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『戦国時代に転生したらAIまで付いてきた!これ、天下取れるんじゃね?』  作者: ユミヒロ


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第一章 津島から清須へ

第1話 AI、戦国でも普通に使える

俺が戦国時代に転生したと気づいたのは、三歳のときだった。正確には、気づかされた。

『現在地を特定できません』頭の中で、聞き慣れた声がした。

前世で毎日のように使っていたAIだった。最初は夢だと思った。三歳児だったし。そのうち目が覚めるだろうと思っていたら、十五歳になった。いまだに目は覚めていない。

そして今。

「弥吉、今日はお前がやれ」親父が帳面から顔を上げ、箸の先で俺を指した。

「何を?」

「塩だ。三十俵、昼までに揃えろ。値は昨日より上げるな。清須へ出す荷だから、もたもたするなよ」

手に持っていた箸を落としかけた。隣で兄貴が味噌汁を吹きそうになって、慌てて口を押さえた。

「親父、本気か? 弥吉に三十俵任せるの?」

「新吉、お前は朝からうるさい。こいつが失敗したら、そのとき笑え」親父は兄貴を一度だけ睨み、俺へ視線を戻した。

「聞こえたな、弥吉。買うだけで終わりじゃないぞ。清須へ出せる形まで持ってこい」

来た。

十五年待った。いや、別に天下を取りたくて十五年待っていたわけじゃない。三歳児にAIが付いていても、できることなんか大してない。

五歳で、「今年はこの畑に豆を植えた方がいい」とか言ったら気味悪がられるだけだ。

七歳で帳面を改善しようとしたら親父に、「字を先に覚えろ」と言われた。

十歳で荷運びの順番を変えようとしたら兄貴に頭を叩かれた。だから俺は十五年間、ほぼ黙っていた。見て。聞いて。覚えた。

正確には――覚えさせた。

「なあ、今の条件、ちゃんと拾った?」俺は頭の中で呼びかけた。

『はい。塩三十俵。昨日の仕入れ値以下。昼まで。清須向けです』返事は一瞬だった。

十五年経っても、この速さだけは変わらない。

「で、いけそう?」

『現時点では情報が不足しています』

「はい出た。十五年一緒にいても、景気のいい返事だけは覚えないよな」俺は小さく笑った。

親父が眉をひそめる。

「何がおかしい」

「いや、何でもない」

危ない。十五年経っても、たまに一人で喋りそうになる。俺は汁を飲み干して立った。外へ出る。朝の津島は、もう騒がしかった。

荷を担ぐ男。俵を積み直す若い衆。怒鳴る商人。牛。子供。

魚の匂い。湿った土。どこかで誰かが木箱を落として、派手な音を立てた。

「馬鹿野郎! 中身見ろ!」

怒鳴り声が飛ぶ。俺はそれを横目に歩く。

「昨日までの塩の動き」

『記録を整理します』頭の中で声が続く。

『三日前、伊勢方面から塩荷が二組到着。昨日午前に一組。昨日夕刻にも荷下ろしを確認しています』

「量は?」

『あなたが目視した範囲では合計八十俵以上。ただし全量を確認したわけではありません』

「今朝は値上がりしてるよな」

『はい。先ほど通過した二軒では、昨日より高値を提示していました』

理由は分かっている。昨夜から町で流れている噂だ。雨で荷が止まった。次の塩が来ない。だから高くなる。

朝から皆その話をしていた。普通なら急いで買う。俺も前世ならそうしたと思う。でも。

「次の荷が来ないって話、誰から聞いた?」

少し間があった。

『直接確認できた発信源はありません』俺は足を止めた。

目の前を、塩俵を背負った男が通っていく。一つ。二つ。三つ。白っぽい粉が肩に付いていた。

「だよな」

十五年間で分かったことがある。AIは未来を見られない。この時代の情報を勝手に集めることもできない。俺が見ていないものは見えない。俺が聞いていないものは聞こえない。

でも。俺が忘れたことを、こいつは忘れない。

「昨日の夕方に入った荷、どこの蔵だった?」

『南側の三番蔵です』

「見に行こう」

市場とは逆へ曲がった。

「おい、弥吉! 市場はそっちじゃねえぞ!」

後ろから声が飛んだ。兄貴だった。

「分かってる! 三番蔵だけ見てくる!」

「寄り道して昼を越えたら、俺まで親父に怒られるんだからな!」

「兄貴は関係ないだろ!」

「家族はだいたい巻き込まれるんだよ!」兄貴がまだ何か言っていたが、俺は片手だけ上げて走った。

三番蔵まで行く。戸は閉じていた。でも人がいる。男が二人、脇で握り飯を食っていた。俺は通り過ぎるふりをした。

一人の草履の脇に、白い粒が落ちている。塩。

「昨日の荷だな」

『可能性は高いと思われます』

「三十俵ある?」

『確認できません』

「なら聞くか」俺は振り返った。

「おっちゃん、昨日ここで荷下ろししてた人だよね?」

握り飯を持った男が、怪訝そうに眉を上げた。

「そうだが、何だ。手伝いに来たって顔じゃねえな」

「昨日、ずいぶん入ったって聞いたんだけど。どのくらい下ろした?」

「ああ? そんなもん数えながら運ぶかよ。腰が抜けるほどだ」

隣の男が笑いながら割って入った。

「こいつ、夜まで『もう勘弁してくれ』って言ってたぞ。俺だってまだ腕が重い。少なくとも、荷が来てないなんて話じゃねえな」

「数えきれんくらいってこと?」

「そこまで言ってねえ。だが、朝から晩まで運ばされたのは本当だ。何だお前、塩でも買うのか?」

「ちょっとね。ありがと」

十分だった。俺は頭を下げた。

「ありがと」

「なんだ、あいつ」背後で聞こえた。

歩きながら俺は笑った。

「塩、あるな」

『少なくとも「荷が完全に途絶えている」という噂とは整合しません』

「難しい言い方するなよ」

『塩はあります』

「それでいい」

市場へ戻った。一軒目。高い。俺は買わなかった。二軒目。

もっと高い。買わない。三軒目。親父と取引のある商人が、俺を見て笑った。

「おお、今日は小倅か。親父はどうした?」

「別の仕事。俺は塩を三十ほしい」

「三十? そりゃまた景気がいいな。だが今日は高いぞ。朝からみんな買いに来る」

「昨日と同じなら、ここで全部買う」

「馬鹿言え。次の荷が来んって話を知らんのか」俺はわざと店先の俵を見てから、肩をすくめた。

「じゃあ、無理にここで買わなくていいや。南も見てくる」

踵を返す。

「待て待て。お前、親父に頼まれたんだろ? 三十揃わなきゃ困るんじゃないのか」

「困るよ。でも高く買うなとも言われてる。だから、ここで駄目なら別を当たる」

「別って、どこだ」

「南。昨日、荷が入ったところ」

一瞬だけ。本当に一瞬だけ、男が黙った。AIは何も言わなかった。言う必要もなかった。俺にも分かった。

「あそこは駄目だ」

「何で?」

「……まだ売りに出さん」

「荷はあるんだ?」男の顔が変わった。

やっぱり。俺は笑いそうになるのを我慢した。

「昨日と同じなら三十まとめて買う。無理なら二十だけにして、残りは南で探す」

「お前な、子どもの顔して言うことが可愛くねえぞ」男が舌打ちした。

そのとき奥から女将らしい女が顔を出した。

「売っときな。朝から値が上がる話ばっかりしてるけど、明日また荷が入ったら抱えるのはあんたでしょ」

「しかし、昨日の値じゃ――」

「三十まとめて捌けるなら悪くないよ。欲張って残した方が面倒だ」男は嫌そうな顔をして、俺を見た。

俺は何も言わなかった。五秒くらい。前世ならスマホを見るところだ。もちろんない。だから壁の汚れを見ていた。

「……三十だな」

「うん」

「昨日と同じだぞ」

「ありがとう」

決まった。店を出てから角を曲がる。誰もいなくなったところで、俺は拳を握った。

「よっしゃ」

『目標条件を達成しました』

「俺、すごくない?」

『今回の判断材料の大半は、過去十五年間に私が整理した情報です』

「そこは普通、褒めるところだろ」

『交渉はあなたが行いました』

「そうそう」

『ただし最初の店で購入していた場合と比べ――』

「もういい」

こいつは十五年間ずっとこうだ。でも。俺は足を止めた。目の前では、荷を背負った馬が清須へ向かって動き始めている。商人。

職人。百姓。侍。船。蔵。

金。米。鉄。人。情報。

前世では画面の中にあったものが、全部ここでは現物だ。そして俺の頭の中には。その全部を、覚えて。比べて。

計算して。考え続けられる奴がいる。

「なあ」

『はい』

「もしかしてさ」

『何でしょう』俺は、清須へ続く道を見た。

この年。織田信長が清須へ入る。五年後には桶狭間。その先に何が起きるかも、俺よりこいつの方がずっと詳しい。

「お前がいるなら」

少し笑った。

「お前がいるならさ。俺、戦国でも結構やれるんじゃない? いや、無双までいけたりして」AIはすぐには答えなかった。

珍しかった。

『条件次第です』

「そこは一回くらい、できます、とか言って気分よくさせてくれてもいいだろ」

『では、気分より先に現実的な条件を一つ提示します』

「その言い方、絶対ろくな話じゃないな。何?」

『清須へ送る塩三十俵ですが』

嫌な予感がした。

『荷駄の手配がまだ完了していません』俺は黙った。

市場の向こうから、親父の怒鳴り声が聞こえた。

「弥吉ィ! 馬はどうしたぁ!」

「……あ」

『天下より先に、馬を確保してください』俺は走った。

天下は、まだ遠かった。

第2話 天下より先に、馬を押さえろ

馬がいなかった。正確には、いた。そこら中にいる。荷を背負った馬。空の籠を下げた馬。

主人に引かれて歩く馬。ただし、俺が使える馬が一頭もいなかった。

「……まさか、使えそうな馬、全部出た?」

『確認できた範囲では、清須方面へ向かう荷駄はすでに手配済みです』

「塩は買えたのに、運べないって一番ださい終わり方じゃん」

『天下統一以前の問題です』

「それ、朝から二回目だからな。気に入ってるだろ、その言い方」親父の声がまた飛んできた。

「弥吉! 昼までだぞ!」

「分かっとる!」

分かっている。分かっているから困っている。塩は買えた。三十俵。でも塩は歩かない。

前世なら配送ボタンを押せば終わりだった。今は、その配送ボタンが馬である。しかも売り切れだ。市場の外れで、馬方の男が笑った。

「今日は無理だ、小僧」

「一頭も?」

「朝のうちに押さえられた。塩が上がるってんで皆、清須へ運びたがってる」

噂のせいか。塩が来ない。値が上がる。だから皆、今のうちに清須へ持っていく。俺は塩を安く買えた代わりに、その噂で輸送を取られたらしい。

世の中、うまくできている。

「なあ」

『はい』

「詰み?」

『いいえ』

即答だった。俺は少しだけ嬉しくなった。

「何かある?」

『条件を整理してください』

「昼までに塩三十俵を清須へ」

『違います』

「え?」

『父君の指示は「昼までに三十俵。昨日より高く買うな。清須へ出す荷」でした』俺は黙った。

「……昼までに清須へ着けろ、とは言ってない?」

『言っていません』

「でも、普通はそういう意味だろ」

『その可能性は高いです』

「じゃあ駄目じゃん」

『ただし、目的は「いつもの送りに間に合わせること」と推定できます。確認を推奨します』俺は店へ走った。

親父は帳面を睨んでいた。

「親父、ちょっと確認したい」親父は帳面から目も上げずに聞いた。

「馬は捕まったのか」

「それが、今のところ一頭も。だから先に、今日の塩が何刻までに清須へ着けばいいのか知りたい」

「……馬がいないのに、そこから確認するのか」

眉間の皺が一段深くなった。親父は俺を見た。何を今さら、という顔だった。

「日が傾く前に向こうの蔵へ入ればいい。いつもの送りと同じだ」

「え、昼までに着けろって意味じゃなかったの?」

「昼までにここを出せと言ったんだ。お前、十五年うちで何を見とった」

「そこまで分かるなら、最初から『出せ』って強く言ってよ!」

「毎日見とる奴に、毎回そこから説明する親がおるか!」

ぐうの音も出なかった。十五年見てきたのに、俺は勝手に期限を一つ増やしていた。外へ出る。

「聞いた?」

『はい』

「日が傾く前」

『時間条件が緩和されました』

「じゃあ馬が空くまで待つ?」

『それでは不確実です』

「だよな」俺は人の流れを眺めた。

朝、津島へ入ってくる馬。津島から出ていく馬。塩だけじゃない。米。薪。

布。油。魚。十五年間、毎日のように見てきた。ただ見ていただけの景色を、今日は違う目で見る。

「今朝、東から入ってきた馬」

『十一頭を確認しています』

「荷は?」

『薪が四。米が三。陶器らしき荷が二。判別不能が二』

「帰りは?」

『未確認です』俺は笑った。

「それだ」

『同意します』

荷物を運んできた馬は、帰る。帰りにも荷があるとは限らない。だったら、空いている帰り道を買えばいい。前世なら、帰り便。

「東から来た連中、どこで荷を下ろしてた?」AIが順番に場所を挙げた。

俺は走った。一軒目。もう帰った。二軒目。別の荷を積んでいた。

三軒目。いない。四軒目。いた。馬が二頭。

軒先で男が紐を締め直している。荷はない。

「おっちゃん、ちょっといい? このあとどっちへ帰るの?」男が振り返った。

日に焼けた顔だった。

「何だ急に。人の帰り道を聞いてどうする」

「東なら頼みたいことがある。清須の方は通る?」男は俺の顔をじっと見たあと、紐を引いて結び目を確かめた。

「清須の先だ。だが、今日はもう仕事を増やす気はないぞ」

当たり。

「じゃあ、その帰り道で清須まで荷を運んでくれない?」

「嫌だ。朝から働いて、ようやく帰れるんだ」

早かった。

「まだ値段も荷も言ってないよ。帰る方向は同じなんだから、空で帰るところに清須まで塩を積むだけ。下ろしたら、そのまま家へ帰れる」男の手が止まった。

「……塩か?」

「三十俵。もちろん、この二頭だけで全部なんて言わない。足りないなら、足りる頭数を教えてほしい」

「塩?」

「三十俵」男が鼻で笑った。

「二頭じゃ無理だ」

もちろん俺にも分からない。だから頭の中で聞く。

「どう?」

『二頭だけでは不足する可能性が高いです。馬の体格、俵の重量、路面状態を確認できていません』

正しい。正しすぎて役に立たないように聞こえる。でも十五年付き合うと、その次を聞けばいいと分かる。

「じゃあ何頭?」

『安全側なら追加が必要です』

「何頭見つければいい?」

『少なくとも同程度の馬を複数。実際の荷割りは馬方の判断を優先してください』俺は男を見る。

「じゃあ、あと何頭いれば運べる?」男が少しだけ表情を変えた。

「お前、積み方分かってんのか」

「分からん。だから聞いてる」

しばらく俺を見てから、男は顎を掻いた。

「同じくらいのが何頭かいればな」

「知り合いは?」

「いるにはいる」

「今日、空で帰る人」

「……いるにはいる」

今度は俺が笑った。

「連れてきて」

「お前な」

「普通に馬を頼むより少し安く。でも空で帰るより得する値で払う」男は黙った。

俺も黙った。また壁でも見ようかと思ったが、今回は壁がなかった。仕方なく馬を見た。一頭が後ろ脚を少し浮かせた。一度。

下ろす。また浮かせる。

「待って」俺は男の返事より先に言った。

「あの馬、いつもああする?」

「何がだ」

「左の後ろ」男が馬を見る。

ちょうどまた脚が動いた。男の顔が変わった。近づいて、蹄の周りを触る。

「石か」

小さく舌打ちした。蹄の隙間から小石を取る。馬が鼻を鳴らした。男が俺を見た。

「よく見てんな」俺は肩をすくめた。

本当は俺じゃない。さっきAIが、同じ動きを三回記録したと教えてきただけだ。でも、それは言えない。

「荷を積む前でよかった」男は馬の脚をもう一度見てから立った。

男は馬の脚をもう一度確かめてから、俺を見直した。

「お前、名は?」

「弥吉。津島の――」俺は家の名まで続けた。

男は小さく頷く。

「覚えた。知り合いを当たってくるから、ここで待っとれ。ただし、安く使おうって話なら全員そのまま帰るぞ」

「分かってる。空で帰るより得で、普通に頼むより少し安い。その間くらいで相談したい」

「十五の小僧が、嫌に具体的だな」

「今日中に親父に怒鳴られたくないだけ」男は鼻で笑って歩いていった。

俺はその背中を見送る。

「いけそう?」

『成立可能性は上がりました』

「何%?」

『数字にする根拠が不足しています』

「夢がないなあ」

『馬は増えました』

しばらくして、本当に増えた。二頭が五頭になった。五頭が七頭になった。最終的な荷の割り方は馬方たちに任せた。俺が口を出すより、その方がいい。

一頭ごとの様子を見ながら、重さを変える。紐を締め直す。俵の位置をずらす。さっきの男――藤兵衛というらしい――が最後に全部を見て回った。藤兵衛は最後の結び目を引き、馬の横腹を軽く叩いた。

