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橋は数えないほうがいい

 松江に引っ越して三か月目の終わりごろ、俺は橋を数えるのをやめた。理由は二つある。一つは、単純に数が多いからだ。もう一つは、松江では、橋を数えないほうがいいらしい。もちろん、最初からそんなことを知っていたわけではない。知っていたら、たぶん数えなかった。




 俺が松江に来たのは六月だった。二十七歳、独身。職業は印刷会社の営業。

大阪で三年働いたあと、突然辞令が出た。島根営業所への転勤。理由を上司に聞いたところ、「若いうちにいろんな土地を経験しとくのもいいだろ」と言われた。

 その三週間前、俺はその上司と会議室で言い争っている。偶然だそうだ。会社員というのは、ときどき偶然によって千キロ近く移動させられる。島根には、それまで一度も来たことがなかった。松江と聞いて最初に浮かんだのは松江城だった。二番目が出雲大社。これはあとで、「それは出雲です」と訂正された。同じ島根だから似たようなものだろうと思ったが、地元の人にはあまり言わないほうがいいらしい。

 最初の一週間は、とにかく水の多さに驚いた。宍道湖。大橋川。堀川。細い水路。そして橋。自転車で走っていると、いつの間にか橋を渡っている。川沿いを走っていたはずなのに、気づくと反対側にいる。方向音痴ではないつもりだったが、二週間目に同じ橋を三回渡った。そのときはさすがに自信を失った。


 会社の先輩に話すと、「松江ではよくあるよ」と言われた。

 「同じ橋を三回渡るのが?」

 「いや、道が分からんようになるのが」

先輩の大谷さんは四十二歳。松江生まれ松江育ちだ。

 「川があるけんね。大阪みたいに道が碁盤になっとらんでしょう」

 「大阪も別に全部碁盤じゃないですよ」

 「そうなの」

大阪についての理解はかなり雑だった。大谷さんはコーヒーを飲みながら、「まあ、そのうち慣れるわね」と言った。


 実際、そのうち慣れた。道も覚えた。よく行くスーパーも決まった。昼飯を食べる店も三軒くらいできた。晴れた日の夕方には、宍道湖まで自転車で行くようにもなった。松江に来る前、「地方勤務か」と少し腐っていたのは事実だ。でも暮らしてみると、悪くない。むしろ仕事が終わったあとに湖へ行ける生活は、かなり気に入っていた。ただ、引っ越してから一つだけ、妙に思い出せないことがあった。大阪の部屋を出るとき、何か大事なものを置いてきた気がするのだ。財布でも、書類でもない。探そうとすると、何を探しているのかだけが抜け落ちる。そのことを大谷さんに話したことがある。

 「環境が変わったけん、忘れ物でもした気分になっとるだけだわね」

そう言われて、俺もそういうものかと思った。問題が起きたのは九月二十三日だった。秋分の日の翌日である。




 その日、俺は得意先で怒られた。怒られたといっても、たいした話ではない。チラシ一万二千部の「一万二千」を、客が電話では「一万」と言い、メールでは「一万二千」と書いた。俺はメールの数字で手配した。すると納品当日、「一万って言ったよね?」と言われた。俺はメールを見せた。相手は、「でも電話では一万って言った」と言った。なるほど。この世には、証拠があっても負ける戦いがある。

 会社に戻ると課長から、「次からちゃんと確認して」と言われた。俺は「はい」と答えた。社会人五年目ともなると、「いや、確認してますけど」を飲み込めるようになる。成長である。


 その日は定時で会社を出た。まっすぐ帰る気分ではなかったので、自転車を押して宍道湖のほうへ行った。九月も終わりに近づいていたが、日中はまだ暑かった。ただ夕方になると、湖から吹いてくる風はもう秋だった。宍道湖の夕日は有名だ。松江へ来る前の俺でも、それくらいは知っていた。実際に見てみると、観光ポスターが嘘をついていない珍しい例だと思った。湖の向こうへ太陽が沈む。水面に赤い道ができる。その道が、自分のいる岸まで伸びてくる。ぼんやり見ていると、どこかへ渡れそうな気がする。橋なんかなくても。その日も、俺はベンチの近くに立って夕日を見ていた。

