石巻(五)
現代日本では、三陸沖で春から夏にかけて海霧が発生しやすい理由は解明されている。
南風によって運ばれてきた暖かい湿気を含んだ空気が、寒流である親潮(千島海流)に触れることで霧を作り出すのだ。
しかしながら、芭蕉たちが生きた江戸時代初期は、濃霧は得体の知れない現象であり、恐怖と結びついていたことは想像に難くない。
「芭蕉先生! 霧が! 霧がどんどん濃くなっています!」曾良の顔が青ざめていく。
「落ち着いてください、お客様。この時期、海霧が出ること自体は珍しくありません」四兵衛が顔色一つ変えずに言う。
「よくあることなのですか。それなら問題ないですね」狐娘芭蕉は少し落ち着きを取り戻したが、舟の縁を強く握りしめた手は震えている。
「海霧の向こうから呼びかけられても、返事をしてはいけない。この辺りではそう言われています」四兵衛がとんでもないことを言ったのを芭蕉は聞き逃さなかった。
「四兵衛殿、それはどういう……」
「バショウ……センセイ……」不意に、舟の前方から聞いたことのない声が聞こえた。
「いま、誰かが芭蕉先生のことを呼びませんでしたか?」曾良は小声で芭蕉に尋ねた。
「怖いことを言うのは止めてください。曾良君。怒りますよ」芭蕉は元々こういう怪談話の類が大の苦手であった。自分が怪談話として語られる側の存在になってしまっていることは棚に上げて、少し涙目になっている狐娘である。
霧に怯えている狐娘も可愛い、と曾良は旅日記に書き残しているが、この直後に走り書きは途絶える。
「曾良君? どうかしましたか」芭蕉は急に押し黙った曾良のことが心配になり、声を掛けた。
返答はない。曾良は顔を前方に向け、口を薄く開けたまま呆然としている。
確かに曾良の目は開いているのに、その目は何も見ていない。眠っているような雰囲気ですらあった。
芭蕉が呼んでも揺らしても、つねってみても反応がないのだ。
「四兵衛殿、もしや、これは先ほど話されていたことと――」
四兵衛は、曾良の様子を素早く確認し、芭蕉の言葉を制するように開いた手のひらを向けてくる。
それからすかさず、走り書きで「会話禁止」と書いた紙を見せてくる四兵衛。その額には冷や汗が浮かんでいた。
いま思えば、恐らく、先ほどの曾良の発言が強引に『返事』として受け取られたのだ。
霧の向こうから、波間に幾人かの人影が見え始める。
舟に乗っているようだが、霧に隠れて形が判然としない。
「バショウセンセイ……」「ソラ……クン……」生者の声ではない。
芭蕉も一度くらいは噂を耳にしたことがあっただろう。
海で死した魂が成仏できずに漂い続ける存在――舟幽霊である。
船頭も舟幽霊の姿に気付いたらしく、悲鳴をあげた。
船頭は慌てて距離を取ろうとしているようだが、亡者の乗った舟は不思議な力でじわじわと距離を詰めてくる。
『どうすればいいのですか!?』芭蕉は紙に走り書きをして、四兵衛に見せるが、明確な答えはないようであった。
そして、ついに舟同士が横付けになった次の瞬間、複数の舟幽霊の手が伸びてきて、こちらの舟を掴んでしまう。
「わああああ!!」
舟の縁を握っていた芭蕉の手を、亡者が掴んだ。悲鳴があがる。