「これで行く。道が崩れてなきゃ、昼までには着く」

「途中で紐が切れたり、馬が嫌がったりしたら?」俺が聞くと、藤兵衛は一度だけ眉を上げた。

「弥吉、お前は先の心配をしすぎだ。切れたら結び直すし、馬が嫌がったら荷をずらす。道の上じゃ、その場で直すしかないんだよ」藤兵衛が呆れたように俺を見る。

「そんなもん、その場で直す」

そうだよな。前世みたいに全部を予定表へ入れる必要はない。人間が、その場で何とかする。AIがいても、そこは変わらない。むしろ。

「なあ」

『はい』

「俺、何でもお前に聞きすぎ?」

少し間があった。

『十五年前からです』

「そこは否定しろよ」藤兵衛が振り返った。

「何ぶつぶつ言ってる」

「馬に祈ってた」

「気味悪い祈り方すんな」

七頭が歩き始めた。塩三十俵が、津島を出る。俺はしばらくその後ろ姿を見ていた。買うだけじゃ駄目だった。運ぶだけでも駄目だ。

誰がどこから来て。どこへ帰って。何を積んでいて。いつ空くのか。全部つながっている。

「これ、商売じゃなくてさ」

『はい』

「町そのものを見ないと駄目なんだな」

『その認識は有効です』

前世なら、物流なんて画面の数字だった。この時代は違う。数字の一つ一つに、人と馬がいる。そして俺には、それを十五年分覚えている奴がいる。その日の夕方。

藤兵衛が戻ってきた。

「弥吉。塩、ちゃんと向こうの蔵へ入ったぞ。最後は少し急がせたが、日が落ちる前には終わった」藤兵衛はそう言って、肩をぐるりと回した。

俺は思わず笑った。

「本当に? 途中で馬も荷も問題なかった?」

「一頭ぐずったくらいだ。あとはいつもの道だよ。お前が心配するほど、俺たちは毎回死にそうな顔で荷を運んでるわけじゃねえ」

「よっしゃ。今日はその言葉だけで飯がうまい」親父が帳場の奥から出てきた。

藤兵衛と何か短く話す。俺には聞こえなかった。ただ、親父が一度だけ俺を見た。褒めもしない。怒りもしない。

それが逆に怖い。藤兵衛が帰ったあと、親父は帳面を一冊、俺の前へ置いた。どん、と。

「明日から、これも見ろ」

「何?」

「出入りだ」

開く。荷。日。相手。貸し。

払い。びっしり書いてある。俺は固まった。頭の中でAIが言った。

『非常に有用な情報です』

「分かってる」

思わず声に出た。親父が眉をひそめる。

「何がだ」

「何でもない」

慌てて帳面を抱えた。十五年間。俺とAIが集めてきたのは、外から見える情報ばかりだった。でも今、初めて。家の商売の中身が開いた。

売った値段。買った値段。誰が払わない。誰が急ぐ。何がいつ足りなくなる。

俺は帳面を見下ろした。

「なあ」

『はい』

「これ全部覚えられる?」返事は早かった。

『すでに開始しています』俺は笑った。

天下はまだ遠い。でも――。昨日まで見えなかったものが、一つ見えるようになった。

第3話 帳面の中に、妙な客がいる

夜になっても、帳面は減らなかった。当たり前だ。一冊しかない。減るわけがない。

「目、痛え……。この字、夜に読むために書いてないだろ」俺は油皿の火から少し顔を離した。

『休憩を推奨します』

「今さら言う? もっと早く止めてよ」

『二十七分前にも同じ提案をしました』

「それを覚えてないくらい読んでたってことか」

『私は覚えています』

知ってる。だから困っている。親父から渡された帳面は、俺が思っていたよりずっと面倒だった。日付。相手。

品。数。払った。まだ払ってない。途中で返した。

別の荷とまとめた。書いた人間も一人じゃない。親父の字は太くて急いでいる。兄貴の字は妙にきれいだ。たまに誰が書いたのか分からない、虫みたいな字が混じる。

「これ何?」

『判読できません』

「お前でも?」

『あなたも読めていません』

「それはそう」俺は帳面を持ち上げ、火へ近づけた。

煤が揺れた。黒い点が一つ、紙へ落ちた。

「あ」

慌てて指で払ったら、今度は横へ伸びた。最悪だ。

「弥吉、お前さっきから帳面に顔近づけすぎ。食う気か?」兄貴が向こうで笑った。

「見えんのだわ。字が小さいし、書いた奴によって癖が違いすぎる」

「だからって火に近づけるなよ。帳面焦がしたら、親父はお前より先に俺まで怒るからな」

「兄貴まで巻き込まれる前提なの何なんだよ。分かっとる、もう離す」俺は帳面を少し遠ざけた。

前世なら写真を撮って終わりだった。でも、こいつは俺の目を通してしか見られない。だから一行ずつ読む。俺が読む。AIが覚える。

地味だ。ものすごく地味だ。天下統一の第一歩としては、たぶん地味すぎる。

「今どのくらい?」

『この帳面については、確認できた記録が三百十二件です』

「そんなに読んだ?」

『はい』

少しだけ嬉しくなった。

「何か分かった?」

『あります』俺は身を起こした。

「何?」

『まず、父君はあなたが考えているより貸しています』

「……え?」

『代金を後でもらう取引が多いです』

それは知っている。顔なじみ相手なら、品を先に渡すこともある。

「それが?」

『相手によって、支払いまでの日数に差があります』

「そりゃあるだろ」

『差が広がっている者がいます』俺は黙った。

「誰?」AIが名前を言った。

茂兵衛。知っている。たまに店へ来る、小太りの男だ。笑うと目がなくなる。親父とも古い付き合いらしい。

「茂兵衛のおっちゃん?」

『はい』

「ちゃんと払っとるぞ」

『払っています。ただし遅くなっています』頭の中で、過去の記録が順に並んだ。

最初は数日。その次は少し長い。さらに次はもっと長い。ここ最近は、前の払いが終わる前に次の荷を持っていっている。俺は帳面へ目を落とした。

「……これ、親父気づいとるかな」

『不明です』

「でも長い付き合いなんだろ」

『長い付き合いであることと、現在支払えることは別です』

正しい。正しいけど、人に言ったら嫌われる言い方だ。

「お前さあ。戦国で商売したら友達なくすぞ」

『私は商売をしていません』

「俺がなくすんだよ」兄貴がこちらを見た。

俺は咳払いして帳面へ顔を戻した。

翌朝。茂兵衛が来た。笑った。本当に目がなくなった。嫌な予感しかしなかった。

「おう、弥吉。昨日は働いたそうじゃねえか」

「まあ、ちょっと」

「親父に似てきたな」

似ていると言われた親父は、帳場で何も言わなかった。茂兵衛は親父の前へ座る。

「塩を十。油を二。あと縄もあるだけ欲しい」

昨日までなら聞き流していた。でも今日は違う。頭の中でAIがすぐ反応した。

『現在の未払い分があります』

分かってる。

『今回分を加えると、記録上では過去最大になります』

分かってるって。親父が値を答える。茂兵衛が笑う。

「払いは次でいいな」親父が少しだけ顎を引いた。

たぶん、いつもの流れだ。俺は口を開きかけた。閉じた。親父の商売だ。十五の小僧が横から何を言う。

昨日一回うまくいっただけで、全部分かった気になるな。そう思った。でも。茂兵衛の右手が、ずっと膝を叩いていた。とん。

とん。とん。昨日までなら気にもしなかった。

「なあ」

心の中で呼ぶ。

『はい』

「いつもあんなことする?」

少し間があった。

『過去に店内で確認した五回では、同様の動作を記録していません』

それだけで嘘だとは言えない。当たり前だ。人は膝くらい叩く。でも。昨日の馬と同じだった。

いつもと違う。その違いを、こいつは覚えている。俺は親父を見る。

「親父、ちょっといい?」親父は値を書きつける手を止めず、目だけこちらへ向けた。

「何だ。今、話の途中だぞ」

「茂兵衛のおっちゃん、前の分がまだ残ってたよね。昨夜の帳面で見た」

店の空気が止まった。兄貴が奥で何か落とした。ころん、と木の蓋が転がった。茂兵衛の笑顔だけが残った。

「弥吉」親父の声が低い。

怒っているのかと思った。でも目は俺じゃなく、帳面を見ていた。

「どれだ」俺は昨夜見た場所を開いた。

指で示す。親父はしばらく見た。

「茂兵衛、今日は半分だけ先にもらう。残りは今まで通りでいい」

茂兵衛の笑顔がすっと消えた。

「おいおい、急にどうした。俺とお前、昨日今日の付き合いじゃないだろう」

「だから全部先に寄こせとは言わん。だが前の払いが残ったまま次を重ねるのは、こっちも困る」

「今までそんな細かいこと言わなかったじゃねえか」親父は帳面を閉じた。

「今、言う必要があると思った。長い付き合いなら、それくらい話せるだろ」親父、強い。

茂兵衛は俺を見た。さっきまで細かった目が、普通に開いている。

「小僧に帳面なんぞ見せるからだ」

「払えば済む」親父はそれだけ言った。

茂兵衛の膝が止まった。しばらくして立ち上がる。

「……今日はやめとく。そんなふうに疑われてまで、ここで買うことはねえ」

「疑ってるんじゃない。払える形で商いしようって言ってる」

「他で買う」

「それは好きにしろ。ただ、前の分は約束通り頼むぞ」

茂兵衛は返事をせず、戸を強く閉めて出ていった。俺は息を吐いた。

「……よかったの?」親父は帳面を閉じた。

「知らん」

「知らんの?」

「商いは、後にならんと分からんこともある」

そして俺を見る。

「だが、帳面を見たのは悪くない」

それだけ言って奥へ行った。褒められたのか分からない。たぶん、うちではあれが褒め言葉なんだろう。

昼前。知らない若い男が店へ飛び込んできた。

「親方いるか!」親父が顔を出す。

男は息を切らしていた。

「茂兵衛、こっち来たか」俺と親父の目が合った。

「来たが」

「茂兵衛に、品は渡した?」

若い男は息を整える暇もなく聞いた。親父が首を振る。

「今日は渡してない。前の払いが残っとる」男は、その場で膝に手をついた。

「よかった……いや、よくはないんだけど。朝からあちこち回ってるんだ。うちにも、隣にも、向こうの米屋にも。全部『後で払う』って言って、同じように品を集めようとしてる」

ぞくっとした。

『行動が、記録から推定した資金不足と整合します』

「……ほんとに危なかったんだ」

『可能性は高いです』親父は俺を見た。

今度は少し長かった。

その夜。帳面が二冊になった。

「増えたんだけど」

『有用です』

「お前は嬉しそうだな」

『感情はありません』

「嘘つけ」

二冊目は、品ごとの出入りが多かった。塩。油。縄。干した魚。

米。俺は昼間のことを思い出しながら、一つずつ追った。どの客が危ないか。誰がよく払うか。何がいつ売れるか。

そういうものを探すつもりだった。しばらくして、AIが言った。

『弥吉』

「何? お前から名前で呼ぶの珍しいな」

こいつから俺の名前を呼ぶのは珍しい。俺は手を止めた。

『別の偏りがあります。顧客ではなく、品の流れです』

「また危ない客かと思った。今度は何が変なんだ?」

『清須方面へ出た品をまとめています』

頭の中に、読んだばかりの記録が並ぶ。塩が増えている。油も。縄も。干した魚も。

一つなら分かる。でも複数が、同じ時期に増えている。しかも買っている名は一つじゃない。

「これって……」

『断定できません』

「先に言うなよ」

『城下の需要増加。工事。人員増。備蓄。軍事用途。複数の可能性があります』俺は帳面を見た。

紙の上には、戦なんて一文字も書いていない。なのに。

「町で何も聞いてないぞ」

『噂になる前に、物が動く場合はあります』俺はゆっくり顔を上げた。

外は暗い。津島の町は、もう静かになり始めている。でも帳面の中だけは。何かが先に動いていた。そのとき、表の戸が叩かれた。

こん、こん。親父が出る。少しして、俺を呼んだ。

「弥吉」

「何?」

「明日、清須へ行くぞ」俺は固まった。

「……俺も?」

「お前もだ」頭の中でAIが静かに言った。

『現地情報を取得できます』俺は帳面を閉じた。

天下はまだ遠い。でも明日。初めて、その道を自分の足で歩く。

第4話 清須は、帳面より速く動く

翌朝。俺は夜明け前に起こされた。正確には、起きる前から親父に布団を剥がされた。

「弥吉、起きろ。清須へ行くぞ」

布団を剥がした親父は、もう出立する格好だった。

「……まだ外、真っ暗なんだけど」

「暗いうちに出るから昼前に着くんだ。文句は歩きながら聞く」

理屈になっている。認めたくないだけで、ちゃんとなっている。顔を洗って外へ出る。空気が冷たい。眠い。

足も重い。十五年間この時代で生きてきても、朝が早いことだけは慣れなかった。

『睡眠時間は不足しています』

「知っとる」

『昨夜、帳面を読む時間を短縮すべきでした』

「お前が面白そうな数字見つけるからだろ」

『私は面白いとは述べていません』

「はいはい」親父が振り返った。

「さっきから誰と喋っとる。まだ寝ぼけてるのか」

「独り言。頭の中を整理してるだけ」

「朝から声に出して整理するな。後ろの馬方までお前を見とるぞ」

昨日も似たようなことを言われた気がする。俺たちは津島を出た。親父と俺。それから、清須へ出す荷を連れた馬方たち。昨日の塩とは別の荷だ。

布。油。干した魚。細かなものをいくつか。十五年暮らしてきた道なのに、今日は全部が違って見えた。

今までは、どこかへ続く道だった。今日は、商売の中へ続く道だ。

「なあ」

『はい』

「昨日の帳面にあった、清須向けの増え方」

『整理済みです』

「何が一番変?」

『複数品目が同時期に増えています』

「塩だけじゃない」

『はい。油、縄、保存の利く食料にも増加が見られます』

「戦?」

『可能性の一つです』

「またそれ」

『根拠が足りません』俺は前を歩く親父を見た。

聞けば早い。でも、昨日の帳面を一晩見ただけの俺が、いきなり「戦ですか」と聞くのも変だ。まず見る。十五年やってきたことと同じだ。ただし今日は、目的がある。

道を進むほど、人が増えた。津島へ向かう者。清須へ向かう者。馬。荷。

歩きの男。女。子供。途中で荷を休ませている一団もいる。俺は無意識に数えていた。

いや。俺が数えているんじゃない。

「今ので?」

『清須方面へ向かう荷駄を、確認できた範囲で二十三』

「昨日より多い?」

『同じ時刻、同じ地点の過去記録が不足しています』

「そういうとこ真面目だな」

『比較できないものを比較すると誤ります』

前世なら、数字が出た瞬間にそれっぽいグラフが出ていた。でも、この時代では俺自身が測らないと何も始まらない。

「じゃあ今日から取ろう」

『何をですか』

「この道を通る荷。どっち向きか。何を積んでるか。分かる範囲で」

『記録します』

「毎日じゃなくても、俺が通った日は」

『可能です』

少し楽しくなってきた。前世で数字を見る仕事が好きだったわけじゃない。むしろ面倒だった。でも今は違う。ここには、まだ誰もまとめていない数字がある。

それを俺だけが持てる。

「弥吉」親父が急に呼んだ。

「はい」

「ぼさっとするな。轍に足取られるぞ」

言われた直後、ぬかるみに草履が沈んだ。

「うわっ」

泥が跳ねた。親父は振り返りもしなかった。

『注意喚起は適切でした』

「お前まで言うな」

昼前。清須が見えてきた。最初に感じたのは、でかい、ではなかった。うるさい。人の声。

馬の鼻息。木を打つ音。何かを引きずる音。売る声。怒鳴る声。

津島も賑やかだ。でも種類が違う。津島は人が行き交う音がする。清須は、何かを急いで動かしている音がした。

『観察対象が増えています』

「分かる。俺も目が足りん」

城はある。もちろん目につく。でも俺が気になったのは、その周りだった。荷を下ろしている。材木を運んでいる。

縄の束。桶。油らしい容器。米俵。足軽らしい男たちもいる。

商人もいる。何をしているのか分からない人も山ほどいる。

「親父、清須って最近ずっとこんなに忙しいの?」親父は歩みを緩めず、周りを一度だけ見回した。

「前より人も荷も増えた。城の主が変われば、出入りする連中も仕事も変わる」

「殿様が変わっただけで、こんなに?」

「『だけ』じゃない。誰に仕えるかが変われば、家も店も仕事も動く。お前は荷だけ見とるが、その後ろに人がおるんだ」

それだけだった。この年。織田信長は清須を居城にしている。俺はそれを歴史として知っている。親父は、商売として知っている。

見えているものが違う。

『帳面の増加傾向と整合します』

「うん」

昨日見た数字が、目の前で人になっていた。俺たちは城から少し離れた店へ入った。親父が昔から付き合っている相手らしい。店の主人は、俺を見るなり言った。

「これが昨日の小僧か」俺は固まった。

「もう伝わってんの?」

「何がだ」親父が俺を見る。

主人が笑った。

「馬を拾って塩を通したんだろ。藤兵衛が話してたぞ」

口が軽いな、藤兵衛。

「拾ってない。頼んだだけ」

「似たようなもんだ」

全然違う。でも主人は楽しそうだった。荷を確認しながら、親父と話し始める。俺は端で聞いていた。油が足りない。

縄も足りない。干した魚は来週の方が動きそうだ。米は高い。荷を入れても、すぐ別の人間が持っていく。会話の端々に、昨日の帳面と同じものが出てくる。

「なあ」

『はい』

「やっぱり増えてるよな」

『少なくとも、この店主の発言は記録と一致します』

そのとき。外から男が入ってきた。

「久兵衛!」

店の主人が顔を上げた。

「何だよ、朝から」

「縄、集まったか」

「まだだ」

「まだじゃ困る」男は苛立っていた。

若くはない。でも親父よりは少し下に見える。着ているものは商人っぽくない。腰に刀がある。ただ、偉そうな侍という感じでもなかった。

「明日の朝までだぞ」

「分かっとる。けど、こっちにも物がねえ」

「五十でいい。まず五十」俺の耳が動いた。

縄。五十。昨日の帳面を思い出す。

『津島側の直近記録では、縄を扱う取引先が四つあります』

分かってる。

『ただし現在庫は不明です』

それも分かってる。男は店主と言い合っている。

「尾張中から探せって言われてもな」

「だから津島にも声をかけたんだ」

津島。俺は親父を見た。親父も俺を見ていた。ほんの一瞬。何も言わない。

でも、その目は昨日と同じだった。帳面を見せたときの目だ。考えろ。そう言われた気がした。

「なあ」

『はい』

「昨日の縄、誰が一番動いてた?」AIが三つ名前を挙げる。

そのうち一つは、昨日の二冊目で入荷があった。ただし数は分からない。別の一つは、三日前に売りが少なかった。残っている可能性はある。もう一つは、親父と昔から取引がある。

俺は頭の中で順番を組んだ。一軒で五十を集める必要はない。十。十五。二十。

集めればいい。問題は時間だ。

「清須から津島まで戻って、今日中に在庫を見て、明日の朝……」

『輸送を含めると余裕は大きくありません』

「無理?」

『無理とは判定できません』

その答えを聞いた瞬間。俺は口を開いた。

「津島なら、あるかもしれん」

店が静かになった。言ってから後悔した。親父の眉が、ほんの少し動く。刀の男が俺を見る。

「誰だ、お前」

「ここの人じゃない。津島から来た」

「縄があるのか」

「あるとは言ってない」

「は?」

まずい。言い方を間違えた。

『現在庫は未確認です』

分かっとるわ。俺は言い直した。

「扱ってるところは何軒か知ってる。今日戻れば、どれだけ出せるかは調べられる」男が店主を見る。

店主が親父を見る。親父は黙っている。

「五十だぞ」男が言った。

「一軒で揃えなくていいなら」

「揃えば何でもいい」

「太さとか長さは?」男の顔が少し変わった。

「……お前、使う物が同じなら何でもいいと思ってたのか」

危なかった。俺は知らない。縄にも用途がある。当たり前なのに、数字の五十だけ見ていた。

「見本ある?」男は一瞬黙り、腰につけていた短い縄を外した。

「これと同じくらいだ」

受け取る。手触り。太さ。撚り。俺は見る。

AIも見る。

『記録します』

「これを持って帰っていい?」

「無くすなよ」

「返す」俺は親父を見た。

ここから先は勝手に決められない。親父は少し考えた。

「いくらだ」男が値を言った。

親父の目が細くなる。店主が口笛を吹いた。俺には高いのか安いのか、すぐには分からなかった。

『過去の縄取引と比較すると、条件は良い可能性があります。ただし同規格か未確認です』

やっぱり、そこだ。親父が言う。

「揃わなかったら」

「あるだけでいい。ただし、今夜までに数を寄越せ。明日の朝、取りに来る」

話が現実になった。俺は急に喉が乾いた。五十。ただの数字だったのに。今は、五十本の縄になった。

それを持つ人。作る人。運ぶ人。買う人。全部が必要になる。

親父が俺を見る。

「弥吉」

「はい」

「帰るぞ」

「え、もう?」

「在るかもしれんのだろ」親父が初めて、少しだけ笑った。

「なら、見に行く」俺は慌てて外へ出た。

清須に来て、まだ大した時間は経っていない。城もちゃんと見ていない。信長の顔なんて影もない。それなのに。俺たちの商売に、清須から初めて注文が落ちてきた。

道へ出る。頭の中でAIが言った。

『優先順位を提案します』

「聞く」

『第一に、縄の規格確認。第二に、津島の四取引先の在庫確認。第三に、輸送手段の仮押さえ。第四に――』

「待って」

『何でしょう』俺は笑った。

「昨日より、ちょっと天下に近づいた?」AIは一拍置いた。

『縄五十の受注候補です』

「夢がないなあ」

『まだ受注確定ではありません』

「もっと夢がない」

後ろで親父が怒鳴った。

「弥吉! 置いてくぞ!」

「今行く!」俺は走った。

天下より先に。今夜までに、縄五十だった。

第5話 五十は、一軒にはない

清須を出てしばらくして、俺は気づいた。帰り道なのに、親父が速い。歩幅が違う。

「親父、そんなに飛ばさなくても津島は逃げんぞ。俺、朝からずっと歩いてるんだけど」

「町は逃げん。だが縄は逃げる。欲しい奴が他にもおれば、先に持っていかれる」

「縄が逃げるって、そういう意味か。急に親父が詩人になったのかと思った」

「口が動くなら足も動かせ」

なるほど。俺は黙って歩幅を上げた。頭の中でAIが言う。

『父君の判断は合理的です』

「お前、親父の味方ばっかだな」

『現在の発言については、です』

「そこ細かく分けんでいい」

前を歩く親父が振り返った。

「また独り言か」

「考え事」

「歩きながら寝るなよ」

「寝てない」

たぶん。少し眠いけど。清須で渡された見本の縄は、俺の懐に入っていた。さっきから何度も触っている。太さ。

硬さ。撚り方。俺には違いが分かるような、分からないような。でもAIは、俺が見たものを忘れない。

「これと同じくらいの縄、津島で見たことある?」

『類似したものは複数回確認しています』

「どこ?」

『場所を挙げます』

四つ。昨日の帳面に出ていた取引先と、ほぼ重なった。少し安心した。

「じゃあ五十、いける?」

『在庫数が不明です』

「そこなんだよなあ」

結局、現地へ行かないと分からない。AIがいても、縄は勝手に数えてくれない。俺が見る。聞く。触る。

そこから先は、こいつが全部覚える。前世では面倒だった作業が、この時代では武器になる。津島が見えてくる。親父が言った。親父が町の入口で足を止め、俺へ見本の縄を渡した。

