第4話 波乱の予感
――――――――――5月31日 17:23
空がオレンジ色に近づきつつあった。
俺は屋上の汚い床に寝転び、ずっと空を眺めていた。
屋上を訪れる者は結構少なく、誰かが来たとしても、俺を見て怪訝な顔をするだけで何も言ってきたりはしてこなかった。
誰かが訪れた気配がして、横目で出入り口の方を見やると、五十嵐麗子と錦屋いなりが俺の方へと歩を進めているのが分かった。
麗子は相も変わらず毅然とした態度で俺を見据えている。
いなりの方は、背中を丸めて縮こまっているような感じになっていた。
二人が俺の傍まで立ち止まる。
「釈明って何の話よ」
口火を切ったのは麗子だった。
「あの騒動を一段落させたくて、仕組んだのかな、と思っただけだ」
俺は上半身を起こして、麗子の視線を受け止める。
「仕組む? 何を?」
麗子は不敵な笑みを浮かべ、腕を組んだ。
ああ、こいつが画策したのか。
図書室の平和のためなんだろうが、強引すぎたんじゃないか?
「メールの着信音が猫の鳴き声だったというアイディアは満点とは言えないまでも及第点だ。それで納得した奴らが多いだろうから、図書室には平安が訪れるだろうな」
「そういうものでしょ? 噂は噂でしょ? 本質を見抜けないような人にはいいブラフよ」
麗子には悪びれた様子が全くなかった。
「……でも、人を騙すのは悪いのです」
それに引き換え、いなりはすっかり反省しているのかしゅんとしていて俯きがちだ。
「証言まで集めていたいなりに真実を話してはいるんだろ? で、あの噂話を終焉させるために共謀して一芝居を打った……そんなところだろ? だけどな、証言を集めていたいなりは、メールの着信音っていうアイディアではボロが出る事に気づいていてもおかしくはない。他にも証言を集めている奴がいたら、見抜かれちまうだろう」
「ふ~ん。どうしてボロが出るのかしらね?」
麗子は鼻で笑って、片頬をつり上げてさげすむように笑った。
「いなりが集めた証言を見れば、分かるさ。『にゃ~お』『にゃ~』『にゃ~~っ』『にゃ~う』っていう異なる鳴き方をしていたような記述だ。つまりは、鳴き方は一種類じゃなかったと推測できるんだ。それに対して、メールの着信音の鳴き方は一つ。おかしいじゃないか」
「猫の鳴き声は人によって捉え方が違うのよ。世界でも違うわよね。英語なら『Meow』、フランス語なら『miaou』、ロシア語なら『myau』という具合に。だから、人によってはそう聞こえたとも思えないかしら?」
麗子は勝ち誇ったかのように胸をはると、嘲笑を浮かべて俺を睨み付けた。
「ビットレート、オーディオサンプルレートって知っているか?」
俺は麗子を真似したように勝ち誇った笑みを浮かべて、にらみ返す。
「は? 何その単語?」
一瞬だけ麗子がひるんだように見えた。
音についての知識がなければ、知らなくて当然の単語ではある。
「スマートフォンで使われている音源は加工されているようなものなんだよ。ああいった音はビットレート、オーディオサンプルレートの数値を変える事で聞こえ方を均一化、あるいは万人受けにするようできるんだ。音を良くもできれば、悪くもできる。つまり数字を均一化することで、音の聞こえ方を統一できる。それってCDとかが良い例だが、万人に同じような感じに聞こえるようにできているんだ。そういうのが、スマートフォンで奏でられる音の大半を占めていると言っても過言じゃない。麗子、この意味が分かるか?」
「だから何が言いたいの?」
麗子の強気は崩れはしない。
まだ意味が分かっていないのだから仕方がない。
「安定した音源である以上、同じような音に聞こえるって事さ。異なる猫の声になる方が難しい。一律に『にゃ~』ってなる可能性が高い。しかも、麗子の提示していた音源は一つだけだ。異なる鳴き声に捉える方が難しいのさ」
距離や音の反射によっては聞こえ方、または、スピーカーや音量などで違う、とまでは今は言う必要がなかった。
今回使用されていたのは同一のスマートフォンであるとするのならば、音はほぼ一緒でなければおかしい、というのが結論だった。
「しかし、生の音声となるとそうもいかない。聞いたものの感覚によって異なるし、未加工のものだから安定していないし、声を出している主の状態次第のところもあり、均一化される事はほぼない。そこに声を発した猫がいたのならば、その時の気分で鳴き声を変えていた可能性が高いから鳴き方が異なっていたと推測できたんだよ。それにな、国によって猫の鳴き声が異なるのは、文化的なもの、言語的な背景もある。だから、聞き手によっては聞こえ方が違うんだ」
「理解不明な単語を並べたと思ったら何を言い出しているの?」
「答えは簡単だ。四人は猫の生の鳴き声を聞いたんだ」
「……ッ」
麗子が鼻白み、組んでいた腕を解くと、恨みがましい眼で俺を凝視した。
「おそらくは図書準備室かカウンターの見えないところに猫がいたんだろう。生きている猫がさ。そいつが鳴いたんじゃないか?」
その猫の鳴き声を、眠り猫シキが鳴いた者と勘違いした輩が出現して、眠り猫シキが化け猫になって鳴いたという噂に変化した。そんなところだろう。