 隣には老人がいた。知らない人だった。野球帽をかぶって、買い物袋を提げている。袋から白ネギが一本飛び出していた。老人が言った。

 「兄ちゃん」

最初、自分のことだと思わなかった。

 「兄ちゃん」

もう一度呼ばれたので、俺は振り向いた。

 「俺ですか?」

 「ほかに兄ちゃんがおるかね」

見回すと、少し離れたところに高校生が二人いた。俺よりよほど兄ちゃんである。しかし老人の中では俺らしかった。

 「なんでしょう」

 「旅行?」

 「いや、住んでます」

 「どこから来た」

 「大阪です」

老人は俺の顔を見た。

 「十三は知っとるか」

急な質問だった。

 「十三?大阪の?知ってますけど」

阪急の十三駅なら知っている。飲み屋が多い。

老人は満足そうに頷いた。

 「なら大丈夫か」

 「何がです?」

 「いやいや」

老人は湖へ目を戻した。会話が終わったらしい。

俺も夕日を見る。

 一分くらい経ってから、老人がまた言った。

 「今日は橋、数えんほうがいいよ」

今度は明らかに妙なことを言った。

 「橋?」

 「うん」

 「どうしてです?」

老人は少し考えてから、「彼岸過ぎとるけん」と言った。

 「彼岸?」

 「昨日までだったろう」

秋分の日。確かにそうだ。

 「彼岸が終わったら橋を数えちゃ駄目なんですか」

 「別に、ただ昔からそう言われとる」

 「じゃあいいじゃないですか」

 「数えたいなら数えりゃいい。ただ12までなら」

老人は笑った。

 「一本多くても知らんけど」

そして立ち上がった。

 「じゃあね」

そのまま歩いていった。俺は白ネギの揺れる背中を見送った。変な爺さんだった。

 松江へ来てから、知らない老人に話しかけられることは何度かあった。たいてい天気か魚の話だった。橋の話は初めてだった。俺は気にしなかった。正確に言えば、そのときはまだ気にしていなかった。




 日が沈んでから、俺は自転車に乗った。いつもの道で帰るのもつまらなかったので、少し遠回りした。三か月暮らして、ようやくそういうことができるようになっていた。知らない路地に入っても、「まあ、どこかへ出るだろう」と思える。旅先ではできない。住んでいる町だからできる。

 大橋川のほうへ向かう。橋を渡った。


一本目。


 そのとき、老人の言葉を思い出した。

 「今日は橋、数えんほうがいいよ。」

そんなことを言われたら数えたくなるのが人間だ。


次。二本目。


 細い川を越える。三本目。信号を曲がる。四本目。途中から、俺は完全に面白がっていた。どこまで行けば十三本になるんだろう。十三は何かと縁起の悪い数字だと聞いたことがある。十三本目を渡ったら何か起きるのか。俺はそういう怪談を信じるほうではない。怖い話は好きだが、聞いたあとで普通にトイレへ行ける。


五本。六本。七本。


 正直に言うと、八本目あたりから怪しくなった。小さな水路に架かったものまで橋に含めていいのか。歩道橋は橋なのか。橋という字がつけば全部橋なのか。自転車を止めてスマートフォンで調べようかと思った。しかし、そこまで真剣になるのも違う。


十一本目。たぶん。


そして十二本目。たぶん。


 俺は笑った。

 「あと一本」

声に出してしまった。その直後、道を曲がると橋があった。




 見たことのない橋だった。松江へ来てまだ三か月なのだから、見たことのない橋くらいいくらでもある。それでも、足が止まった。妙に細い橋だった。車は通れない。歩行者と自転車だけ。長さは二十メートルくらい。欄干は黒い木でできている。そのわりに古びてはいない。橋の向こうには住宅街が見える。街灯もある。人家の窓に明かりもついている。普通の橋だ。なのに、何かが気になった。俺は自転車から降りた。

 橋のたもとに石柱がある。普通なら「○○橋」と刻まれているところだ。そこには二文字しかなかった。


十三


 俺はしばらく見た。

 「……じゅうそう?」

大阪の十三が浮かんだ。いや。普通に読めば、じゅうさんだ。しかし、橋に「十三」とだけ書かれているのは変だった。反対の石柱も見る。こちらには文字がなかった。代わりに、小さな傷がいくつもついている。縦に十二本。誰かがナイフか何かで刻んだような傷。俺は数えた。


