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平泉(七)

「あ、あああ! よくも、よくもつづみを壊したな! 我が両親の形見をよくも! ウワアアァァ!!」源九郎狐はあまりの出来事に怒り狂い、芭蕉(兼房)に向かってくる。


 駆け寄ってくる源九郎狐の姿は、みるみるうちに変化が解け、武士・忠信の姿が保てなくなった。全身から毛皮が噴き出し、二足歩行の白狐のような姿に変わっていく。


 牙は鋭く尖り、口は大きく横に裂け、鼻は前に伸び、顔全体が真っ白な毛で覆われる。着ている防具を五の尾で破壊したところで、源九郎狐の勢いは止まらない。


 松明を持ったまま呆けている敵兵二人をなぎ倒し、その勢いのまま、芭蕉を目掛けて大きな爪が振るわれる。


 芭蕉がそれを刀で受けて回避できたのは、偶然ではない。どういうわけか芭蕉が借りることとなった兼房の肉体に刻まれた六十年以上の経験が、そうさせたのであった。


 一撃で刀は折れたが、芭蕉は直撃を免れて無傷である。


 床に飛び散った松明の火が、たちまち柱を駆けあがり、一瞬で館は炎に包まれていた。


「ギャアアアアアアアアアアアアアア!」


 全身が純白の毛皮で覆われた大きな化け狐は、炎に驚き、とっさに館の外へと躍り出た。


 人間の倍ほどあろうかという身長で、芭蕉のことなど一呑みにできそうな白狐だが、炎には弱いというのは、獣のさがだろうか。


「殿! ここはいったん裏手からお逃げください! 鼓は壊しました。いずれ、かけられた術も消えて元に戻れるはず。生きるか死ぬかは、元の身体に戻ってから改めて落ち着いて考えてください!」


「兼房はどうするつもりだ!」静御前の姿をした義経は、その問いの答えに薄々気付いているようであったが、それでも問わずにはいられなかった。


「ここで、命に代えても源九郎狐を食い止めまする! さあ、お行きください。奥方様とともに!」


「兼房……。今の俺では太刀は持てぬから貸してやる。だから必ず生きて戻ってまいれ」


「御意!」


すかさず義経の太刀と鞘を拾い上げた芭蕉(兼房)は、義経と奥方様が館を出る気配を背後に感じつつ、鞘に太刀を収める。


 それから、館の隅で今にも燃えそうになっていた鼓も無事に拾い上げて、館を飛び出した。


 五百年後に建て直された義経堂ぎけいどうの周辺は狭い場所という印象であったが、持仏堂の外は大きく開けているようであった。


 白狐はその中央付近で地面に転がり、背中に燃え移った炎をちょうど消し終えたところらしい。


「アアア、アツイヨォ……イタイヨォ……どうしてこんなことにぃ……もうイヤだよぉ……!」


 驚くべきことに、白狐は地面にうずくまり、声をあげて泣いていた。


「源九郎狐。ほれ、初音はつねつづみを治しましたよ。少しは落ち着きましたか」


 鼓の紐は一か所切っただけである。結べばまた音も鳴るはずだと思ったが、軽く兼房が叩いたところで、鼓は全く鳴る気配がなかった。


 どうやら鼓というのは、鳴らすのには相当な稽古がいる楽器らしい。


「拙者では上手く鳴らせないようです。……源九郎狐、こちらはあなたにお返ししますよ」


「アアッ! それは、我が鼓! いつの間に手放して……!?」


 持仏堂が燃え上がっているため、辺り一面は異様な暑さと明るさに包まれていた。


 おかげで、白狐の表情も良く見える。


 芭蕉(兼房)の手にある鼓を凝視しつつも、その言葉を信じて良いのか分からないという様子だ。


「直接受け取るのが嫌だということでしたら、地面に置いて下がっても良いですよ」


 源九郎狐の表情は、もはや怒りや狂気に取り憑かれたものではなくなっていた。驚き呆れた様子ですらある。


「いや、受け取るッ!」というと、鼓を恭しく両手で受け取って、その場に膝をついた。「我を殺さないのか、ムネフサ。先ほど、一撃でお主を真っ二つにしようとした化け物だぞ?」


「ですが、真っ二つにはなっていません。源九郎狐。あなたが身体に当たる寸前に一瞬ためらってくれたおかげです」


源九郎狐が本気で腕を振るっていれば、流石に兼房の経験があったとしても、無傷では済まなかったに違いない。


「でも、我……御恩のあるヨシツネ様にも、酷いことをしてしまった……傷つけてしまった……」源九郎狐の泣きはらした目から次から次に涙がこぼれてくる。「ヨシツネ様に嫌われちゃったよぉ……」


「あなたは幼く、そして優しすぎただけです」芭蕉(兼房)は、源九郎狐の大きな鼻に手を当てて、そっと撫でた。


 四百年を生きた化生とは言え、妖狐で言えばまだまだ若いのであろう。だから、義経がなぜ自害しようとしているのか理解できないだけだ。


 いや、正直に言えば、芭蕉とて、自害しようとする義経の気持ちを真に理解できているとは言い難いのであった。


 むしろ、主君に逆らって女子に変えてしまおうとした源九郎狐にも同情の余地があると思えた。


「さあ、一緒に行きましょう。源九郎狐」芭蕉は燃え盛る持仏堂を後に、義経たちの後を追いはじめる。


 やがて、持仏堂が崩れはじめる頃になって、ようやく大勢の敵兵が丘を上がってきたらしいことが丘の上から響いてくる音で分かった。


 持仏堂から引火し、周囲の木々も激しく燃え始めていた。兵たちも持仏堂にはしばらく近づけまい。


 中で死んでいる二人が影武者であるかどうかなど、判断できる者は誰もいないであろうと芭蕉は思った。 

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