「……どこで分かったの?」
「麗子が『ないわよ。置物は鳴かないわよ』と言ったときだ。麗子は猫の鳴き声そのものを否定しなかった。メールの着信音はブラフで、猫が鳴いたのは事実だとするとどういう事だろうかと推測した。いなりの集めた鳴き声の証言で、本物の猫が図書室にいたっていう結論にたどり着いたんだよ」
「私の失言が敗因なのか。よく分かったわ。昔の推理ものにはよくあった、犯人しか知り得ない情報を喋ってしまっていたのね」
「ああ、そんなところだ」
「どうしてもって言われて押しつけられるように数日預かる必要があったのよ。けれども、家じゃ猫は飼えないから仕方なく、この図書室で預かっていてもらったのよ。猫用のケージに入れて、私が学校にいる間だけだったけれども、図書準備室にそっとね。先生にはちゃんと許可は得ているわよ。それだけは安心して」
「なるほどな。で、その猫は誰も相手にしてくれないし、寂しいから鳴いていたってところか」
「ええ、そんなところでしょうね。人一倍……いいえ、猫一倍さみしがり屋だったもの」
あの時、図書室で麗子の事を論破してもよかった。
そうしなかったのはやはり図書室のあの野次馬達というべきか、物見遊山の連中が退去させる必要性をどこかで感じたからでもあった。
図書室はひっそりとしていて、勉強や調べ物をしやすい方がいい。
「もしかして、全てを見抜いた上で協力してくれたのかしら?」
「ああ、そんなところだ」
俺と麗子の会話を様子見していたいなりが恐る恐るといった表情で、授業中であるかのように低くだったが挙手をした。
「シキちゃんが化け猫じゃないのは分かっていたのです……」
いなりは、横目で麗子の顔色をうかがってから、俺に視線を戻した。
「『何があったのか知っているぞ』っていう、メールを今日出したのは探偵さんなのです?」
「図書室で言っていた、変なワードか。どんなメールなんだ?」
「えっと……『あの白ワニ事件、何があったのか知っているぞ』なのです……」
俺はその言葉を聞いて、開きかけていた口を閉じて押し黙った。
あの事件の関係者でこんなメールを送ってきそうな者はいないかと眼を閉じて沈思した。
「『去年の夏、何をしたか知っているぞ』というフレーズだと『ラストサマー』という映画が思い浮かぶ。その映画で出てくる文面に似ているな。I know what you did last summerという英文を和訳してそうなったはずだ」
ラストサマーという映画は、高校生四人が乗った車が人をはねてしまう。それを隠蔽するためにひいた人を海に沈めて、この事を口外するなと誓い合う。それから一年後、『去年の夏、何をしたか知っているぞ』という手紙が四人のうちの一人に届いてから、四人が謎のかぎ爪男に襲われるというスプラッターホラーだ。
その映画を真似してのメールなのだろうか?
「何か知っているのかしら?」
「……全然分からん。ラストサマーという映画を模しているなら、関係者がかぎ爪男に襲われるようになるんだろう」
「……えっと、襲われるのは怖いのです」
いなりは自分自身を抱きしめるようにしながら身震いしてみせた。
「一体誰がそんなメールを?」
白ワニ事件の関係者は、当時同じクラスメイトだった、五十嵐麗子、錦屋いなり、桜庭美奈、愛川ひとみ、三富一穂、赤城絵里、古城有紀、大塚珠希、尼子美羅の合計九人だ。
『白ワニ事件』
俺が中等部に入学し、のんべんだらりと過ごしていた頃に起こった事件だ。
九月に市の教育委員会にこんな告発状が二回も送られたという。
『茜色学院中等部1年D組の五十嵐麗子、錦屋いなり、桜庭美奈、愛川ひとみ、三富一穂、赤城絵里、古城有紀、大塚珠希、尼子美羅の九人がいじめを行っている。早急に対処して欲しい』
いじめなど行われてはいなかったし、この九人でつるんで何をしていたワケでもないのに、そのような手紙が二回も届いたため、学校側に調査するよう圧力がかけられた。
校長からも厳しく言われた担任の藤沼善治郎はその九人を呼び出して、いじめについて問い詰めた。
九人は当然何も知らないので、知らないと答えた。
『お前らは嘘つきだ。嘘をつき続けるようならば、お前ら全員退学処分にしてもいいんだぞ? 正直に言えば、一週間の停学で済ませてやろう』
その返答に不満を持った担任の藤沼はそんなことを言いだし、いじめの事実を認めるようにプレッシャーをかけてきたのだ。
信じてもらえそうもないため、その九人は話し合いをしたのだが……。
「一度、あの関係者に話を聞いてみるよ。同じようなメールを受け取っていないかも含めてな」
関係者に一応声はかけてみるか。
そうは言っても、俺にはあまりやる気がない。気が向いたら程度だ。
「シキちゃんの件も含めて、ありがとうなのです。シキちゃんの件で悪巧みをしたのを知ったので、あんなメールを相談した後で送ったのかと疑ってしまったのです。ごめんなさい」
錦屋いなりがぺこりと頭を下げた。
「何かあれば報告しなさいよ。た・ん・て・い・さ・ん」
麗子は嫌みったらしく言うが、これも性格なので仕方がないと受け入れた。
「……」
それにしても……だ。
白ワニ事件なんかを今更蒸し返して、得をするような奴がいるのか?