矢本新田
元禄二年(一六八九年)五月十日
雲一つない快晴である。
松島で馬を借りようと思ったが全て出払っており、ふたりは七里(約二十七キロメートル)離れた石巻へ徒歩で向かうこととなった。
「はっ……はっ……はっ……」
陽暦に直すと六月二十六日である。
初夏の炎天下を歩き続けるうち、芭蕉の息づかいはどんどん荒くなっていた。
ここまでは涼しい日ばかりだったので大して困らなかったが、狐娘の身体は、人間と比べて暑さに弱いのだ。
汗をかかないため、舌を出し、呼吸で身体を冷まさなければならない。
本来は歩き続けるのに向いていない身体なのである。
「曾良君。もう水が無くなってしまいました……」
杖へ体重を預け、残り僅かとなった水筒の水を飲み干した狐娘芭蕉は喘ぐように言った。
「もう少し行けば、矢本新田という町があるはずです。白湯がもらえないか訊いてみましょう」旅行中、常に気を付けなければならないのは飲み水の確保である。
迂闊に知らない土地で生水など飲んだ日には、腹が弱い芭蕉でなくても非常に危険である。
最悪の場合、命を落とすことも繋がり兼ねない。
曾良は、ようやく見えてきた民家の戸を叩く。
「ごめんください。お湯をお恵みいただけないでしょうか」
家の中からは返答がない。
「留守のようです。次に行きましょう」曾良は気持ちを切り替えた。
次の民家では、外に出ている住民と会うことができた。
「旅の者なのですが、お湯をお恵みいただけないでしょうか」曾良が先に声をかける。
「ひゃあああ!」怪訝な表情で顔をあげた住民は、狐娘芭蕉に気付くや否や、悲鳴をあげて家の中に逃げ込んでしまった。それきり、いくら声を掛けても戸は開けてもらえなかった。
「すみません。拙者は後ろに隠れているべきでした……」芭蕉は肩を落とす。
「そんなことないですよ。次こそはきっと大丈夫です」曾良はそう言うが、芭蕉は曾良の背に隠れてしまった。
しかし、次も、そのまた次も、にべもない態度で断られてしまう。
「やはり、狐娘姿のせいではないようです。旅人自体が珍しい町なのでしょう」
冷静に考えれば当然のことであった。これまでの旅が上手く行っていたのは、曾良の事前の根回しだけでなく、加右衛門などの地元の人が書いてくれた紹介状があったことも大きい。
この町には元々立ち寄る予定はなかったため、曾良は準備をしていなかった。当然、紹介状のようなものもない。
この地において、芭蕉と曾良は身元不明で怪しげな狐娘と僧なのである。そんなふたりが急に戸口に現れたら、こういう反応も致し方ないことだ。
「曾良君。お湯は諦めて、先に宿探しをしましょう。宿ならお湯も、――」
進もうとした芭蕉の足はふらついていて、ついに道端に座り込んでしまう。
「芭蕉先生!」慌てて駆け寄った曾良は、芭蕉を抱きかかえて、近くの木陰に移動する。「しっかりしてください!」
「曾良君。大丈夫ですよ。立ち眩みがしただけですから……」こういう時に強がってしまうのが芭蕉である。
「それは全然大丈夫じゃないです!」曾良は声を張りあげた。
「おい、お前ら。何者だ? こごで何してる?」
突如として現れたのは、腰に刀を差した道行人であった。歳は五十七、八といったところだろうか。
白髪の老人ながら、腰も曲がっておらず、刀を抜けば一瞬でふたりを切り捨てられそうな気配がある。とても敵う相手ではない。
そんな老人の目が、一瞬、狐娘芭蕉へと向けられた。
思わず背筋が冷えた芭蕉であったが、曾良は動じることなくここまでの事情を話しはじめる。
「我々は旅の俳諧師なのですが、松島から石巻へと向かう途中に水筒の水が底をついてしまい、お湯を貰おうと家々を回っていたのです」
「ほいどがど思ったが、旅の俳諧師どは驚いだな。水が無ぐで困ってんのは分がった……。ついでごい」老人が何を話しているのか半分ほどしか分からなかったが、どうやらふたりを憐れんで、知人か親戚かの家へと案内してくれたようであった。すぐに白湯を少し冷ましたものが出てきた。
「本当にありがとうございます」礼を言ってぬるま湯を飲む芭蕉を、まるで孫娘を見るような目で眺めている老人。
曾良はここに来てようやく理解した。江戸の言葉は、この地域の人には馴染みがなく、きちんと伝わっていなかったのである。
身元不明で怪しげな狐娘と僧が、よく分からない言葉で話しかけてきたら、それは住民からすれば恐怖でしかなかっただろう。
「石巻の新田町さ、『四兵へ』づー旅籠屋がある。そごなら泊まれるはずだ」
別れ際、老人は親切にも石巻の宿を教えてくれた。
曾良は、『四兵へ』と手元の紙に書き、「たいへんお世話になりました。もし差し支えなければ、お名前を教えていただけませんか」と尋ねた。
老人は微笑みを浮かべて、こう言い残して去った。
「ねこ村、今野源太左衛門」
松島と矢本の間にある小野の傍にねこ村はあるらしい。
無事に石巻へ到着した後、地図で調べたところ、「ねこ村」とは「猫村」ではなく、「根古村」と書くらしいことが分かった。
猫に関係する逸話は記載されておらず、村名の由来も不明である。
そうだとするならば、曾良の見間違えだったのかもしれない。
立ち去る老人の後ろ姿に、一瞬だけ白猫の尾のようなものが揺れた気がしたのは。




