異世界から来た理由について
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまいます。
「電車なくなるから帰るわ」
友人の言葉で時計を見ると、まもなく十二時になろうとしていました。僕は九時過ぎからしか参加できませんでしたが、それでも三時間近く経っていたようです。
「そんなら、お開きにするか」
「だな」
楽しい時間は、そうして終わりを告げました。
僕のアパートは駅とも他の友人の下宿先とも方向が違います。
必然的に店の前で皆さんと別れることになり、僕はトールが一緒にいてくれたことに感謝しました。
あれほど賑やかで楽しい空間からいきなり一人になると、まるで自分だけが世界から切り離されたような気分になってしまいますから。
どの料理が美味しかったとか、その程度の他愛のない話でも、する相手がいるといないでは全然違うのです。
けれど、三分の二ほど歩いたところだったでしょうか。トールが急に足を止めました。そして、僕に向かってこう言ったのです。
「んじゃ、俺たちも帰るわ」
「……え?」
今まさに帰っている途中です。あと数分でアパートに着きます。それなのに、なにを言っているのでしょう。
意味がわからなくて不思議に思っていると、トールが腰から二十センチほどの金属の棒を取り出しました。はじめに会ったときに手に持っていた、あの棒です。それを見た瞬間、悟りました。
(……あぁ、そうか。“帰る”って――)
自分たちの世界に、という意味なのでしょう。
「あんたは大丈夫そうだからな。もう、俺たちの用事は終わった」
人がいないことを確認して、棒を伸ばすトール。きっとあれが異世界へ渡る道具なのでしょう。
先ほどは感じなかった孤独が近づいてくるのを感じながら、僕はぼんやりとトールが言った“大丈夫”の意味を考えました。最近どこかで、その単語を聞いた気がするのですが――
「約束通り、教えてやるよ。マウリ・ダスグル」
(――――――!)
ふいに向けられた言葉に、僕の体が強張りました。いたずらに成功した子どものように、トールがにやにやと笑っています。
「悪いが調べさせてもらった。本名がわかったのはつい最近だけどな」
静かに紡がれる言葉が、しらを切っても無駄なことを僕に知らせます。すでにもう、証拠を掴んでいるのでしょう。
「……いつからご存知だったのですか」
「ん? はじめから」
冷たい汗をあちこちから滲ませている僕とは対照的に、のんびりとした声でトールが答えました。
「俺たちには生命エネルギーを見る能力がある。ほら、ケイナがよく食いものの鮮度を見極めてたろ?」
ええ、それはよく覚えています。ケイナは買いものについてきては、様々な食材を勝手にカゴの中に入れるのが好きでしたから。値段や組み合わせの都合から戻させていただくことも多々ありましたが、ケイナが勝手に入れていった食材がどれも新鮮だったのは確かです。
「あれは食材の発するエネルギー量を見ていただけだ。そんで、あんたがこの世界の人間じゃないと気づいた理由だが――簡単だ。エネルギーの色が違うんだよ」
「…………つまり、話しかけてきたときには気づいていたわけですか」
「あぁ」
むしろ、気づいたからこそ話しかけてきたのでしょう。目が合ったとかそんなのは関係なく。
「実際、人が屋根から飛び降りたのにちっとも驚かなかったしな」
「…………」
そういえば、確かにこの世界の人は屋根から飛び降りたりしません。もとの世界ではわりと普通だったので気にしませんでしたが、どうやら僕ははじめから失敗していたようです。
「……ひとつ、伺ってもよろしいですか?」
「なんだ?」
「はじめからわかっていたのなら、どうして今までなにも言わなかったんですか?」
もともとトールたちの目的は僕だったのでしょう。ならば、出会った時点で僕を捕まえれば済む話です。一ヶ月も一緒に暮らす必要なんてないのです。
僕の疑問に、トールは少しだけ間を置いてから口を開きました。
「知ってのとおり、世界間の移動は禁止されている。特別な許可を取った者でないかぎり」
「えぇ、知ってます」
ケイナとトールは、その特別な許可を取った人なのでしょう。おそらくは生命エネルギーを見る能力を使って異世界人を見つけ、捕らえるために。
“――に捕まるかもしれない。それでもいいか?”