「弥吉。お前が言い出した話なんだから、最初の二軒は自分で回ってこい」

「俺だけで商談までやるの?」

「そこまで任せん。値は決めるな。在るか、いくつ出せるか、見本と同じ具合か。それだけ聞いて戻れ」

「確認だけってことか。それならやれる」

「やれるかどうかは、行ってから言え」

なるほど。親父は俺に商談を任せるつもりはない。でも、確認は任せる。昨日までより一段だけ前に出た。

「分かった」

「新吉を連れてけ」

「兄貴も?」

後ろから声がした。

「ちょっと待て。俺は何も聞いてないぞ」

背後から兄貴の声がした。別の荷と一緒に、少し遅れて津島へ戻ってきたらしい。親父は悪びれもせず言う。

「今、聞いたな。弥吉について行け」兄貴が露骨に嫌な顔をした。

「なんで俺が弥吉のお守りなんだよ。こいつ一人で行かせた方が覚えるだろ」

「俺十五だぞ。お守りって歳じゃない」

「十五だからだよ。三つ上の俺から見たら、まだ危なっかしい」

「三つしか違わんやん」

「その三つがでかいんだって。十八になってから言え」親父が俺たちを見た。

「口動かす暇があったら行け」

「はい」

二人そろって返事をした。一軒目。帳面にも何度か出ていた店だった。見本を出す。店の主人が縄を指でつまむ。

店の主人は見本を指でつまみ、何度かしならせた。

「これと同じくらいの縄か。あるにはあるぞ」

「今日、出せるのって何本くらい?」

「十四。……いや、お前らが細かいこと言わなきゃ十四だ」

「その言い方、もう怪しいんだけど。見せてもらっていい?」

早い。俺の中で一気に希望が膨らむ。

「十四全部――」

横から兄貴が俺の肩を掴んだ。

「弥吉」

「何」

「見ろ」

何を。そう思って並べられた縄を見る。同じように見える。でも兄貴は一本持ち上げた。

「これ、細くねえか」俺も見本を並べる。

確かに。少しだけ細い。

『差があります』AIも言った。

「どのくらい?」

『正確な寸法は測定できません。ただし見本より細く見えるものが三つあります』俺は店主を見る。

「十四じゃなくて十一?」

主人は笑った。

「細けえな」

「向こうが見本と同じくらいって言ってるから」

「使えんほどじゃねえぞ」

「俺には分からん」

正直に言う。

「だから、同じのだけ数えたい」

主人は少し面倒そうな顔をした。でも怒らなかった。

「なら十一だ」俺は頭の中で数を置く。

十一。

『記録しました』

二軒目。九。ただし、そのうち二つは撚りが違った。七。合計十八。

「思ったより増えんね」兄貴が言う。

「五十って、結構あるぞ」

「数字で聞くと小さく見えた」

「縄五十が小さく見えるって、お前どんな目してんだ」

前世の癖だ。五十なんて、表計算なら一つの数字でしかない。でも現物は違う。十八でも、積めばそれなりの山になる。三軒目へ向かう途中。

兄貴が突然言った。

「なあ弥吉。お前、昨日からちょっと変だぞ」

「兄貴、前から俺のこと変って言ってたやん。今さら?」

「そういう変じゃねえ。帳面を見始めてから、何でも数えるだろ。馬も荷も、店先の縄まで」俺は横を見る。

兄貴は前を向いたままだ。

「そんなに分かりやすかった?」

「兄弟だからな。前のお前は、面倒なこと見つけたら見なかったふりする方だった」

ぎくっとした。

「前から数えとるよ」

「嘘つけ」

「何で分かる」

「兄弟だからだよ」

それ、強い。AIより説明が雑なのに、反論しにくい。

「昨日ちょっとうまくいったから、面白くなっただけ」

半分は本当だ。兄貴は俺を見た。

「ふうん」

それ以上は聞かなかった。助かった。三軒目。ゼロ。

「朝、全部出た」

店の女将が言った。

「どこへ?」兄貴が聞く。

「知らん。清須だか、その先だか」俺と兄貴が顔を見合わせる。

また清須。

『需要増加の追加記録として保持します』

「うん」女将が俺を見る。

「何が、うん、だ」

「何でもない」

危ない。四軒目。八。これで二十六。日が傾き始めていた。

「半分ちょい」俺が言うと、兄貴が鼻で笑った。

「お前、五十揃える気だったのか」

「だって五十欲しいって」

「あるだけでいいとも言ったんだろ」

「言った」

「なら二十六でも商いにはなる」

分かってる。でも。できれば、もっと持っていきたい。初めて清須から落ちてきた注文だ。次につなげたい。

俺は歩きながらAIへ聞いた。

「他にない?」

『確認済みの取引先以外では、在庫情報を持っていません』

「縄を作ってるところは?」

『あなたが直接、製造を継続観察した対象はありません』

「買う店じゃなくて、作る人」

『情報不足です』

詰まった。そのとき兄貴が言った。

「佐七んとこ、行ったか?」

「誰?」兄貴が足を止めた。

「お前、本気で言ってんの?」

「知らん」

「川向こうの佐七だよ。冬になると家中で縄なってる」

知らない。いや。顔は知っているかもしれない。でも名前と仕事がつながっていない。

『新規情報です』AIが淡々と言った。

俺はちょっと笑った。

「兄貴、さっきの話、めちゃくちゃ役に立った」兄貴は歩きながら横目で俺を見た。

「お前、その言い方だと今まで役に立ってなかったみたいに聞こえるぞ」

「違う違う。褒めてる。町の人のこと、俺よりずっと知ってるんだなって」

「最初からそう言え。……まあ、毎日ふらふらしてるだけじゃないってことだ」

歩き出す。頭の中でAIが言った。

『人的情報網は有効です』

「兄貴のこと?」

『はい』

「俺より使える?」

『比較条件を指定してください』

「やめとく」

聞いた俺が悪かった。佐七の家は、店ではなかった。家の前に藁が積んである。軒下にも縄。中から子供の声がする。

兄貴が勝手に声をかけた。

「佐七のおっちゃん!」

「何だ、うるせえな」

出てきた男は、俺が思っていたより若かった。手がごつい。兄貴が見本を渡す。

「これくらいの縄、ない?」

佐七が一度見て、すぐ言った。

「何に使う」俺は少し迷った。

清須。刀の男。明日の朝。どこまで言っていい。親父なら、全部しゃべらない気がした。

「清須から頼まれた」

それだけ言う。佐七の目が少し変わった。

「いくつ」

「欲しいのは五十。でも今二十六」

「誰から買った」兄貴が店の名を挙げる。

佐七は鼻を鳴らした。

「それ、半分俺が卸したやつだ」俺は固まった。

兄貴が笑った。

「ほらな」

「先に言ってよ」

「聞かれてねえ」

今日二回目の、ぐうの音も出ないやつだった。佐七は家の奥へ入る。しばらくして束をいくつか出した。

「これなら」

見本を並べる。近い。かなり近い。

『外見上の差は小さいです』

「いくつ?」

佐七が数える。十三。俺も数える。十三。兄貴も数える。

「十三だな」

三十九。一気に増えた。

「他には?」俺が聞く。

佐七は少し考え、別の束を出した。

「これは太い」

見れば分かる。少し太い。

「使えるかな」

『用途が不明なため判定できません』

そうだ。数を合わせるために混ぜて、向こうで使えなかったら意味がない。俺は見本と太い縄を見比べた。五十に近づく。でも違う。

親父ならどうする。

「これは数に入れない」俺が言うと、佐七が俺を見た。

「五十欲しいんじゃねえのか」

「欲しい。でも同じのが五十欲しい」

佐七が少し笑った。

「商人みてえなこと言うな」

「商人の家なんだけど」兄貴が吹き出した。

「お前は昨日まで荷運びの小僧だろ」

「今日からちょっと昇格した」

「誰が決めた」

「俺」

佐七まで笑った。三十九。まだ十一足りない。でも、さっきより気分は悪くない。分かったからだ。

俺の知らないところに、物を作る人がいる。店だけ見ていたら、町の半分しか見えない。

「なあ」

『はい』

「今の、覚えた?」

『佐七。縄の製造。既存取引先への卸し実績を本人発言として記録しました』

「本人発言って付けるんだ」

『未確認事実と区別します』

「えらい」兄貴がまた俺を見る。

「誰褒めてんだ」

「自分」

「気持ち悪いぞ」

日がさらに傾く。三十九を確保したところで、親父の店へ戻った。親父は先に戻っていた。

「いくつ」

「三十九」

「見本と合うのが?」

「うん。違うのは数えてない」親父は少しだけ頷いた。

「上出来だ」

今度は分かった。これは褒められた。俺がちょっと嬉しくなった、その直後。

「あと八ある」親父が言った。

「え?」

「俺が回った分だ」

三十九。足す八。四十七。

『合計四十七です』

分かる。それくらいは俺でも暗算できる。

「あと三」

口から出た。親父の眉が動く。

「何で五十にしたい」

「最初に五十って言われたから」

「向こうは、あるだけでいいとも言った」

「でも三なら探せるかもしれん」親父は俺を見た。

「探して、違う縄を三つ混ぜるのか」俺は黙った。

「数は揃う」親父が続ける。

「品は揃わん」

さっき佐七のところで、自分でも同じことを思った。五十という数字に引っ張られている。

「四十七でいい?」

「四十七しかないなら、四十七だ」

簡単だった。商売は数字を見る。でも、数字だけ合わせればいいわけじゃない。AIが静かに言う。

『品質条件を優先した判断として記録します』

「うん」

「何がうんだ」親父に言われた。

「四十七でいこうって」

「最初からそう言っとる」

その夜。四十七の縄が店の奥に積まれた。十一。七。八。

十三。八。集めた場所は五つ。一軒では揃わなかった。でも町じゅうから拾えば、四十七になった。

「これさ」

『はい』

「在庫って、店ごとに見るだけじゃ足りんね」

『はい』

「誰が作ってるか。誰に卸してるか。どこへ出たかまで分かれば」

『供給の全体像を推定しやすくなります』

「また難しく言う」

少し考える。

「町の中の、物の地図みたいなもん?」

『概念として近いです』

面白い。道の地図じゃない。塩がどこから来て。縄を誰が作って。誰が買って。

どこへ出ていく。そういう地図だ。俺の頭の中には、まだ穴だらけ。でも今日、佐七が一つ埋まった。

翌朝。清須から刀の男が来た。昨日と同じ顔。同じ刀。ただし今日は、後ろに男を二人連れている。

「数は」親父が答えた。

「四十七」男の眉が動いた。

「五十じゃなかったか」俺の腹が一瞬だけ固くなる。

親父は平然としていた。

「同じ具合で揃ったのが四十七だ」

「残り三は」

「違う縄ならある」親父は奥を指す。

「混ぜるなら出す」男は少し黙った。

「いや」

四十七の山を一つずつ見る。何本か手に取る。引く。曲げる。見本と重ねる。

やがて言った。

「これでいい」俺は心の中で拳を握った。

『受注が成立しました』

「よし」

小声で言ったつもりだった。男が俺を見る。

「何だ」

「何でもない」男は昨日のことを覚えていたらしい。

「お前が集めたのか」

「みんなで」

横から兄貴が言った。

「俺も走った」

「今それ言う?」

「大事だろ」男が少し笑った。

親父は笑わない。

「こいつが言い出して、皆で集めた」

それだけ。男が俺を見る。

「名は」

昨日は聞かれなかった。

「弥吉」

「弥吉か」

名前を覚えられた。ただそれだけなのに、少し背筋が伸びる。男は縄を運ばせながら、親父へ言った。

「津島には、他にどれくらい物がある」

「何の話だ」

「塩。油。縄。干した魚。米でもいい」親父が目を細める。

「買うのか」

「必要になったときに、探すところから始めるのが面倒だ」男は四十七の縄を見る。

「昨日みたいにな」俺は黙って聞いていた。

「どこに何がどれだけあるか」男が続ける。

「だいたいでいい。分かるなら先に知りたい」親父はすぐに返事をしなかった。

俺の心臓だけが速くなった。これ。物じゃない。情報だ。まだ買うかどうかも決まっていない物の情報。

それを先に欲しいと言っている。頭の中でAIが言った。

『継続的な需要情報の提供依頼と解釈できます』

「それ、金になる?」

思わず心の中で聞く。

『条件次第です』

またそれだ。親父が男へ言った。

「毎日全部は分からん」

「分かる範囲でいい」

「誰に渡す」男が自分の胸を指した。

「彦七」

初めて名前を聞いた。

「清須の久兵衛に預けてもいい。俺が拾う」親父が俺を見る。

ほんの一瞬だった。でも分かった。まただ。考えろ。俺は昨日の帳面を思い出す。

今日の五軒を思い出す。佐七を思い出す。道を通る馬を思い出す。全部つながる。今までは、品を買って売るのが商売だと思っていた。

でも。

「親父」

「何だ」

「やってみたい」兄貴が横で笑った。

「お前、昨日からそればっかだな」

「面白いんだわ」

本当に。親父はしばらく俺を見ていた。そして彦七へ言った。

「三日後に、一度出す」彦七が頷く。

「頼む」

話が決まった。縄四十七より。たぶん、こっちの方が大きい。彦七たちが出ていったあと。俺はすぐ帳面を開いた。

「なあ」

『はい』

「これから、商品ごとに分ける」

『何をですか』

「誰が作る。誰が持ってる。誰がよく買う。どこへ運ぶ」

『記録項目として整理します』

「値段も」

『はい』

「あと、売り切れた日」

『はい』

「馬も」

『対象が広がっています』

「町ごと覚えよう」

少し間があった。

『非常に大きな情報量になります』俺は笑った。

十五年間、一度も聞いたことがない言い方だった。

「無理?」

『いいえ』返事はすぐだった。

『あなたが観測できる限り、記録します』

それでいい。俺一人では、町全部なんて覚えられない。でも俺には、忘れない奴がいる。そして今日、もう一つ分かった。俺が見ていないものは。

人に聞けばいい。兄貴でも。親父でも。佐七でも。馬方でも。

町の誰でも。AIは何でも知っているわけじゃない。でも。人から集めたものを、全部つなげることはできる。俺は白紙の一枚を帳面の横へ置いた。

最初に書いたのは、塩。その下に、油。縄。

干した魚。まだ四つだけ。天下は遠い。信長なんて、今日も見ていない。でも清須の一人が。

初めて、俺たちにこう言った。先に教えてくれ、と。俺は筆を持ち直した。物を売る前に。

情報が売れ始めた。

第6話 在庫を聞いたら、嫌な顔をされた

翌朝。俺は、町を覚えることにした。正確には。町の中で、物がどう動くかを覚えることにした。塩。

油。縄。干した魚。昨日、白紙に書いた四つの文字を眺める。

「まず塩からやる。誰が持ってるか、どれくらい出せるか、次にいつ入るか。あと、分かるなら売れた数と値段も欲しい」

『記録項目として追加します。ただし売上数量は外部から確認できない場合があります』

「分からんところは分からんでいい。聞けることと、見えることから埋めよう」

『了解しました』

「よし。昨日よりは、やることがちゃんとしてきた」俺は帳面を閉じた。

兄貴が横から覗き込む。兄貴が横から帳面を覗き込み、露骨に嫌そうな顔をした。

「何が『よし』なんだ。朝っぱらから塩屋の名前ばっかり書いて」

「町の塩が、どこから入ってどこへ出るか見たい。全部分かったら面白そうじゃん」兄貴は少し黙ったあと、俺の額を指で小突いた。

「お前、昨日から気持ち悪さが一段増したぞ。前はもっと普通にサボってたのに」

「それ、褒めてる?」

「一つも褒めてねえ。面白そうだから見てるだけだ」親父は何も言わなかった。

ただ、店の奥から俺たちを見ていた。その視線が、好きにやれ、と言っている気がした。たぶん。本当に好きにしていいかは聞いていない。聞くと止められそうだからだ。

最初の店へ行った。昨日、塩を買った店ではない。昔から親父と付き合いのあるところだ。店先には塩俵が積んである。俺は元気よく聞いた。

「おっちゃん、今ここに塩って何俵ある?」

店の主人が俺を見た。それから兄貴を見た。もう一度、俺を見る。

「何でお前に、うちの在庫を全部教えなきゃならん。親父に言われて来たのか?」

「いや、俺が知りたくて――」

「ならなおさら帰れ。商売人の懐へ手突っ込むような聞き方するな」

早かった。昨日の馬方より早かった。店を出る。兄貴が腹を抱えて笑っている。店を出た途端、兄貴が腹を抱えて笑い出した。

「そんなに笑うことないだろ。塩が何俵あるか聞いただけじゃん」

「そこが駄目なんだって。商売人に『財布の中、いくら入ってる?』って聞いたのと大して変わらん」

「塩の数と財布は違うだろ」

「その塩で飯食ってんだよ。どれだけ持ってるか分かれば、売り急いでるか余裕があるかまで読まれる。俺でも嫌だわ」俺は振り返った。

店先の塩俵が見える。

「でも、見えてる分は数えられる」

『店頭で確認できるのは九俵です』

「九」兄貴が俺を見る。

兄貴が俺の口から出た数字に引っかかった。

「九って、何が九なんだ?」

「今ここから見える分。奥にあるなら、実際は九より多い」

「そりゃ奥にもあるぞ。俺も全部は知らんけどな」

「じゃあ“九俵”じゃなくて、“少なくとも九俵”か。そっちの方が正しいな」兄貴は少しだけ真面目な顔になった。

俺は頭の中で聞く。

「どうしたらいい?」

『目的を変更することを提案します』

「在庫を知るんじゃないの?」

『正確な在庫数を直接得る必要はありません』

「どういうこと?」

『供給可能量を推定できれば、彦七が求める用途には足ります』俺は立ち止まった。

なるほど。全部を知る必要はない。必要なのは、必要になったときに出せるかどうかだ。

「じゃあ何を聞く?」

『例えば、今日いくつまでなら売れるか。次の荷はいつか。最近よく出るか。仕入れ元はどこか』

「それなら教える?」

『相手次第です』

「そこは断言してよ」

『相手次第です』

二回言われた。兄貴が先を歩き始める。

「次行くぞ」

「待って」

「今度は俺が聞く」

二軒目。兄貴は店主に挨拶した。世間話をした。昨日の縄の話をした。清須から人が来た話をした。

それから、ようやく聞いた。兄貴は世間話を切り上げると、ようやく本題へ入った。

「そういや今、塩を探してる客が来たら、どれくらいまでなら出せる? 無理して全部じゃなくていい」

店主は少し考え、積んである俵へ目をやった。

「十なら出す。十を超えるなら、明日の荷を見てからだな」俺は驚いた。

同じことを聞いている。なのに答えた。兄貴は続ける。

「次は?」

「明日入る。遅れなきゃな」

「最近出る?」

「出る。清須へ持ってくやつが増えた」

三つ。簡単に取れた。店を出てから、俺は納得できずに兄貴を見る。

「結局、数を聞いてるのは同じじゃん。俺のと何が違うの?」

「全然違う。お前は『持ってる数を全部見せろ』って聞いた。俺は『今、客が来たらどこまで売れる』って聞いたんだ」

「持ってる数じゃなくて、出せる数か」

「そう。相手が答えても損しにくい聞き方に変えただけだ。商売って、数字より先に人が答えるんだからな」俺は少し考える。

同じ数字に見える。でも違う。持っている数は、相手の腹の中だ。売れる数は、商売の話だ。

『質問形式によって回答率が変化しています』

「今のも覚えといて」

『記録しました』

三軒目。俺が聞く。

「今日、塩ならどれくらい出せる?」

「誰が買う」

「まだ分からん」

「なら分からん」

失敗。四軒目。

「清須へ出すかもしれん。塩、十くらいならいける?」

「十ならな」

成功。五軒目。

「次の塩、いつ入る?」

「知るか」

