第七話
突然エレベーターのドアがあき、男の人がでてきました。はんたいがわの通路を通ろうとしています。顔にみおぼえがありました。時々来る客でした。今日はエマちゃんの方へ行こうとしています。でもその人は私たちがいたので立ち止まりました。そしてエレベーターにもどって下におりてしまいました。
「ちっ、下のみはりは何をしているのか」
金髪の方のお兄さんが携帯電話を取り出しながら、となりのへやへ走っていきました。
まもなく私のお客さんもくるでしょう。まもるくんには帰ってもらわないといけません。私の仕事がなくなると私とマコちゃんのすむ家がなくなります。残ったもう一人のお兄ちゃんは、まもるくんとひとみちゃんにもう一度「かえれ」 といいました。まもるくんはひとみちゃんの手をしっかりにぎって「わかりました」 と言いました。お兄ちゃんはまもるくんの足元につばを吐いて「ここには二度とくるな、わかったな」 と言いました。
わたしは「ごめんね」と言いました。まもるくんとひとみちゃんはだまっていました。そしてエレベーターに乗ってかえっていきました。
入れ替わりで、私の客が、エレベーターでやってきました。先にとなりの部屋に入っていたおにいちゃんが「どうぞ」といってお客さんに頭を下げて案内しました。私はやっとドアをあけてマコちゃんの様子を見ようとしました。ろう下にはおとうさんがいました。お父さんも立って歩けないので、はいはいをしてここまで来たのです。そして座ったままぐったりしたマコちゃんを抱っこしていました。私はひさびさにマコちゃんの手足を見ましたが、もう本物のぼうきれのように細くなっていました。そういえばマコちゃんは最近食べていません。マコちゃんには、ごはんがもらえないのです。ママが食べるとゲリをするから、と注射をしていたからです。
「マコちゃん……」
私の目から水があふれでて、それが次から次へとながれました。これはなみだではないのです。ただの水です。お兄ちゃんが私をよびにきました。そして私の腕をつかみました。
「早くおいで」
「……はい」
日曜日の午前中は二人だけの相手ですみました。部屋に戻るとママがきていました。ママは怖い顔をしていました。
「マコのすがたを見られたらしいな、なんで家によんだ? なんで家がわかった?」
私はママに返事しました。
「私もくると思わなかった。ずっと前にまもるくんやひとみちゃんには部屋の位置を教えたことはある」
ママが私のほおをつねりました。
「場合によってはここを出ないといけない……」
私はほおの痛みをがまんしながらママに言いました。
「えっ、ここを出るの?」
「場所がばれると、いろいろとマズイのさ」
「マコちゃんはどうなるの?」
ママは首を振りました。私は叫びました。
「マコちゃんを殺しては、だめっ」
殺してはだめ……私は何も言われてないのに、殺す、ということばを使いました。そうです、ママたちはマコちゃんを殺すかもしれないし、殺したいと思えば殺せる人たちなのです。
キッチンの方では、どす、どす、という音がします。となりのお兄ちゃんたちが、お父さんをなぐっているのです。
「なんのために、娘といっしょにいるんだよォ、おるぁ? この役立たずのクズがよォ」
その音がいつまでも続いています。私のほおはずっとつねられたままです。でもマコちゃんだけは、ほうっておくわけにはいきません。マコちゃんとはなれてくらしたくはありません。私たちは生まれた時からいっしょだったのです。私たちはこれからだっていっしょです。気が遠くなりかけたときに、ママのもっていた携帯が鳴りました。ママはやっと手をはなし「もしもし?」と言いました。電話の向こうの人が何かママに言ったらしく、ママは大きく目を見開き「ぎゃっ」 と言いました。その電話を汚いものでもみたように放り出して、キッチンの方へかけていきました。ママはお兄ちゃんの方に向かって叫んでいます。
「大変だよ、今……」
私はとっさに床に落ちたままの携帯電話を取りました。すると待っていたように電話がもう一度鳴りました。私はどうやって電話をとることができたかふしぎです。だって、私は今まで電話をとったことがありません。携帯電話なんかさわったこともありません。だけどどこかのボタンを押したら、電話の向こうにいた人が私に話しかけてくれたのです!