この世界に来るときに言われた言葉。すべての世界で逮捕権を持つ存在。その名は――
「言っておくが、俺たちは全世界調査官じゃないぞ」
「…………え? 違うんですか?」
てっきりそうだと思っていた答えを否定され、極限まで高まっていた緊張が一気に緩みました。
「何度も言っただろ。俺たちが所属してるのは企業だ。公の組織じゃない」
確かに質問するとよく“企業秘密”だと言われました。まともな返答を避けるための言葉だと思っていましたが、真実でもあったようです。
「他の世界に渡ること自体に罪はないってのが俺たちの考えでな。つまり、渡った先の世界でなにも問題を起こさなければ捕まえる気はない。
あんたはこの世界で平和に暮らしたいだけみたいだから、上にそう伝えておくよ」
「つまり……ずっと見張っていたのですか」
「あぁ、悪かったな」
――思い出しました。
“うん、君は大丈夫そうだね”
いつだったか、ケイナが大学でそう呟いたのです。あのときすでに、ケイナは僕を信じてくれていたのでしょう。
それから今まで滞在したのは、トールがそのときに“結論を出すのは早い”とでも言ったからでしょうか、見極める期間がまだ残っていたからでしょうか。
(食事と勉強のために残っていただけのような気もしますが……)
なんにせよ、彼らに僕を捕まえる気はないようです。残っていた緊張が体から消えていくのを感じました。
「あんたの籍も正式にこの世界のものに変えておく。もとの世界には二度と戻れなくなるが、いいな?」
「はい。ありがとうございます」
もともと、戻る方法などあってないようなものです。戻る気もありません。
僕の回答に、トールは「ああ」とだけ言いました。
わかっているのでしょう。僕がもとの世界から逃げてきたことも、その理由も。
そして、受け入れてくれるのでしょう。敬語で話すことを受け入れてくれたように。まぁそれは、この世界の言葉を学んだときにうっかり敬語で覚えてしまったということに気づいていたからかもしれませんが。
「あんたはこの世界で幸せに生きてるみたいだから、それでいいさ。あんたをこの世界に送ったやつも喜ぶだろうよ」
「え? ご存知なのですか?」
驚いて訊くと、トールの顔に少し陰が落ちました。
「あぁ。――全世界調査官に、捕まってる」
「え…………?」
「自分のせいだなんて思うなよ。あの人は、あんたの他に何百人も他の世界に送ってたんだからな」
そう言われても自分が原因ような気がしてなりません。もとの世界で苦しんでいただけの僕を、あの方は救ってくれたのに――
他の世界に渡るのは違法。もちろん、他の世界に人を送るのも違法です。それなのに――
“全世界調査官に捕まるかもしれない。それでもいいか?”
そう訊かれたとき――いえ、今の今まで、僕はその可能性を考えていませんでした。
(なんてことでしょう……)
悔やんでも、悔やみきれません。
「……なにか、僕にできることはありませんか?」
そんなものはないとわかっていて、それでも僕は訊いてしまいました。仮に僕が捕まっても、あの方が釈放されることはないとわかっていて。
「この世界で幸せに生きろ。それが一番嬉しいだろうよ」
「でも……」
「あの人が異世界に送った人間すべてが、なにも問題を起こさず暮らしていて、これからも問題を起こす可能性がほとんどないことが確認できれば、あの人は釈放される。だからあんたは、いままでどおり暮らしてりゃいい」
「……え? でも……」
法律では、他の世界に渡ること自体が罪になるはずです。その世界で問題を起こしても、起こさなくても。
「全世界調査官の中でも、今の法律に疑問を持っているやつが何人かいる。そいつらと俺たちで、調査機関に特例を認めさせたんだ。
だから、安心しろ。あんたはちゃんと、あんたの分の疑いを晴らしたよ」
そう言われて、ようやく僕の心が少しだけ軽くなりました。誰か一人でもなにかしていれば、あの方は釈放されないわけですが――そこは、信じるしかありません。あの方が送ったすべての人が、ただ平穏な人生を送ることを望んでいることを。
気づいたら、トールが持っていた棒を中心に空間が歪み始めていました。本当にもう帰ってしまうのでしょう。
「じゃあな。元気でやれよ」
「――はい。ありがとうございます」
僕がそう応えた次の瞬間、棒がくるりと回り、トールの姿がふっと消えました。
おかしな話です。
ずっと迷惑に思っていたのに、早く帰って欲しいと思っていたのに、静けさが冷たい空気のように身にしみました。