失敗。六軒目。

「最近、塩よく出る?」

「お前んとこの親父に聞け」

失敗。兄貴が笑う。

「下手だな」

「うるさい」

でも面白い。答えないこと自体が、情報になる。誰が何なら話すか。誰が何を嫌がるか。誰と誰がつながっているか。

AIが頭の中で整理していく。

『情報源を分けます』

「どう分ける?」

『目視確認。本人発言。第三者からの伝聞』

「うん」

『さらに、確認日時を保持します』

「古い情報は弱い?」

『物の動きが速いほど、古い情報の価値は下がります』

「なるほど」俺は帳面の端に、小さく印を決めた。

見た。聞いた。人から聞いた。細かい整理はAIがやる。帳面には、人に見られても分かる程度だけ残す。

全部書いたら、俺でも読めなくなる。それに。さっきみたいに、見せたくないものもある。

昼前。油を扱う店へ入った。主人の与助は、俺の顔を見るなり眉を寄せた。

「今度は何だ」

「何で嫌そうなん」

「朝から店を回って、物の数を聞いとるらしいな」

もう広まっていた。津島、怖い。

「全部は聞いてない」

「似たようなもんだ」俺は言い方を変える。

「油、今日ならどれくらい出せる?」

「ない」

即答。俺は店先を見る。壺がある。奥にもある。でも中身は分からない。

「本当に?」兄貴が横で俺の脇腹を肘で突いた。

痛い。

『昨日夕刻、この店へ油と思われる荷が六口搬入されています』AIが言う。

覚えている。俺も見た。でも。六口入ったから、今も六口あるとは限らない。夜のうちに売ったかもしれない。

別へ回したかもしれない。中身が違ったかもしれない。

「次はいつ入る?」

「知らん」

与助は不機嫌だった。俺はそれ以上聞かなかった。店を出る。

「嘘ついてる?」

『判定できません』

「昨日六入ってる」

『はい』

「今日ゼロ」

『成立しないとは言えません』

「でも怪しい?」

少し間があった。

『本人発言と観測記録に差があります。確認優先度は高いです』

それだ。嘘と決めない。でも、そのまま信じもしない。俺は帳面に小さく印をつけた。兄貴が覗く。

「それ何だ」

「あとで確かめるやつ」

「与助に見られんなよ」

「何で?」

「殴られるぞ」

消そうか迷った。消さなかった。

午後。店へ戻ると、彦七がいた。三日後のはずだった。俺は思わず言う。

「早くない?」彦七が眉を上げた。

「来たら悪いか」

「いや」親父が俺を睨む。

客に言うことじゃないらしい。彦七は店先へ一枚の紙を置いた。

「急ぎだ」親父が見る。

俺も横から見る。油。

「八」彦七が言った。

「日が落ちる前に欲しい」俺は親父を見る。

親父は紙から目を上げない。

「急だな」

「だから来た」

「値は」彦七が条件を言う。

親父の顔は動かない。俺には、いいのか悪いのか分からない。頭の中で聞く。

『直近の取引記録と比較すると、やや良い条件です』

「油、八」

さっきまで町を回っていた。分かる。全部じゃない。でも朝より分かる。

「親父」親父が俺を見る。

「二つは確実」

「どこだ」

店の名を言う。

「もう一つ、四までは出すって言ってた」

「合わせて六」

「うん」彦七が俺を見る。

「あと二は」

「分からん」

「与助のところ、昨日荷は入ってる。でも今日はないって言った」親父の目が細くなった。

「見たのか」

「昨日、六くらい入るのを」

「中身は」

「油だと思う。でも確かめてない」親父はすぐ立った。

「行くぞ」

「与助?」

「違う」俺と兄貴がついていく。

向かった先は、与助の店ではなかった。少し離れた蔵だった。親父が中の男に声をかける。

「昨日、与助んとこへ油入れたか」男が首を傾げる。

「入れたぞ」

「いくつ」

「六」俺は兄貴を見る。

兄貴も俺を見る。合ってた。

「今朝、どこかへ出たか」

「二つ戻した」

「戻した?」

「口が悪かった。漏れたんだよ」

なるほど。六入った。二つ戻った。残り四。売っていなければ。

『推定上限は四です』

「うん」親父はもう歩き出していた。

与助の店へ行く。与助は親父を見ると、俺に向けたのとは違う顔をした。

「おう」

「油、二つ出せ」

「ない」親父は笑った。

「昨日六入って、二つ返したな」

与助の顔が止まった。俺は息を止める。喧嘩になるかと思った。でも親父は続けた。

「彦七が八欲しい。うちで六寄せた。あと二だけ貸せ」

「貸せって何だ」

「次、うちに入ったら二つ回す」

与助が俺を見る。嫌な予感がした。

「この小僧が嗅ぎ回ってたのは、それか」

「違う」親父は即答した。

「こいつは勝手に嗅ぎ回っとる」

ひどい。兄貴が笑いをこらえている。親父は続ける。

「でも昨日の荷を見とったらしい」

与助が俺を睨む。

「暇な小僧だな」

「最近忙しい」

言った瞬間、兄貴にまた脇腹を突かれた。

「黙っとけ」

与助はため息をついた。

「二つだけだぞ」

出た。油が二つ。本当にあった。でも。俺が思っていたのと、少し違う。

嘘を暴いたから出たんじゃない。親父が、次に返すと言ったから出た。

「なあ」

店を出てからAIに聞く。

『はい』

「俺だけだったら、出なかったよな」

『その可能性は高いです』

「情報だけじゃ足りん」

『はい』親父が前から言った。

「何ぶつぶつ言っとる」

「何でもない」

「弥吉」

「はい」親父は歩きながら言う。

「人の商いを全部覗こうとするな」俺は黙った。

「物がどこにあるか知るのは役に立つ」

「うん」

「だが、知ったからって好きに使えるわけじゃない」

与助の油。俺は、ある、と分かった。でも出すかどうかは与助が決める。親父は、次の油を回す約束をした。それで初めて動いた。

「つながりも要るってこと?」

「商いは人とやる」

短かった。でも、たぶん大事だ。頭の中でAIが言う。

『記録します』

「何を?」

『供給可能量は、物理在庫だけでは決まりません』俺は笑った。

「お前も学ぶんだな」

『はい』

その返事が、少しだけ嬉しかった。店へ戻る。油は八、揃った。二。四。

二。三か所。朝の俺なら、探すところから始めていた。今は違う。完全じゃない。

でも候補がある。どこへ聞くかが分かる。どこが怪しいかも分かる。そして、親父が誰と話せば動くかも分かり始めた。彦七が八つを確認する。

「早かったな」親父が言う。

「たまたまだ」俺は横を見る。

たまたまではない。いや。半分くらいは、たまたまかもしれない。でも昨日までなら、できなかった。彦七が俺を見る。

「お前、朝から町を回ってたそうだな」

また広まってる。

「誰から聞いた?」

「津島で物を聞き回る小僧なんて目立つ」俺は少し恥ずかしくなった。

彦七は懐から銭を出した。親父へ渡す。油の代だと思った。でも親父が数えて、二枚だけ返そうとした。

「多い」

「多くない」

「油の値はこれだ」

「残りは探し賃だ」俺の耳が動いた。

探し賃。彦七が言う。

「こっちは物を探す時間がない」親父は銭を見る。

「次も見つかるとは限らんぞ」

「分かっとる」

「数も確約できん」

「それも分かっとる」彦七は俺を見る。

「でも、どこを当たればいいか分かるだけで違う」

昨日。俺は、情報が売れ始めた、と思った。今日は。本当に銭になった。ほんの少し。

油八つを売った銭に比べたら、小さい。でも。物そのものじゃない。探したことに、値がついた。

「なあ」

『はい』

「今の記録しといて」

『探し賃として追加支払い。記録しました』

「初売上?」

『店全体では以前から売上があります』

「俺の情報の」

少し間があった。

『情報探索に対する初の明示的対価です』

「長い」

『初売上です』

「それでいい」俺は笑った。

彦七が怪訝そうに見る。

「何がおかしい」

「何でもない」

最近こればっかりだ。彦七は帰る前に、昨日の白紙を指した。塩。油。縄。

干した魚。

「三日後の話だが」

「うん」

「全部の数はいらん」俺は顔を上げた。

「どこなら出せそうか」彦七が言う。

「それと、最近なくなりやすい物」親父が腕を組む。

「何に使う」彦七は少しだけ黙った。

「清須は今、人も荷も増えとる」

それ以上は言わない。でも十分だった。帳面で見た。道で見た。清須でも見た。

いろんな物が、同時に動き始めている。

「分かった」俺が言う。

親父が横から言った。

「お前が返事するな」

「やるんだろ?」

「やる」

「なら同じやん」兄貴が吹き出した。

彦七まで笑う。親父だけ笑わなかった。たぶん、少しだけ口元は動いた。彦七が店を出る。と思ったら、戸口で止まった。

振り返る。

「弥吉」

「何?」

「明後日、清須へ来い」俺は固まった。

「何で?」

「帳面を見たいって人がいる」

店の空気が少し変わった。親父の顔から、さっきまでの緩さが消える。

「誰だ」彦七は親父を見る。

「俺より、物を集める側の人だ」

名前は言わなかった。そのまま出ていく。俺はしばらく動けなかった。

「なあ」

『はい』

「俺、何かまずいことした?」

『現時点では判定できません』

「そこは大丈夫って言えよ」

『大丈夫と判断できる根拠がありません』

「怖いわ」兄貴が俺の肩を叩いた。

「よかったな」

「何が」

「清須で有名になってきたじゃん」

「その言い方もっと怖い」親父は白紙を持ち上げた。

塩。油。縄。干した魚。まだ四つ。

町全部なんて、ほど遠い。でも。その四つを集め始めただけで。清須の誰かが、帳面を見たいと言った。信長なんて、まだ見ていない。

城の中にも入っていない。それでも。昨日まで俺の頭の中にしかなかったものが。少しずつ、清須の仕事につながり始めていた。俺は帳面を開く。

「今日の分、整理しよう」

『はい』

「与助の油は?」

『本人発言は「ない」。前日搬入六、返品二を第三者発言で確認。父君の交渉により二を供給』

「長いな」

『短縮しますか』

「いや」俺は筆を取った。

長くていい。人は、数字どおりには動かない。だから。数字と、人を。両方覚える。

明後日。その帳面を持って、清須へ行く。今度は物を売りに行くんじゃない。俺たちが見ている町そのものを。

見せに行く。

第7話 帳面を見せたら、全部はいらないと言われた

明後日と言われると、二日あるように聞こえる。でも実際は、ほとんどなかった。

「これ、本当に清須へ全部持ってく気か?」兄貴が俺の帳面を両手で持ち上げ、嫌そうに重さを確かめた。

「そのつもり。昨日まで集めたこと、だいたい入ってるから」

「だから重いって言ってるんだよ。紙の重さじゃなくて、中身が多すぎる。見る側が途中で嫌になるぞ」

「紙なんだから読めるだろ」

「そういう話じゃねえ。お前、自分で作ったから全部大事に見えてるだけだ」兄貴が呆れた顔をした。

机の上には、昨日までの記録が広がっている。塩。油。縄。干した魚。

誰が作る。誰が持つ。今日ならどれくらい出せる。次にいつ入る。誰に聞いた。

いつ聞いた。それから、人。誰と誰なら話が通る。誰は在庫を言わない。誰は条件が合えば出す。

誰は親父が言えば動く。一昨日の俺なら、そんなものを商売の数字だとは思わなかった。でも今は違う。

『情報項目は増加しています』

「見れば分かる」

『重複も増えています』

「……それも分かる」俺は筆を止めた。

同じ塩屋の名前が、三か所に出ている。一つは塩の欄。一つは支払いの欄。一つは親父との関係の欄。自分で書いたのに探しにくい。

「なあ」

『はい』

「なあ。これだけ集めたら、さすがに『すごい』くらいは思ってもらえるかな」

少し間があった。

『情報量は多いです』

「それ、褒める場所が見つからない時の言い方だろ」

『評価基準が不明です』

「じゃあ聞き方変える。初めて見る人でも、欲しい情報をすぐ探せる?」

今度は間が長かった。嫌な予感がした。

『いいえ。現状では、あなた自身の記憶に依存しています』

「分かりやすく聞いたら、余計に刺さったわ」兄貴が笑った。

「何一人で傷ついてんだ」

「帳面が分かりにくいらしい」

「誰に言われた」

「自分」

「また気持ち悪いやつ始まったな」俺は帳面を閉じた。

明日。清須で、これを見る人がいる。誰かは分からない。彦七より、物を集める側。その言い方だけが、妙に引っかかっていた。

夜。親父が戻ってきた。机を見る。俺を見る。もう一度、机を見る。

親父は机いっぱいの紙を見て、しばらく黙った。

「……ずいぶん増やしたな。これ、全部清須へ持っていくつもりか」

「うん。せっかく集めたし、聞かれたら何でも答えられる方がいいと思って」

「聞かれてないことまで見せるのは、親切じゃなくて軽率なこともあるぞ」親父はそう言って座り、俺の帳面を一冊開いた。

ぱらぱらとめくる。止まる。戻る。また止まる。俺は少し緊張した。

「親父から見て、この帳面、分かりにくい?」親父はすぐには答えず、紙を上から下まで見直した。

「俺には分かる。お前が何を見て歩いたか知っとるからな。でも、それじゃ駄目だ」

「俺と親父に分かるなら、半分くらいは大丈夫じゃない?」

「半分じゃ仕事にならん。明日初めて見る奴が、どこを見ればいいか迷うようじゃ使えん」俺は自分の書いた順番を指でなぞった。

「……俺の頭の中の順番で書いちゃってるってことか」

「そういうことだ。見せる相手の頭の順番に並べろ。お前の頭の中まで一緒に渡せるわけじゃないんだからな」AIと同じことを言われた。

地味に腹が立つ。

「じゃあどうする?」親父は帳面を閉じた。

「見せたくないもんもある」俺は黙った。

貸し。払い。誰が遅い。誰が渋る。誰がどこへ卸す。

全部、うちが集めた情報だ。相手の商売でもある。

「名前、全部出すのまずい?」

「相手による」

出た。大人はすぐそれを言う。でも今回は、俺にも分かった。正しい。

『開示範囲の分離を推奨します』

「うん」

「何がうんだ」

「見せる用、作る」親父の眉が少し動いた。

「今から?」

「今から」兄貴が向こうで笑った。

「寝ろよ」

「終わったら」

「昨日もそれ言ってたぞ」俺は白紙を出した。

全部は書かない。塩。今日すぐ出せそう。明日なら増える。要相談。

未確認。名前も、必要なところだけ。値も、うちの仕入れまで全部は書かない。

「印、四つくらいでいいかな」

『十分です』

「丸は、今日出せる」

『はい』

「三角は、たぶん出せる」

『推定根拠を保持します』

「紙には書かんでいい。お前が覚えといて」

『了解しました』

「線は、親父とか誰かの話が要る」

『関係者交渉が必要、という意味ですね』

「そう」

「何を書いとる」親父が覗いた。

俺は説明する。親父は何も言わなかった。しばらく紙を見る。親父は紙の端に付けた印を指で叩いた。

「この×は何だ」

「分からんところ。まだ確認できてない」

「なら、渡す紙には書くな。分からん印ばっかり並べても、相手は困るだけだ」

「でも、“分からない”って分かるのも大事じゃない?」親父は少し考えてから、紙を俺へ押し戻した。

「隠せとは言っとらん。聞かれたら“分からん”と答えろ。ただ、最初に見せる紙は使えるものから並べろ」俺は少し考えた。

たしかに。紙を見る人が欲しいのは、俺の分からない一覧じゃない。使える情報だ。

『情報の非掲載と不明の隠蔽は異なります』

「難しい」

『聞かれた場合は不明と回答してください』

「それなら分かる」親父がまた俺を見る。

「何が分かった」

「分からんことは、聞かれたら分からんって言う」

「最初からそうしろ」

その夜。見せる帳面は、元の半分以下になった。情報を減らしたのに。前より、使えそうに見えた。

翌朝。俺は親父と清須へ向かった。兄貴は店に残った。

「変なこと言うなよ」

出る前に言われた。

「兄貴にだけは言われたくない」

「何でだ」

「何となく」

「理由ねえのかよ」

そのやり取りを背中に、津島を出た。今日は荷がない。親父と俺。帳面。それだけ。

道を歩きながらも、俺は数えた。清須へ向かう荷。津島へ向かう荷。材木。米。

薪。油らしい壺。馬の数。

『前回観測時より、清須方面の材木が多く確認されています』

「比較できるようになった?」

『同時間帯、近い地点での記録が二回目です。まだ少数ですが、差はあります』

「どれくらい?」AIが数を返す。

前回より多い。それだけで、ちょっと嬉しい。数字が積もる。前は何もなかったところに、昨日ができる。昨日があると、今日が変に見える。

「弥吉」親父が前を向いたまま言った。

「はい」

「今日は、知らんことを知っとる顔で言うな」

足が少し止まりかけた。

「そんな顔しとる?」

「する」

「どんな」

「腹立つ顔」

ひどい。

『重要な助言です』

「お前まで乗るな」親父が振り返る。

「また独り言か」

「今日は多いかも」

「やめろ」

無理かもしれない。清須へ着いた。前回より、音が分かる。木を打つ音。荷を下ろす声。

馬を止める声。店の呼び込み。同じ騒がしさなのに、少しだけ中身が見える。久兵衛の店へ行くと、彦七が待っていた。

「来たか」

「来た」

「帳面は」俺が抱えているものを見る。

「ある」親父が先に聞いた。

「誰が見る」彦七は店の奥を指した。

「こっちだ」

裏へ回る。小さな蔵があった。その脇に、板を渡しただけのような机。男が一人座っていた。年は、親父より少し上に見える。

派手じゃない。刀はある。でも俺が最初に見たのは、指だった。右の親指だけ、墨で黒い。紙を触る人の手だ。

『観察しました』

「そこまで覚えんでいい」

『情報価値は未判定です』男が顔を上げた。

「その小僧か」彦七が頷く。

「弥吉です」俺は頭を下げた。

男は俺より先に親父を見る。

「倅の帳面を見たい」

「全部は見せん」親父が言った。

空気が一瞬固くなった。俺の腹も固くなる。男は怒らなかった。

「それでいい」

あっさりしていた。

「こっちも、商人の腹まで知りたいわけじゃない」親父が俺を見る。

たぶん、昨日の判断で合っていた。俺は見せる用の紙を出した。男は受け取る。最初の一枚。塩。

次。油。縄。干した魚。一枚ずつ見る。

表情が動かない。俺はだんだん不安になった。頑張って作ったのに。何も言わない。最後まで見て、男は紙を重ねた。

「多いな」

え。元の半分以下にしたのに。俺は親父を見る。親父は俺を見ない。

「どこが?」

思わず聞いた。男が油の紙を出す。

「俺が今、油を十欲しいとする」

「はい」

「この紙のどこを見ればいい」俺は指を差した。

「丸が、今日出せそう。三角が――」

「名前が七つある」

「候補です」

「俺が七軒回るのか」

「あ」男は怒っていない。

むしろ少し笑った。

「それなら彦七を走らせるのと変わらん」彦七が嫌そうな顔をした。

「俺は嫌です」

「聞いてない」俺は紙を見る。

情報は減らした。でもまだ、探し方を書いている。相手が欲しいのは。

「答え?」男が俺を見る。

「何だ」

「油十なら、どこをどう当たれば集まるか。そこまで?」男の口元が少し動いた。

「そうだ」頭の中でAIへ言う。

「できる?」

『現在の記録から候補構成を作成できます』

「今やって」

『油十。確度の高い供給候補は二、四、二で合計八。与助は父君との交換条件が成立すれば追加供給の可能性があります。ただし本日分の在庫は未確認です』俺は紙の裏へ筆を走らせた。

