城の影
三人で喫茶みぎわを出ると、夜の大橋川はさっきまでより黒く見えた。風は弱く、川面には町の灯りが細長く伸びている。見慣れているはずの景色なのに、十三本目の橋を渡ってからは、何を見ても少しだけ信用できない。
先頭を店長が歩き、その後ろを女の子、最後に俺が自転車を押してついていく。少し歩いたところで、妙なことに気づいた。
「そういえば、俺、この二人の名前知らないんですけど」
店長が振り返った。
「必要ですか?」
「普通は必要じゃないですか」
女の子が横から言った。
「別に困ってないけど」
「俺はちょっと困る」
「じゃあ好きに呼べば」
「そんな雑な」
店長が笑った。
「名前というものは、必要になったときに聞けばいいんですよ」
大橋川を離れ、松江城のほうへ歩いた。道は俺の知っている松江と、ほとんど同じだった。少なくとも、そう見えた。交差点もある。信号もある。駐車場もある。ただ、ときどき小さな違和感が混じっている。
駐車場のはずの場所には古い木造の家が建っていた。いつも通る道沿いのドラッグストアはなく、代わりに小さな薬局がある。ガラス戸の向こうに茶色い薬瓶がずらりと並んでいた。
さらに進むと、古い写真館があった。
「ここ、こんな店ありましたっけ」
俺が言うと、女の子が写真館を見る。
「あるよ」
「俺がいたほうにも?」
「そっちは知らない」
「じゃあ、こっちでは昔から?」
「たぶん」
「たぶんって、住んでるんじゃないの」
「住んでても知らない店くらいあるでしょ」
それはそうだった。
写真館のショーウィンドウには、何十年も前に撮られたような写真が並んでいた。着物姿の夫婦、学生服の少年、七五三らしい女の子、松江城を背景に立つ若い男女。
一枚だけ、妙に目につく写真があった。少し色褪せたカラー写真で、写っているのは四人家族だった。父親と母親、それに男の子と女の子。どこにでもありそうな家族写真なのに、なぜか足が止まった。
「どうしました?」
店長が聞く。
「いや……なんとなく」
「知っている方でも?」
「違います」
写真の下には撮影年が書いてある。昭和六十二年。俺が生まれるよりずっと前だ。
「なら行きましょう」
店長はそれ以上興味を示さなかった。俺も歩き出した。
少し進んだところで、女の子が言った。
「あんまり窓の中とか見ないほうがいいよ」
「なんで」
「知ってる人がいたら嫌じゃない?」
「知ってる人なんていないだろ」
「じゃあ大丈夫」
「今の言い方、余計気になるんだけど」
女の子は答えなかった。
十分ほど歩くと、暗い木立の向こうに松江城が見えてきた。昼間には何度か来たことがある。転勤してすぐ、一度観光した。大阪から友人が遊びに来たときにも案内した。
夜に見るのは初めてだった。黒い城が、さらに黒い空の中に浮かんでいる。白い壁はほとんど見えず、天守の輪郭だけが夜空から切り抜かれたように見えた。
「閉まってますよね」
俺が言うと、店長は門のほうへ歩いていく。
「そうですね」
「入れるんですか」
「入りますよ」
「閉まってるのに?」
「閉まっているのと、入れないのは同じではありません」
「普通は同じです」
門の前まで来る。やはり閉まっていた。店長は上着のポケットから鍵を出した。
「なんで持ってるんですか」
「借りています」
「誰から」
「昔の人から」
「それ、説明する気ないでしょう」
「ありますよ」
「じゃあ昔の誰から」
「それは忘れました」
「絶対嘘だ」
女の子が笑った。
店長が鍵を差し込むと、錠前はあっさり開いた。俺たちは中へ入った。石垣のあいだを歩く。夜の城内は静かだった。木の葉が擦れる音と、自転車のタイヤが砂利を踏む音だけが聞こえる。
「ところで」
俺は店長の背中に声をかけた。
