第十五話 月の名の少女と俺の相方は
「えっ、船がない?」
港で告げられた言葉に俺は間抜けすぎるくらいの声をあげてしまった。
結局昨夜はあの民家で過ごし、翡翠の都のこれからについての話を聞いた。亡くなった人たちの葬儀を済ませるのが最優先であり、それを済ませてから、壊れ崩れた場所を少しずつ修復していく。
男手の必要な仕事が山ほどあるのに、街の男たちの半数はいなくなった。
女性は夫や息子を、恋人を失い、涙を流す人がたくさんいたけど、それでも大切な街のためにその涙を拭って、強く決意を露にしていた。
この街は街のために命をかけられる人が多い気がする。
帝都ではこうはいかないだろう。愛国心なんて物を持っているのは、ほんのわずか。平穏な日々が突然終わりを告げたら、きっとほとんどの人間が街を捨てて、再び平穏を求め、他の地へ移り住むと思う。たとえ、それがはるか彼方の地であっても。
自分の住む街との違いを感じながら、目に強い光を宿した民たちを見る。みな、明日の輝きを信じて前を向いていた。
朝になってからお世話になった民家を後にし、リリーとユノとともに帝都の仲間たちに協力を求めようと、一度帝都に戻るために港にきたのだが。
「街がこれじゃあね……しばらくはここから船は出ないし、向こうからも来ないだろう」
と告げられて、今に至るわけで。
「どうすんのよ」
リリーが不満げに唇を尖らせながら俺を見上げてくる。
俺はうーん、と唸ってリリーの斜め後ろに立っているユノをちらりと見た。潮風に揺れる長いブロンドの髪を押さえることもせず、風に靡かせている。光を受けた髪は、キラキラと輝いて星みたいだ。するとユノが不意に口を開いた。
「……海がダメなら、歩けばいい」
「歩く!?」
リリーがとんでもない、というように声をあげる。眉を寄せ、右手をひらひらと力なくふった。
「ここから歩いたら何日かかると思ってるの? 山も越えなきゃいけないのよ。三週間はかかるわ」
「獣車――途中に街……そこまで歩けばある……そこまでは、そんなにかからない」
ユノはそのまま踵を返すと、俺たちの答えを待たないで、街の正門の方に歩き出してしまった。
リリーがさらに不機嫌そうに眉間にシワを寄せて大きなため息を吐く。潮風を受けたせいで、少し固くなった銀の髪を手櫛で鋤いて呟いた。
「……あたし、アイツ苦手だわ」
「みなさん!! お待ちになってください!!」
翡翠の都を出る間際、凜さんと小さな少年――昨日、ユノが背に庇っていた少年――が俺たちを見つけて駆けてきた。どうやらずっと俺たちを探して街の中を走り回っていたらしい。凜さんの着物の裾や足袋が泥で汚れている。昨日リリーが炎を消すために水の魔術を使ったからだろう。街は雨に降られたかのように濡れていたのを思い出す。凜さんは息を整えるためか、喉元から胸の辺りをさすって、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
そこで、ようやく口を開く。
「昨日は本当にありがとうございました。ロアさん、リリーシャさんがあの時いらっしゃらなかったら、今頃私は、翡翠に戻ってこられなかったかもしれません……」
長いまつげを伏せながらそういうと、凜さんは深々と頭を下げる。
たったあれだけの事しかできなかったのに、感謝されるなんて。
俺は慌てて両手を振った。
「頭を上げてください凜さん! 俺たちは何も……結局、街を直す手伝いもできずに……それに、街を守ったのはユノです。俺たちは、何もできなかった」
ちらりとユノを見る。ユノは無機質な瞳をこちらに向けて、すぐにそらしてしまった。
凜さんがはい、と頷いて今度はユノに頭を下げる。その隣で少年が恥ずかしげにユノを見上げていた。よく見るとその小さな手には丁度少年の手と同じくらい大きさの鈴が握られている。
少年はもじもじしながらユノの前に進み出ると、その鈴をユノに手渡した。
ユノは無言で鈴を受けとると、顔の前まで持ち上げてじっと見つめる。それからまた少年を見た。
「おねえちゃんのだよね。壊れてたから、直したの」
「…………」
「守ってくれて、ありがとうっ」
少年は勢いよく頭を下げるとそのまま走り去ってしまった。
少年の走り去った方を見ると、少年の母親がこちらを見つめているのがわかった。少年が母親の手をとると、母親は気がついたようにこちらを振り返って頭を下げる。
その姿を見て、俺は複雑な思いがのし掛かった気がした。
街を守ることができなかったという悔しさと申し訳なさ、そして。
「……鈴」
ユノが手元の鈴に視線をおとして呟く。
「よかったな、鈴、直してもらえて。で、一体どこに付けてたんだ?」
「ここに、付けてた」
ユノは自分の左の靴を指差して、そのまま俯いた。
「……壊れてたの、気がつかなかった」
それくらい、切羽詰まっていた言うことなのだろう。ユノは俺たちなんかより息をつく暇もなかっただろうから。
――あの少女たちは、いったい何者なのだろう。
人間だと思う。でも、二人は魔術を使っていた。ハーフエルフなのだろうか? 彼女の耳は、俺たちと同じものだった。それは、間違いないはずだ。
なぜ街を襲ったのか。本当にレーツェルが言ったまま――『つまらないから襲った』――これが真実なのだろうか。
なぜだろう、とても引っかかる。こんなにも曖昧で、明確な答えなど探しても出てこないはずなのに、胸の奥がざわついて落ち着かなかった。
――何か、とてつもないことが起きるんじゃないか……?