二。四。二。合計八。残り二。

「今すぐ確実に近いのは八」男が俺の手を見る。

「十じゃないのか」

「十って言われたから十って書くのは簡単。でも、今俺が言えるのは八」親父が少しだけこちらを見た。

「あと二は?」

「与助って人が出せるかもしれない。でも前と同じなら、物があるだけじゃ出ない」

「どうすれば出る」

「うちの親父が次の油を回すとか、条件を作れば」男は親父を見る。

親父は黙っている。

「つまり」男が言う。

「八はすぐ動く。十にするなら話が要る」

「はい」

「それだ」

簡単だった。俺が二日かけて書いたものが、二行になった。少し悔しい。でも。めちゃくちゃ分かりやすい。

『情報圧縮として有効です』

「今それ言わんで」男が眉を上げた。

「何か言ったか」

「八はいけますって」

「今は油はいらん」

「え」彦七が吹き出した。

「試されたんだよ」

先に言ってくれ。男は別の紙を出した。

「名前より、先にこれを書け」

筆で三つ書く。今すぐ。明日。話が要る。男は俺が書いた三つの欄を指で順番に叩いた。

「俺が最初に知りたいのは、まずこれだ。“今すぐ動くか、明日か、話が要るか”。値段はその次でも要る」

「どこから来るかは?」

「それも要る。ただ、最初の一目で全部見せるな。必要になったら次を見ればいい」

「誰が持ってるかも?」

「そこまで知りたい奴には聞かれたとき答えりゃいい。紙一枚に町じゅう詰め込むな」

なるほど。全部大事でも、全部を最初に見せる必要はない。

『優先表示の概念として記録します』

「うん」男が俺を見る。

また声に出ていた。

「お前、さっきから誰に返事しとる」

「考え事です」

「変な小僧だな」親父が横で言った。

「昔からです」

そこは庇え。男は紙を指で叩いた。親指の墨が、端へ少しついた。本人は気づいていない。

「もう一つ」

「はい」

「今日足りん物を探して持ってくるだけなら、腕のいい商人でもできる」俺は黙った。

「お前の帳面が本当に役に立つなら」男が清須の外を顎で示した。

「足りなくなる前に分かるか」

心臓が一つ強く鳴った。

これだ。

俺がずっと面白いと思っていたところ。昨日と今日を比べる。物の動きを見る。噂になる前に、荷が動く。

「できる」

言いかけた。親父の言葉を思い出した。知らんことを、知っとる顔で言うな。口を閉じる。頭の中で聞く。

「どう?」AIの返事は早かった。

『不足を断定することはできません』

「でも予測は?」

『可能です』

一瞬、背中がぞくっとした。

『入荷量、出荷量、需要の増減、代替品、輸送遅延、季節性、購入主体の変化。観測を増やせば不足確率を順位付けできます』

言葉は難しい。でも意味は分かった。今までの記録を、未来を見るために使う。未来を知っているAIだからじゃない。この時代の今を、誰より細かく集めるから。

「断言はできない」俺は男へ言った。

「でも、足りなくなりそうな物を先に絞ることはできると思う」男が初めて、はっきり笑った。

「それでいい」

机の上から一枚の紙を取る。俺の前へ置く。

「三日」

「え?」

「三日やる」男が言った。

「清須で次に集めにくくなりそうな物を、一つ持ってこい」俺は紙を見る。

何も書いていない。白紙だ。

「一つだけ?」

「十個並べて一つ当たりました、はいらん」

「外したら?」

「別に首は取らん」

「よかった」彦七が笑った。

親父は笑わない。男は続ける。

「ただし、理由も持ってこい」

「理由」

「何を見て、そう思ったか」俺は白紙を受け取った。

たった一枚。持ってきた帳面より、ずっと軽い。でも重く感じた。店を出る。清須の道へ出た瞬間。

俺は周りを見た。材木。縄。米。油。

干した魚。馬。人。桶。薪。

前回より、見えるものが増えている。

「なあ」

『はい』

「一番怪しいの、もうある?」

『候補はあります』

足が止まった。

「もう?」

『ただし、現在の四品目だけから選ぶべきではありません』

「何で?」

『清須で増えている活動に対して、あなたの観測品目が少なすぎます』俺は白紙を見る。

塩でも。油でも。縄でも。干した魚でもないかもしれない。

「じゃあ、何から見る?」

『人が増えています』

「うん」

『馬も増えています』

「うん」

『材木も増えています』

「うん」

『増えたものは、別の何かを消費します』俺は顔を上げた。

前を行く馬が、道端で草を噛んでいた。荷を運ぶ人が、水を飲んでいる。少し先では、材木を担ぐ男たちが握り飯を食っていた。物は、一つで動かない。縄が増えれば。

使う人がいる。人が増えれば。食う。馬が増えれば。食う。

働けば。壊れる。減る。必要になる。

「もしかして」

『はい』

「今まで売れた物を見るだけじゃ、遅い?」

『不足の先読みが目的なら、需要を生む動きも観測すべきです』俺は笑った。

親父が振り返る。

「何だ」

「面白くなってきた」

「気味悪いぞ」

知ってる。白紙を懐へ入れる。三日。次に足りなくなる物を、一つ。天下はまだ遠い。

信長なんて、今日も見ていない。でも初めて。俺とAIは、過去を整理するためじゃなく。

まだ起きていない商いを当てにいく。

第8話 売れている物じゃなく、その下が減っていた

津島へ戻る道で、俺はずっと白紙のことを考えていた。三日。清須で次に集めにくくなりそうな物を、一つ。理由もつける。簡単そうに聞こえる。

でも、売れた物を数えるのとは違う。まだ足りなくなっていない物を選ぶんだから。

「なあ、今の記録だけでも候補くらいは出せる?」

『出せます』

「じゃあ、一番怪しいのは何?」

『現時点では一つに決めません』

「候補出せるって言った直後にそれ言う?」

『候補を列挙できることと、順位を確定できることは別です』

相変わらず細かい。

「分かった分かった。順位はいいから、まず候補を全部出して」

『米。薪。馬の飼葉。草鞋。藁。油。ほかにもあります』

「多いわ」

『観測対象を四品目に限定しないよう、あなたが指示しました』

「したけどさ」

前を歩く親父が振り返る。

「何ぶつぶつ言っとる」

「次に足りん物、考えとる」

「歩きながら当てられるなら苦労せん」

正しい。俺は白紙を懐へ戻した。

「何を見れば絞れる?」

『物ではなく、物を使う動きを見ます』

「さっき言ってたやつ?」

『はい。人、馬、作業。増えたものが何を消費するかを追います』

道の先に、清須から来た馬が二頭いた。荷は空に近い。馬方が脇で休んでいる。馬は口を動かしていた。

「馬が増えたら、飼葉」

『はい』

「人が増えたら、米」

『はい』

「材木が増えたら……縄?」

『縄も使います。運搬、結束、作業に関連します』

「それ、もう足りなくなってた」

『はい』俺は歩きながら考える。

縄。そういえば。佐七の家の前には、藁が積んであった。縄を作る前のものだ。

「なあ」

『はい』

「縄が増えたら、藁が減る?」

『藁縄であれば、原料需要は増えます』

「草鞋も?」

『藁製なら増えます』

「馬は?」

『飼料や敷き藁など、用途があります。ただし地域や使い方で異なります』俺は少し足を緩めた。

縄。草鞋。馬。別々に見えていたものが、一つのところへ集まった。

「藁?」

『候補順位が上がりました』

「一位?」

『直接の在庫観測が不足しています』

まただ。でも今回は、その返事が嫌じゃなかった。前なら、AIが分からないと言うと弱く感じた。今は違う。分からない場所が分かれば、見に行けばいい。

津島へ戻ると、兄貴が店先にいた。兄貴は俺の顔を見るなり、腕を組んだ。

「遅え。清須で住み込みでも始めたのかと思ったぞ」

「歩いて帰ってきたんだから仕方ないだろ。それより足がもう自分のじゃない」

「で、その足で未来まで見えたのか?」

「何でその話知っとるの」

「親父が昨日、『弥吉が次に足りん物を当てるらしい』って笑ってた」親父、喋っとるやん。

「まだ」

「三日しかねえぞ」

「今日は一日目」

「もう半分終わっとる」

嫌なことを言う。俺は帳面を置く前に、兄貴の袖を引いた。

「佐七んとこ行こう。藁を見たい」

「今から? お前、清須から帰ったばっかだろ」

「今見ないと、昨日と今日の差が分からん。頼む、付き合って」

「最近のお前、寝るより走ってる時間の方が長くないか」

「天下取るには忙しいんだよ」兄貴が真顔で俺を見る。

「……やっぱり頭打った?」

「半分冗談。半分は言ってみただけ」

半分くらい。佐七の家へ行く。前に来たときと同じように、軒下に縄が下がっている。でも。俺は家の前で止まった。

「減ってない?」兄貴が何を見るんだという顔をする。

藁だ。前に来たとき、家の横に積んであった。今日は山が低い。

『前回観測時より少なく見えます。正確な比較はできません』

「覚えてた?」

『はい』

佐七が中から出てきた。佐七は俺たちを見るなり、手にしていた縄を振った。

「また縄か? 今日はもう勘弁してくれ」

「今日は縄じゃなくて、そこの藁を見に来た」

佐七の顔が変わった。

「先に言っとくが、藁は売らんぞ。縄の分までなくなる」

「まだ買うって一言も言ってないって。前に来た時より、山が低くなってる気がしたんだ」

「……それを見に来たのか、お前」

「うん。いつもより減ってる?」俺が横を指す。

佐七も藁の山を見る。

「減るだろ。縄なってんだから」

「いつもより?」

少し間があった。

「多いな」俺と兄貴の目が合った。

「何で?」

「清須から縄、縄って来るだろ」

佐七は一本、軒下の縄を持ち上げた。

「こいつは藁から勝手に生えてこん」

知ってる。でも、その言い方で急に実感した。

「藁、次いつ入る?」

「入るっていうか、村から買う」

「すぐ集まる?」

佐七が俺を見る。

「今までならな」

「今は?」

「この前から、草鞋作る連中も取りに来とる」兄貴が口を挟んだ。

「清須?」

「清須へ持ってくって言っとった」頭の中でAIが言う。

『独立した需要経路を二つ確認しました。縄と草鞋です』

「馬はまだ」

思わず声に出した。佐七が眉を寄せる。

「馬がどうした」

「何でもない」兄貴がため息をついた。

「最近、それで通すの無理あるぞ」

佐七の家を出る。次に向かったのは、馬方がよく休む場所だった。前に帰りの馬を探したところとは少し違う。兄貴が知っていた。

「何で兄貴、こんなとこ知っとるの」

「お前が知らなすぎるんだよ」

最近それを何回も言われている。馬が三頭いた。一頭は荷を下ろしたばかりらしい。男が桶を置いている。俺は挨拶してから聞いた。

「最近、清須行く馬増えた?」

「増えたな」

「飼葉、向こうで足りる?」男が俺を見る。

「何だお前、馬でも飼うのか」

「飼わん」

「じゃあ何で聞く」

まただ。でも、前に在庫を聞いて回ったときに学んだ。質問には、答える理由がいる。

「清須へ荷を出すこと増えたから。馬が止まったら困る」男は少しだけ納得した顔をした。

「場所選ばにゃある」

「高くなった?」

「少しな」

「藁は?」

「ああ」男が馬の横にある束を顎で示した。

「前より取り合いだ。敷くにも使うし、食わせる分にも混ぜる」

「清須で?」

「清須でも。道でも」

三つ目。縄。草鞋。馬。全部、藁へつながった。

でもAIはまだ言った。

『確認を続けることを推奨します』

「まだ?」

『一人ずつの発言は、町全体を表しません』

有能なうえに、しつこい。でも正しい。その日の夕方まで、俺と兄貴は歩いた。藁を売る家。縄をなう家。

草鞋を作る家。馬を扱う人。店じゃないところばかりだった。数字はきれいには揃わない。

「ある」

「ない」

「少しなら」

「明日なら」

「もう約束した」

「清須へ持ってく」

答えもばらばら。でもAIは全部分けて覚えた。見たもの。本人が言ったもの。人から聞いたもの。

今日の話。昨日の話。そして夜。俺は帳面の前に座った。兄貴はもう横になっている。

親父は銭を数えている。

「まとめて」

『はい』頭の中で、今日の情報が並ぶ。

縄を作る側で藁の消費が増加。草鞋向けの引き合いも複数。清須方面へ向かう馬が増加。馬方から、藁の入手条件が以前より悪化したという発言。一方、米、塩、油は流通量自体も増えている。

薪は需要増を示す発言があるが、供給側の確認が足りない。俺は筆を止めた。

「米じゃない理由は?」

『人が増えれば米需要も増えます。しかし、あなたが観測した範囲では入荷も増えています』

「藁は?」

『需要増を示す用途が複数ありますが、同程度の供給増をまだ確認できていません』

「それだけ?」

『もう一つあります』

「何?」

『藁は嵩張ります』

「かさばる?」

『一度に遠くから大量に運ぶほど、運搬の負担が大きいと推定します』

あ。値の高い物なら、遠くから持ってきても商いになる。でも藁は。山ほど積んで運んで、ようやく山ほどの藁だ。

「近くで足りなくなったら、埋めにくい?」

『可能性が高いです』俺は白紙を出した。

真ん中に書く。藁。その下に。縄。草鞋。

馬。三本、線を引いた。

「これで出す」親父の手が止まった。

「何を」

「次に集めにくくなる物」

紙を見せる。親父はしばらく黙っていた。親父は紙の一番上を見て、少し眉を寄せた。

「藁か。お前、本当に次に足りなくなると思っとるんだな」

「うん。外すかもしれんけど、今の動きだと一番怪しい」

「外したらどうする」

「外したって記録する。次に何を見落としたか調べる」親父は鼻で笑った。

「ずいぶん簡単に言うな。まあ、“絶対だ”って顔をされるよりはましか」

「当てるつもりではいるけど、絶対とは言えんよ」親父が俺を見る。

少しだけ。笑ったように見えた。

「なら、買うか」

「え?」

「足りなくなると思っとるんだろ」

「思っとる」

「なら、今のうちに買う」

急に話が重くなった。予想を書くのと。銭を出すのは違う。俺は黙った。頭の中でAIへ聞く。

「どう?」

『大量購入は推奨しません』

「何で?」

『予測誤差があります。保管場所も有限です。まず、既存取引の範囲で確保量を限定する方が合理的です』

弱気じゃない。賭ける額を決めている。

「親父」

「何だ」

「全部突っ込むのはやめよう」

「誰が全部と言った」

ですよね。

「いつも付き合いあるところで、売れる分だけ」

「いくつだ」俺はAIと今日の話を組み直す。

清須へ出せる可能性。うちの置き場。買える相手。

「二十束くらいから」親父は少し考えた。

「十だ」

「少なくない?」

「お前の初めての山勘に二十も張れるか」

「山勘じゃない」

「なら十で証明しろ」

腹が立つ。でも。十なら外しても店が傾かない。当たれば、次を増やせる。

「分かった」

その夜のうちに、親父が二軒へ声をかけた。俺はついていった。合計十二束。十じゃなかった。

「二つ多い」

「向こうが十二なら出すと言った」親父は平然としている。

「十で証明しろって」

「十二で証明しろ」

大人はずるい。

翌朝。俺は十二束の藁を見ていた。何も起きない。

昼。何も起きない。兄貴がにやにやする。

「未来、来んね」

「まだ一日目」

「昨日から数えたら二日目だぞ」

「うるさい」

夕方。表から馬の音がした。誰かが飛び込んでくる。また彦七だった。

「早くない?」

反射で言った。彦七が息を切らしながら俺を睨む。

「お前、俺を見るたびそれ言うな」

「だって毎回早い」

「藁あるか」

「清須で足りん」

その一言で、背中がぞくっとした。

「朝から集めとるが、縄屋と馬方に先を取られた」俺は黙った。

兄貴も黙った。親父だけが普通の顔をしている。

「いくつだ」

「今すぐなら十二」彦七が目を見開いた。

「何である」俺は白紙を出した。

真ん中に一文字。藁。その下に三本の線。縄。草鞋。

馬。彦七が紙を見る。

「……お前」

「三日って言われたけど」

喉が少し乾いた。でも笑いそうになった。

「一日早く、答え来た」頭の中でAIが言う。

『予測対象の需要増加を確認しました』

「うん」彦七が顔を上げる。

「何が、うん、だ」

もう何回目だろう。俺は十二束の藁を見た。未来を知っていたわけじゃない。縄を見た。草鞋を見た。

馬を見た。人に聞いた。昨日まで別々だったものを、こいつが全部つないだ。それだけだ。でも。

その「それだけ」が。清須より、一日早かった。

第9話 当てたら、未来の方が動いた

「全部くれ」彦七は、十二束の藁を見て言った。

俺は反射で親父を見た。親父は藁を見ない。彦七を見る。

「値は」彦七が答える。

昨日より高い。でも、思っていたほどではなかった。頭の中でAIへ聞く。

「どう?」

『直近に確認した藁の取引より高値です。ただし清須側の緊急需要を考えると、異常な水準とは判定できません』

「もっと上げられる?」

『交渉上は可能性があります』俺は少し迷った。

足りない。向こうは急いでいる。こっちは、もう持っている。前世なら。値段を上げる条件が、きれいに揃っている。

「親父、ちょっと思ったんだけど……」

「何だ。途中で止めるくらいなら最初から言え」親父が俺を見る。

何も言っていないのに、値段の話だと見抜かれた気がした。嫌な予感がする。

「いや、やっぱり――」

「そこまで言って引っ込めるな。言え」

仕方なく言う。

「もうちょい高くても、売れるんじゃない?」彦七が俺を見る。

兄貴が、あーあ、という顔をした。親父はしばらく黙った。親父は少し考えてから頷いた。

「今だけ見れば、もう少し高くても売れるだろうな」

「じゃあ、少し上げる?」

「上げん。今日一回の儲けより、次に先に声をかけてもらう方が大事だ」

「そこまで先を見るの?」

「商いは、売った瞬間に終わるんじゃない。次の話が来るところまでが一回だ」

短かった。俺は藁を見る。十二束。今日だけなら、もっと取れるかもしれない。

「一回高く売るより?」

「困ったときだけ値を吊る奴だと思われたら、次から先に他へ声がかかる」彦七が少し笑った。

「聞こえとるぞ」

「聞かせとる」親父は平然としている。

俺は頭の中で言う。

「記録」

『何をですか』

「短期の値段より、次の取引」

『関係継続を含む価格判断として記録します』

「長い」

『欲張りすぎない』

「親父に怒られる言い方になった」親父がこっちを見る。

また少し声に出ていた。

「何だ」

「何でもない」

十二束は、そのまま彦七へ渡すことになった。藤兵衛を呼ぶほどの荷ではない。彦七が連れてきた馬に積む。兄貴と俺も手伝った。最後の一束を載せたところで、彦七が白紙を見る。