一、二、三――。


 途中でやめた。

 「いやいや」

自分で笑った。完全に爺さんの話に影響されている。スマートフォンで地図を開いた。現在地を見る。橋は表示されていない。細い水路だけ。

 「新しい橋か」

それなら地図に載っていなくてもおかしくない。でも橋は新しく見えなかった。俺は少し迷った。引き返す理由はない。向こう側へ行けば家への近道になるように見えた。橋を渡る。


最初の一歩。


 何も起きない。


二歩。


 当然、何も起きない。


真ん中まで来る。


 川を覗く。黒い水。思ったより流れが速い。ふと、昔どこかで聞いた話を思い出した。彼岸というのは、向こう岸という意味なのだと。こちら側が此岸。向こう側が彼岸。だから川を渡る。橋を渡る。そういうものには昔から意味があるのだと。誰に聞いたのだったかは覚えていない。橋の真ん中で思い出す話としては、あまり気持ちのいい内容ではない。

 俺は自転車を押して早足になった。


橋を渡り終える。


 何も起きなかった。

 「ほら」

誰に言うでもなく呟いた。馬鹿馬鹿しい。俺は自転車に乗った。その瞬間、後ろでカラン、と音がした。


振り向く。


 橋の向こう側。さっきまで俺がいたところに、一枚の百円玉が落ちていた。いや、百円玉に見えた。街灯の下で光っている。取りに戻るほどのものでもない。そもそも俺が落としたのかも分からない。俺はそのまま走り出した。そして三分後、道に迷った。




 これは珍しいことではない。俺は松江に三か月しか住んでいない。知らない住宅街へ入れば、普通に迷う。だから最初は気にしなかった。適当に走れば大きな道へ出るだろう。そう思って進んだ。だが、五分経っても出ない。


住宅街。曲がり角。小さな川。また住宅街。


 妙なことに、車と一台もすれ違わなかった。人も歩いていない。家には明かりがついている。テレビの光らしいものがカーテン越しに見える家もある。生活の気配はある。なのに、誰も外にいない。俺は自転車を止めた。スマートフォンを見る。


圏外。


 「嘘だろ」

松江の真ん中で?地図を開く。現在地の青い点が出ない。一度アプリを閉じる。もう一度開く。やはり出ない。

 「面倒くさ」

不安より先に腹が立った。方向だけ確認しようと空を見る。曇っている。星はない。仕方なく進む。しばらくすると、知っている道へ出た。

 「あ」

思わず声が出る。俺の会社の近くだ。見慣れた交差点。昼飯を買うコンビニ。ガソリンスタンド。ようやく安心した。会社の前を通る。そこで俺は、もう一度止まった。会社の看板が違っていた。