「ここに十二番目の橋があるんですか」
「あるかもしれません」
「ないかもしれない?」
「その通り」
「朝までそれを繰り返す気ですか」
「嫌ですか?」
「嫌ですよ。俺の名前がかかってるんですよ」
「その割に、ご自分の名前をまだ一度も名乗りませんね」
俺は黙った。
そういえばそうだった。名乗ろうと思えばいつでも名乗れた。でもこの二人が名乗らないので、なんとなく俺も名乗らなかった。
「別に、それとこれとは違うでしょう」
「そうでしょうか」
「そうです」
「では、そういうことにしておきましょう」
やっぱりこの人は腹が立つ。
しばらくして堀の近くへ出た。黒い水面に木々の影が映っている。店長が立ち止まった。
「ここです」
「何が?」
「最初の候補です」
俺は周りを見る。橋などない。
「どこに」
「今はありません」
「またそういう話ですか」
「昔は、ここに橋があったそうです」
「昔?」
「ええ」
店長は堀の向こうを指した。
「城は長く残ります。でも、その周りにあったものまで全部残るわけではありません。道が変わり、門が変わり、橋もなくなる」
「それと十二番目に何の関係が?」
「なくなった橋は、こちらでは残ることがあります」
「残るって?」
「見れば分かります」
店長は近くの石に腰を下ろした。
「待ちましょう」
「待つだけ?」
「出るなら」
「出なかったら」
「次へ行きます」
ずいぶん雑な捜索だった。
俺も仕方なく自転車を止めた。五分、十分と過ぎる。何も起こらない。女の子はスポーツバッグを足元に置いてしゃがんでいる。店長はどこから出したのか、小さな水筒のコーヒーを飲んでいた。俺だけが落ち着かない。
「こんな感じで朝までやるんですか」
「嫌ですか?」
「さっきも聞きましたよ、それ」
「答えが変わったかもしれませんから」
「変わってません」
女の子が笑った。
「もうちょっと気楽にしたら?」
「名前が消えるかもしれない人間に言うことじゃないだろ」
「まだ消えてないじゃん」
「そういう問題じゃない」
俺は堀を見た。暗い水。昔ここに橋があったと言われても、何も感じない。ただの水だった。
「昔の橋って、どうしてなくなったんですか」
俺が聞くと、店長は水筒の蓋を閉めた。
「役目がなくなったからでしょう」
「老朽化とかじゃなく?」
「そういうこともあったでしょうね」
「じゃあ普通の話じゃないですか」
「普通ですよ」
店長は堀を見る。
「なくなるまでは」
「どういう意味です」
「人は、なくなった道のことをすぐ忘れます」
「はあ」
「でも土地は、案外覚えています」
「土地が?」
「そういう言い方もできる、という話です」
そのときだった。水面の向こうで何かが動いた。俺は立ち上がった。
「今、何か」
女の子も顔を上げる。
「見えた?」
「橋みたいなの」
三人で堀を見る。さっきまで何もなかった水面に、細い影が伸びている。最初は木の枝かと思った。だが違う。向こう岸からこちらへ、まっすぐ伸びてくる。
水の上に、橋の影だけがあった。
俺は目をこすった。実際の堀には何もない。それなのに、水面には確かに欄干まで映っている。
「……何だよ、これ」
女の子が立ち上がった。
「出たね」
「これが十二番目?」
店長は首を振った。
「違います」
「違うの?」
「ええ」
「じゃあ何なんですか」
「昔ここにあった橋でしょう」
「見えてるじゃないですか」
「見えているだけです」
「同じじゃないですか」
「渡れなければ橋ではありませんよ」
女の子が足元の小石を拾い、影の真ん中へ投げた。小石は普通に水へ落ちた。
ぽちゃん。
「ほら」
「ほらじゃないよ」
俺は水面を見つめた。
影の橋の上を、何かが歩いている。
一人。二人。三人。
人だった。