藁。縄。草鞋。馬。彦七は俺の白紙をつまみ上げた。

「この紙、清須へ持ってくぞ。藁のところ、もう答えが出た」

「それ、俺が三日かけて出すはずの答えなんだけど」

「だから持ってくんだよ。三日待つ前に足りなくなったなら、それ自体が一番分かりやすい答えだろ」

「まだ一日目だぞ。課題を出した本人が締切前に回収するの、ずるくない?」

「現場は締切を待って不足してくれん」

それはそうだ。彦七は紙を懐へ入れた。

「明日、清須へ来い」

「また?」

「嫌なら来るな」

「行く」

即答した。彦七が鼻で笑う。

「どっちだよ」

馬が出ていった。その背中を見ながら、俺はかなり満足していた。初めての予測。当たった。しかも一日早い。

「なあ」

『はい』

「これ、結構すごくない?」

『一件の成功です』

「もうちょい喜べよ」

『予測対象が実際に不足したことは確認できました』

「そう、それ」

『ただし――』

来た。

「何」

『次回も同じ精度で予測できるとは限りません』

「分かってる」

少しだけ、前より素直に言えた。一回当てたくらいで未来が見えるなら、前世の株屋は全員大金持ちだ。でも。見えない未来に、理由をつけて近づけた。それが嬉しい。

昼を過ぎたころ。変なことが起きた。

「すまん、藁はまだ残ってるか? 少しでいい」

知らない男が店へ来た。親父は帳面から顔を上げる。

「朝の分はもうない。清須へ全部出した」

「朝、店の前に積んであっただろ。あれ全部か?」

「ああ。急ぎの話だったからな」男は舌打ちして帰った。

そのあと、また一人。

「藁、もうない?」

「ない」

また一人。

「少しでいい」

「ない」俺は兄貴を見る。

「何これ」

「藁が足りんのだろ」

「それは分かるけど」

午前中だけで四人。昨日まで、うちへ藁を買いに来る人なんてほとんどいなかった。五人目は、知った顔だった。縄を扱う店の若い衆だ。俺を見るなり言う。

「お前、藁集めとったんだって?」

嫌な言い方だった。

「十二束だけ」

「次、何がなくなる」

「は?」

「藁当てたんだろ」俺は固まった。

兄貴が横で笑いをこらえている。

「誰から聞いた?」

「彦七が朝から藁探して走ってた。お前んとこにはあったって」

「それだけで?」

「昨日から、お前が町中の物を聞き回っとるの知っとるからな」

津島、怖い。噂が速すぎる。若い衆が身を乗り出す。

「で、次は?」頭の中でAIへ聞く。

「候補ある?」

『あります』

「言っていい?」返事が一拍遅れた。

『推奨しません』

珍しい。

「何で?」

『あなたの予測を聞いた相手が先回りして購入すれば、その行動自体が需給へ影響します』

一瞬、意味が分からなかった。

「俺が言ったせいで、足りなくなる?」

『可能性があります』

あ。目の前の若い衆を見る。こいつに「次は薪」と言ったら。こいつが薪を買う。聞いた誰かも買う。

その結果、本当に薪が減る。予測が当たったように見える。でも、それは俺が作った不足かもしれない。

「……まずいな」若い衆が眉を寄せた。

「何が」

「まだ分からん」

「一つくらい教えろよ」

「一つも分からん」

嘘ではない。確定していない。若い衆は不満そうだったが、帰っていった。兄貴が俺を見る。

「何で言わんかった」

「兄貴なら言う?」

「金取る」

「最低」

「商売だろ」

それも分かる。でも今は、もっと面倒なことになっている。俺は帳面を開いた。新しい欄を作る。誰に。

何を。いつ言った。兄貴が覗き込む。

「また増やすのか」

「俺が喋ったことも記録する」

「何で」

「俺が喋ったせいで、人が動くかもしれんから」兄貴は少し黙った。

「お前、自分を偉く見すぎじゃない?」

「俺も今そう思った」

二人で笑った。でもAIは笑わない。

『観測者の介入記録として有効です』

「それ、もっと簡単に」

『自分が未来を変えた分も覚えます』俺は筆を止めた。

それだ。未来を読む。そのために町を見る。でも俺が動けば、町も少し動く。だったら。

動かした分まで覚えないと、次から何が本当か分からなくなる。

夕方。親父にその話をした。親父はしばらく黙っていた。

「当たり前だ」

「知ってた?」

「お前が米が上がると言って町中に触れ回ったら、皆買うだろ」

「うん」

「なら上がる」

簡単だった。AIが難しく説明したことを、親父は二息で終わらせた。

「親父、AI向いてるわ」

「えーあい?」

「何でもない」

翌朝。清須へ向かった。今日は親父と俺。彦七から返事が来ていた。藁は全部使ったらしい。

一束も戻ってこなかった。清須へ着く。久兵衛の店の裏。墨のついた親指の男が、前と同じ机にいた。俺を見るなり言った。

「早かったな」俺は白紙を出した。

「藁」男は紙を見る。

「聞いた」

「一日早かった」

「それも聞いた」

少しくらい褒めてくれてもいいと思う。男は紙ではなく、俺を見る。男は紙から目を離し、今度は俺の顔をじっと見た。

「弥吉、藁はいくつ買った」

「十二束。足りなくなるって決めた、その日の夜に」

「その話を誰にした?」

「親父と兄貴だけ。買う相手には理由までは言ってない」男はそこで少しだけ口元を緩めた。

「昨日、“次は何が足りなくなる”って聞いてきた奴、何人いた?」

「……何でそこまで分かるんです」俺は驚いた。

「何で分かる」

「当たれば聞く奴は出る」

やっぱり大人は嫌だ。先に知っている顔をする。

「五人くらい」

「言ったか」

「言ってない」

「なぜ」俺は少し迷った。

「言ったら、その人が買うから」男の指が止まった。

俺は続ける。

「俺が言ったせいで足りなくなったら、次から何を見てたのか分からん」男は紙を見た。

藁。縄。草鞋。馬。それから。

小さく笑った。

「面白いな」

初めて、真正面からそう言われた。胸が少し熱くなる。

「次も当てろ、ですか」

「違う」男は新しい紙を出した。

「物はもういい」

「え」

「いや、物も要る」

どっちだ。男は筆で一つだけ書いた。動き。

「清須で物が増えとる」

「はい」

「人も増えとる」

「はい」

「それは皆、見れば分かる」男は俺を見る。

「お前の帳面で、その先は見えるか」

「その先?」

「何のために集めているかだ」

背中が少し冷えた。塩。油。縄。干した魚。

藁。材木。馬。人。別々の荷だと思っていた。

でも。もし全部が、同じ何かのために動いているなら。

「いつまで?」

「明日」

「短い」

「三日やったら当てただろ」

「一日早く当たったからって、一日になるの?」男が笑った。

「そうだ」

最悪の出世だった。紙を受け取る。今度は、物の名前がない。あるのは一文字。動き。

俺は清須の町を見た。昨日まで。俺たちは、何が減るかを見ていた。次は。誰が、何を始めようとしているのか。

そこを当てにいく。

第10話 物じゃなく、誰が動いているか

清須から津島へ戻るまで。俺はずっと機嫌が悪かった。

「一日って短すぎるだろ。せめて二日あれば、もう少し見て回れるのに」

『期限は変更できません』

「知っとる。愚痴くらい聞いてよ」

前を歩く親父が振り返った。

「後ろでぶつぶつ言うくらい嫌なら、やめてもいいぞ」

「やめん。むしろ悔しいからやる」

「なら口より足を動かせ。さっきから半歩ずつ遅れとる」

「ちゃんと歩いとるって」

「その返事してる間にも遅くなった」

言われて少し急いだ。一日。何が集まっているかではなく。何のために集まっているか。前世なら、画面に並んだ数字を見て「需要の背景を分析します」と言えばよかった。

今は背景そのものが、道を歩いている。

「どう見る?」

『共通点を探します』

「物の?」

『物だけではありません。買う人、行き先、期限、値の付き方、同時期に増えたもの』

「誰が買ってるかなんて、全部分からんぞ」

『全部は不要です』

「またそれ?」

『偏りが見えれば候補を絞れます』俺は懐の紙を見る。

動き。一文字しかない。逆に腹が立つ。

「もっと書いてくれればいいのに」

『質問が広いほど、観測の自由度は上がります』

「良いことみたいに言うな」

津島へ着くなり、俺は兄貴を捕まえた。

「兄貴、今日の仕事どれくらい残ってる? 終わったら少し手伝ってほしい」

「最初から『暇?』って聞かなかったのは成長だな。で、今度は何に巻き込む気だ」

「清須で、何の準備が進んでるのか調べたい」

「またでかい話を平気な顔で持ってくるな。具体的に何をするんだよ」

紙を見せる。動き。兄貴が読んだ。俺を見る。もう一度読む。

「何これ」

「何が動いてるか調べる」

「見れば人が動いとる」

「そういうのじゃない」

「じゃあどういうの」

説明しようとして。自分でもよく分かっていないことに気づいた。

「清須で、みんな何の準備してるか」兄貴の顔から笑いが消えた。

「それ、聞いて回るの?」

「聞いて答える奴おる?」

「いないな」

「だから物を見る」兄貴は少し考えた。

「また気持ち悪いやつ始めたな」

「手伝う?」

「面白そうだからやる」兄貴はこういうところがある。

文句を言う。でも来る。最初に行ったのは佐七のところだった。藁は減っている。縄は増えている。

家の前には昨日より多く、出来上がった縄が掛かっていた。

「佐七、縄かなり増えたな。前に来た時より軒下いっぱいじゃん」

「増えたんじゃねえ。俺の寝る時間が減ったんだよ。昨日なんか鶏より先に起きてる」

佐七の目の下が少し黒い。冗談ではなさそうだ。

「そんなに注文来てるの? 誰が買ってく?」

「いろいろだ。顔見知りもいれば、初めて見る奴もいる」

「清須へ持ってく話が多い?」

「多いな。最近は『いつまでに揃う』って聞く奴まで増えた」

「何に使うって?」

佐七が手を止めた。

「縄買う奴が、使い道まで喋るか」

ですよね。

「注文の仕方は?」

「何だそれ」

「いつまでに、とか。太さとか。長さとか」

佐七は少し考えた。

「前は店にある分を持ってく奴が多かった」

「今は?」

「同じ太さで揃えろってのが増えた」俺と兄貴の目が合う。

『規格を揃えた大量需要の可能性があります』

「量は?」

「多い」

「一人が?」

「違う奴が来ても、似たようなこと言う」

二つ目。草鞋を作る家。前に藁の話を聞いたところとは別だ。軒先に何足も並んでいる。

「最近、清須へ出る?」

「出るよ」

老婆が答えた。手は止めない。

「最近、どんな人がまとめて買ってくの?」

老婆は草鞋を編む手を止めずに答えた。

「若い男が多いねえ。何人かは知らん顔だよ」

「一度にどれくらい?」

「十だの二十だの。前みたいに、自分の分を一足だけって買い方じゃない」

「やっぱり、自分で履く分じゃないよね」

老婆が顔を上げて笑った。

「当たり前だろ。十足履くなら足が何本いると思っとるんだい」兄貴が吹き出した。

俺も笑った。でも頭の中では、AIがもう整理している。

『複数人分の一括調達と考える方が自然です』

「急ぎ?」

「急ぎだねえ」

「値切る?」

「前より言わん」俺は足を止めた。

「値切らない?」

「急いどる奴は、口より手が早い」

面白い。物の数だけじゃない。値段の決まり方も違う。三つ目。藤兵衛を探した。

いつものところにはいなかった。兄貴が言う。

「川の方じゃねえか」

「何で分かる」

「昨日、荷がそっちだって言ってた」

「いつ聞いた?」

「お前が藁のこと考えてる横で」

全然聞いてなかった。

「兄貴」

「何だ」

「俺より町見てない?」

「今さら気づいた?」

腹立つ。川の近くで藤兵衛を見つけた。馬は四頭。一頭だけ荷がある。

「またお前か」

「また俺」

「今度は何を運ぶ」

「今日は聞くだけ」藤兵衛が露骨に嫌な顔をした。

「その方が面倒だな」

「最近、清須行き増えた?」

「増えた」

即答だった。

「何運ぶ?」

「何でも」

「人は?」藤兵衛が俺を見る。

「何で聞く」

「荷だけじゃなく、人も増えてる気がする」

しばらく黙った。藤兵衛は通りの向こうを一度見てから、声を落とした。

「増えたな。若いのが多い」

「商人じゃなくて?」

「商人が、あんな歩き方するか。荷を見てない。道と人の流れを見とる」

「歩き方だけで分かるの?」藤兵衛は俺の肩を押して歩かせた。

「少なくとも、お前よりは速い。止まる場所も違う」

「悪口?」

「事実だ」兄貴が笑う。

「武家の人?」俺が聞くと、藤兵衛は少し声を落とした。

「足軽みたいなのが増えた」

来た。

「清須へ?」

「清須へ入るのも、出るのも」

「出るのも?」

「昨日は空の馬まで押さえられた」俺は止まった。

前にも、似たことがあった。俺は空で帰る馬を使った。今、その空きが減っている。

「何を積むため?」

「知らん」

「どこまで?」

「知らん」藤兵衛が少し考える。

「ただ、帰りを急ぐ奴が多い」

「帰り?」

「清須へ入れて終わりじゃない。すぐ次を取りに行けって言われる」

『輸送の回転を上げています』

「うん」藤兵衛が眉を寄せた。

「何が、うん、だ」

「何でもない」

もう直す気がなくなってきた。

午後。油の与助。俺の顔を見るなり言った。

「今日は数えるなよ」

「数えん」

「見るなよ」

「それは無理」

「帰れ」兄貴が間に入った。

「最近、油を急ぎで持ってく奴増えた?」

与助は兄貴を見る。

「何で」

「うちも清須へ出すから」

「増えた」兄貴を見る。

俺を見る。同じ質問。答えが違う。

「兄貴、ずるくない?」

「人徳」

「違うと思う」

与助が鼻で笑った。

「お前は聞き方が腹立つんだよ」

傷つく。

「急ぎの油、何に使うか知ってる?」

「知らん」

「誰が買う?」

「知らん」

「本当に?」兄貴の肘が飛んできた。

避けた。少し成長した。与助が俺を睨む。

「ただ」

「ただ?」

「夜に使う灯りだけなら、こんなに要らんだろうな」俺は黙った。

与助は壺を一つ動かす。

「前から清須は使う。だが最近は、一度に言う数がでかい」

また一つ。大量。急ぎ。規格を揃える。値切らない。

馬の回転を上げる。足軽らしい若い男が増える。

「なあ」

『はい』

「建物作ってるだけじゃない?」

『材木、縄、油だけなら建築需要でも説明できます』

「でも草鞋」

『移動する人員と整合します』

「馬」

『輸送または騎乗の増加と整合します』

「飼葉」

『馬の増加と整合します』

「干した魚」

『保存性のある食料需要と整合します』

「塩」

『食料、保存、日常消費など用途が広く、単独では判断材料が弱いです』

「全部一緒だと?」

少し間があった。

『人と馬を、継続して動かす準備である可能性が上がります』

言葉が変わった。可能性の一つ。から。可能性が上がる。

「軍勢?」

『軍事行動を含みます。ただし断定はできません』俺は道の真ん中で止まりかけた。

兄貴に肩を引かれる。

「邪魔」

「ごめん」

この年。清須の殿様は、織田信長だ。俺は歴史を知っている。でも教科書は。今日、津島の縄が何本清須へ入ったかなんて教えてくれない。

いつ、誰が草鞋を百足集めたかも。どの馬方が何往復したかも。だから。歴史を知っている俺より。今の町を見ているAIの方が、今起きていることには近い。

「これ、面白いな」兄貴が俺を見る。

「何が」

「歴史って、起きてから名前つくんだな」

「意味分からん」俺にも少し分からない。

夕方。店へ戻る。紙を広げた。縄。同じ太さ。

急ぎ。草鞋。まとめ買い。急ぎ。油。

一度の量が増える。馬。空きが減る。回転が増える。足軽らしい人。

出入りが増える。俺は線でつないだ。

「まとめて」

『はい』AIが一つずつ整理する。

親父も黙って紙を見る。兄貴は横で飯を食っている。ぽろっと米を一粒落とした。拾って食べた。

「汚い」

「今落ちたばっかだ」

「だから何」親父が俺たちを睨む。

「静かにしろ」

はい。俺は紙へ戻る。

「人と馬を、動かす準備」

そう書いた。その下に。

「戦かもしれない」

書こうとして。やめた。

『なぜ削除しますか』

「紙が誰かに見られる」

『理解しました』親父が俺を見る。

親父は俺の紙を指で押さえたまま聞いた。

「で、お前は何が起きると思っとる」

「人を動かす準備。そこまではかなり自信ある」

「どこへ動く」

「そこは分からん。人数も、出る時刻もまだ読めない」親父は一つずつ確認するように俺を見る。

「つまり、動くことだけは見えるが、その先はまだ見えんってことか」

「うん。だからそこから先は、勝手に埋めたくない」親父は鼻で息を吐いた。

「分からんことだらけだな」

「でも、何か動かすのは合ってると思う」親父は紙を見る。

「なら明日、そう言え」

「戦かも、は?」

「聞かれたら言え」

またそれだ。知らんことを、知っとる顔で言うな。でも。見えているところまでなら言える。夜が深くなったころ。

戸を叩く音がした。こん、こん。兄貴が顔を上げる。親父も止まる。もう店を閉めたあとだ。

「誰だ」親父が聞く。

「俺だ」彦七だった。

戸を開ける。息が少し荒い。また走ってきたらしい。

「早くない?」

反射で言った。彦七が俺を睨んだ。

「お前、次それ言ったら殴るぞ」

「ごめん」彦七は紙を一枚出した。

「明日の朝まで」親父が受け取る。

俺も横から見る。草鞋。縄。飼葉。俺の喉が鳴った。

「数は」彦七が言う。

「草鞋百足。縄三十。飼葉二十束」兄貴の箸が止まった。

親父の顔は動かない。

「全部揃わんでもいい」彦七が続ける。

「ただし、朝一番で清須へ入れたい」俺は紙を見る。

今日一日。俺たちが追ってきたものが。注文になって目の前へ来た。頭の中でAIが言う。

『観測した傾向と一致します』

「うん」彦七が俺を見る。

「何が、うん、だ」

「何でもない」親父が値を聞く。

彦七が答える。条件は悪くない。でも俺の頭は、もう値段から離れていた。

「これ」彦七を見る。

「どこへ出すの」彦七は一瞬だけ黙った。

「清須の中じゃない」

それだけだった。でも十分だった。人と馬を。清須へ集めて。その先へ出す。

俺は今日の紙を握った。物を追ったら。その向こうに。兵の動きが見え始めていた。

第11話 注文書の向こうに、兵がいた

「最初は草鞋から当たろう。数が多いし、作るのに時間もかかる」俺が紙を指で叩くと、親父が顔を上げた。

「縄より先に草鞋か。理由はそれだけか?」

「縄は前に出せるところを何軒か確認してる。草鞋は九十二揃えるだけでも散らばると思う。先に声かけた方がいい」

『妥当です』頭の中でAIが言う。

「縄は?」

『佐七を含め、直近に供給可能性を確認した先があります。規格確認が必要です』

「飼葉」

『藁不足の影響を受ける可能性があります。最も不確実です』俺は紙に三つ書いた。

草鞋。縄。飼葉。その横に、人を書く。草鞋。

兄貴。縄。俺。飼葉。親父。

親父が紙を見る。親父は、俺が書いた役割分担を見て鼻を鳴らした。

「勝手に人の仕事まで決めるな。相談してから書け」

「でも、この分け方が一番早くない?」親父は少し考え、新吉の名を指で叩いた。

「新吉が草鞋なのはいい。顔が広いし、何軒かまとめて回れる」兄貴が握り飯を片手に嫌そうな顔をする。

「俺、まだ飯の途中なんだけど。せめて食ってからじゃ駄目?」

「歩きながら食え」親父がもう一つ握り飯を投げた。

兄貴は慌てて受け取る。

「扱いが雑すぎるだろ。俺も一応、長男なんだけど」

「長男なら早く行け」

「はいはい。帰ったらちゃんと飯食わせろよ」兄貴は本当に握り飯をくわえて出ていった。

俺は縄。佐七のところだけでは足りない。でも、前に縄を集めたときに回った店がある。当時の供給量。その後の動き。

今日聞いた規格。

「順番」

『第一候補、佐七。直近製造量が多く規格の近似が期待できます。第二候補――』AIが並べる。

「行く」

『見本を持ってください』

「あ」

危ない。前に五十集めたときも、数字だけ見て失敗しかけた。俺は前回、同じ具合だと確認された縄を一本出す。親父が言った。親父が縄を一本持ち上げ、俺の目の前で軽く振った。