「もしもし? もしもし、聞こえますか」
男の人の声でした。私はその声に向かってハイ、と返事しました。私はマコちゃんが殺されるかもしれないと思ったので、もう怖いものも何もありませんでした。
マコちゃんがいたからこそ、私はお客さんを取らせられてもがんばれたのです。私ががんばるからこそ、マコちゃんも病気を治そうとがんばっていたのです。マコちゃんがいなくなると、私も死のうとおもっていました。マコちゃんと一緒に殺されようと……そう思っていたのです。 だからもう私には怖いものはありません。
「もしもし、聞こえますか?」
「はい、聞こえます」
「きみはだれ?」
「私はミコです。田中ミコ」
「支援施設ひかり、にいたコかな、フタゴのお姉さんはいる? 一緒の場所にいるのかな?」
「マコちゃんはいます」
「お父さんもそこにいる?」
「いるけどたぶん、もう死んでいるよ」
電話の向こうが黙ってゴクリ、という音を発した。続いて次のことばも。
「ザンリシオリ、もそこにいるのか」
「ザンリシオリ? その人は知らない。ママなら誰かをよびにいった」
「それがザンリシオリだ。それは君のママではない。私は警察だ。すぐそっちへ行く。この携帯を切らないまま外に出ることはできる?」
「このマンションには表にも裏にも見張りがいるからだめ。それに私、外へ出たことがないの。学校へは行くけど、ほんとに行って帰るだけ」
「どこかへ隠れられるかな、できる? 警察はこのままじっと聞いているから、そうだな、十分ほど隠れられるか?」
「かくれんぼなら得意です」
「よし、がんばれよ、すぐ行くからな」
声が消えた。私は携帯を両手で握り締めたまま、マコちゃんの部屋に行きました。お父さんはキッチンの机の上に腹ばいになって動かず、お兄ちゃんと体の大きなおじさんが動かないお父さんをかわりばんこに殴っていました。お父さんの顔は目も鼻もなく、ぐじゃぐじゃでした。私はお兄ちゃんたちがお父さんを殺している間、ろうかを横切りマコちゃんがいつも寝ている部屋にはいりました。私はマコちゃんの布団にもぐりこみ、「マコちゃん、助けがくるよ、それまでかくれんぼだよ」 と小さい声で言いました。するとマコちゃんが目を大きくあけて私を見ました。
「かくれんぼして見つからなかったら私たち助かるのね?」
今から思えば私たちは長く会話したわけでもないのに、もしかしたら助かるということがわかったのです。双子同志のテレパシーがあったとしか思えません。
会話してないのに、その時のお互いの思いが通じ合いました。マコちゃんの心の痛み、気持ち悪さ、あそこのかゆみと痛みが気になって気が狂いそうな感覚がわかりました。それなのに、マコちゃんは私のことを心配していました。私は急いでマコちゃんのふとんの足元にもぐりこみ、身体を小さく丸めました。
マコちゃんの身体の下の方がくさくて息がつまりそうになりました。黄色と緑のお汁がでてくる、マコちゃんのかわいそうなあそこのにおいです。だけど今はそんなことをいっていられません。マコちゃんはよろよろと立ち上がりました。そして部屋のすみにいた大きなくまのぬいぐるみを持ってきて私の上にかぶせました。マコちゃんもふとんの中に入り、私たちはしっかりと手を握り合いました。
「ミコちゃん、こうしたらわかんないから、じっとしていてよ、私はおねえちゃんだから、私のいうとおりにするのよ、わかったね?」
マコちゃんがそんな話ぶりをするのは、ふくしのしせつを出た時以来です。私はその時のマコちゃんを思いだすたびに泣いてしまいます。やがてママが部屋に飛び込んできました。
「ミコ、行くよ、ここから出るよ、ズラかるよっ! どこにいるのだい?」
私はこの時はじめて、マコちゃんがやせてしまってよかったと思いました。お布団の中には二人いるのに、一人しかいないように見えるからです。おまけにマコちゃんが私の上にくまのぬいぐるみをおいたので、私がどこにもいないように見えるのです。
私は息をひそめて携帯電話を握り締めてじっとしていました。マコちゃんはかぼそい声でママに言いました。
「どこへ行くの、ママ? 私はどうなるの」
ママは言いました。
「マコ、お前は用済みだ。かわいそうだけど、どうせ長く生きていられない、死んだ方が幸せだと思うよ。本当にかわいそうだけど、私もかわいそうに思うけど」
誰かが入ってくる足音がしました。となりの受付のお兄ちゃんではありません。のしのしっという重たい足音です。これは警察の足音ではありませんでした。足音の持ち主がママに言いました。太くおなかにひびく重い声でした。
「いいからこのコは俺にまかせておけ、お前はミコを連れてずらかれ。落ちあう場所はわかっているな? お前は逃げるなよ、絶対に逃げるなよ、ミコも逃すなよ」