向こうからこちらへ渡ってくる。姿はぼんやりしていて、服装も顔も分からない。ただ、人が歩いていることだけは分かる。
俺は一歩下がった。
「人も見えるんですけど」
店長は驚かなかった。
「そうですか」
「そうですかじゃないですよ」
「こちらを見ました?」
「いや……顔が見えない」
「なら大丈夫でしょう」
「何が大丈夫なの」
影の人々は、こちらには気づいていないようだった。ただ橋を渡っている。どこから来て、どこへ行くのかも分からない。
そのうち一人が立ち止まった。
俺のほうを向いたような気がした。
顔はない。それでも、目が合ったと思った。
胸の奥がひやりとした。
「行きましょう」
店長が言った。俺はすぐに水面から目を離した。
「十二番目じゃないんですよね」
「ええ」
「じゃあ早く言ってくださいよ」
「最初から言いましたよ」
「見る前に帰りたかったんです」
自転車へ戻る。だが、少し歩いたところで俺は足を止めた。胸の奥に妙な感じが残っている。橋の影を見たときからだ。
何かを思い出しそうな感じ。大阪の部屋を出たころから続いている、あの妙な空白に似ていた。
「どうしました?」
店長が聞く。
「いや……なんか」
「何か?」
「忘れてるような感じがしただけです」
女の子が俺を見る。
「何を?」
「分からないから忘れてるんだろ」
「変なの」
「俺もそう思う」
店長は俺をしばらく見ていた。
「なるほど」
また出た。
「今のなるほどは?」
「少し分かりました」
「何が」
「あなたの十二番目が、ここではないことが」
「それだけ?」
「大事なことですよ」
「じゃあ次は?」
店長は城の天守を見上げた。
「松江大橋へ行きましょう」
「そこに十二番目が?」
「ありません」
「先に否定するなよ」
女の子が笑った。
振り返ると、堀の水面から橋の影は消えていた。人影もいない。さっきまでそこにあったものが、最初から何もなかったように黒い水へ戻っている。
「本当に、昔のものが残ってるんですね」
俺が言うと、店長は歩きながら答えた。
「残っていることがあります」
「この世界だから?」
「こちらは、なくなったものに少し近いんです」
「なくなったもの?」
「道。建物。名前」
女の子が言った。
「人とか」
俺は彼女を見る。
「人も?」
「さあ」
「今、自分で言っただろ」
「言っただけ」
「何なんだよ、それ」
この女も店長と同じ種類の人間らしい。
門へ戻り、店長が鍵を閉める。城を出ると、町の灯りが戻ってきた。
時計を見る。九時四十二分。
「あと何時間くらいあるんです?」
「日の出までですから、六時間ほどでしょうか」
「急に現実的な数字出すのやめてもらえません?」
女の子が笑う。
「まだ一個目じゃん」
「一個目って言うな。余計焦る」
「一橋目?」
「もっとややこしい」
松江大橋へ向かって歩き始める。その途中、俺はふと後ろを振り返った。
松江城が暗い空の中に立っている。昼間なら観光客が写真を撮る、普通の城だ。だが今は、その周りに俺には見えない昔の道や橋がいくつも残っているような気がした。
この町は、自分が思っていたよりずっとたくさんのものを抱えている。
なくなったもの。忘れられたもの。もう使われないもの。
それらが本当には消えていないのだとしたら、俺が大阪に置いてきた気がする何かも、どこかに残っているのだろうか。
「置いてくよ」
前から女の子が言った。
「ああ」
俺は自転車を押して二人を追った。そのとき、ポケットの中で硬いものが指に触れた。
喫茶みぎわでもらった五十円玉だった。
なんとなく取り出し、街灯の下で眺める。
穴の脇に、小さな傷が一本ついていた。
どこかで見たような気がした。
だが、そのときは思い出せなかった。




