平泉(五)
「この方の名はムネフサではなく、兼房ですよ、源九郎狐」奥方様は、狐の登場に全く驚いていない様子で続けた。「元は久我大臣に仕えた武士で、都落ちの時より妾の付き添いでこの地まで守ってくれたのです」
「源九郎狐……!?」芭蕉は驚きを隠せない。「そんな名は、聞いたこともありません!」
源九郎狐の名は『義経記』には出てこない。
「いやぁ、そうでしょうとも!」源九郎狐は、そう言って明るく笑いとばす。「我が名が『義経千本桜』とともに広く世間に知れ渡るのは、ムネフサ様が生きている時代よりも少しばかり後のことですからね!」
「またよく分からないことを……」奥方様は呆れ顔である。
「ムネフサ様にも分かりやすいように、改めて自己紹介をいたしましょう。カーンム天皇の御代、雨乞いのために狩られたるは、千年生きた狐の夫妻でございました! その夫婦狐の皮で作られたるは、こちらにございますハーッツネの鼓!」
コォーン!
再び鼓の音が鳴り響くと、芭蕉(兼房)の身体は直立したまま動かせなくなる。
「そんな夫婦狐には子がおりまして、それが我……大和の名も無きノギツネにございました! 鼓を追い求めるも、なかなか取り返す機会はないままに、時は流れ、鼓は人から人へと渡っていきます! そして機会を伺い続けること、なんと四百年! ある日、ノギツネはシズカ様の手に鼓が渡った時を見計らい、タダノブ様に化けてシズカ様をお守りする役になったのです。しかし、やがて本物のタダノブ様が故郷から帰ってきてしまい、ヨシツネ様やシズカ様に我が正体を白状することとなりました。泣く泣く語る身の上に同情してくださったヨシツネ様。なんと我に鼓を下さるというのです。我はその場で大喜び、感謝を申し上げ、以後、ヨシツネ様の窮地を影ながらお助けすることをお約束したのでございます!」
「……だというのに、これは一体どういうことだ! ……源九郎狐、早く俺を元の姿に戻せ!」と静御前の声で叫ぶ義経。静御前の姿となっている義経は、ようやく正気を取り戻したらしい。
「お約束どおりのことをしているまでですよ、ヨシツネ様! あなたは今、自分で自分を窮地に追い込み、殺そうとしています! その命をお助けすることこそ、我が役目です!」
「俺はここで立派に自害を果たさねばならんのだ! 敵に討ち取られるは武士の恥。ここで全てを捨てて逃げれば、時間を作ってくれた多くの郎党の死が無駄となる! お前には、それが分からないのか!」義経は顔を真っ赤にして怒鳴る。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
芭蕉も何か言いたかったが、残念ながら口を動かすことも叶わない。
あの初音の鼓とやらが、この金縛りを起こしているのだろう。
源九郎狐の言うことが真実だとするならば、千年を生きた狐の力が込められた鼓ということだ。尋常な力ではない。
「奥方様がともに逃げようと提案された時に、すぐに皆でここを出立すれば良かったのです! それを自分一人でここに残るなどと言い張って、奥方様を遠ざけようとなさるから……。奥方様もあなたとともに死ぬことを選ぶ羽目になってしまった。あぁ、そんなこと絶対に許せません! たとえ女に変えてでも、あなたには生きてもらいますよ、ヨシツネ様!」
「源九郎狐ぇ!」床に落ちている太刀を拾って源九郎狐に切り掛かろうとする義経であったが、静御前の細腕では、太刀を拾って構えるだけで精一杯であった。震える手に力が入らないことに気付いて青ざめる。
その直後、持仏堂の戸が蹴破られた。
「義経ぇ! どこだ!」松明を持って土足で入ってきた二人組は、義経の郎党ではないだろうと芭蕉にもわかる。恐らくは敵である。
「しまった、もうここまで攻め込まれたのか!」思わず太刀を構える義経だったが、それを見た二人組は失笑する。
「おいおい、どこの誰だか知らねぇが、華奢な姉ちゃんが太刀なんざ握って何ができるって?」軽く刀で払われただけで、太刀は再び床に転がってしまった。
「この女、芸人みてぇだぜ。義経の妾じゃねぇのか?」下卑た笑みを浮かべて、二人組は言う。
「ふざけるな! 俺こそが義経だ!」凄んで見せる義経だが、二人組はまるで信じていない。
「健気な女だぜ。義経はお前みたいな美人じゃねぇよ」などと言って笑っている。
静御前となった義経は、悔し涙を流すことしかできなかった。
芭蕉は義経の出てくる物語、いわゆる判官ものが大好きである。様々な脚色がされた能や浄瑠璃なども知る芭蕉であったが、このような話は聞いたことがない。
このままでは歴史が大きく変わってしまう。