いつもは、「山陰中央印刷」と書いてある。

その看板が、「山陰彼岸印刷」になっていた。

俺は自転車から降りた。見間違いかと思って近づく。彼岸。間違いない。

 「何の冗談だよ」

写真を撮ろうとした。スマートフォンのカメラを向ける。

画面の中では、「山陰中央印刷」になっている。

俺はスマートフォンを下ろした。

肉眼では、山陰彼岸印刷。

画面では、山陰中央印刷。


もう一度。


同じ。


 背中が冷たくなった。そのとき、後ろから声がした。

 「見えます?」

俺は飛び上がった。振り返る。女の子が立っていた。大学生くらいに見える。肩にスポーツバッグをかけている。

 「何が」

 「彼岸印刷」

俺はすぐには答えなかった。女の子は俺の顔を見て、「あー」と言った。

 「見えるんだ」

 「……君には?」

 「見えるよ」

 「これ何?」

 「会社じゃない?」

 「そうじゃなくて」

女の子は少し考えた。

 「初めて?」

 「何が」

 「こっち」

また、こっち。嫌な言い方だった。

 「こっちってどっち」

 「橋のこっち側」

 「普通に松江だろ」

俺が言うと、女の子は少し笑った。

 「まあ、松江は松江だよ」

その言い方が、さらに嫌だった。

 「君、ここに住んでるの?」

 「うん」

 「この会社の名前、いつからこうなってる?」

 「ずっと」

 「ずっと?」

 「うん」

俺は会社を見る。

 「山陰中央印刷って知らない?」

女の子が考える。

 「知らない」

 「俺、そこで働いてるんだけど」

 「へえ」

まるで珍しいアルバイトを聞いたくらいの反応だった。

 「ここから宍道湖のほうに戻るには、どう行けばいい?」

女の子は俺を見る。

 「戻る?」

 「うん」

 「橋、渡った?」

 「渡った」

 「どの?」

俺は答えるのを少し迷った。

 「十三って書いてあった」

女の子の表情が変わった。ほんの少し。

 「数えたの?」

 「橋を?」

 「うん」

 「まあ……」

 「十二まで?」

 「たぶん」

女の子がため息をついた。

 「何?」

 「いや。よく渡ったなと思って」

 「普通に橋だったぞ」

 「普通だよ」

 「じゃあ何が」

 「普通だから渡るんだよ」

俺は黙った。意味が分からない。女の子が歩き出した。

 「ついてきて」

 「どこへ?」

 「喫茶店」

 「なんで」

 「色々と教えてくれるの」

 「何を?」

女の子は答えず歩みを進める。知らない女について知らない喫茶店へ行く。普通なら、かなり怪しい。だが今は、俺が一番怪しい場所にいる。仕方なく自転車を押してついていった。




 五分ほど歩くと、大橋川が見えた。少し安心した。知っている景色だった。川向こうに町の灯りがある。橋も見える。ただし、名前を知っている橋ではなかった。女の子は川沿いの小さな店の前で止まった。古い喫茶店。赤茶色の扉。曇ったガラス。看板には、「喫茶 みぎわ」と書いてある。

 「ここ」

女の子が扉を開けた。

カラン。

中からコーヒーの匂いがした。店内にはカウンターが六席。テーブルが三つ。客はいない。カウンターの向こうに1人だけ男がいた。候補五十歳くらい。ごま塩の髪。白いシャツ。濃い色のエプロン。カップを柔らかそうな布で磨いている。女の子を見る。次に、俺を見る。