勘でしかない。けれどそれは、胸をざわつかせ、背筋を何かが這うような感覚を思わせ、頭に鈍い痛みを加えるくらい――まるで鋭い刃物のような冷たさと鋭利さを持っていた。見つめるだけで息を呑むような恐怖心と、確実に死をもたらす、美しくも恐ろしい刃。勘であるはずなのに、確信にも近い。何かが耳元でささやくような感じがした。
それは、こんなことを呟く。耳の中で澱み、喉をふさぐような、そんな恐怖を。
『これから、死と絶望がお前に迫りくるぜ?』
その声は、酷く『アイツ』に似ている気がした。
「結局夜になったじゃないのよ」
「……時間は進む物……魔物も討伐しながらだから……仕方がない」
「…………」
あれから翡翠の都を出てユノのいう翡翠から最も近い町――コーラルに向けて出発したのだが、結局一日ではたどり着くことができず、野宿することになった。
リリーはさっきから不満げで、口数が異様に少ない。ユノは元々少ないし……
会話が成立せず、俺としてはとても居心地が悪かった。
「…………」
「…………」
「…………」
見事に誰も何も言わない。暖をとるためと食事を済ますために焚いた焚火の薪が爆ぜる音しかしない。
赤々とした炎をぼうっと見つめ、膝を抱えるユノ。その真正面で胡坐をかき、唇を尖らせているリリー。
二人はとても対照的だと思う。二人の身につけている物の色合いもそうだが、性格が。
リリーは頭で考えるよりも先に手が出るタイプだが、ユノは逆で、頭で考えてから――そこに言葉は一切ないが――行動する。
また、リリーは喜怒哀楽が割と豊富な方だが、ユノは一切ないと言っても過言ではない。翡翠の人々がユノを見て『人形みたいだ』と呟いているのを耳にした。その表現は人間を表すものとしてどうとは思うが、否定はできない。
彼女は笑わないし、怒らないし、泣かない。表情が乱れることが極端に少なすぎるのだ。リリーのように表情に怒りや不満を表すことはしない。
しかも輝く美しいブロンドの髪と、宝石のような瞳。そして雪のように白い肌と細く長い手足。人間のものとは思えない美しさといってもいいだろう、彼女はそれを持っている。要するに外見が人間離れしているのだ。
リリーも、ユノのように感情表現が極端に少なかったら、人形めいて見えるかもしれない。外見は一応美少女なわけだし。
「なんか、太陽と月みたいだ」
「は?」
不意に口からこぼれた言葉を聞き逃さなかったリリーに、理解できない、とでもいうような声を上げられた。
俺はぱちぱちと爆ぜる薪から視線を空へと移して指をさす。頭上に広がった闇の中に輝くのは星たちと、金の月。
「リリーとユノのことだよ。なんか、似てるんだけど似てない。太陽は昼間空に出て、月は夜に輝くだろ? でも、地上を照らす役目は同じで同じ光を持ってる。なんか似てないか、二人に」
「……なにそれ、訳わかんないし」
「……私とリリーシャは、似てない」
「いやだから……」
性格じゃなくて外見が似てるって言いたいんだけどな……
二人は対照的だが、共通点がないわけではない。太陽と月も同じだ。対照的だが、共通点はある。俺は空のことに詳しいわけじゃないから、何とも言えないけど……空にあるところとか、丸いところとか……
「あと」
ユノが焚火を見つめながら小さくつぶやいた。
「……太陽と月は、全く違う。月は、太陽の光を借りて光っている。実際には輝いているわけじゃない……反射していて……でも、太陽は自ら輝いている。それに……大きさも違う。太陽と月の大きさの比は約四百対一……恒星と衛星、その違いも――」
「ああっもういいわよ! 宇宙の話なんてされても理解できないわ!」
「…………」
ユノは少しだけ寂しそうに眉を寄せてそれきり黙ってしまった。
リリーはリリーで疲れたのかそれとも言葉を発することすら億劫になったのか、木に背を預けて麻の布を体に被せて膝に顔をうずめている。
寒くはない。だが、もう夜も遅い時間だろう。月が南の空に上がっているから、早めに眠ることにこしたことはないはずだ。
俺もリリーに倣い、荷物袋を引っかきまわして麻の布を取り出した。そして、木に背を預けてそれを体に被せる。
ふとユノを見ると、彼女は膝を抱いたままピクリとも動かない。青の瞳はじっと焚火を見つめるだけで、何も感じる事が出来なかった。
「寝ないのか?」
「……見張り」
「ああ……俺、見張りやろうか?」
すっかり忘れていた。全員寝てしまえば、突然の襲撃に対応できないではないか。
野宿なんて滅多にしなくなったから気を抜いていた。
俺が立ち上がろうとするのを、首を横に振って制したユノは、ゆっくりとこちらを見つめて呟く。
「寝てて、いい。私は、慣れてるから……」
「そうか? でも、二時間くらいしたら交代しよう。悪いんだけど、その時起こしてくれないか?」
「……わかった」
しっかりと頷き、彼女は空を仰いだ。彼女の瞳は、何をとらえているのだろう。星だろうか。月だろうか。それとも――
俺は肩まで布を引っ張り上げて目を閉じた。視界が無くなると聴覚が敏感になる。よく耳を澄ましてみるとリリーの穏やかな寝息が聞こえてきた。すでに眠っていたらしい。
俺も寝よう。もう少し歩けば、獣車に乗れる。獣車に乗れば、とりあえず歩くより確実に――あの揺れと乗り心地の悪さは何とも言えないが――早く帝都に戻れるだろう。
そんなことをゆっくり考えているうちに、まどろみがやってきた。次第に思考は動くことをやめ始める。
完全に意識が落ちる前に、夜風に乗ってユノの呟きが聞こえた気がした。
「――おやすみ」