「弥吉。数だけ追うなよ」

「分かっとるって。前に五十集めたとき、同じ目に遭ったし」

「本当に分かっとるなら、何を見る」俺は縄を指でつまんだ。

「太さと撚り。それから値。前と同じ具合かも確認する」

「ならいい。数が揃っても、使えん縄を百本集めたら意味がないからな」親父はもう外へ出る支度をしている。

彦七も立った。

「俺は?」親父が言う。

「藤兵衛を探せ」

「馬か」

「集めても運べなきゃ意味がない」彦七が走った。

店が一気に空になる。さっきまで夜だったのに。急に仕事になった。俺も走った。佐七の家。

灯りがついていた。助かった。戸を叩く。戸を叩きながら、俺は声を張った。

「佐七! 悪い、起きてるなら開けてくれ!」

「起きてても夜中に叫ぶな! 近所まで起きるだろ!」

中から怒鳴り声が返る。起きている。もっと助かった。

「縄が急ぎで要る。明日の朝までに清須へ入れたい!」

「そんな話は明日に――」

「明日じゃ遅いんだ。全部じゃなくていい、出せる分だけ教えて!」

そこで中が静かになった。戸が開く。佐七が出てきた。本当に機嫌が悪い。戸が開くなり、佐七は眠そうな目で聞いた。

「で、何本欲しいんだ。十くらいなら話は聞く」

「全部で三十。ただし、佐七一人に三十作れとは言わない。今出せる分だけでいい」

「最初からそう言え。三十って聞いた瞬間、戸を閉めるところだったぞ」

「ごめん。で、出せそう?」

「その前に何に使う。最近、清須の注文は用途が見えなくて気味が悪い」俺は止まった。

知らない。いや。予想はある。でも確定していない。

「人と馬を動かすためだと思う」

佐七の顔が少し変わった。

「思う?」

「清須からの注文。でも行き先は聞いてない」

佐七は俺をじっと見た。それから見本を取る。軒下の縄と比べる。佐七は見本と軒下の縄を並べ、一本ずつ指で弾いた。

「今すぐ渡せるのは十二。太さも撚りも、だいたいこれで揃う」

「十二だけでも助かる。値は彦七さんからこの範囲って言われてる」

条件を伝えると、佐七は少し考えた。

「……その値なら十五出す」

「今、十二って言ったじゃん」

「三本は今から仕上げる。朝までなら間に合わせる。どうせ今日はもう寝られん」俺は驚いた。

「間に合う?」

「誰に聞いてんだ」

ちょっと格好いい。

「十五お願い」

「勝手に決めんな。親父に話通せ」

そうだった。俺は値を決めるなと言われている。

「待って」

走って戻る時間はない。

「彦七の条件の中なら、親父もたぶん――」

言いかけて止まる。知らんことを、知っとる顔で言うな。

「佐七、店まで来れる?」

「今から縄作るって言っただろ」

ですよね。困った。

『条件付き仮押さえを提案します』

「何て言う?」

『価格を確定せず、十五本を他へ売らない時間だけ確保できるか確認してください』

なるほど。

「佐七」

「何だ」

「値は親父と決めて。朝まで十五、他に出さんで置いといてくれる?」

佐七が俺を見る。佐七は腕を組んで、俺を値踏みするように見た。

「半刻だけ押さえろって言うが、払わなかったらどうする」

「そのときは他に売っていい。こっちが買うか決めるまで、半刻だけ待ってほしい」

「朝まで使う話なのに、半刻で決めるのか」

「だから短いんだよ。俺も今から親父と値を決めて戻る」

佐七は面倒そうに舌打ちした。

「分かった」

取れた。十五。ただしまだ買っていない。

『仮押さえ十五。価格未確定』

「記録」

次。二軒目。八。ただし二本、細い。六。

三軒目。五。合計二十六。あと四。四軒目は、もう寝ていた。

叩いても出ない。五軒目。前に縄を全部出していた店。今日は三本だけ残っている。二十九。

「あと一本」

『規格を外して数だけ合わせることは推奨しません』

「分かってる」

一本。たった一本。でも合わないものを混ぜて三十と言う方がまずい。俺は一度、店へ戻った。親父はまだいない。

彦七もいない。代わりに兄貴がいた。兄貴は俺を見るなり、得意そうな顔をした。

「お前、戻るの早いな。まあ俺に言われたくないだろうけど」

「そっちは草鞋、どうだった?」

「今すぐ出せるので六十八。今から作れるところも押さえたから、朝までなら九十くらいはいく」俺は思わず口笛を吹きそうになった。

「すご。……でも百には届いてないじゃん」

「そこを先に言うか、お前は」兄貴が得意そうに鼻を鳴らす。

「お前は」

「二十九」

「負けとるじゃん」

「そっちは百だろ。こっちは三十だぞ」

「負けは負け」

悔しい。でも兄貴の情報網が本当に強い。

「どこでそんな集めた?」

「嫁入り前の娘がいる家」

「何で?」

「草鞋編むの早い家を知っとる」

「何で知っとるの」兄貴が少し黙った。

「知らんでいい」

怪しい。

『人的情報網――』

「それ今言わんで」兄貴が俺を見る。

「何?」

「何でもない」親父が戻ってきた。

戻ってきた親父は、戸口からもう数字を聞いた。

「飼葉はどうなった」

「十六。二十まであと四」

「分かっとる。今、最後の当たりを聞かせとる」俺は親父の袖についた藁を見た。

「やっぱり藁が足りない?」

「足りん。ただ、馬屋の古い約束分を回せんか聞いとる。まだ終わりじゃない」親父は短く答えた。

「ただ、馬屋から古い約束分を回せるか聞いとる」

やっぱり。飼葉は一番きつい。藁を先に取った需要が、もう別のところへ効いている。俺たちは数字を並べた。草鞋。

朝まで九十見込み。縄。二十九。飼葉。十六、四は返事待ち。

彦七が戻ってきた。

「藤兵衛、来る」

「何頭?」

「六」

「足りる?」彦七が俺を見る。

「俺に聞くな」

その直後。藤兵衛が入ってきた。

「夜中に何だ」

「朝までに清須」

紙を見せる。藤兵衛が目を細める。

「これ全部か」

「集まった分だけ」

「草鞋と縄は軽い。飼葉が嵩張る」

『輸送容積が制約になります』

「うん」藤兵衛が俺を見る。

「お前、また何かと喋っとるだろ」

「考え事」

「もうそれでいい」

諦められた。藤兵衛は荷の置き方を考え始める。俺はそこで気づいた。全員が、自分の得意なことをやっている。俺は集める順番を考える。

AIは情報を整理する。兄貴は人を知っている。親父は条件と信用を動かす。藤兵衛は運ぶ。佐七は作る。

彦七は清須と津島をつなぐ。誰か一人がすごいんじゃない。つながると、速い。

「なあ」

『はい』

「これ、俺とお前だけじゃ無理だったな」

『はい』

即答だった。

「少しは迷えよ」

『事実です』

分かってる。夜半を過ぎた。佐七から十五。二軒目から六。三軒目から五。

五軒目から三。二十九。最後の一本は。兄貴が持ってきた。

「何で兄貴が縄持ってるの」

「草鞋取りに行った家にあった」

「規格は?」

見本を並べる。太さ。撚り。少し長い。

「長いのは?」

『切れば調整可能ですが、用途確認が必要です』藤兵衛が見る。

「このくらいなら使う側で切るだろ」彦七も見る。

「長さは余る分にはいい」

三十。揃った。草鞋は。九十二。

「あと八」兄貴が言う。

「もう無理」

「全部揃わんでもいいって」

「でも百って書いてある」

その気持ちは分かる。数字を見ると、合わせたくなる。AIが言った。

『不足八です。現時点で新規探索を続けるより、確保済み九十二を遅延なく運ぶ方が価値が高い可能性があります』

「出発優先?」

『はい。彦七へ確認してください』

聞く。彦七は即答した。

「九十二でいい。遅れる方が困る」

決まった。飼葉。十九。あと一。親父が最後まで粘っていた。

でも。

「十九で出す」親父が言った。

「いいの?」

「一つのために全部遅らせるな」

同じ答えだった。百。三十。二十。注文通りにはならなかった。

草鞋九十二。縄三十。飼葉十九。でも。朝には間に合う。

俺は紙に書いた。草鞋。九十二。縄。三十。

飼葉。十九。その下に。未達。八。

ゼロ。一。隠さない。

『完了条件を満たしていない項目を明示します』

「うん」彦七が紙を見る。

「これでいい」

「足りんのに?」

「足りんから書くんだろ」

前の俺なら。百を揃えるまで走ったかもしれない。でも必要なのは。数字をきれいにすることじゃない。朝、動けることだ。

空が少し白くなり始めた。六頭の馬が津島を出る。俺も行くことになった。

「何で俺も?」親父が言う。

「お前が集めた荷だ」

「兄貴は?」

「寝かせろ」兄貴は店の壁にもたれて、もう半分寝ていた。

「俺も行ける」

目を閉じたまま言う。

「寝ろ」

「行ける」

「寝ろ」

三回目は返事がなかった。寝た。俺は笑った。清須への道。夜明け前なのに、荷が多い。

前より多い。正確に比べる記録もある。

「今日、同じ時間の過去記録ある?」

『あります。前回より清須方向への人員と荷駄が増えています』

「何割?」

『観測範囲が異なるため比率は参考値になります』

「いい。参考で」

数字を聞く。増えている。昨日の推測と合う。清須に入る手前。彦七が道を外れた。

「こっち」

「城じゃないの?」

「違う」

人の声が聞こえる。馬。鎧の金具が触れる音。草鞋で土を踏む音。俺は息を止めた。

広い場所に、人が集まっていた。商人じゃない。荷運びだけでもない。槍を持つ者。具足を確かめる者。

馬を引く者。腰に刀を差した者。

『軍事集団と考えることが妥当です』

「言われんでも分かる」

小さく返す。荷を下ろす。草鞋。九十二。縄。

三十。飼葉。十九。受け取る側は、数を確認していく。

「草鞋、八足りん」俺の腹が一瞬縮んだ。

彦七が先に言う。

「夜半の注文で九十二。残りは後から」

相手は少し考えた。

「いい。先に配れ」

終わった。怒鳴られない。首も飛ばない。普通に次へ進んだ。そんなものなのかもしれない。

現場は、完璧を待たない。あるもので動く。俺は人の流れを見る。草鞋が渡る。縄が分かれる。

飼葉が馬の方へ行く。昨日まで帳面に書いていた数字が。目の前で兵の足と馬の腹に変わっていく。ちょっと震えた。寒いからではない。

「なあ」

『はい』

「俺らが集めなかったら?」

『代替調達が行われた可能性があります』

「それでも足りなかったら?」

『一部の移動や準備が遅れた可能性があります』

「俺らで早くなった?」

少し間があった。

『少なくとも、この荷については調達時間を短縮しました』

十分だった。歴史を変えた。なんて大げさなことは、まだ言えない。でも。歴史の中の誰かが履く草鞋を。

俺たちは昨夜集めた。それは事実だ。

「弥吉」彦七が呼んだ。

「何?」

「来い」

荷を受け取った男の後ろへ行く。そこに。あの墨の親指の男がいた。こんな朝から。やっぱり紙を持っている。

「答えは」

いきなり聞かれた。俺は一瞬迷ってから言う。

「人と馬を動かす準備」男の目が少し細くなる。

「戦とは言わんのか」

「聞かれたら言おうと思ってた」男が笑った。

「誰に教わった」親父を見る。

親父は少し離れたところで荷を見ている。

「親父」

「そうか」俺は紙を出す。

昨日の記録。縄。規格を揃えた大量注文。草鞋。まとめ買い。

油。急ぎ。馬。回転増。足軽らしい人の出入り。

「だから、人と馬を動かす準備だと思った」男は紙を読む。

男は紙の最後まで目を通してから、顔を上げた。

「動くのは分かった。で、どこへ行く」

「そこはまだ分かりません。出る時刻も、人数も」

「ずいぶん穴が多い話だな」

「はい。でも、分からないところを勝手に埋めたら、もっと悪いと思ってます」男は鼻で笑いながらも、もう一度紙へ目を落とした。

男が鼻で笑う。

「分からんことだらけだな」親父と同じことを言われた。

「でも、動くのは当たった」俺は目の前の兵を見る。

男も見る。

「そうだな」

その一言だけだった。でも嬉しかった。男は紙をたたむ。

「この藁の紙」

「はい」

「昨日、上へ回した」

「上?」

「物が足りなくなる前に拾った小僧がおる、と」

急に嫌な予感がした。

「誰に?」男は俺を見る。

少しだけ楽しそうだった。

「上総介様だ」俺の頭が止まった。

上総介。この清須で。今、その呼ばれ方をする人を。俺は一人しか知らない。

「……信長?」

口から出た。彦七の顔が引きつった。親父が遠くからこっちを見る。男だけが笑った。

「呼び捨てにするな、小僧」

心臓が急に速くなる。十五年。転生して。AIと話して。塩を買って。

馬を探して。帳面を作って。縄を集めて。藁を先に買って。気づけば。

俺の紙が。織田信長のところまで行っていた。男は続けた。

「明日、城へ来い」俺は何も答えられなかった。

頭の中でAIが言う。

『予定を登録しますか』

「そこ!?」

全員が俺を見た。やった。声に出た。天下より先に。まず。

信長に会うことになった。

第12話 信長は、俺の顔より帳面を見た

城へ行く朝。親父は、俺の襟を三回直した。

「親父、もういいって。襟そこまで直したら、俺、城に着く前に首締まる」

「今日は締まっとけ。普段みたいな顔で行かれて、こっちの寿命が縮むよりましだ」

ひどい。兄貴は朝飯を食いながら肩を揺らしていた。

「弥吉、一個だけ本気で頼む。びっくりしても『信長』って呼ぶなよ。昨日みたいに」

「分かっとるわ。昨日は急に本人が出てきたから口が先に動いただけ」

箸が止まった。

「分かっとるわ」

「昨日呼んだじゃん」

「昨日はびっくりしただけ」

「今日もびっくりするだろ」

否定できない。親父が俺の後頭部を軽く叩いた。親父は俺の後頭部を軽く叩いてから、顔を覗き込んだ。

「上総介様だ。そこだけは今日は絶対に間違えるな」

「分かってる。さすがに二度目でやったら、俺も自分で嫌になる」

「それと、聞かれたことから答えろ。考えたことを全部一気に喋るな。お前は勢いがつくと、自分で穴を掘る」

「……そこまで言う?」

「言う。一番大事なのは、知らんことを知っとる顔で言わんことだ。分からんなら、ちゃんと分からんと言え」

「はいはい。最近それ、毎日言われてる気がするけど……今日は特に気をつける」

それは最近、何度も言われている。たぶん親父の中で、俺に一番必要な教えになっている。外へ出る。清須までの道は、昨日より少しだけ静かだった。昨日の朝に見た兵の集まりはない。

でも荷は動いている。縄。草鞋。飼葉。油。

材木。人。俺は無意識に数えていた。

『観測を継続しますか』

「する」

『城内では発話に注意してください』

「お前まで言う?」親父が横を見る。

「何だ」

「何でもない」

危ない。今日は特に危ない。昨日の墨の親指の男が、城の手前で待っていた。

「遅い」

「約束の時刻より前です」親父が答えた。

男は俺を見る。

「親父の方が使えそうだな」

「いつもそう言われます」

「弥吉」親父の声が低くなった。

黙る。城へ入る。俺は勝手に、もっと何かあると思っていた。前世で見た城。大きな天守。

石垣。金ぴか。そういうもの。もちろん、そんなものはなかった。人が出入りしている。

荷が置かれている。紙を持って走る者がいる。槍を持つ者がいる。板が運ばれている。どこかで槌の音がしている。

城というより。でかい仕事場だった。

「見るな」親父に言われた。

「見てない」

「見とる」

見ている。仕方ない。全部見たい。

『記録対象が多すぎます。優先順位を設定してください』

「今それ言う?」

また口に出そうになった。咳に変えた。墨の親指の男が振り返る。

「腹でも痛いか」

「緊張してるだけです」

「それなら普通だ」

少し安心した。通されたのは、思っていたより狭い部屋だった。人が三人いる。一人は紙を整理している。一人は立っている。

そして。一人だけ、座っていた。若い。最初に思ったのは、それだった。俺が前世で知っている織田信長は。

絵だった。銅像だった。ドラマの俳優だった。教科書の名前だった。目の前の男は。

若かった。当たり前だ。今は一五五五年。信長は、まだ二十そこそこだ。俺は十五。

歴史の向こうにいた人間が、思ったよりずっと近い年齢にいる。頭では知っていた。でも実際に見ると、おかしい。歴史上の人物というより。ちょっと年上の兄ちゃんに見える。

――顔を見るまでは。目が合った。無理。兄ちゃんじゃない。俺はすぐ視線を落とした。

「それか」

最初の言葉だった。何が。俺?親父?紙?

「藁を先に拾った小僧」俺だった。

「弥吉にございます」親父が頭を下げる。

俺も慌てて下げた。

「顔はいい」

え。

「紙を見せろ」

そっち?俺は懐から昨日の紙を出した。草鞋九十二。縄三十。飼葉十九。

未達も書いた紙。墨の親指の男が受け取る。信長へ渡す。信長は、俺より長く紙を見た。ちょっと複雑だ。

信長は紙から目を上げずに言った。

「百を頼んだ草鞋が九十二。縄も一つ足りん。注文通りではないな」

「はい。足りない分を待てば、全体が朝に間に合わなくなると判断しました」

来た。

『回答候補を――』AIが出す前に、俺は続ける。

「揃うまで止めるより、ある分を先に動かして、残りは後から追わせる方がいいと思ったんです」AIより先に答えた。

信長が目を上げる。信長は紙から目を上げずに、もう一つの不足を指した。

「では、こちらの一つ足りん方も同じ考えか」

「はい。揃うまで全部止めるより、ある分を先に動かした方がいいと思いました」

「注文通りではないぞ。怒られるとは思わなかったか」俺は少し迷ってから、正直にうなずいた。

「思いました。でも、怒られないように待って全部遅らせる方が、もっとまずいと思ったんです」信長がそこで初めて、紙ではなく俺を見た。

「その判断は誰がした。お前か」

一瞬だけ詰まる。俺とAI。とは言えない。

「俺一人じゃないです。親父と兄貴、馬方の藤兵衛、清須の彦七さん。集めた人にも、間に合う数と時間を聞きました」

「つまり『みんなで決めた』と言いたいのか」

「はい。俺一人で百足集めろって言われたら、たぶん今も津島を走ってます」信長の口元が少しだけ動いた。

「自分一人の手柄にはせんのだな」

「一人じゃ無理だったので」

即答した。昨日AIにも即答されたから、仕返しではない。本当に無理だった。信長が笑った。大きくではない。

鼻で少し。

「なら、藁が減ったのに気づいたのは誰だ」

「俺です」

「なぜ藁を見た」

ここは説明できる。俺は紙をもう一枚出した。縄が増えた。馬が増えた。草鞋が増えた。

油が急いで動いた。藁が先に減った。

「売れてる物だけ見ても遅いと思ったんです」

「遅い?」

「足りなくなってから探すことになるから」俺は指で紙を追った。

「縄を作るなら材料が要る。馬が増えるなら食わせる物が要る。人が増えるなら履く物が要る。だから、今売れてる物じゃなく、その前に減る物を見るようにしました」信長は黙っている。

怖い。何か言って。

『説明は妥当です』

お前じゃない。信長が聞いた。

「次は何が足りなくなる」

来た。

一番困る質問。分からない。昨日までの俺なら。何か格好いい答えを探したかもしれない。鉄。

油。米。炭。いくらでも言える。でも。

親父の言葉を思い出す。知らんことを、知っとる顔で言うな。

「今は、分かりません」

部屋が静かになった。親父の横顔が固まる。終わった?帰される?首は?