◇―◇―◆―◇―◇
アパートに戻ると、テーブルの上に封筒が置いてありました。
中身はこの世界のお金で五万円。きっと、企業から出ていた滞在費か何かなのでしょう。
“世話になったな”
封筒の表面に、そう書いてありましたから。
こんなお金があったなら、もっといいものを食べさせてあげられたのですが。おにぎりを作っていただく必要もなかったのですが。
知らなかったのだから仕方なかったとはいえ、悔いが残ります。
少し考え、僕は三万だけいただくことにしました。残りは、使うときが来るかどうかわかりませんが、このまま残しておきましょう。
そう思ってお札を二枚戻そうとしたとき、封筒の裏側にも文字があることに気づきました。
“ごはんおいしかったよ”
「………………あの人は……」
どっちがどっちかなんて考えるまでもありません。ケイナは最後までケイナでした。
(まったく……)
どうしてあの人は、ああなのでしょう。大学では確かに他の勉強もしていましたが、僕との会話はほとんどが食べもののことばかりで、そのくせ料理は一切しないで、いつだって横で見て味見をするだけで、その上で食事は一人前をぺろりと平らげて幸せそうな顔で「ごちそうさまー」なんて……――どうして、いつだって。
僕はなにも変わっていないのに。あの人たちは、僕が生まれた世界の人たちよりよほど凄い能力を持っているのに――
いつのまにか握りしめていた右手を、そっと開きました。
そこに意識を集中して集中して集中して、ようやく、一瞬だけ空気がふっと動きました。
やはり、なにも変わっていません。風と呼ぶのもおこがましいほどの空気の動き。それが僕に使える唯一の魔法。
役になんて立ちません。なにしろ、手をぱたぱたと振ったほうがよほど強い風を起こせるのです。
魔法を使えることが当たり前の世界でその程度の魔法しか使えない僕は、落ちこぼれで、役立たずで、人として認めてももらえませんでした。
他のことをどれだけ頑張ってどれだけ出来るようになっても、もとの世界では一切評価されません。評価されるのは魔力の強さだけです。そして魔力は生まれ持ったものがすべてで、努力でどうにかなるものではありません。
だから、逃げました。
魔法が使えないことが当たり前の世界に。魔法なんてなくても生きていける、この世界に。
魔法を使える人が、僕を認めてくれることなんてないと思っていたから。
それなのに――
“ごはんおいしかったよ”
(まったく……)
あの人たちはこの世界の住人でもないのに、生命エネルギーが見えたり他の世界に渡ったりできる、つまりはもとの世界にも滅多にいないエリートレベルの魔法使いのくせに、どうして親にも兄弟にも言ってもらえなかった言葉をくれるのでしょう。どうして、僕を認めてくれるのでしょう。僕は、なにも変わっていないのに――
(ケイナさんの、馬鹿……)
使えないじゃないですか。そんな言葉をもらったら。
心の中で恨み言を重ねながら、いただくつもりだった三万円も一緒に封筒に戻しました。曲げてあっただけの口の部分に糊を塗り、しっかりと封もしました。
なにしろ金銭的な問題があったので粗末な食事になりましたが、僕の料理の腕はあんなものではありません。あの程度と思われるのは名折れもいいところです。今度はきちんと真剣に作ったものをご馳走しますから――
(また、来てくださいよ)
思い出ごと引き出しにそっとしまい、僕は平凡な大学生としての生活に戻ることにしました。
◇―◇―◆―◇―◇
友樹の落ち込みようはひどいものでした。
ケイナからですと言って大学に行く途中で買ったお菓子を渡し、二人がいなくなった理由を適当に話したのですが、友樹はその後もしばらくケイナの姿を探していました。
しばらく、というのは三ヶ月ほど。
馬鹿にすることも諦めるよう言うこともできませんでした。
なにしろ僕自身、一人の生活に慣れるまでそのくらいかかりましたから。
それでもさすがに一年経つ頃には思い出す頻度も減って、友人たちとの会話にも彼らの名前が出てくることはなくなりました。
その日思い出したのは、手羽元が安くなっていたから。
懐かしくなって、大根と一緒に甘辛く煮ようと思って自転車に乗りました。
夏の手前で、天気がよくて、少し汗ばむくらいの陽気。
(今日は暑いですね……)
そう思いながら、ふと見上げた空の中。
屋根の上に、人がいました。
to be continued...?