 「お客様とは珍しい。しかも君と一緒とは……とにかく、いらっしゃい」

女の子は慣れたようにカウンターに座った。

 「店長、この人、数えて渡ったって」

 「十二まで?」

 「たぶん」

店長と呼ばれた男は俺を見る。

 「なるほど」

 「何がなるほどなんですか」

質問には答えず、食器の類を整理し始める。

 「コーヒーでいいですか」

 「コーヒー?」

店長は静かに頷き、カップを出した。

 「こういうときは、まず温かいものを飲んだほうがいい」

 「こういうときって何です?」

 「普段と異なる状況にあったです」

俺は黙った。


 コーヒーミルの音がする。店の外を川が流れている。普通の夜。普通の喫茶店。それなのに、普通じゃない会話だけが続いている。店長が言った。

 「どちらから来ました?」

 「大阪です」

 「松江に住んでるんでしょう」

 「三か月目です」

 「そうじゃなくて」

店長は笑った。

 「十三本目を渡る前は、どちら側に?」

 「宍道湖のほう」

 「なるほど」

 「さっきからそればっかりですね」

 「便利な言葉ですから」

コーヒーが出てきた。

 「四百五十円です」

 「金取るんですか」

 「喫茶店ですから」

俺は財布を出した。五百円玉を置く。男が五十円を返す。あまりにも普通のやり取りで、少し落ち着いた。コーヒーを一口飲む。


うまい。悔しい。


 「それで、ここはどこなんです?」

男はカウンターを拭きながら答えた。

 「松江ですよ」

 「それは聞きました」

 「では、何をお知りになりたいので」

 「奇妙なことが幾つも起きて…何から聞けばいいのか」

 「そういうこともあります」

 「あなた、俺をからかってます?」

 「いいえ」

 「じゃあ説明してください」

店長は手を止めた。少し考える。

 「どこから話しましょうかね」

女の子がクリームソーダを飲む。いつの間に注文したのか分からない。

 「最初からでいいじゃん」

店長は頷き

 「では、最初から」

俺は少し身を乗り出した。

 「松江は橋が多いでしょう」

 「そこから?」

 「大事なことです。川や堀が多い。水路も多い。だから橋も多い」

それは分かる。

 「橋というのは、こちらと向こうをつなぐものです」

 「はあ」

 「ですが、つながっているからといって、同じ場所とは限らない」

俺は黙る。

 「松江では昔から、ときどき一本増えるんです」

 「橋が?」

 「ええ」

 「誰が架けるんです?」

店長が笑った。

 「いい質問ですね」

 「答えは?」

 「知りません」

話が見えてこない。

 「ただ、昔からそうなんです」

 「昔っていつから」

 「少なくとも、私の祖父が子どものころには」

 「もっと前は?」

 「知りません」

俺は頭を抱えたくなった。

 「その十三本目を渡ると、こちらへ来る」

 「だから、こちらって何なんです?」

店長は少し考えた。

 「同じ町の、向こう岸、とでも言いましょうか」

俺も窓の外を見る。大橋川。向こう側に灯り。

 「死んだってこと?」

思わず聞いた。

 「生きてますよ」

 「じゃあ彼岸っていうのは?」

 「誰がそんなことを」

 「俺の会社が彼岸印刷になってる。あと、今日、爺さんに彼岸がどうとか言われた」

店長はしばらく黙った。

 「彼岸というのは、もともと向こう岸という意味でしょう」

 「だったら」

 「死後の世界と決めつける必要はない。川の向こうも向こう岸です」

 「じゃあここは」

 「松江の、ちょっと向こうです」

俺は女の子を見る。

 「この説明で納得できる?」

 「私は生まれたときからこっちだから」

 「君、こっちの人なの?」

 「うん」

 「普通の松江は?」

 「知ってるよ」

 「行ける?」

 「たまに」

 「どうやって?」

 「橋」

 「それは何本目?」

女の子はクリームソーダのアイスをつつきながら言った。

 「それを数えたら駄目なんだって」

俺は言葉を失った。店長は「そういうことです」と頷く。

 「全然そういうことじゃない」

俺はコーヒーを飲み干した。

 「帰ります」

 「どうぞ」

 「止めないんですか」

 「止めませんよ。ただし、十三番目からは帰れません」

 「じゃあどうすれば?」

 「十二番目を探してください」

 「今まで渡った十二本のどれか?」

 「違います」

 「違う?」

店長は言った。

 「十三本目を渡った人には、帰るための十二本目が、これから一本現れます」

俺はしばらく男を見ていた。

 「意味が分からない」

 「でしょうね」

 「どこに出るんですか」

 「分かりません、いつ出てくるかも」

 「見つけ方は?」

 「人によります」

俺は立ち上がった。

 「何一つ分からないじゃないですか」

 「一つだけ分かります」

 「何です」

 「明日の朝までに見つけたほうがいい」

店が静かになった。

 「……見つからなかったら?」

店長と女の子が目を合わせた。この二人が初めて少し真面目な顔をした。俺は嫌な感じがした。

 「何です?」

店長が言った。

 「十四本目が出ます」

 「それを渡ったら?」

店長は答えなかった。代わりに女の子がストローから口を離して言った。

 「名前を忘れるよ」

俺は笑おうとした。でも誰も笑わなかった。

 「誰の?」

 「自分の」

外で鐘が鳴った。遠くから。低い音。一回。二回。三回。夜の松江を、音だけが渡っていく。店長が時計を見た。

 「九時ですね」

エプロンを外す。壁に掛けてあった上着を取った。

 「さて」

 「どこへ?」

 「橋を探しに」

 「一緒に来るんですか?」

 「あなた一人じゃ、たぶん見落とすので」

女の子も立ち上がった。スポーツバッグを肩にかける。

 「君も?」

 「暇だから」

女の子が笑った。男は店の灯りを消した。

 「最初はどこへ行くんです?」

俺が尋ねる。店長は当然のように答えた。

 「松江城です」

 「橋を探すのに?」

 「はい」

 「城に橋があるんですか」

男が扉を開ける。夜の空気が入ってくる。

 「ありますよ」

そして少しだけ笑った。

 「ただ、今夜探すのは、そこにある橋ではありません」

意味は分からなかった。でも、そのときの俺にはもう、意味が分からないことにも少し慣れ始めていた。


 三人で店を出た。大橋川の水が黒く光っている。向こう岸には、俺の知っているはずの松江があった。松江城。宍道湖。橋北。橋南。三か月暮らして、少しは知ったつもりになっていた町。でも、その夜初めて思った。俺が知っていたのは、橋のこちら側だけだったのかもしれない。

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