。きっかけなんか何でもいい。ただ、気に入らない。自分だったら幸運だと喜ぶことを簡単に手放して、誰かに感謝されてる良い人なのも気にくわない。さらに、そんな感情を歯牙にもかけられないのが気に入らない」
遅くなってすみません。今の仕事環境になかなか慣れなくて──と、ここまで書いて、昨夜焼いた鮭の切り身の残りを魚焼きグリルの中に入れたままだということを思い出し、皿に移してラップを掛けて冷蔵庫に入れてきたところです。涼しくなったし、加熱すればいける、はず……
13、14、15に少し手を入れ直しましたが、話の流れは変わりません。
>今風の高級料亭・富貴亭の古い道具絡みのあれこれと、若い衆
「冬の金魚」という、とても長い話の中に出て来ます。よろしければそちらもどうぞ。
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