「は、はい……。ミコはオフロに逃げていると思いますから。見つけてすぐ連れて行きます」
ママの足音がばたばたとオフロの方に向かいました。同時に足音の持ち主が無言でマコちゃんの方に座りこみました。
「あっ」
マコちゃんが何か言いました。バズッ……
鈍い音がお腹にズンと響きました。私はその時にマコちゃんが死んだのがわかりました。マコちゃんの想念がいきなり途絶えたのです。私も死ぬ、死んだのだと思いました。遠くで何かがたがたという音が聞こえました。でも私はだんだんと冷たくなっていくマコちゃんに寄り添いました。
どのくらい時間が立ったかわかりませんが男の人の声がしました。さっきの人と違う声です。誰かが小走りにまっすぐにこの部屋にやってきました。天井の方から声がきこえました。
「なんてこった、ひどいことをしやがる……」
もう一人別の声がしました。廊下の方からです。男の人ばかり何人もいたようです。
「おいっ、もう一人子供がいるはずだ。早くふたごの片方をさがせ」
遠くでがちゃんという音がしました。
「しまった」
「とびこんだ」
「子供もいっしょか?」
「いや、これは下の応援にまかせよう」
「残りの子どもはどこにもいないぞ」
「さがせ、早くさがせ」
私は返事しませんでした。できるだけ小さくなって布団の中で冷たくなっていたマコちゃんの下半身を抱っこしていました。私は気を失ったのです。
……その年の報道写真で私の写真は賞をとったそうです。私には全然関係がありませんが。だって写真を撮られたことすら、覚えていませんもの。警察に保護された瞬間だって、記憶にありません。警察は私のいるところに踏み込んだのはいいですが死んだマコちゃんのふとんの中にいたことは気づかず、鑑識の人がマコちゃんを撮ろうとしてふとんをめくった時に見つけたそうです。
マコちゃんは口の中に拳銃をつっこまれて即死でした。私はママにここから別のところに連れて行かれるくらいなら、死んだ方がましだと思っていました。だけど、助かってよかったと思いました。マコちゃんが私を助けてくれたのです。あの写真は、事件の検証を続けるビニールシートと公道のすきまに私が膝まずいてしゃがんでいるところだそうです。わずかに一瞬の出来事で私はすぐに「こっちへ」 と警察のおじさんに抱っこされました。写真を見ると私の顔ははっきりうつっていなくて、髪に隠れています。ビニールシートのわずかな隙間から見えている膝も脚も血濡れです。そして裸足です。よくまあ、こんな写真を撮れたことだと思います。
幼女売春の元締めがマコちゃんを始末した直後に、警察が踏み込んできたのです。私はその状態で警察に保護され抱っこされて施設に移送されたのです。
ママを名乗ったザンリシオリという人は、逮捕された元締めに育てられた人だそうです。この人は十九歳といっていたのですが、これも本当でした。この人は警察が踏み込んできた時に二十階の部屋から飛び降りてしまいました。自殺です。私はザンリシオリ……ママをうらんではいません。幼いころから私も身体を売らされたといっていました。それも本当だったようです。
私の本当のお父さんは、私とマコちゃんを産んでくれた本当のお母さんを捨てました。だけどどういうわけか認知はしていたのです。獄中でおつとめしている時に、悪い仲間に幼女売春の話を持ちかけられ大金と偽装結婚にひかれて私たちを売ったのです。しせつをだましてまで、私たちに苦しみを与えるためにだけ、私たちをひきとったのです。本当に悪いお父さんでした。若い時に料理人修行をしたらしくおいしい焼き魚は食べることができましたが、それだけでした。
まもるくんとひとみちゃんは私のいのちの恩人です。まもるくんのお父さんとおじいちゃんが警察の人でした。まもるくんはマンションを追い出されたときにすぐにお父さんに電話で連絡をとったのです。元締めのおじさんがマークされていたこともあって、すぐに対応できたのです。まもるくんの行動とまもるくんのお父さんが勤めている警察の迅速な行動で、助かりました。
でもおとなりのエマちゃんは行方不明のままです。エマちゃんとお父さんと一緒に行方不明になりました。私はエマちゃんが今どうしているかとても気になります。エマちゃんのお父さんの子供を産まされて一緒に売られていないことを祈ります。きっととてもやさしい、だんなさんと結婚して幸せになっていると信じています。
私は大きくなりました。十八歳になったので看護学校へ進学します。看護師になります。そして私のような子供を引き取る施設にかかわって人の役にたちたいです。
私はいつでも、マコちゃんと私が一緒に写った写真を持ち歩いています。私たちはいつでも一緒です。
了