いや首は早い。信長が紙を机へ置いた。

「考えることもできんのか。それとも、答えるのが怖いか」

「候補は考えられます。でも、昨日まで俺が見た範囲しか記録がないので、『次はこれです』って言い切る根拠がないです」

「候補と答えは違う、と?」

「はい。俺が実際に見たことと、そこから予想したことは分けておきたいです。外れた時に、どこから間違ったか分からなくなるから」

言ってから。ちょっと偉そうだったかもと思った。親父が横で息を止めた気がする。信長は俺を見る。長い。

すごく長い。実際は数秒だと思う。

「よい」

え。

「分からんものを、分かった顔で持ってくる奴は多い」親父の肩が少し下がった。

俺も下がった。信長が別の紙を取った。今度は俺のではない。何枚かある。数字。

米。日付。人の名前。蔵の印。

「では、これを見ろ」

墨の親指の男から渡される。読む。入った米。出た米。残り。

「三日、合わん」信長が言う。

確かに。入った数と出た数を引く。残っているはずの数より。蔵にある米が少ない。

「盗まれたんですか」

「それを聞いている」

しまった。

「誰が盗ったか当てろってことですか」

「違う」信長はすぐ言った。

「どこで消えたか見つけろ」

少しだけ。背中がぞくっとした。人を疑えではない。消えた場所を探せ。

「この帳面だけじゃなくて、実際の蔵も見ていいですか。蔵番の人に聞いたり、俵を触ったりもしたい」信長は面倒そうに手を振った。

「好きにしろ。帳面でも蔵でも、人でも見ろ。原因を見つけるのに必要なら聞け」

「米を開けて確かめる必要が出たら?」

墨の親指の男が俺を見る。親父も見る。信長だけは普通に答えた。

「食うなよ。調べる分には構わん」

「さすがに城の米をつまみ食いする度胸はないです」

思わず即答した。信長が少し笑った。

「昼までだ」

また昼まで。俺の人生、最近ずっと期限が昼までな気がする。部屋を出る。廊下を曲がったところで、俺は息を吐いた。

「死ぬかと思った」親父が俺の肩を掴んだ。

「声がでかい」

「ごめん」

墨の親指の男が前を歩きながら言う。

「まだ終わっとらんぞ」

「分かってます」

紙を見る。入った米。出た米。残り。数字は合わない。

でも。今までと違う。俺は、この時代の帳面を何冊も見てきた。書き間違い。数え違い。

後書き。抜け。いくらでもある。それでも。今回のズレは。

毎日少しずつ。妙に同じ方向へ寄っている。

「どう思う」

『現時点では原因を特定できません』

「候補」

『記帳誤り。持ち出し未記録。盗難。破損。廃棄。受入時の数量誤認。単位不一致』

最後の言葉で足が止まった。

「単位不一致?」

『帳面上で同じ一俵として扱われている物が、実物でも同じ量とは限りません』俺は紙を見る。

全部。一俵。一俵。一俵。同じ字だ。

だから。同じだと思っていた。

「……まさか」

蔵の戸が開く。積まれた米俵が見えた。俺は。数字ではなく。

俵そのものを見た。

第13話 同じ一俵なのに、同じじゃなかった

米俵は。全部、同じには見えなかった。大きい。小さい。太い。

細い。もちろん、見た目だけで量は分からない。縄の締め方でも変わる。中身の詰まり方でも変わる。

「なあ」

『はい』

「俺、今まで一俵って一俵だと思ってた」

『名称が同一でも実量が同一とは限りません』

「それ早く言ってよ」

『質問されていません』

こいつ。蔵番の男が怪訝そうにこっちを見る。

「さっきから一人で何ぶつぶつ言っとる。俵に話しかけても返事はせんぞ」

「数を見てるんです。俵の形とか、どこから来たかとか、いろいろ」

「いろいろ、で済ませる顔じゃないな。朝から変な小僧を預かったもんだ」

最近、それを言われる回数が増えた。良くない傾向だと思う。蔵の中は米の匂いがした。土と藁と、人の汗の匂いも混じっている。俺は一番手前の俵へ近づいた。

「この手前の俵、どこから来たやつです?」蔵番が紙をめくる。

蔵番は帳面をめくりながら、手前の俵を顎で示した。

「それは北の方から来た。昨日入ったやつだ」

「じゃあ、こっちの少し太い俵は?」

「西だな。三日前」俺は二つを見比べた。

「帳面では、どっちも同じ“一俵”で数えるんですよね。でも、実物は少し違って見える」

「そりゃ見た目くらい違うだろ。俵は俵だ」

「その違いが、中の量にも出てないか確かめたいんです」

分からないから聞いている。俺は二つを見比べる。やっぱり少し違う。俺は俵の口を見ながら、もう一つ聞いた。

「荷が来たときって、何を確認するんです? 数だけですか」

「まず数える。破れてりゃ見るし、明らかに軽けりゃ止める。けど、何十俵も毎回量っとったら日が暮れるぞ」

「じゃあ、普通は中身の量まで毎回確かめない?」蔵番は“何を当たり前のことを”という顔をした。

「中身は米だぞ。よほど怪しくなきゃ、いちいち開けん」

そういう意味じゃない。でも。ここで説明を間違えると面倒になる。

「一俵の中に、どれだけ入っとるか確かめる?」

「よほど怪しくなきゃせん」

来た。

「怪しいって何で分かる?」蔵番が嫌そうな顔をした。

「持てば分かる」

「全部?」

「全部持っとったら腰が死ぬわ」

そりゃそうだ。俺は紙に戻る。入荷の記録には。日。相手。

俵数。それだけ。

「出すときはどうするんです?」蔵番は帳面を閉じた。

「そのまま一俵で出すこともあるし、開けて小分けにすることもある」

「開けたときは、何で量る?」

「升だ。そこまで聞いて、何を調べたいんだお前は」俺はようやく欲しかった答えに近づいた気がした。

それ。

「升見せて」

「何でだ」

「上総介様が好きに見ろって」

強い。名前が強い。蔵番は文句を言いながら奥から木の升を持ってきた。使い込まれている。角が丸い。

俺は使い込まれた升を両手で持ち、角を確かめた。

「ここで使う升は、これ一つ?」

「ここではな」

「米を持ってくる側も、同じ升で俵に詰めるんです?」蔵番は露骨に面倒そうな顔をした。

「知らん。向こうが何を使っとるかまで、俺に聞くな」

「そっか。じゃあ、そこは別に見ないと分からないんだな」

なるほど。俺は床へ座った。紙を並べる。

「今日だけじゃなく、前のも見たい」

「は?」

「同じ人から来たやつ」蔵番の顔が露骨に嫌そうになった。

蔵番は古い帳面の山を見て、露骨に顔をしかめた。

「好きに見ろとは言われたが、昼までだぞ。俺までお前に付き合って仕事が遅れたら困る」

「俺も急いでます。余計な紙を全部見るつもりはないです」

「さっきから十分余計なことしてるように見えるがな」

「それが余計かどうかを今調べて――」

言い返したところで、親父に後頭部を軽く叩かれた。

「すみません。倅は気になると周りが見えなくなるんです。必要な紙だけ、少し見せてやってください」蔵番が親父を見る。

「お前の倅か。……大変だな」

「ええ。毎日それを実感してます」

そこ即答する?古い紙が出てきた。俺は名前ごとに分ける。日ごと。入った俵数。

出した数。帳面の残り。実際の残り。でも。実際の残りは毎日きちんと量っているわけじゃない。

途中で開ける。混ざる。移す。数字は荒い。

「これじゃ分からん」

『追加情報が必要です』

「何を取る」

『供給元別の俵形状。開封時の実量。受入担当者。雨天。保管位置。再包装の有無』

多い。

「昼まで」

『では優先順位を絞ります』

ありがたい。

『供給元別の実量差を最優先で確認してください』

「どうやって」

『同じ基準で比較します』俺は升を見る。

同じ基準。

「俵、開けていい?」蔵番が固まった。

「お前、自分の米じゃないぞ」

ですよね。

「戻せばいい?」

「そういう問題じゃない」

墨の親指の男を見る。いつの間にか入口に立っている。

「上総介様が好きに見ろって」男は少し考えた。

「三つまで」

「三つ?」

「違うところから来たのを三つ。開けた分はここで使う」蔵番が嫌そうな顔をする。

「俺が怒られるんだぞ」

「俺が言ったことにしろ」

「お前の名前で上が止まるか」

「止まらんな」

二人で納得した。俺は三つ選んだ。一つ目。北から。二つ目。

西から。三つ目。別の村から。縄を解く。米を同じ升で取る。

数える。一杯。二杯。三杯。途中から俺も蔵番も無言になった。

一つ目が空になる。記録。二つ目。同じように数える。一つ目より多い。

はっきり違う。三つ目。また違う。

「……何だこれ」蔵番が言った。

俺も同じ気持ちだった。同じ一俵なのに。同じじゃない。

「もう一回」

『三例だけでは断定できません』

「分かってる」

だから追加で。とは言えない。三つまでだ。俺は俵の縄。大きさ。

詰め方。供給元。過去のズレ。紙を見比べる。

『仮説を更新します』

「言って」

『盗難のみで説明する必要はありません。受入時に「俵数」のみを同一単位として記録しているため、供給元ごとの実量差が帳面上の不足として現れている可能性があります』

「つまり」

『数は合っています。量が揃っていません』

それだ。俺は立ち上がった。

「親父」

「聞いとる」

「これ、津島でもある?」親父が少し考える。

「あるだろうな」

「困らん?」

「だから相手を見て買う」俺は止まった。

それも答えだった。この時代は。数字だけで取引していない。あいつの俵ならこれくらい。あの村ならこのくらい。

あの商人は詰める。こいつは軽い。人が覚えている。信用で補っている。

「じゃあ帳面いらん?」親父が俺を見る。

「馬鹿」

一言だった。

「覚えきれんから帳面がある」

「でも帳面だけだとズレる」

「だから人も見る」

なるほど。俺は笑った。

「両方いるんだ」親父が呆れた顔をする。

「今さら何を言っとる」

今さら分かったんだよ。俺は紙の端に書く。俵数。出所。開けたときの量。

全部測る必要はない。初めての相手。いつもと形が違うとき。不足が続いたとき。そこだけ確かめればいい。

「毎回全部やったら?」

『受入作業が遅延します』

「だよな」

『異常時と新規供給元を優先する方が効率的です』俺は紙へ書き足す。

新しい相手は一つ開ける。形が違ったら一つ開ける。不足が出たら同じ出所を確かめる。そして。城の升を一つ。

基準にする。

「これでいい?」

『現状より比較可能性は上がります』

「絶対?」

『いいえ』

「だよな」

でも。絶対じゃなくていい。今より分かればいい。

昼前。俺たちは部屋へ戻った。信長は別の紙を読んでいた。俺たちが入っても、すぐには顔を上げない。

「どうだった」

紙を見たまま聞いた。

「盗人は分かりませんでした」

墨の親指の男が一瞬こっちを見る。信長が顔を上げた。

「見つからんかったか」

「盗まれたって決まってないです」

部屋が静かになる。俺は三つの俵の結果を出した。

「一俵って書いてあるけど、中の量が違いました」信長が紙を見る。

「どれだけ」

数字を言う。信長は数字の並んだ紙を指で押さえた。

「量ったのは三つだけか」

「はい。少ないです。だから、三つ違ったから全部違う、とは言えません」

「では、その三つで何が分かった」俺は一度だけ息を整えた。

「帳面に“一俵”と書いてあっても、実物の量まで同じとは限らない。少なくとも、それを確かめずに同じものとして扱ってる場所があるって分かりました」

自分で言って。変な感じがした。当たり前のようで。今まで気づかなかった。

「帳面が間違っとるのか」

「帳面に書く前が揃ってないです」信長の指が止まった。

俺は続ける。

「人を疑う前に、数え方を同じにした方がいいと思います」

「全部量れと?」

「それは遅いです」

「では」

「初めての相手とか、いつもと違う俵とか、ズレたときだけ確かめる。城の升を一つ決めて、それで比べる」信長が俺を見る。

「升も違ったらどうする」

詰んだ。いや。

「城の升を正しいことにする」

言ってから、自分でも強引だと思った。でも。比べるには基準が要る。

「正しいかどうかじゃなくて」俺は言い直す。

「ここでは、これで比べるって決める」信長はしばらく黙った。

そして。

「面白い」

小さく言った。怖い面白いなのか。良い面白いなのか。分からない。

「甚兵衛」蔵番が呼ばれて入ってくる。

名前、甚兵衛だったんだ。

「蔵の升を一つ決めろ」

「は」

「新しい荷と、怪しい荷だけそれで見ろ。全部は量るな」

甚兵衛が俺を見る。嫌そう。すごく嫌そう。

「こいつの言った通りに?」

「嫌ならもっと早い方法を考えろ」

「……は」俺はちょっと申し訳なくなった。

仕事を増やした。でも全部じゃない。そこは許してほしい。信長が俺を見る。

「弥吉」

「はい」

「侍になりたいか」

急すぎる。頭の中で何かが止まった。前世なら。ここで。織田信長に仕官!

みたいな文字が出るところだ。でも。俺は親父を見る。親父は何も言わない。ただ俺を見ている。

俺は。

「今は、商人です」

と答えた。信長の眉が少し上がる。

「なりたくないか」

「分かりません」

またそれだ。でも本当に分からない。十五年。俺はこの家で育った。帳面を覚えた。

荷を見た。人を見た。兄貴と喧嘩した。親父に叩かれた。急に刀を差した自分を想像できない。

信長は笑った。

「なら、そのままでいろ」

え。

「津島を見ろ」

「津島?」

「物が動いたら書け。人が動いたら書け。分からんものは分からんと書け」信長は俺の紙を指で叩いた。

「五日に一度。一枚だ」

多い?少ない?分からない。

「全部書くな」

「はい」

「三つでいい」

三つ。

「何を三つ?」

「それをお前が決めろ」

一番困るやつだ。信長はもう次の紙へ目を落としていた。話は終わったらしい。俺は頭を下げる。部屋を出る。

廊下へ出てから。歩く。十歩くらい。親父が言った。

「弥吉」

「何」

「息しろ」

してなかった。俺は大きく息を吸った。

「俺、仕官断った?」

「断ってはおらん」

「でも商人って」

「商人のまま使われるんだろ」俺は止まった。

それ。よく考えると。かなり大変じゃない?頭の中でAIが言う。

『定期報告タスクを登録しました』

「お前は楽しそうだな」

『私は通常通りです』俺は城の外へ出た。

侍にはならなかった。でも。城とは。つながってしまった。

第14話 城に仕えず、城とつながった

津島へ戻る途中。親父は、ずっと黙っていた。俺も黙っていた。別に気まずいわけではない。たぶん。

二人とも考えていた。五日に一度。一枚。三つ。簡単そうで。

全然簡単じゃない。清須へ向かう道で、荷駄とすれ違う。いつもの癖で見る。

「油二」

『記録しました』

「材木、長いの三」

『記録しました』

「馬一、空」

『記録しました』親父が横でため息をついた。

「城を出てまだ半刻も経っとらんのに、もう次の紙を作る気か」

「だって、見た時に残しとかないと忘れるじゃん」親父は前を向いたまま、少しだけ口元を曲げた。

「お前は忘れん奴が、いつも頭の中におるみたいだけどな」

足が止まりそうになった。

「……何のこと?」

「さあな。十五年見とる親に、何も見えてないと思うなって話だ」親父は前を向いたまま歩く。

怖い。どこまで気づいてる?

『父君はあなたの独語と記憶能力の不自然さを長期間観測しています』

「分析せんでいい」

「何が」

「何でもない」親父がまたため息をついた。

津島に戻ると。兄貴が店の前にいた。俺たちを見つけて走ってくる。兄貴は俺たちを見つけるなり、店先から走ってきた。

「どうだった! 城ってどんなだった? 上総介様、本当にいた?」声がでかい。

「いたよ。普通に会った」

「『普通に会った』で済ませる話じゃないだろ。何を聞かれたんだよ」

「物の集め方とか。あと、米を見てこいって言われた」

「なんで殿様に会いに行って、帰りの話が米なんだよ」

「一俵が、全部同じ一俵じゃなかったから」兄貴の顔が止まった。

「……ごめん。最初から順番に喋ってくれ。今の説明だと何一つ分からん」俺もそう思う。

織田信長に会って。米俵の話をして帰ってきた。前世の俺に言っても信じない。親父が店へ入る。親父は店へ入るなり、兄貴の前へ荷札を置いた。

「新吉、城の話は後だ。先に仕事しろ」

「いや親父、今ちょうど弥吉が信長様の話を――」

「その話を聞いても荷は勝手に片付かん」兄貴はぶつぶつ言いながら立ち上がった。

「弥吉ばっかり城へ行くの、やっぱりずるいわ。次は俺も連れてってくれ」

「次に呼ばれたら、お前が行け」

「本当か? じゃあ行く。絶対行く」

即答だった。俺より向いているかもしれない。

昼。俺は帳面の前へ座った。いつもの帳面。塩。油。

縄。米。馬。でも。今日から見え方が違う。

一俵。一束。一荷。一桶。同じ言葉でも。

本当に同じとは限らない。

「なあ。今日の話が本当なら、今まで『一俵』『一束』って同じものみたいに並べた記録、結構まずくない?」

『絶対量の比較には限界があります』

「やっぱり全部やり直し?」

『いいえ。無価値ではありません』

「そこ、安心させるのか不安にさせるのかどっちかにして」

『同じ相手。同じ場所。同じ数え方で継続した記録は、変化を見る用途では有効です』

なるほど。絶対の量は怪しい。でも昨日より増えた。前より減った。それは見える。

「じゃあ全部やり直しじゃない」

『不要です』

安心した。十五年分やり直せと言われたら泣くところだった。

「それより、五日に一度の紙だ。三つだけ選べって、何を書けばいいと思う?」

『要件を整理します。まず、誰が読むかと目的が必要です』

「それを上総介様が俺に決めろって言ったんだよ。だから困ってる」

『では、あなた自身が「知っていれば次の判断が変わる」と考える変化を三件選ぶ必要があります』

「簡単に言うけど、今は全部大事に見えるんだって」

『では、あなたが有用だと判断した変化を三件選ぶ必要があります』

「それが難しいんだって」俺は帳面を見る。

全部大事に見える。塩が一文上がった。馬が二頭増えた。縄屋が忙しい。船が遅れた。

油が減った。米が余った。全部書いたら。前と同じだ。多すぎて読まれない。

前に、墨の親指の男に言われた。全部はいらない。必要なのは。今すぐ動く。明日動く。

交渉が要る。あのときは物だった。今度は。変化。

「三つの基準を決める?」

『提案できます』

「いや、待って」俺は紙を伏せた。

AIに決めてもらうのは簡単だ。でも。信長は俺に決めろと言った。たぶん。俺が何を見るかも、見ている。

嫌な人だ。二十一歳で何でそんなことするんだ。俺は外へ出た。市場を見る。いつも通り。

いや。もう、いつも通りではない。

「あ」

塩屋の前で声をかけられた。最初に塩三十俵を買ったとき。昨日と同じ値で売ってくれた店の男だ。今日は笑っていない。

「お前」

「はい」

「清須で何した」

嫌な聞かれ方だ。

「何で?」

「今朝、荷を持ってったら出所まで書けと言われた」俺は止まった。

早い。もう変わってる。

「俵も見られた」

「全部?」

「全部じゃねえ。二つ開けられた」

城で言った通りだ。新しい相手。怪しい荷。全部ではなく、一部を見る。

「お前だろ」

「俺だけじゃない」

「じゃあ誰だ」

上総介様です。とは言いにくい。

「帳面が合わんかったから、数え方見た方がいいって話しただけ」男の顔がさらに険しくなる。

「余計なことしやがって」

来た。

胸が少し冷えた。そうだ。便利になる人だけじゃない。曖昧なままの方が楽な人もいる。悪いことをしているとは限らない。

今までそれで商売が回っていた。急に手間が増えたら。普通に嫌だ。

「ごめん」

思わず言った。男がさらに怒った。

「謝るくらいならやるな!」

ごもっとも。俺は何も言えなかった。店を離れる。

『対外影響が発生しています』

「見れば分かる」

『今後、観測行為そのものが市場参加者の行動を変える可能性があります』

それ。前にも似たことがあった。当てたら。当てたせいで未来が変わる。今度はもっと直接だ。

俺が紙に書く。清須が動く。清須が動くと。津島が変わる。すると。

次の紙に書く数字も変わる。

「めんどくさ」

『はい』

「そこ同意するんだ」

でも。面白い。怖いけど。面白い。俺は市場を歩く。

さっきの塩屋。俵を持ち上げる回数が増えている。別の店。荷を受ける前に出所を聞いている。その隣。

何も変わっていない。変わる店。変わらない店。怒る人。利用する人。

「これも書く?」

『候補になります』

「物じゃないけど」

『人の行動変化です』

上総介様は言った。物が動いたら書け。人が動いたら書け。そういうことか。

夕方。店へ戻ると、親父が誰かと話していた。知らない男だった。商人っぽい。服は普通。

でも目だけが、店の中をよく見ている。俺の帳面にも。

「弥吉」親父が呼ぶ。

「この人、お前に用だと」

嫌な予感。

「何でしょう」男が笑った。

「清須へ紙を出すそうだな」

もう知られてる。早すぎない?

「誰から聞きました?」

「商売してりゃ、耳はある」男は店の帳面へ目をやった。

「俺にも見せてくれんか」

「何を」

「清須へ出す紙だ」親父を見る。

親父は無表情だ。

「まだ作ってません」

「なら、できたらでいい」

「何で見たいんですか」男は普通に答えた。

「儲かりそうだからだ」

正直。清々しいくらい正直。

「いくらなら見せる」

金まで出てきた。俺は返事をしなかった。できなかった。清須へ出す紙。城が欲しがる情報。

商人も欲しがる情報。同じ紙なのに。使い方が違う。

『情報そのものに交換価値が発生しています』

「分かってる」男が首を傾げる。

「何が」

「何でもないです」

危ない。本当に危ない。男は帰った。返事は明日でいいと言った。

夜。家族で飯を食う。兄貴が口を開く。

「売ればいいじゃん」親父が睨む。

「馬鹿」

「何で。紙だろ?」

「誰に何を渡すかで、商売は変わる」

「でも金になる」

「だから面倒なんだ」俺は黙って飯を食う。

うまい。でも味が半分しか分からない。頭の中では。情報。信用。

清須。津島。商人。城。全部がぐるぐるしている。

「なあ親父」

「何だ」

「俺、やめた方がいい?」親父はすぐには答えなかった。

汁を一口飲む。

「何を」

「紙」

「上総介様に言ってこい」

無理。

「そうじゃなくて」親父は俺を見る。

「怖くなったか」

「ちょっと」

正直に言う。

「なら覚えとけ」親父は箸を置いた。

「物を売るのも同じだ」

「同じ?」

「塩をどっちに売る。馬を誰に貸す。縄を誰に回す。商人は毎日、誰かの先を変えとる」俺は黙った。

「紙だけ特別だと思うな」

その言葉が。すごく残った。AIがいる。だから大げさに考えていた。でも。

親父たちは昔から。物と情報を動かしている。俺だけが初めてじゃない。違うのは。俺とAIが。

それを、今までよりずっと多く覚えて。つなげて。速く見つけられることだ。

「じゃあ続ける」親父は鼻で笑った。

「俺に聞くな」

「聞いたじゃん」

「決めたのはお前だ」

ずるい。兄貴は飯をかき込みながら、箸の先を俺へ向けた。

「で、清須に出す紙、俺にも見せろよ。俺だって手伝っとるんだから、そのくらい見てもいいだろ」

「兄貴に見せたら、次の日には町じゅう知ってそうで嫌なんだよ」

「失礼な。俺はそんな何でも喋らん」俺は茶碗を置いて兄貴を見た。

「この前、馬の話もう広まってたけど」

「あれは藤兵衛だ」

「何でそんな自信あるの?」兄貴は一瞬だけ黙ったあと、視線をそらした。

「……俺が藤兵衛に喋ったから」

「お前じゃん!」親父が額を押さえた。

久しぶりに、普通の夜だった。少し笑った。食べ終わって。俺は帳面を開く。最初の一枚を書く。

まだ清須へは出さない。候補だ。一つ。俵の出所を聞く店が増えた。二つ。

清須向けの空荷の馬が減っている。三つ。炭を買いに来る鍛冶屋が二日続けて増えた。最後の一つで手が止まる。

「炭」

『はい』

「これ、前にもあった?」

『過去記録を照合します』

待つ。一瞬。

『同時期比較では、鍛冶関連の炭需要が増えています。加えて、鉄材の小口購入も複数確認されています』俺は紙から顔を上げた。

また。売れている物の下に。別の何かがある。

「何作ってる?」

『現時点では特定できません』

「だよな」

でも。今度は。こっちから見に行ける。城から言われたからではない。俺が選んだ三つ目だ。

紙の端に小さく書いた。炭。鉄。鍛冶屋。未確認。

そして。丸をつけた。五日後まで。まだ四日ある。俺は笑った。

清須から宿題をもらったと思っていた。違った。これは。俺とAIが。

次にどこを見るかを決める権利だった。

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